イラン・パペ

現在、シャロンは西岸地区の北部にイスラエルとの交流を完全に遮断するためのフェンスを建設しています。初めて聞いたときには荒唐無稽な話だとあきれましたが、どうやらこれは労働党が真剣に推進している従来からの構想らしいのです。なぜ、こんなものが穏健派とされるイスラエル左派から出てくるのかということを、建国の歴史にさかのぼって説明した記事。

イラン・パペはイスラエルの歴史家。イスラエルでは80年代なかばごろから「イスラエル建国神話」に疑問を提示する人々が様々な分野から出てきました。この人たちは一括して「ニュー・ヒストリアン」と呼ばれますが、パペは中でももとりわけ大胆な発言で注目されてきた人です。ごく最近、そのような発言がたたって、ハイファ大学を追放されることになるようです。


パレスチナ深部のフェンス
The fence at the heart of Palestine
Al Ahram Weekly 2002年7月17日 No.594

6月中ごろ、イスラエルは西岸地区をイスラエルから物理的に分離するフェンスを築き始めた。イスラエル左派に属するわたしの友人たちのなかには、これを大いに歓迎する人々もいる。同じ人たちが、かつてオスロ・プロセスが永続的で包括的な平和をもたらすと信じていたのだ。いま彼らを喜ばせているのは、この分離が必然的に独立したパレスチナ国家の創出につながるという思いこみだ。このフェンスがイスラエルとパレスチナの将来の国境を画するものと、彼らの目には映っているらしい。

彼らの見方が正しく、このフェンスが本当にそのような国境を意味するとすれば、「パレスチナ」というPLOが結成以来闘争目標としてきた地政学的な存在は、おそらく失われる。1882年にシオニズム運動によって開始され、48年以降はイスラエルが積極的に推進してきたプロセスを、このフェンスが完成することになるからだ。すなわち、パレスチナの地の脱アラブ化である。

このプロセスは、これまでのところイスラエル人の入植と(アラブ人の)土地没収と追放によって進められてきた。想定されるパレスチナ国家は、すでにオスロ合意によってばかげて小さな領域に縮小されてしまった。オスロ合意は、国際用語に数多くの珍妙な「国家であること」についての新概念をもたらした。その一つが、地理的な連続性を持たない二つの部分で成り立つ国家というものである。それぞれの部分はさらに細かく分断され、領土としてのまとまりを完全に欠いた小区域に別れている。

わたしの友人たちがフェンスに抱く楽観的な観測は、オスロが本物の和平プロセスだと彼らが解釈していたのと同じように、完全な誤りである。パレスチナの歴史に新しい時代を開くどころか、フェンスの建設は、古くからの政策を新しい装いのもとに継続するだけだ。パレスチナの存在を、地理的にも、政治的にも、文化的にも地図上から抹殺してしまおうという政策である。この論考では、フェンス建設構想をこのような文脈に戻して──シャロンの政策や目標との関連だけでなく、19世紀末に開始されたより大きな歴史的プロセスの一環として──検討してみたい。

このフェンスはイスラエルでは広い範囲の人々から歓迎されている。反対しているのは一握りの急進的な入植者だけだ。たいていのイスラエルのユダヤ人にとってフェンスの魅力は、最終的な国境の確定よりも、それが治安装置として機能し、パレスチナ人の自爆攻撃を止めさせるだろうという期待に由来する。だが、半年ほど前にこの案を最初に思いついた政治家たち(主に労働党)は、違う見方をしていた。彼らにとってフェンスの役割は単なる戦術ではなく、戦略的なものである。

労働党の議長を狙う二人の政治家ハイム・ラモンとビンヤミン・ベンエリエゼルは、このフェンスを「和平提案」と呼び、単なる侵入防止策ではないとしている。驚くことはない。労働党はこれまでもずっと、分割を前提とした和平を推進してきたからだ。実際、それが1992年の総選挙における彼らの主要スローガンだった──「わたしたちはここに、彼らはあちらに」。労働党にとって、シオニストの夢はパレスチナ人とユダヤ人の完全な分離を通してのみ成就する。フェンスのあちら(パレスチナ)側で何が起こるかということは、こういう平和夢想家にはいっこうに気にならないらしい。あちら側の生活が経済的に成り立つかどうか、水源や天然資源はどのように管理するのか(労働党はそのほとんどを分割後のイスラエル側に確保するつもりだ)、どの程度の主権が与えられるのか(どのみち労働党は完全な主権を与えるつもりはない。労働党の構想する「パレスチナ」には多数のユダヤ人入植地が治外法権区域として存在するのだから)、安全はどのように保障するのか(保安はイスラエル側だけが握ることになっているので)などといったことには、彼らはいっこうに興味がない。

ましてや、イスラエル国内に住む百万のパレスチナ人にとって分割は何を意味するかというさらに微妙な問題については、言うまでもないことだろう。いったいこの人たちは「わたしたち」になるのか、「彼ら」になるのか?

この構想で一つだけはっきりしていることは、シャロンによるパレスチナ問題「解決」への基本的アプローチに、きわめて相性が良いということだ。もちろん、シャロンは当初、フェンス建設なしでそれを遂行するつもりだった。だが、彼は国内の団結のためにフェンス構想を受け入れた。結局、労働党がシャロンに提案しているのは、現在の5000平方キロの西岸地区を二つに分割し、2500平方キロをイスラエル側に残すようなフェンスを建設することである。シャロンにそれを拒む理由などない。

フェンス建設は昔からあった計画かもしれないが、この考えを今まさにこの時点で推し進めようという決定の背後には、イスラエル国民が、アルアクサ・インティファーダの勃発以来ずっと自分たちの政府が個人の安全を保証できずにいることに失望を感じているということがある。

シャロンが一時的な恐怖の高まりを利用して自己の長期計画を有利に進めようとしたのは、これが初めてではない。1982年の夏、PLOの抵抗闘争が一段と激化し、イスラエルに向けてカチューシャ・ミサイルが打ち込まれるような事態に達したとき、シャロンは北部のレバノン国境にそった入植地のイスラエル人を動員して、国境の北側への侵略を遂行した。このとき、シャロンは暴力の終了という戦術目標の達成に失敗したばかりか、いっそう激しい形態の暴力を招くことに成功した。今日のフェンス建設も、必然的に同じ結果を招くだろう──イスラエルに対する暴力の激化、そしてもちろん、いつものようにパレスチナ人に対する暴力の激化。

1982年にそうであったように、今日もまた他の選択肢は開かれている。レバノン侵略の前夜、PLOは回避策として、戦いを止めて休戦条約を結ぶことを提案していた。だがシャロンには別の考えがあった。事実上の停戦を一方的に破り、シャロンはイスラエル軍をレバノンに侵攻させた。ベイルートに傀儡政権を成立させ、PLOの影響を排除するためだった。今回の場合、西岸地区を囲むフェンスは、サウジ皇太子の和平提案によって開かれた機会(パレスチナ人もアラブ諸国も賛同した)を台無しにするためのシャロンの計略だ。

この和平提案はイスラエルとパレスチナの両方に恒久的な平和を実現させする可能性を持っている。だが安全が保証される世界では、シャロンのような将軍たちはのさばることができないし、下手をすれば退陣を迫られる。

レバノン侵略でもフェンス建設でも、シャロンのアプローチは、世界的なシオニスト=イスラエル構想を反映している。それは、紛争を力づくで解決し、それによって「パレスチナ」という概念を記憶からも現実からも抹消し、「エレツ・イスラエル」(イスラエルの地)という対抗概念で置き換えようというものである。このエレツ・イスラエルには、ユダヤとサマリアの地が含まれる。これらの地域にはかなり多くの「アラブ人」が住みついているのだが、これらのアラブ人たちには国の名前も性格も決める力はない。やがてそのうち、機が熟したときに、彼らは追放されるのだ。

パレスチナという国がシオニストの意識から削り落とされたのは非常に早い時期からで、この土地に最初のユダヤ人移民が押し寄せた1882年に始まったことだ。パレスチナにおけるユダヤ人系住民が、英国委任統治の庇護のもとにマイノリティーにとどまっている間は、「パレスチナ」の抹消は象徴的なものにとどまっていた。それを物理的に地上から抹消するだけの軍事力が、いまだ備わっていなかったからである。だが、シオニスト移住者たちの言説や物語(narrative)の中では、すでに完全に排除されていた。

1948年、そのヴィジョンを実行に移す機会が訪れ、パレスチナは言葉による抹消だけでなく、剣によっても抹消された。国連分割決議はシオニストにパレスチナの56パーセントを与えたが、1948年の戦争によって彼らは88パーセントを占領した。どこから見ても、地政学的・文化的な存在としてのパレスチナは破壊されてしまったように映る。

だが、パレスチナは死なない。難民キャンプの中で、西岸やガザ回廊で、イスラエル内部のパレスチナ人マイノリティーのなかで、パレスチナは生きつづけている。1967年の戦争によって歴史的にパレスチナと呼ばれた地が全てイスラエルの支配下に入った後も、それは存続している。占領の最初の10年、イスラエルの労働党政権は、パレスチナが中東地域や世界の意識からそのうちには消滅するという期待のもとに、西岸地区とガザ回廊をヨルダンと連合させることを提唱した。しかし、そのような試みはみな無益だった。

その後、1977年にはリクードが「大イスラエル」思想を掲げて政権の座に上った。「パレスチナ」という観念は、占領地に大挙してなだれ込んだユダヤ人の入植に押し流され、難民の将来についての話し合いさえ頑固に拒絶する態度によって遮断され、イスラエル国内のパレスチナ人は一つの民族集団(national group)ではなく宗教集団(キリスト教徒とムスリム)であり、集団的な自決権も民族としての自覚も持ち得ないという主張によって沈黙させられた。

しかし、この戦略も成功せず、1987年に最初のインティファーダが発生した。この一斉蜂起によって、イスラエル人は1948年以降はじめて、パレスチナが政治的存在であり、イスラエルの隣国として、占領地域に独立した国家を形成する可能性があると認めざるを得なくなった。少なくとも、これがオスロ合意の基本原則だったはずだ。後から振り返れば、イスラエル政府は、パレスチナ国家を創出する(歴史的なパレスチナの地の22パーセントに)ことは決して意図していなかったように思われる。また、今ではパレスチナ自治政府という地位にのぼったPLOも、パレスチナ解放理念の具体化としてミニ国家の建設で手をうったことにより、パレスチナ側がそれまで一度も提示したことのないような大幅な譲歩を行なった。

しかし、そのような大幅に譲歩した希望さえかなえられることはなかった。ミニパレスチナ国家は誕生した瞬間からA、B、Cの三種類の区域に細分化され、ガザ回廊は遮断され、あたかも巨大な牢獄のように電気柵で囲い込まれた。その結果、「パレスチナ」の大半(西岸の42パーセント、ガザの20パーセント)はイスラエルの直接支配のもとに残された。これが「和平プロセス」を通して続いた現実である。それでもまだ、イスラエル人とアメリカ人は、パレスチナ人がなぜ、民族自決と独立という夢を達成するためには外交手段と交渉が最善の方法だということを悟らないのかが分からないらしい。(すくなくともヨーロッパ人は、それについてもう少し明瞭に理解しているようだ。)

アラファト大統領は2000年夏のキャンプデービッド会談でこのことを既成事実としてつきつけられ、「丸呑みにするか、拒絶するか」を迫られた。第二次インティファーダが起こったのは、そのすぐ後である。

この非武装の蜂起は、デモ参加者や街頭で抗議する人々にイスラエルが厳しい報復を加えたことから、武装蜂起へと変質した。ミニパレスチナ国家は徐々に再占領されていった。といっても、直接支配であろうが、間接支配であろうが、占領下に置かれた人々の状況がひどいものであったことに変わりない。仕事はなく、移動もままならず、まともな生活もできず、飢えと抑圧に苦しめられていた。このような状況が自爆テロを育んだのだ。チェリー・ブレア英首相夫人のような人物が、この事実を認識したとしても驚くことはない。多くの人々にとって、自爆テロの根源がどこにあるかは明瞭なことなのだ。罪のない一般市民が標的にされていることは非難されるべきだろうが、それは絶望から生まれたものなのだ。この事実は、パレスチナの知識人が署名した最近の嘆願書のなかでも認知されている。この嘆願書は、自爆テロを非難する一方で、そのようなことが生じてくる背景をきちんと説明したものだ。

イスラエルは、「テロのインフラ」と名づけたものを破壊するために、持てるかぎりの手段を投入してきた。あたかも、F16戦闘機や戦車やコマンド部隊が、エルサレムの繁華街で自らを火の玉にすることも厭わないパレスチナの若い男女に、恐怖感を植え付けることができるとでもいうように。イスラエル側の人的損失は、この国の歴史と人口に比較すれば、とほうもない比率に達している。このような攻撃によって一家族がまるごと殺害されるような悲劇的な例もある。イスラエルのマスコミ(とりわけテレビやラジオ)の理解を超えた弱腰が、このような個人の災難を生み出した背景について真の知識を得ることから、ユダヤ人社会を隔離しているのだ。占領、屈辱と暗殺、大量検挙、家屋破壊と飢餓など、自爆テロを育む要因についてはなにひとつ語られない。大衆の心がこれほど慎重に細心の注意をはらって閉ざされているのだから、たいていのイスラエル人がフェンス建設を魔法の盾でもあるかのように無条件に受け入れるのも不思議はない。

だが、このフェンスが将来の自爆テロを抑制することな期待できないことは、専門家でなくともわかることだ。むしろ、フェンスは、これを最後にパレスチナを抹殺してしまおうという今も昔も変わらぬイスラエルの思想的な野望に奉仕するだけだろう。結局、敵を完全に消滅させるほうが、妥協や和解や過去についての説明責任を負うよりはずっと「便利」なのだから。このフェンス(実際には壁である)によって、シャロンはパレスチナの将来の姿を規定しているのだ──孤立した区域に分断された西岸地区の半分と、孤島のように離れたガザ回廊の75パーセント。この領域の中ではパレスチナ人は地方自治を許され、「国家」を名乗ることさえ許されるかもしれない。2002年6月24日のブッシュ演説から判断すると、アメリカが現在パレスチナ問題の解決策として考えているものはイスラエル政府が考えているものとまったく同じだ。ブッシュ大統領が民主主義や透明性や経済的な繁栄を期待しているのは、こんな枠組みの中でのことなのだ。アメリカとパレスチナの関係が進展するにつれ皮肉は深まるばかりだろうし、もっと先を考えればアラブ世界における合衆国の地位を大きく損なうことになるだろう。ブッシュは、パレスチナの存在を抹殺しようとするイスラエルの企みの協力者とみなされるようになるからだ。フェンス、というか壁も、イスラエルの利益を多くの面で損なうことになる公算が大きい。イスラエルがラーマッラーのオフィスを包囲してアラファトを孤立させることには成功したものの、結果的に自分たちが世界ののけ者になってしまったのと同じように、この場合も結果は彼らが期待するものの正反対になるだろう。この壁は、パレスチナを包囲すると同様にイスラエルも囲い込むことになるからだ。イスラエルの最長の国境である東部前線にそって壁をはりめぐらせば、すでにこの国を強く支配している孤立感がいっそう高まり、長年にわたって国を蝕み、非妥協的で攻撃的な政府の方針を支えてきた「包囲下」という精神構造を強化することになるだけだろう。

だがもちろん、フェンスによってイスラエルに何が起ころうが、占領下におかれたパレスチナ人に与える破壊的な影響には比べようもない。すでにぞっとするほど非人間的なものになっている彼らの状況について、「悪化」を論じるのは難しいが、残念ながらどれほど酷いものごとにも必ずもっとひどい状況があるものなのだ。

チェリー・ブレアやデスモンド・トゥトゥ、ジョゼ・サラマーゴ、オリバー・ストーン、テッド・ターナーなど多くの人々が発してきた賢明な言葉に、国際社会は耳を傾けるのだろうか。この人たちは何が起こっているのかを理解し、今後に予想される悲劇について警告を発している──ネオナチとは言わぬまでも、反ユダヤ主義者よばわりされる危険を冒してのことである。それとも国際社会は、長年そうしてきたように、今回のパレスチナ抹消の試みに対しても沈黙し続けるのだろうか。イスラエルの圧力に屈したCNNが、それまでの公平な報道を放棄したように(イスラエル通信相は今度はBBCワールド・サービスを標的にして、「偏向」を理由にイスラエルの衛星放送やケーブル放送から排除しようとしている。BBCはCNNのように降参することのないように願いたい)。

ブッシュ大統領のパレスチナ問題についての最近の発言は、基本的に2002年秋の連邦議会選挙まではイスラエルが好き放題にふるまうことを許すというものだ。したがって、賢者の声も今しばらくは荒野に響き渡るだけであろう。ほんのしばらく前までは、パレスチナは地中海からヨルダンにまたがる地域だった。それが今では、土着のアラブ人たちは本来の彼らの国土の15パーセントにもおよばぬところにフェンスで囲って押し込められるのだ。

こんなことが起こっているというのに、ヨーロッパやアラブ世界は何をしているのだろう。アジアやアフリカの国々は、どこにいるのだろう。ドイツがこの問題について明確な立場をとることをためらう理由は理解できるが、そろそろ自国の過去から得た教訓を生かすべき時が来ているのではないだろうか。ホロコーストについて道義的な責任をとるのならば、人道に背く犯罪、占領、人権侵害に反対する国々の先頭に立たねばならないのではないだろうか──たとえ罪を犯している人々がホロコーストの犠牲者の子孫であったとしても。それにしても、EUや国連の他のメンバーたちはなにをしているのだ。従来から警告してきたように、彼らがみな目覚めたときには、すでに遅すぎるかもしれない。パレスチナ人にとって遅すぎるだけでなく、イスラエルにとっても。二度目のナクバ(1948年のパレスチナ社会の崩壊)を引き起こした後では、もはや中東で受け入れてもらうことは(存続することさえ)できないだろう。(2002年7月17日 翻訳)


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