波をなす人垣の写真が示すように、その死を深く悼んだのは彼の支持者ばかりではなかった。
ラマッラーの葬儀にかけつけた10万人を超える人々の中には、彼の政治方針に程度の差はあれ反対の立場をとってきた人々も多かった。
彼独特の「la-am」(yes−no)政治をきっぱり否定した者たちでさえも、住民全体が共有する喪失感と悲しみをわかち合っていた。
アラファトは単なるリーダー以上のものだった。 彼がパレスチナを象徴する非凡な人物であったことは疑問の余地がなく、それに代わるような存在は当分のあいだ現れないだろう。
よくあるようなシンボル崇拝だけでなく、アラファトにはパレスチナ人の大多数の心に敬愛をこめて刻み込まれる今ひとつの特質があった──彼は政治的な基準点の役割を担っていたのだ。 アラファトのやったことは、解放と正義を達成するための計画に結びついていると見なされることが、そうでないときよりも多かった。 人々は彼の戦術を冗談の種にし、時にはあざ笑いさえした。それでも彼は、多様なパレスチナ人の政党のあいだで最底辺に横たわる共通因子だったのだ。 彼はふつうの人の状況分析に一番近いような存在だった──情緒的で、かならずしも合理的ではなく、自治という誇張だが一般受けのする感覚におぼれている。 あるパレスチナ難民が、こんなふうに表現したことがある──「彼はぼくらと同じように話す。僕らにはまるで意味のないむつかしい言葉は、使わない。 彼はほんとうにぼくらの仲間だ。」
そうして、ほんとうに基準点になった者には、自分のポジションを思うままに変えることが許される。
多少のところは。 だからこそ、アラファトだけが、自信満々のイスラエルの指導者たち(その中には戦争犯罪人として告発されている者たちもいる)と握手を交わし、仮の取り決めにも及ばぬようなものに署名することができたのだ──さほどひどく裏切りを非難されることもなく。
彼はつねに、民衆のあいだで「疑わしきは罰せず」の特典を享受していた。 まさにそれこそが、なぜヤセル・アラファトだけが、無数の和平提案で言及されてきた二国家解決案というものを提唱できたのかを説明する。
そのような解決は、そもそもが、パレスチナ人にとっては必要な最低限の正義にも遠くおよばないものだ。
有効期限が過ぎてしまったということは別にして、それはそもそもが決して道義的な解決ではなかったのだ。
最善のシナリオとして、国連決議242がきめ細かく正確に実行されたとしよう。それによって実現するのは、パレスチナ人の3分の1にも満たない人々の、先祖伝来の土地の5分の1未満の領土における正当な権利の回復だけにすぎない。
パレスチナ人の3分の2以上は、難民とイスラエル市民になったパレスチナ人だ。この人たちは、この解決の実現とひきかえに、パレスチナ人という定義からあいまいで近視眼的なやりかたで抹消されている。
そのような排除は対立の永続化を保証するだけだ。
だがそんなものでさえも、誰からも提唱されなかった。 イスラエルは、合衆国の断固とした全面的支持を受けて、パレスチナ人の領土のバンツースタン化を主張し、ユダヤ人植民地を夢中で拡大し、ナクバ(1948年の追放という大惨事)に対する責任を頑固に否定し、それに伴ってパレスチナ難民の帰還権も否定し、そればかりかガザ回廊と西岸(東エルサレムを含む)を国際法で明記された占領地として認めることさえ拒絶してきた。 イスラエルが要求したものは降伏だった。 そこから一歩もゆずるものではない。 アラファトには、それに署名する用意はなかった。それゆえ彼はひどく罰せられた。 彼は、降伏の拒絶という忘れがたい遺産を残して死んでいった。 それゆえ、大勢の取り乱したパレスチナ人たちが、かれに別れを告げようと、偽りのない感情をほとばしらせるのだ。 「彼は降伏より死を選んだ」と多くの人々が嘆いた。
今後だれがアラファトに取って代わるにしても、ぼろぼろに叩かれ、貧窮化しながらも、なお決意の固い住民たちが示す寛容度は、ずっと低いものになるだろう。本質的に、その後継者はアラファトだけが持つ歴史的な影響力に欠けるだろう。政治的な支持もアラファトほどは集まらず、大衆の支持ではもっと見劣りするだろう。アラファトの妥協と同程度のものを推進しようとしてさえ大衆の激憤を買う可能性は高く、ましてやイスラエルにもっと譲歩するという、イスラエルとアメリカから相手にされるための必要条件を満たすような提案をすれば、なおさらであろう。 そんな勇気のある者がいるだろうか?
アラファトの死についての妄想的な至福感から覚めたとき、イスラエルは自分勝手な和平をパレスチナ人におしつける最後の機会を失ったことを悟るだろう。 信頼する指導者が、もっと遠大な成功を実現するための踏み台として利用するのだという希望をもって、どんな合意も受け入れようという態度はもはやなく、いまやパレスチナ人は正義を伴わない和平はどのようなものであっても、ありのままに受け止めるだろう──すなわち、道徳的に許しがたく、政治的にも受け入れ難いものだ。 従って、それはまたプラグマティックに見ても賢明ではない。 そのような和平も、しばらくのあいだは持ちこたえるかもしれない。ただし、それは本質を剥奪され、単なる抑圧的な秩序の安定化になってしまったときの話だ。それをわたしは主人と奴隷の和平と呼ぶ。奴隷は抵抗する力や意志がないため、主人の命令に、無抵抗で、従順に、人間の尊厳性のかけらもなく、服従する。
奴隷が抵抗する力や意志を持たない限り、それは継続する。 だが、その時がくるまでの話だ。
アラファトの埋葬とともに、二国家解決も終わりを迎える。 このニュースをあえて伝えようとする者はいないだろう。それを認めれば失うものが多すぎるという人たちがあまりに多いからだ。
けれども、早晩イスラエルが悟らなければならないのは、ますます多くのパレスチナ人が、イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人が平等の権利と義務を分かちあう、民主的な一元的国家の樹立を要求するようになるということだ。そこにいたるには植民地支配の抑圧や、エスニックな優位性とアパルトヘイトが撤廃され、難民たちの帰還が認められなければならない。
南アフリカが一つの手引きになるとすれば、そのような闘いは武力による抵抗を排除し、それに代えて非暴力的な手段を優先させなければならない。
そのような要求に対し、イスラエルは世界を舞台にどのように対抗し始めるのだろうか。
ユダヤ人の民族的・宗教的な独占的権利を主張することは、世界の世論において、時代錯誤のパーリア国家、新形式のアパルトヘイトというイスラエルのイメージを一段と定着させることになるだろう。
ホロコーストの記憶を呼び起こすことは、この民主的な代案をイスラエルが真剣に考慮するのをはぐらかすのにしばしのあいだ役立つであろう。だが、この紛争地域に永続的で公正な平和をもたらすことを望む多くの党派からの圧力によって、いずれは降参することになる。
パレスチナ人は、アラファトが舞台から消えた後、移行期の混沌、どっちつかずの状態、おそらくは内部抗争が自分たちに降りかかってくると気づいている。だが陣痛なくして誕生はありえない。 それらは次の時代の最初の兆候となるのだろう──歴史的にパレスチナと呼ばれた地域に一つの民主的な世俗国家を打ち立てるための闘いが始まる。
----------------------------
オマール・バルグーティはパレスチナに本拠地を置く政治アナリスト。
|