Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント


サイードが亡くなる数ヶ月前に書きあげた『オリエンタリズム』新版のための序文です。ちょうどこれを訳しかけていたところに訃報がはいりました。そのため月刊「みすず」(2003年11月号)に追悼として掲載されることになりました。
ほぼ最後の仕事になったのが,『オリエンタリズム』をあらためて振り返る(一度「再訪」しているので、二度目になりますが)ことであったというのは感慨深いものがあります。最後が近いことを知っていたような書き出しからしても、自分が生涯を通して追求し、訴えようとしたことを最終的に総括しているという感じで、感慨深いものがあります。9.11からイラク侵略へという展開のなかでアメリカ自身の民主主義の破綻が世界に露呈するなかで、オリエントの表象をめぐる認識領域の問題点とその政治的な含有、帝国主義への知識階級の奉仕という従来からの問題提起を今現在おこりつつある事態とを縦横に絡ませて再確認しながら、この状況に対抗するための最後の砦としてサイードが提唱するのは人文主義(humanism)の復権です。この最晩年の思想は、死後出版となったHumanism and Democratic Criticism に収録されている講演やエッセイ(『ミメーシス』への序文など)などの中で展開されているものです。
もう一つ興味が惹かれるのは、ここで言及されているように『オリエンタリズム』のヘブライ語訳が出ていることです。サイードの功績の一つは、パレスチナ人をイスラエル人につきまとう分身のような影として描き、ユダヤ人の体験とパレスチナ人の体験をミラーイメージのように重ね合わせたことだと思いますが、西欧の反ユダヤ主義の根底にはオリエントの民への偏見があることを考えると、イスラエル人が『オリエンタリズム』をどのように受容するのかはたいへん興味深いものがあります。
なお、Al-Ahram紙に掲載されたものは後から加筆されているので、「原文」としてリンクしたものとは若干相違があります)


『オリエンタリズム』新版序文
Preface to Orientalism
Al-Ahram Weekly Online : 7 - 13 August 2003 (Issue No. 650)


九年前、一九九四年の春に、わたしは『オリエンタリズム』の「あとがき」を書いた。その中で、わたしは自分が言ったつもりのこと、言ったつもりのないことをはっきりさせようとして、一九七八年の本書の出版から始まった数多くの議論についてみならず、「オリエント」の表象(representation)についてのこの研究書が、次第に多くの不正確な説明と誤った解釈を許すようになっていった過程についても大きくとりあげた。このまったく同じ問題について、現在の自分はどうやら苛立ちよりもアイロニーを強く感じているらしいのだが、それはとりもなおさず、どれほど老いが忍び寄ってきたかを示す兆候だ。それと並んで、期待感や教育的な熱意の必然的な減退という、加齢につきものの現象も起こっている。 わたしは最近、イクバール・アフマド[1] とイブラーヒーム・アブー・ルゴッド[2] (この作品を捧げた人物のひとりだ)という、知的、政治的のみならず個人的な側面でもわたしの主な相談役であった二人の畏友を相次いで亡くした。そのことは、悲しみと喪失感をもたらすと同時に、諦観とともに、断固として続けていくという固い意思をわたしに抱かせた。これは楽観主義であるという問題ではまったくなく、むしろ今も進行中の、文字通り終わりのない、解放と啓蒙にむけての前進を信じ続けるという問題であり、わたしの意見ではそれは知識人としての使命に枠組みと方向性を与えてくれるものである。

とはいえ、いまだに私が驚かされるのは、『オリエンタリズム』がいまもなお論じられつづけ、世界中に翻訳されているということである。現在では三十六カ国語に訳されている。わたしの友人であり、同業者でもあるガブリエル・ピーターバーグ教授(現在はUCLA、その前はイスラエルのベングリオン大学で教えていた)のおかげで、本書のヘブライ語版も出版され、イスラエルの読者や学生たちのあいだに相当の議論と論争を巻き起こした。それに加えて、ヴェトナム語の翻訳も、オーストラリアの後援で出版された。さしでがましく響かなければよいのだが、インドシナ知識人のあいだにも本書の提起する問題を取り上げる場が開かれたのである。いずれにせよ、自著がこれほどの幸運にめぐまれるとは夢にも思わなかった著者としては、本書でわたしが試みたことへの興味がいまだ完全には衰えておらず、とりわけ「オリエント」そのもののさまざまな地域でいまだに関心を呼んでいるということを記すのは、大きな喜びである。

その原因の一部は、もちろん、中東やアラブ人やイスラムがあいかわらず大きな変革や闘争や論争の火種を提供しており、これを書いている今現在では戦争までも引き起こしているからだ。何年も前に述べたように、『オリエンタリズム』は、本質的、いや徹底的に御しがたい状況の産物である。自伝『遠い場所の記憶』(一九九九年)の中で、わたしは自分が育った風変わりでつじつまの合わない世界のことを説明ようとして、わたしという人間を形成することになったと思われるパレスチナ、エジプト、レバノンの環境について、自分自身のためにも、読者に向けても、詳細な記述を提供した。だがそれは、きわめて個人的な視点からの解説であり、そこに描かれた時代も、わたしが政治にかかわるようになった一九六七年の第三次中東戦争以降の年月にまでは達していなかった。あの戦争の影響は現在にまで及んでおり(イスラエルはいまだにパレスチナ領とゴラン高原を軍事占領している)、その中で、わたしの世代のアラブ人やアメリカ人にとって重要だった闘争の条件や問題となっていた考え方は、いまもなお存続しているようだ。それでも、ここでいま一度確認しておきたいのは、本書を含め、わたしの観念的な作品一般は、大学教師としての生活によって可能になったものであるということだ。欠陥や問題点はしばしば指摘されるものの、アメリカの大学は──とりわけ、わたしの所属するコロンビア大学は──いまでもアメリカに残された、思索と研究が理想郷に近いかたちで行われる数少ない場所のひとつである。わたしは中東についてなにも教えたことはない。受けた専門教育からも、実践していることからも、わたしは主として欧米系の人文科学の教師なのであり、専門とするのは現代の比較文学だ。この大学と、二世代にわたる最も優秀な生徒たちやすばらしい同僚たちに囲まれて教育者として働いてきたことが、本書にあるような一種の意識的な瞑想と分析による研究を可能にしたのである。切迫した世間的なことがら論及してはいるものの、それでも本書は中東の政治ぞのものというよりは、やはり文化や、理念や、歴史や、権力についての書物なのである。それが当初からのわたしの認識であったし、現在ではそれはずっと明白な、歴然としたものになっていると思われる。

とはいえ、『オリエンタリズム』は、じつにまた現代史の荒々しいダイナミックスに結び付いた書物である。それゆえ、わたしがその中で強調しているのは、「オリエント」という言葉にも、「西洋」という概念にも、存在論的な安定性はまったくないということだ。どちらも人間が、「他者」を断定したり、識別したりしようとする中で、できあがってきたものだ。こういう究極のフィクションは、あやつりや集団的な熱情の組織化につながりやすいということが、今ほど明瞭になったことはない。恐れや憎しみや反感の動員と、復活する自尊心や傲慢──その多くは、一方にイスラムやアラブ人をおき、他方の「われわれ」西洋人というものに対置させることに関係している──そういうものが、現在では巨大な事業になっているからだ。『オリエンタリズム』の第一頁の書き出しは、レバノン内戦についての一九七五年の時点での記述から始まる。この戦争は一九九〇年に終結したが、暴力も醜悪な流血沙汰も、いま現在にいたるまでずっと起こりつづけている。この間に、オスロ合意に基づく和平プロセスが破綻し、第二次インティファーダが発生し、西岸地区とガザはふたたび侵略され、そこに住むパレスチナ人はひどい苦しみを味わった。イスラエルのF16戦闘機やアパッチ攻撃ヘリコプターが、集団懲罰の一環として無防備な一般市民に日常的な攻撃をしかけている。自爆攻撃という現象が出現し、忌まわしい弊害を撒き散らすようになったが、忌まわしく黙示祿的なできごとという点では、もちろん二〇〇一年九月十一日の事件と、その後遺症としてのアフガニスタンやイラクへの攻撃にまさるものではない。この原稿を書いている間も、イギリスとアメリカのイラクに対する帝国的な不法占領は進展している。その結果は、考えてみるもおぞましい。これは、永遠に繰り返され、和解させることも、修復することもできない文明の衝突とされているものの一環なのだ。といっても、わたしはそうは思っていない。

合衆国における中東やアラブ人やイスラムについての一般的な理解が少しは向上したと言えたらどんなにいいだろう。残念ながら、現実はそうなっていない。どう見ても、ヨーロッパの状況の方がずっとましなようだ。アメリカにおける態度の強硬化、卑しめるような一般化や勝利主義的な常套句による統制の強まり、反対派や「他者」に対する短絡的な軽蔑と手を携えた露骨な力による支配は、ちょうど似合いの相関物としてイラクの図書館や博物館の破壊と略奪をもたらした。歴史というものは黒板のようにさっと一拭きで消し去って、そこにできた空白に「わたしたち」が自分の未来を書き込み、現地の劣った人々にわたしたちの生活形式を押しつけることができるようなものではない。、わたしたちの指導者やそれに追従する知識人たちには、それを理解する能力がないらしい。ワシントンなどにいる官僚たちが中東の地図の塗り替えについて語るのを聞くと、古くからの社会や多彩な諸民族が、まるでビン詰めピーナツのように振り混ぜて成形できるかのように響く。だがそういうことも、「オリエント」についてはこれまでもよく起こってきたことなのだ。「オリエント」という半ば神話的な概念は、十八世紀末にナポレオンがエジプトを侵略して以来、つくられてはまたつくり直されるということを無数に繰り返してきたのだ。その過程で、これがオリエントの本質であり、それゆえそれに相応しいように扱ってやらあねばならないのだと便宜的な正確の知識を通いて断定しようとする権力によって、数え切れない歴史の堆積物、そこに含まれる数知れぬ歴史と目もくらむほど多種多様な民族、言葉、経験、文化などは、すべて掃き捨てられ、無視されて、バグダッドから略奪された宝物の、こなごなに粉砕され無意味になった破片と一緒くたにして砂の山に葬り去られている。わたしの意見では歴史というものは人間が作るものであり、それと同じように、作らずにおくことも、書き直すことも可能だ。さまざまな黙殺や省略がつきまとい、かたちの押しつけや歪曲の容認がつきまとう。その結果、「わたしたちの」東洋、「わたしたちの」オリエントが、「わたしたちのもの」として所有や監督の対象になるということが起こってくる。

再度確認しておきたいが、これが「本当の」オリエントだと論ずるべきものが、わたしにあるわけではない。だが、この地域の諸民族が、自分たちは何者であり、何を望んでいるのかについて自らが考えるもののために闘いつづける能力や才能には、わたしはおおきな敬意を払っている。アラブやムスリムの現代社会に対しては、わざと挑発するような大規模な攻撃がしかけられている。彼らの後進性、民主主義の欠如、女性の権利の剥奪などといったものが槍玉にあがっているのだが、そこですっかり忘れられているのは、近代性や啓蒙思想や民主主義という概念は、決してそんな単純なものでも、合意のできた概念でもないのであり、見つかるか見つからないかのどちらかだどと、まるで居間に置かれたイースターエッグのように論じられるものではないということだ。なまの知識もない(現実の人々が実際に話している言葉についても何の知識もない)くせに外交政策と称してしゃべる未熟な政治評論家たちによって、無味乾燥な風景がでっちあげられ、そこにアメリカが力づくで市場経済「デモクラシー」の"代用品"を築いてくれるのを待っているかのように描かれる。そのような計画が、いったいスウィフトの「ラガドのアカデミー」[3] 以外のところで存在するものだろうかという疑問が少しでも持たれたような気配もない。

もう一つ論じておきたいのは、他の民族や他の時代についての知識といっても、それ自体を目的とした理解や思いやりや慎重な研究と分析によって得られた知識と、自己肯定や敵対姿勢、あるいは全面戦争のための作戦の一環としての知識(それが知識であるなら)とのあいだには、相違があるということだ。つまるところ、共生をめざし、人文学(humanism)研究の地平を拡大するために理解しようという意思と、管理や外部支配を目的とした支配しようとする意思のあいだには、根本的な相違があるということだ。知識人たちの歴史に残る大失態といえるのは、選挙を経ていない少数の合衆国高官たち(彼らはひとりとして兵役についたことがなく、チキンホーク [4]と呼ばれている)が捏ね上げた帝国主義戦争が、荒廃した第三世界の独裁国家に対して、世界征服、安全保障管理、希少資源などにかかわる完全に思想的な理由からしかけられたのに、学者としての使命を裏切ったオリエンタリストたちが真の理由を隠蔽し、動きを急きたて、いいわけを提供したということだ。ジョージ・W・ブッシュの国防総省や国家安全保障会議に大きな影響を与えているのはバーナード・ルイスやフォアード・アジャミーのような人々で、こういうアラブ・イスラム世界の専門家たちが、アラブの精神だとか、何世紀も続くイスラム世界の凋落を救うことができるのはアメリカの力だけだなどという、アメリカのタカ派たちの抱くばかげた考えを助長したのだ。今日、アメリカの書店は、イスラムとテロ、イスラムを暴く、アラブの脅威とムスリムの敵意などについてのセンセーショナルな見出しのついた低俗で長たらしい駄文であふれている。こういうものを書く政治評論家たちの知ったかぶりは、長年「われわれの」悩みの種であった東洋の奇妙な諸民族の真髄に精通したとされる専門家たちから教わったものだ。このような戦争挑発のための専門家に連れそっているのが、世界中いたるところに浸透するCNNやFOXの番組、数知れぬ福音伝道者や右翼のラジオ番組ホストたちであり、また数え切れぬほどのタブロイド紙、はては中堅の新聞紙までもがその戦列に加わっている。どれもこれも同じような証明不能の作り話や途方もない一般化を使いまわして、「アメリカ」を外国の極悪人たちとの対決ムードに追い立てようとしているのだ。

たとえひどい欠陥を持ち、すさまじい独裁者(ある程度は二十年前のアメリカの政策によって生み出されたものだ)に支配されているとしても、イラクがもし世界最大のバナナやオレンジの輸出国であったというのならば、まちがいなく戦争は起こらなかっただろう。なぜか消えてしまった大量破壊兵器についてのヒステリー症状もなかったろうし、陸・海・空軍の膨大な兵力を七千マイルも離れた地に送り込み、アメリカでは教育のある人にすらほとんど知られていない国を破壊することもなかっただろう。すべては、「自由」の名のもとに行われたことだ。かの地に住む人々は「われわれ」とは違っており、「われわれ」の価値観を理解しないという──本書でわたしがその創造と流通について説明した伝統的なオリエンタリズムの教義の核心だ──うまくできあがった意識がなければ、戦争など起こらなかっただろう。

そういうわけで、アメリカ国防総省やホワイトハウスの顧問たちは、マレーシアやインドネシアを征服したオランダ人、インドやメソポタミアやエジプトや西アフリカに展開したイギリス軍、インドシナと北アフリカを制したフランス軍などに協力した人々とまったく同じ部門に属する雇われ学者たちから採用されるのであり、今度の場合も、これまでのものと同様の常套句、同様の卑しめるようなステレオタイプ、同様の権力や暴力の正当化(「彼らが理解するのは、結局のところ力だけだ」という合唱)が使われている。こういう連中にイラクで合流しているのは、群れをなす民間の請負事業者や熱心な企業家たちであり、彼らの手に、教科書や憲法草案の執筆からイラクの政界と席急業界の再編成にいたるまで、あらゆるものが委託されることになるのだ。どのような帝国も、公式の言説においては次のように主張してきた──自分たちは他の帝国とは違っている、自分たちは特殊な状況に置かれている、自分たちは啓蒙し、文明化し、秩序と民主主義をもたらしてやる使命を背負っているのであり、軍事力を行使するのは最後の手段としてだけだ。さらに情けないことに、それに伴奏を奏でるのが、善意の帝国とか利他的な帝国などという気休めの文句を口にする知識人たちの合唱だ。それはまるで、最新の"文明化の使命"がもたらした破壊、悲惨と殺戮を見ている自分の目を信用するなといわんばかりだ。

帝国的な言説にアメリカが独自の寄与をはたしているのは、政策畑の専門用語だ。民主主義のドミノ効果こそがアラブ世界がまさに必要としているものであるということを偉そうに講釈するにあたって、アラビア語もペルシャ語もいらないし、はてはフランス語さえもできる必要はないらしい。好戦的で悲惨なほど無知な政策部門の専門家は、ワシントン界隈で書き散らされている「テロリズム」やリベラリズムについての本、イスラム原理主義とかアメリカの外交政策についての本、あるいは歴史の終わりについての本を通じてしか世界を知らない。こうした本はみな、注目を引き、影響を与えようと懸命にはりあっているが、誠実さや深い考察や真の知識などにはいっこうに関心がない。重要なのは、どれだけ効率的で機知に富んでいるように聞こえるか、だれがその気になってやってみるかということだ。この本質論的なたわごとの最悪の面は、複雑さと苦痛に満ちた人間の苦難が、神隠しに遭ってしまうことだ。記憶とともに歴史的な過去も抹消される。「お前はもう終わった」(You are history)と馬鹿にしたように切り捨てるアメリカ風の普通の言い回しと同じように。

初版の出版から二十五年が経った今、『オリエンタリズム』はふたたび、はたして近代帝国主義に終わりはあったのか、オリエントでは二世紀前にナポレオンがエジプトに侵入して以来いまもずっと続いているのではないのか、という問いを投げかけている。アラブ人やムスリムたちは、被害者を演じたり帝国の略奪行為をくどくど述べたてることは、現在起こっていることに対する責任を回避する手段の一つでしかない、と告げられる。お前たちは失敗した、道を踏み外したのだと、現代のオリエンタリストは言う。もちろん、これがV・S・ナイポールの文学への貢献だ──帝国の被害者たちがめそめそと不平をたれているうちに、彼らの国はどんどん落ちぶれていく。だがそれは、帝国の介入の影響をなんと表面的にしか見積もっていない批判だろう。帝国が「劣等」民族や「被支配民族」の生活に何世代にもわたって加えてきた巨大な歪みが、なんとあっさり軽視され、パレスチナ人やコンゴ人やアルジェリア人やイラク人などの生活に帝国の支配が侵入し続けてきた長い年月に直面する用意のないものだろう。ホロコーストが現代人の意識を永遠に変容させたということを認めるのは間違っていないが、それならなせ同じような認識論的な変異を帝国主義がしたこと、オリエンタリズムが今もしつづけていることに対しても認めようとしないのだろうか。ナポレオンに始まって、東洋学の勃興へと続き、北アフリカの制覇にいたる流れを考えてみるがよい。それは同じような形でヴェトナムでも、エジプトでも、パレスチナでも続いており、また湾岸、イラク、シリア、パレスチナ、アフガニスタンでは、二〇世紀全体にまたがる石油と戦略支配をめぐる抗争として続いている。対位法的に考えてみたいのは、植民地化に反発する民族主義の勃興が、独立当初のつかの間の自由主義、軍事クーデターの時代、反政府勢力の活動、内戦、宗教的な急進主義、不合理な闘争などを通じて起こってきたということと、最近の「原住民」の一団に対する非妥協的な残虐さだ。これらの段階や時代のそれぞれにおいて、他者についての独自のゆがんだ知識が生み出され、それぞれ独自の単純化したイメージ、独自の論争的な議論が生み出されてきた。

『オリエンタリズム』でのわたしの目的は、人文主義的な批判を使って闘争の領域を拡大すること、それを通じて思考や分析のより長期的な連続を導入し、わたしたちを閉じ込めている論争的で思考を停止させる憤激の短期的な噴出に置き換えようということだった。後者が押しつけるレッテルや敵対的な議論は、理解や観念的な交流ではなく、好戦的な集団的アイデンティティをめざすものである。わたしは自分が試みていることを「人文主義」humanismと呼んできた。この言葉を、洗練されたポストモダン批評家たちはばかにして退けるが、わたしは頑固に使いつづけてきた。 人文主義という言葉でわたしが意味するのは、第一に、ブレイクの言う「心を縛る枷」 [5]を解き放ち、歴史を踏まえて合理的に精神を働かせることができるようにし、省察的な理解と偽りのない開示という目標に役立たせることである。加えて、人文研究は他の解釈者、他の社会や他の時代との共同体意識によって支えられている。だから、厳密に言えば、孤立した人文主義者humanistなどというものは存在しないのだ。

これはすなわち、すべての領域がすべての他の領域とリンクしているということであり、わたしたちの世界で生起することはどれ一つとして孤立したものはなく、外の世界の影響を免れているものなどないということだ。がっかりさせられるのは、これが正しいということを批判的な文化研究が明らかすればするほど、そのような見解の持つ影響力は後退していくらしく、それに代わって「イスラム対西洋」というような、領域を単純化する二極化の議論が優勢になっていくことだ。

わたしを含め、周囲の状況からやむなくイスラムと西洋という複数の文化にまたがる生活を実際に送っている人間たちには、学者や知識人としての行動に、特別な知的・道徳的な責任が伴うと、わたしは長年思ってきた。確かに私たちの義務だと思われるのは、単純化志向のきまり文句や抽象的だが影響力の強い思想(具体的な人間の歴史や経験を離れて思想的なフィクション、形而上的な対決、集団的な激情という領域に人の心を引き込むような)を複雑化させたり、取り除いたりする仕事だ。これはなにも不正や迫害の問題を語ることができないと言っているのではなく、それをするときには常に、歴史や文化や社会経済的な現実の文脈に十分に位置づける必要があるということなのだ。わたしたちの役割は、論議の領域を広げることであって、優勢な権威の主張にそって制限をもうけることではない。この三十五年というもの、わたしは人生の多くの部分をついやしてパレスチナ人の民族自決の権利を訴えてきたが、そうしながらもわたしは常にユダヤ人の現実と彼らが迫害や集団殺戮によって経験した苦しみに対して十分な注意を払うように努めてきた。もっとも大事なことはパレスチナ/イスラエルにおける平等の獲得のための闘いは、人間らしい目標に向かわねばならない、すなわち、これ以上の抑圧や否認ではなく、共生をめざすものでなければならないということだ。オリエンタリズムと近代の反ユダヤ主義が共通の根を持っているというのは、偶然ではない。従って、独立した知識人にとって決定的に重要だと思われるのは、中東や他の地域であまりに長いあいだ優勢を保っている、相互の敵意に基づいた還元的な単純化と限定のモデルに対し、常にオルターナティヴを提供していくことだろう。

ここで、わたしも一つのオルターナティヴを語ってみよう。わたしの仕事においては、極度に重要だったものだ。文学畑の人文研究者としては、わたしはもう四〇年も前に比較文学の専門教育を受けた古株である。そこでの主要な観念は、十八世紀後半から十九世紀前半にかけてのドイツにさかのぼる。だが、そこに行く前に、ジャンバティスタ・ヴィーコの飛びぬけて独創的な寄与について触れておかねばならない。ヴィーコはナポリの哲学者・文献学者で、その思想はこのすぐ後に取り上げる一連のドイツの思想家たちを先取りしたものであり、後に彼らの中に浸透していったものだった。彼らはヘルダーやヴォルフの時代に属しており、その系譜はさらにゲーテ、フンボルト、デュルタイ、ニーチェ、 ガダマーと続き、最終的には二〇世紀の偉大なロマンス学研究者エーリッヒ・アウエルバッハ、レオ・シュピッツァー、エルネスト・ロベルト・クルティウスなどへとつながっていく。いまの時代の若い人々には、まさにこの文献学(フィロロジー:文学・言語学の総合研究)という考えそのものが何かどうしようもなく骨董趣味でかび臭いものを暗示するらしいが、文献学はじつは解釈的人文学の中でもっとも基本的で創造的なものなのだ。このことを一番賞賛されるかたちで表しているとわたしに思われるのが、ゲーテがイスラム全般、とりわけハーフィズに大きな興味を示していたことだ。この燃えたぎる情熱は、『東西詩集』の創作につながり、後には「世界文学」というゲーテの後期の思想にも影響した。後者は、世界のすべての文学を調和した全体として研究するもので、そのような全体性を理解することは、全体の視野を失うことなく個々の作品の特性を保存することで可能になるという理論だ。

ここで、かなりのアイロニーを感じるのは、今日のグローバル化された世界が、先に述べてきたような嘆かわしいかたちで一つにまとまっていくにつれ、そこで進んでいく標準化と均一化は、まさにそれこそゲーテの思想が特に阻止しようと考案されたものではないかと気づいたときだ。エーリッヒ・アウエルバッハは一九五一年に出版したエッセイ『世界文学の文献学』(高木昌史ほか訳 みすず書房)の中で、まさにこの問題を指摘している。第二次世界大戦が終わり、冷戦が始まろうとしていたころのことだった。名著『ミメーシス−ヨーロッパ文学における現実描写』(篠田一士・川村二郎訳 筑摩叢書 1968)は、一九四六年にベルンで出版されたが、書かれたのはアウエルバッハが戦時亡命中にイスタンブールでロマンス語を教えているときだった。同書は、ホーマーからヴァージニア・ウルフにいたるまでの西洋文学に描き出された現実の多様性と具体性の証言として書かれたものだった。だが、一九五一年のエッセイを読んで感じ取れるのは、アウエルバッハにとってこの名著は、人々がテクストを文献学的に、具体的に、敏感に、直感的に 解釈することができていた時代へのエレジーだったらしいということだ。それは、博識と、数ヶ国語を見事に駆使する能力にささえられた、ゲーテがイスラム文学の理解のために提唱したような種類の理解である。

言語と歴史についての確かな知識は必要だったが、決してそれだけで十分ということはない。それは、事実を機械的に寄せ集めることが、例えばダンテのような著者についてその真髄を理解するのに必要な方法として、どれほどの位置を占めるかというのと同じようなものだ。アウエルバッハやその先駆者たちが語り、実践を試みたたぐいの文献学的な理解では、そのために必要とされた主な条件は、書かれたテクストが、その時代や著者の視点からみて持っていた生命の中に、共感をこめて主観的に入り込むことだった(感情移入)。 他の時代や異なる文化に対する疎外感や敵意を感じるよりも、「世界文学」に応用される文献学には奥深い人文主義精神が、寛容と、こう言ってよければ、歓待の精神を持って動員されていた。従って解釈者の心の中には、異質な他者のための場所が積極的に作られる。このように、本来は異質で隔たっていたであろう作品のために創造的に場所をつくりだすことこそが、解釈者の文献学的な使命のなかでもっとも重要な側面なのだ。

こうしたものはすべて、ドイツではむろん国民社会主義によって弱体化され、破壊された。戦後、アウエルバッハが悲嘆に暮れながら指摘しているのは、思考の標準化、また知識の専門化がますます進展する中で、彼が体現していた探求的で果てしなく探求しつづけるような文献学的研究には次第に機会が狭められていくということだった。おまけに、いっそう憂鬱になる事実は、一九五七年にアウエルバッハが亡くなった後は、人文学研究は思想としても実践としてもその領域が狭まり、重要性も薄れてしまっているということだ。ほんとうの意味で「読む」のではなく、今日の学生たちは、しばしばインターネットやマスメディアが提供する断片的な知識によって気持ちをそらされている。

もっと悪いのは、教育が民族主義や宗教上の正統派信仰によって脅かされていることで、しばしばこれをまき散らす役割をはたしているのがマスメディアだ。メディアは歴史をないがしろにし、煽情的に、遠く離れたところで戦われるエレクトロニクス戦争に関心を集中させ、特定の標的だけを破壊する正確無比の攻撃というイメージを視聴者に与え、実際には近代的な「きれいな」戦争が引き起こすひどい惨状と破壊を見えにくくしている。未知の敵を悪者に仕立てあげ、彼らに「テロリスト」のレッテルを貼ることによって人々を興奮と怒りの状態に保ちつづけるという動きの中で、メディアが提示するイメージはあまりに強く人々の関心をひきつけ、9・11以降につくり出されてきたような不安と危機の時代には、利用されることもあり得る。 アメリカ人でありアラブ人である者としてわたしが読者にお願いしたいのは、 一握りの国防総省の非制服組みエリートたちが、アラブ・イスラム世界全体でのアメリカの政策のために構築した単純化された世界観を、みくびらないで欲しいということだ。そこでは、テロ、先制攻撃のための戦争、一方的な体制変革regime changeの要求──史上最大の軍事予算の膨張に支えられた──などが主要観念として際限なくメディアによって議論され、内容はどんどん貧困化していく。その一方で、政府の一般方針を正当と認めるのが役目の、いわゆる「専門家」と呼ばれる人々をつくり出す役割もメディアは進んで買って出ている。

省察、討論、合理的な議論、人間の歴史は人間がつくるという世俗主義の認識にたつ道徳信条などは、アメリカや西洋は例外的であるとする考えを賛美し、前後の文脈との関連性を軽視し、他の文化を蔑視するような抽象観念で置き換えられている。

読者はたぶんわたしが人文学的な解釈の問題と外交政策の問題あいだにあまりにも唐突な移行を行いすぎると思うかもしれない。そして未曾有の軍事力と並んでインターネットやF-16戦闘機を備えた現代の技術社会は、つまるところドナルド・ラムズフェルドやリチャード・パールのような豪腕な政策畑の専門技術者たちに任せておくしかないのだとおっしゃるかもしれない。けれども、そこで失われてきたのは人間生活の密度の濃さや相互依存性であり、そういうものは決まり文句に単純化することも、無関係だとして払いのけることもできない。戦争につかわれる言語でさえも、人間らしい扱いを剥奪するようなものだ。「爆撃を開始し、サダムをやっつけ、標的だけを破壊する正確な攻撃で彼の軍隊を壊滅してやる。みんな大喝采するだろう」と、ある国会議員が先日の全国放送テレビで述べていた。わたしたちの生きる危険な時代をきわめてよく暗示していると思われるのは、チェイニー副大統領が二〇〇二年八月二十六日にイラン攻撃の緊急性について強硬派スピーチを行ったとき、イラクへの軍事介入を支持する中東「専門家」として引用した唯一の人物が、マスメディアから報酬をもらって顧問を務め毎晩のようにイラクの同胞たちへの憎しみや身内との絶縁を繰り返し述べ立てるようなアラブ系学者だったことだ。このような「知識人の裏切り」は、純粋な人文学humanismがどれほどジンゴイズム(戦争擁護論)と愛国主義に堕落できるかを示すものだ。

以上はグローバルな討論の(欧米側での)一つの側面だ。アラブやイスラムの国々での状況が、それより少しでもましなわけではない。ルーラ・ハラーフRoula Khalafが『ファイナンシャル・タイムズ』(二〇〇二年九月四日号)に載せた優れた評論で述べているように、この地域は安易な反米主義にはまり込んでおり、そこには一つの社会としての合衆国がどんなものかという理解がほとんど見られない。この地域の諸政府は、彼らに対する合衆国の政策にあまり影響力がないため、いきおいそのエネルギーを自国民の弾圧と、彼らを無力にとどめておくために向けているが、それが引き起こす恨みや、怒りや、無力な呪いは、彼らの社会を解放するためには何の役にも立たない。そこでは、人間の歴史や発達についての世俗的な観念が、破綻と挫折によって、またイスラム主義によって乗っ取られている。イスラム主義の基盤にあるのは、丸暗記の学習、競争力のあると見られる他の世俗的な知識の形式の抹殺、近代的な言論というなじみの悪い世界の中で分析や意見交換をすることの不可能さだ。イスラムのイジュティハード[6] という驚くべき伝統が徐々に消滅しつつあることは、現代における大きな文化的な不幸のひとつだ。それがもたらした結果は、現代社会における諸問題への個人的な取り組みや、批判的な思考がほとんど姿を消したことだ。それに代わって支配しているのは、正統派信仰や教義だ。

これはなにも、文化的な世界がただあっさり退行して、一方の側では戦闘的なネオ・オリエンタリズム、他方の側では全面的な拒絶主義というものに陥ってしまったというような話ではない。最近のヨハネスブルグにおける国連世界サミットは、多くの限界はあったにせよ、それでも実際には広大な領域における世界共通の関心事があることを明らかにした。環境、飢饉、先進国と途上国のギャップ、健康、人権などのような諸問題に関する具体的な取り組みは、表面的になりがちな「一つの世界」という概念に、新たな緊急性を与える新しい集合的な支持基盤が出現したという喜ばしい事態を示唆している。とはいえ、このグローバル化した世界の途方もなく複雑な統一性を把握しうるような者は誰一人いないことは認めなくてはならない。はじめに触れたように、この世界は各部の真の相互依存で成り立っており、もはや純粋な孤立の機会など残されていないという現実はあるのだが。

締めくくりとして主張しておきたいのは、人々を「アメリカ」や「西洋」や「イスラム」というような表題の下での誤った結束に追いやり、実際にはかなり多種多様な大勢の人間たちを包括しようとする集合的アイデンティティを捏造させるような、すさまじく還元主義的な紛争は、現在のように大きな効力をもちつづけることはできないし、かならずや反対されねばならず、その大量殺傷能力は、効力も動員力も大幅に殺がれねばならないということだ。 わたしたちにはまだ、人文学的な教育の遺産である合理的な解釈の技術を自由に使うことができる。伝統的な価値観や規範に戻れとわたしたしに命じる感傷的な信心深さとしてではなく、現世的で非宗教的で理性的な言葉遣いの積極的な実践としてである。世俗的な世界とは、人間によって作られる歴史の世界だ。人間の働きが調査や分析の対象となり、それを把握し、批判し、感化し、判断するのが理解の使命である。とりわけ重要なのは、批判的な思考は、次から次へと繰り出される公敵に、しゃにむに攻め込んでいくような人々の隊列に参加せよという命令や国家権力には服従しないということだ。 捏造された「文明の衝突」などではなく、わたしたちが集中すべきはむしろ諸文化がゆっくりと共同で進める作用である。それらが重なり合い、互いに相手のものを拝借し、共生していく様子は、短縮化された、ほんものとはいえない方式の理解によって得られるものよりは、ずっと興味深いものである。 だが、そのような広い認識に到達するためには、時間と、忍耐強く懐疑的な探求が必要であり、それを支える解釈の共同体への信頼は、即座の行動と反応が要求される世界においては維持するのが難しい。

人文学で一番重要なのは人間ひとりひとりの個性と主観的な直観の力であって、よそから受容した考えや定評のある権威ではない。テクストの読解は、「現世的な」とわたしが呼んできたような方法で、そのテクストを歴史の領域の中で生み出され、生きつづけてきたものとして読むことでなければならない。だが、それは権力を除外するということではまったくない。その逆に、本書でわたしが証明しようとつとめてきたのは、たとえ超難解なタイプの研究にさえも、権力が染みわたり、重なり合っているのだということだった。

そして最後に、最も重要な点は、人文学は、人間の歴史をゆがめる非人間的な行為や不正に対してわたしたちが抵抗するための唯一の手段だ──「最後の」砦とまで言うこともわたしは辞さない──ということだ。今日わたしたちの助けになるのは、サイバースペースという大きな勇気のわいてくる民主的な領域だ。これがすべてのユーザーに開かれているあり方は、これまでの世代の者には、それが専制君主であれ、正統派信仰者であれ、想像もできなかったものだ。イラク戦争が起こる前に世界を駆けめぐった抗議の運動は、世界中にまたがるオルターナティヴな共同体の存在がなかったとしたら、とうてい実現しなかっただろう。彼らはオルターナティヴな情報によって事情に通じており、環境や人権やリバータリアン的な衝動に鋭い認識をもっており、それがこの小さな恒星のなかでわたしたちを一つに結び付けているのだ。世界中のラムズフェルドやビン・ラーディンやシャロンやブッシュの同類たちによる信じがたいほど強力な反対もかかわらず、啓蒙と解放への人間的な、人文学的な願望は、それほど簡単に遅延させられるものではない。『オリエンタリズム』が、人間の自由を獲得するための長く、妨害の多い道のりの中で一定の場所を占めてきたとわたしは信じたい。


訳注

1.Eqbal Ahmad (1933?-1999) インドで生まれ、イギリスからの分離独立に伴いパキスタンに移住した政治学者、活動家、アメリカで教育を受け、アルジェリア独立戦争やヴェトナム反戦運動などに深く関わった。インタヴュー集『帝国との対決』が邦訳されている(大橋、河野、大貫共訳、大田出版)。

.Ibrahim Abu-Lughod (1029-2001) ヤーファ生まれの政治学者、活動家。1948年のイスラエル建国によって難民となり、ナブルスやアンマンなどで暮らした。合衆国で教育を受け、スミス・カレッジやノースウェスターン大学で教えた。1992年、パレスチナに戻り、ビールゼイト大学の副学長として国際関係学を教えた。パレスチナ解放運動に積極的にかかわり、長年パレスチナ民族評議会の議員をつとめ、帰国後は教育制度の充実につとめた。

.Academy of Lagado ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』第三篇でガリヴァーが訪問した浮島ラピュタは、自然に対して不自然に反応する人々が住む、抽象的で現実性のない支離滅裂な社会である。ラピュタが支配する地上の大国バルバーニの首都ラガドには、グランドアカデミーと呼ばれる施設があり、研究者たちがめいめいに奇想天外で実用性のない、有害とさえ言えるようなプロジェクトに没頭している。

.徴兵逃れをしたのに今はタカ派になっている人たち

5.mind-forg'd manacles ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の「ロンドン」という詩の一節。
London
I wander thro' each charter'd street,
Near where the charter'd Thames does flow,
And mark in every face I meet
Marks of weakness, marks of woe.
In every cry of every Man,
In every Infant's cry of fear,
In every voice, in every ban,
The mind-forg'd manacles I hear.
How the Chimney-sweepers cry
Every black'ning Church appalls;
And the hapless Soldier's sigh
Runs in blood down Palace walls.
But most thro' midnight streets I hear
How the youthful Harlot's curse
Blasts the new born Infant's tear,
And blights with plagues the Marriage hearse.
特権をひけらかす テムズ川の流れに沿い
特権をひけらかす 街街を歩きまわり
ゆききの人の顔に わたしが見つけるものは
虚弱のしるし 苦悩のしるし

ありとある人の ありとある叫びに
ありとある幼な児の 恐怖の叫びに
ありとある声に ありとある呪いに
心を縛る 枷(かせ)のひびきを わたしは聞く

煙突掃除の少年の叫びが なんと
黒ずみわたるありとある教会を すさまじくし
ふしあわせな兵士のためいきは
血汐となって 王宮の壁をつたう

だが 最もしばしば 深夜の町にわたしが聞くのは
生まれたばかりの乳のみ児の涙をからし
結婚の柩車を疫病で台無しにする
年若い娼婦の呪い声
『ブレイク詩集』/ 寿岳文章 訳(世界の詩55・弥生書房)

.ijtihad (自分で判断すること) イスラムの神学・法学の用語としては、教義やほうきの解釈に際して独自の判断を下すことをさし、具体的にはクルアーンとハディースに類推(キヤス)を適用して法規を導き出すことを意味する。


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