フランスにおける「反セム主義」を巡るある種の傾向――訳者解題ここに訳出したのはEtienne Balibar, ≪ Un nouvel antisemitisme? ≫, in Collectif, Antisemitisme : l’intolerable chantage, Israel-Palestine, une affaire francaise ?, La Decouverte, 2003, pp. 89-96である。この『反セム主義という許されざる恐喝』という表題が付された論文集は、その「序文」にも述べられているように、とりわけ、アリエル・シャロンによる挑発を契機として、二〇〇〇年にパレスチナの地で引き起こされた第二次インティファーダ(アル‐アクサ・インティファーダ)以後にフランスにおいて顕著な、「ある種の傾向」に対してなされた応答である。つまりそれは、イスラエルに対する批判が「反ユダヤ主義=反セム主義antisemitisme」として、批判そのものが封じ込められてしまうような回路に対して、ということである。これは決して偶然のなせるわざではない。「フランス・ユダヤ人機関代表者評議会(CRIF)」議長ロジェ・クキエルマンによる(耳を疑うような)次の発言は、そうした回路が必然的であることの一因を指し示しているように思える。「シャロンがフランスを来訪したとき、わたしは彼にこう告げたのです、ゲッペルスのような宣伝大臣のポストを絶対に置くべきであると。」(一)こうしたフランスの文脈のもとに――とはいえ執筆者の一人である哲学者ジュディス・バトラーも報告しているように、この種の宣伝活動はアメリカ合州国においても共通している――、それに抗うべく、出版人やジャーナリスト、研究者たちによる九つの論考が――ただし「国境なき医師団」元総裁であるロニー・ブローマンのものは対談というかたちで――ここに収められているのである。 その中でも哲学者エチエンヌ・バリバールによる論考「新たな反セム主義?」は、他の著者たちの、どちらかといえば実証的、経験的な報告に比べて、やや趣を異にするものとなっている。彼はもっと根源的なところにまでその考察を赴かせているからだ。だがそれに触れる前に、日本語という環境においては多くの場合「反ユダヤ主義」という意味に還元され翻訳され流通している、このやや耳慣れない「反セム主義antisemitisme, anti-Semitism」という言葉について、中東研究者である杉田英明がきわめて有益なかたちでまとめているものをここに引用しておきたい。 「反セム主義anti-Semitism――ユダヤ人を差別・排斥しようとする思想。古来、キリスト教はユダヤ教からの乖離を図り、自らを『異邦人(非ユダヤ人)』の宗教と位置づけるために、人間をユダヤ人・非ユダヤ人に二分する思考法を広めた。これが、ヨーロッパの歴史を還流する反ユダヤ主義anti-Judaismの源流となる。十九世紀後半、ユダヤ人を生物学的『人種』概念で捉える見方が一般化し、さらに言語学上の『セム語族』『アーリア語族』の分類が『人種』概念に転換されるようになると、ヨーロッパ人の身近に存在する『ユダヤ人』は『セム族』の代名詞と化し、反ユダヤ主義は反セム主義という言葉に置き換えられていった。反セム主義という言葉自体は一八七九年、ヴィルヘルム・マールというジャーナリストの用例が初出とされる。現代でも、パレスチナ人の視点からするイスラエル国家批判は、欧米ではすべて『反セム主義』の名のもとに断罪される傾向にある。」(二) おそらくバリバールが「新たな反セム主義?」の中でエドワード・サイードにある地点まで参照を求めているのは、『オリエンタリズム』の中に、この「反セム主義」の「反ユダヤ主義」への還元を所与のものとしてはいない思考を認めたからであろう(よって本翻訳では、あえて《antisemitisme》を「反セム主義」という訳語で通した)。バリバールの言葉を用いれば、それがサイードによるユダヤ‐アラブ間の「類比的推論raisonnement analogique」なのである。ただしバリバールはそこからさらに一歩踏み出し、彼自身「複合観念complexe」というものを提示している。それは、そこから出発しなければ「ユダヤ恐怖症」や「アラブ恐怖症」の対称性という類比的推論さえもが困難となるような「何か」なのである(三)。ただし、これは単に抽象的な次元でとり行われている思考の操作というわけではない。彼はユダヤ‐キリスト教という系譜を自明なものとするのではなく、むしろユダヤ‐アラブ相互の近接性を強調することで、問題を別様な角度から照射し、そこに介入すべく努めているのである。 こうした試みを念頭に置くならば、バリバールが『ル・モンド・ディプロマティーク』に発表した「パレスチナの大義の普遍性」(第六〇二号、二〇〇四年五月)は、「新たな反セム主義?」とともに読まれるべきものだということが理解できるのである。「オリエントと西洋という二つの敵対陣営が世界規模で戦っており、イスラエル‐パレスチナ紛争もその一面にすぎず、どちらかの陣営の全面的『勝利』のあおりでしか解決されないという認識が定着している。主導権を取り上げられたドラマの当事者たちは、ミメーシス的な『対抗テロリズム』をひたすら繰り返すばかりである。」(四)現状をこう分析する彼はただ単に、「パレスチナの大義」を「普遍性」を有するものとして支持しているばかりではない。すでに両者の諍いはグローバル化した世界において、彼ら自身の手を離れ、「世界規模の暴力の経済」に捕えられているからだ。だからおそらくは「新たな反セム主義?」で提出したような視座の転換なくしては、パレスチナの地で起きている(非常)事態に向き合うことさえも不可能であり、したがって、どちらの陣営にとっても真の意味での解決はないと、バリバールは示唆しているように思える。ただしこうした所作は、ともするとイスラエルに対する平凡な妥協とも映りかねないだろう。しかしながらそうした表向きの印象とは異なり、彼は所与の条件のもとにぎりぎりのところで言葉を発しているのである。 だが早速このバリバールに対して――標的は彼一人というわけではないが――、まさに本論集成立の経緯を裏打ちするかのように、フランス・シオニスト知識人のうちの一人であるアラン・フィンケルクロートが、「人類愛という宗教に直面するユダヤ人」という文章で反論をとり行なうことになる(五)。この表題からも推察できるように、その中で彼は、「人類愛」や「人権」、「民主主義」といった「普遍性」の名のもとに、ユダヤ人の経験や歴史が蔑ろにされていると主張している。だがそれはシオニストという立場からの感覚的確信に基づく反発ではあっても、「反セム主義」に対する根本的な批判とはなりえてはいない。なぜならば、それはまさにバリバールが「新たな反セム主義?」の中で分析する「陰謀のシナリオ」を反復するものとなっているからである。フィンケルクロートは、ユダヤ人を陥れる陰謀をアラブとその支持者の側に見出して、満足(あるいは不満を表明)しているだけである。彼がその肩書通り「哲学者」であるとしても、少なくともここには、その名に値するだけの知的営みを認めることはできない。 「過去において、ユダヤ人を蔑視しつつイスラムを植民地化し、これを抑圧しようとする主張をヨーロッパ文化に提供したのは、ヨーロッパのキリスト教徒たるオリエンタリストであった。だが今日では、ユダヤ民族運動が植民地官僚集団を産み出し、彼らの奉ずるイスラム的・アラブ的精神に関するイデオロギー的テーゼが、イスラエルという白人=ヨーロッパ人デモクラシーの枠内での抑圧された少数者たるパレスチナのアラブを統治する道具として利用されているのである。」(六) すでにこう指摘していたのはサイードである。したがってフィンケルクロートに代表されるような態度は、まさに「反セム主義」たる「オリエンタリズム」を自らが内面化していることに由来するものなのだ。こうした立場に立つ彼は、当然のことながら、「わたしはユダヤ系パレスチナ人なのです」(七)とするサイードの発言の意味するところを、あるいはその可能性を、まったく理解できないでいる。いずれにせよ、ユダヤ人の経験に「普遍性」を帯びさせることにもなりうるバリバールからの招待は、残念ながらこのフィンケルクロートには届かなかったようである。むしろ彼はこの招待を自ら拒絶することで、「反セム主義」と闘うチャンスさえも取り逃してしまっているのである。 こうした現状は、バリバールが註で「歴史を画す」ものとして言及している『レ・タン・モデルヌ』の「イスラエル‐アラブ紛争」特集号(第二五三号別冊、一九六七年六月)で、たとえその歴史認識に不十分なところ――例えば、一九四八年の「ナクバ」はアラブの側に責任があるといった――が認められるにせよ、ともかくも判断材料とするために、イスラエル、アラブ双方の側の主張をともに提示しようとしたジャン‐ポール・サルトルの試みと比較すると、まさに隔世の感を否めない(八)。それは、すでにこの特集号の編集に携っており、来たるべき六月五日(第三次中東戦争)の予感を背景として次のように語るクロード・ランズマンについても当てはまることである。「本号は印刷にかけられていて、私は、少しばかりの行を除けば、何であれ付け加える可能性をもはや持ちあわせていない。しかしながら、一言。つまり、われわれの仕事は、平和のために奉仕するというただ一つの意味しか持っていなかった。」(九)彼は後にサルトルの死を受けて『レ・タン・モデルヌ』の編集長となり、『ショアー』(一九八五年)ばかりでなく『ツァハル』(一九九四年)をも監督することになる。それぞれ絶滅収容所とイスラエル軍を扱ったこの二つの映像作品により、彼はユダヤ人の経験を人類全体にとり普遍的な経験としえたチャンスを、あえて単純化してしまえば、シオニズムに回収してしまったのである(一〇)。 以上に示したわずかな事例を考慮しただけでも、この『反セム主義という許されざる恐喝』が取り囲まれている状況の困難さを想像できるだろうか。こうした文脈において、とりわけバリバールの論考を翻訳紹介する価値があると判断したのである。そしてそうした文脈を超えたところでも、この論考は、(「日本人」とも無縁ではない)「オリエンタリズム」を考察する機会をあらためて差し出すものとなっているのである。 最後に、上記『レ・タン・モデルヌ』の「イスラエル‐アラブ紛争」特集号には日本語の抄訳が存在することを指摘しておく。驚くべきことに、この翻訳出版はすでに一九六八年の時点でなされている。ジャン=ポール・サルトル編『アラブとイスラエル――紛争の根底にあるもの』(伊東守男他訳、サイマル出版会、一九六八年)がそれである。当然のことながら、訳者の一人である伊東守男が翻訳の経緯を述べている「訳者まえがき」のうちに、時代の制約を受けた認識を指摘するのは容易なことであるだろう。だがそれでも、このフランス文学者(あるいは翻訳家)が「世界」に触れようとしていたことは、たしかなように思えるのである。そうした彼の知的誠実さは、時代の空気がその新鮮さとともに封じ込められている次の文章のうちにうかがうことができる。 「今にも世界戦争を誘発しそうにみえた昨年の、いわゆるイスラエル危機――当時パリにいた私は、シャンゼリゼの大通りを、イスラエル国旗をかついだ男女の大デモが、『イスラエル万歳、平和万歳』と絶叫しながら行進して行ったとき、フェーズ帽をかぶったアラブの老人が、行列にぺっと唾を吐き、呪いの言葉を吐きかけたのを見た。 さらにアラブ人労働者が多い区域に行くと、一種異常な緊張があふれており、カルチェ・ラタンのカフェでも、学生が両派に分かれて、それこそつかみかからんばかりの勢いでやり合っていた。ふだんはそれと知らないでつきあっていた人が、自分からユダヤ人だと名のり、私を説得しようとしてくるのだ。そしてこんな熱っぽい雰囲気のなかで、サルトル編集の本書が出、あっという間にベストセラーズになったのである。 この書は私にとってひとつのショックだった。そこにはどんな創作品ももちえない強烈な緊張と、焼けつくような憎悪がみちみちているのだ。そして読めば読むほど、問題の解決の難しさを思い知らされるのであった。」(一一) 少なくともここには、(西洋の)「オリエンタリズム」を内面化している日本人の価値判断を認めることはできない(「アラブ人が多い地域は治安が悪い」、「イスラム教は本質的に女性差別の宗教」等々)(一二)。この点でも、まさに隔世の感を否めない。おそらくは「文化」に携わる者には、その紹介の仕方さえもが問われているのだと、今回の翻訳を機として、いまさらながらに強く感じられた次第である。 二〇〇五年夏、パリ一一区にて 丸山真幸 追記:この場を借りて、翻訳を快諾して下さったバリバール氏ご本人と、主に日本語文献の便宜を図ってくれた東京、パリの友人たちに、記して感謝したいと思います。 註 (一)Ha’aretz du 26 septembre 2001, cite dans Antisemitisme : l’intolerable chantage, p. 7. (二)エドワード・W・サイード『パレスチナ問題』、杉田英明訳、みすず書房、二〇〇三年、七六頁、訳注五。 (三)だがサイードの方でもこれに気づいていたのではないだろうか。一九八五年発表の文章で次のように述べているからである。「近代のキリスト教的西洋におけるイスラムへの敵意は、歴史的に反セム主義と手を携えて同一の源泉から派生し、反セム主義と同じ潮流のなかではぐくまれてきた。」(サイード「オリエンタリズム再考」、『オリエンタリズム下』所収、今沢紀子他訳、平凡社ライブラリー、一九九三年、三一四頁。) (四)Etienne Balibar, ≪ Universalite de la cause
palestinienne ≫, Le Monde
diplomatique, N°602, mai 2004. 引用箇所は阿部幸訳(http://www.diplo.jp/articles04/0405-6.html)を軽度に変更させていただいた。 (五)Alain Finkielkraut, ≪ Les Juifs face a la religion
de l’humanite ≫, Le Debat, N°131,
septembre-octobre 2004, Gallimard, pp. 13-19. (六)前掲「オリエンタリズム再考」、三一五頁。 (七)これは『オリエンタリズム』フランス語版「序文」執筆者でもあるツヴェタン・トドロヴが、サイード追悼文(Tzvetan Todorov, ≪ Portrait partial d’Edward
Said ≫, Esprit, mai 2004, pp. 25-39.)の中で引用している言葉である(つまりフィンケルクロートはここから引用している)。サイードのインタヴュー全体は次のアドレスから読むことが可能。http://www.one-state.org/articles/2000/shavit.htm (八)とはいえ、サルトルの経歴全体を通したパレスチナおよびイスラエルに対する態度はそれほど単純なものではなく、よって別途論ずる必要があるが、差し当たりは次のものを参照。Jonathan Judaken, ≪ Sartre, Israel et la
politique de l’intellectuel ≫, in Collectif, Sartre et les juifs, La Decouverte, 2005, pp. 213-223 ; David
Drake, ≪ Sartre, le gauchisme et le conflit israelo-arabe ≫, Ibid., pp. 225-233. また彼に対するアラブ知識人の側からの印象は次のサイードの文章にうかがえる。Edward W. Said, “My
Encounter with Sartre”, London Review of
Books, No. 11, 1 June 2000 (http://www.lrb.co.uk/v22/n11/said01_.html). (九)Claude Lanzmann, ≪ Presentation ≫, Les Temps moderne, N°253 bis, juin 1967,
p. 16. 訳文は次の論文中に引用されているものを使用させていただいた。ピエール・ヴィダル‐ナケ「特集号〈イスラエル・アラブ紛争〉を読み返して」、石田靖夫訳、クロード・ランズマン編『レ・タン・モデルヌ五〇周年記念号』所収、緑風出版、一九九八年、一八九‐二一五頁。 (一〇)昨今の『レ・タン・モデルヌ』を中心として、この「ある種の傾向」を有する論考をいくつも発表しているエリック・マルティの活動に関しては、ここで分析することはできなかった。Cf. Eric Marty, Bref sejour a Jerusalem, Gallimard, 2003 ; ≪ Mahmoud
Darwich et le deshonneur des poetes ≫, Les
Temps moderne, N°629, novembre 2004-fevrier 2005, pp. 298-300. なおシス・ヨルダン(パレスチナ)に建設されている「人種隔離壁」に反対するバリバールらによる声明に対しても、イスラエルを「自由の国」であるとする彼は、それは「人権」ではなく「安全」の問題にすぎないと反論している。Cf. Etienne Balibar et Henri Korn, ≪ Il faut
abattre le mur de l’apartheid en Palestine ≫, Le Monde du 9 aout 2003 ; Eric Marty, ≪ Israel, le mur et les
Palestiniens ≫, Le Monde du 13
aout 2003. スイユ出版から刊行の『ロラン・バルト全集』の編者としても知られ、現在パリ第七大学でフランス文学を講じているマルティのこうした活動は、日本という文脈においては、もっと知られていてもよい事実であるように思える。 (一一)伊東守男「訳者まえがき」、ジャン=ポール・サルトル編『アラブとイスラエル――紛争の根底にあるもの』所収、サイマル出版会、一九六八年、一頁。 (一二)一つの例として、詩人である関口涼子が自らのアフガニスタン滞在を記した次の文章は、この「内面化されたオリエンタリズム」の陥穽を免れていないのかどうか、検討する必要があるように思える。関口涼子「ヴェール」、『未来』、第四四〇号、未來社、二〇〇三年五月、一三‐一七頁。これの一部はフランス語でも発表されている。つまり効果として、それはフランスのイスラム恐怖症を助長することにも奉仕していないのかどうか、これもまた検討の対象となろう。Ryoko Sekiguchi, ≪ La Nudite recule ≫,
L’Animal, N°14/15, ete 2003, pp.
21-23. なお「ヴェール」を口実とした先進国の「フェミニスト」による第三世界の女性の利用については、フランスの「ライシテlaicite」(非宗教性、政教分離原理)に関する次の論考の中でバリバールが触れている。Etienne Balibar, ≪ Dissonances dans la
laicite ≫, Mouvements, N°33/34,
mai-juin-julliet-aout 2004, La Decouverte, pp. 148-161. |
|
|
(=^o^=)/ 連絡先: /Posted on: 26 Aug、058