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ジョゼフ・マサド: 「最後のユダヤ系知識人」 |
アリ・シャヴィト:なんだか、ユダヤ人のようなおっしゃりようですね。もちろんですとも。わたしは最後のユダヤ系知識人なのですから。いったい他に誰がいますか?アモス・オズからアメリカのユダヤ系知識人まで、だれもかれも今ではみな視野の狭い地方名士になってしまった。残っているのは、わたしだけ。アドルノを真に継承しているのは、わたしだけです。こう言ってもいいでしょう──わたしは、ユダヤ系パレスチナ人なのです。My Right of Return: An Interview with Edward Said by Ari Shavit, Ha'aretz magazine 18 Aug 2000 |
このエドワードのコメントは非常に鋭いものだと思います。エドワードはヨーロッパのユダヤ人の歴史に大きな共感を覚え、一体感を持っていたと思います。彼らはヨーロッパ社会の一部でありながら、完全には一体化していない存在であったために、ヨーロッパ社会を内部から批判することができました。圧倒的に優勢なヨーロッパのキリスト教社会からは拒絶されていましたが、それでもヨーロッパ社会の一員だったのです。 ヨーロッパのキリスト教社会に対して重要な批評を提供するという伝統的なユダヤ人の役割に、サイードは強く自己同一化していました。アメリカに長く住むアラブ人として、またパレスチナ人として、サイードはアメリカの支配的な観念を抑圧的で非民主的なものとみなし、それに対する批評と批判を提示することに常に関心をもっていたからです。その点については、アメリカの欠点を指摘するだけでなく、ヨーロッパの欠点やアラブの欠点の指摘についても同じように振舞っていました。そういう意味で、彼はユダヤ系知識人が伝統的にはたしてきた役割と同じものを自分がはたしていると感じていました。 でもそうしたユダヤ的な伝統は、シオニズムによって終わりを告げました。シオニズムがイスラエル国家建設プロジェクトへの無批判な支持をかき集めるため、重要なユダヤ的伝統である批評精神を葬り去ろうとした事実をサイードは嘆きました。この悲嘆は深いものでした。彼をひどく悲しませたのは、ユダヤ系知識人の多くが、パレスチナ側に立って戦い、アメリカの政策を批判すると同時にシオニズムやイスラエルも批判してくれるだろうという彼の期待を裏切ったことでした。ユダヤ系社会の中からこのような批判者が出てくることはほとんどありませんでした。 もちろん、イスラエルに批判的なユダヤ系の知識人がいないわけではありません。ノーム・チョムスキーの名前がまっさきに心に浮かぶでしょう。でもアメリカの主要なユダヤ系知識人はおおむねイスラエルを批判することを控えます。実際、彼らの多くはパレスチナ人に対するイスラエルの政策を褒め称え、擁護しているのです。 このコメントによってサイードが言おうとしていることには、もうひとつ別の側面もあると思います。たぶん、彼の著書『オリエンタリズム』や『パレスチナ問題』に遡るものです。オリエンタリズム、即ちアラブに対するヨーロッパ人の人種偏見は、ヨーロッパの伝統的な反ユダヤ主義(アンティセミティズム)が染み込んだところが大きいと、彼は感じていたのです。 ユダヤ人がヨーロッパ人として受けいれられ、同等のヨーロッパ市民であるとみなされるようになると、反ユダヤ主義者がつくりあげたユダヤ人のイメージは、アラブ人に移し換えられることになりました。今やアラブ人が、従来はユダヤ人の属性として反ユダヤ主義者が挙げてきたものの多くを引き受けさせられている。だから『オリエンタリズム』の有名な一節でサイードはこう言っています──「そこでアラブ人はユダヤ人につきまとう影となったのだ。」 その後、彼はこの解釈を発展させ、シオニズムには実は反ユダヤ主義的な起源があることを示そうと努力しました。ディアスポラ的なユダヤ人のありかたは危険で容認できないものであり、断ち切る必要があるという考えを、シオニズムは反ユダヤ主義と共有しているのです。ユダヤ人は国を持たなければ生き残れないとシオニズムは唱えますが、実際にはもちろん、ユダヤ教は数千年も前にディアスポラがはじまってからずっとディアスポラの中で生き残ってきたのであり、今後もそうでしょう。 その意味で、シオニズムはそれがユダヤ人に求めたアイデンティティを多くの点で受け入れていると、彼は感じていました。それはヨーロッパのキリスト教徒のアイデンティティであり、ユダヤ教徒のアイデンティティではなかったのです。イスラエルはユダヤ的な伝統を引き継いではおらず、それを新たな伝統に置き換えたのです。ディアスポラのユダヤ人の言語は抹消されました。イディッシュ語も、アラビア語も、ラディノ語も。それに代わって世俗的なヘブライ語が、それを使ったことのない新たなユダヤ系入植者のために発明されました。 事実、イスラエルの文化の大部分はヨーロッパの世俗的な非ユダヤ文化であり、かつての欧州ユダヤ人のシュテトル(東欧のユダヤ人村)文化とはあまり関係がない。この意味で、シオニズムはヨーロッパのオリエンタリズムと人種差別主義の大半を信奉していたのだと思います。そしてヨーロッパ的オリエンタリズムの場合と同様、自らのうちに取り込んだ反ユダヤ主義の大半をパレスチナ人に対するものに転移させ、いろいろな面でパレスチナ人をユダヤ人に変身させたのです。 ときには文字通りにそれが行なわれました。パレスチナ人を追放するメカニズム──土地を持った住民を追い立てて、国なき民、土地なき民にして、いわば「さまよえるユダヤ」をつくりだすしくみが、かつてイスラエルがパレスチナ人を「ユダヤ人」に変えてしまったからくりの一端を担っていました。ディアスポラによってであれ、イスラエルがつくったバンツースタンやゲットーに押し込まれてであれ、パレスチナ人がユダヤ人にされてしまった以上、パレスチナの知識人であり、その世界の産物であるサイードは、構造的にみて自分自身をユダヤ系知識人であるととらえたのです。 サイードが自身を「最後のユダヤ系知識人」と呼んだことの意味として考えられる第三のものは、たぶんパレスチナの歴史の問題と、現代のパレスチナと古代のパレスチナにおけるヘブライ人の歴史との関係です。この意味では、隣国のエジプト人は古代エジプト人と古代エジプト王朝の遺産相続権を主張し、イラク人はバビロニア人やシュメール人の子孫であると主張し、ヨルダン人はナバテア人の子孫、レバノン人はフェニキア人の子孫であると主張しているのと同じなのですが、パレスチナ人の場合はこの土地に住んでいたヘブライ人の祖先も自分たちの先祖の歴史の一部であると主張することをシオニズムによって阻止されているのです。 ですからパレスチナ人は古代ヘブライ人の子孫であるとみることは簡単ですし、直系の子孫であると私は思っています。パレスチナの地に残ったユダヤ人に限って言えば、彼らはある時点でキリスト教に改宗し、一部はその後イスラムに改宗して、今日のパレスチナの住民の一部となりました。ベングリオンその人が1918年に、今日のパレスチナの農民は古代ヘブライ人の子孫だろうと推論しています。 こういう話をしたからといって、別にわたしは遺伝理論の信者ではないし、現代の住民の起源をたどって無垢の起源をみつけようとしているわけでもありません。でもシオニズムがおぼれているのはそういう類のものです。19世紀後半ヨーロッパの現代ユダヤ人が、摩訶不思議なことに古代パレスチナのヘブライ人の直系の子孫であると主張しているのですから。そういう意味で、たぶんサイードは、シオニズムが欧州ユダヤ人のものだと主張したがっているこの種の生物学的な、人種理論=遺伝学的な出自についても、疑問を投げかけていたと考えることもできるでしょう。 この地域をもっと一般的な目で見て、エジプトのナショナリズム、ヨルダンのナショナリズム、イラクのナショナリズムがしていることに倣うとするならば、パレスチナ人は容易に自分たちを古代ヘブライ人の子孫とみなすことができるでしょう(実際そうみている人たちも多いのです)。でもサイードが望んだのは、イスラエルの植民地構想に抵抗するためにパレスチナの住民の由緒正しさを主張することではありませんでした。彼が望んだのは・・・ もしもパレスチナ人がシオニストの先祖ゲームに乗って勝負するとすれば、彼らの主張のほうがずっと強いでしょう。彼らはほんとうに二〇世紀に残った「本物のユダヤ人」なのです。この議論が成り立つかぎりでは──たとえシオニストの主張に反論するためだけだったとしても──パレスチナ人は、実際に、最後のユダヤ人ということになるでしょう。出自から見ても、またエドワードが言おうとしたように、彼らが権利も土地もない無国籍者として住みついている社会の支配的イデオロギーに対して批判的な立場を取っているという意味においても、そうなのです。 コロンビア大学の中東アジア言語文化学科の教員で現代中東政治および思想史を担当するジョゼフ・マサドはパレスチナの出身。かつてサイードに学び、後には同僚かつ友人となった人物です。ここにとりあげた部分からわかるように、切れ味のよい大胆な議論をする人ですが、それがわざわいしてかキャンパスにおけるシオニストのイスラエル擁護運動によって(サイードという避雷針がなくなった後ではラシード・ハリーディと並んで)格好の攻撃対象にされているようです。この問題については時間があればもうすこし詳しく紹介したいと思いますが、昨年末から今年春にかけて盛り上がったコロンビア大学の「偏向教育」を非難するキャンペーンで、まるで反ユダヤ主義anti-Semitismの権化のように言い立てられ、辞任を要求する声があがっていました。「反ユダヤ主義」の汚名を着せて言論を圧殺するという、まさにバリバールたちが論集を組む動機となった現象の典型といってよい事件でした。佐藤真監督の『アウト・オブ・プレイス』では、エドワード・サイードの記憶と痕跡をたどる中東各地とアメリカのロケの中で、たくさんのインタヴューが行なわれました。家族や友人、同僚、活動家、音楽家など、じつにさまざまな人々が、各人の立場を通じたサイードとのかかわり、彼の人柄や思想について語っています。映画のなかでは、ほんの短いシーンでしか登場しませんが、故人と特につき合いの深かったこの人たちとのインタヴューはそれぞれに内容が濃くてとても興味深いものです。いずれ編集して読んでいただけるようにしたいと思っていますが、今回はちょうどバリバールの文章をいただいたので、それとテーマの重なる部分を少しだけ紹介しておきます。 |
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