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オスロ和平プロセスの経緯について、簡単にまとめてみました。
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オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)のあゆみ Oslo Agreement and After 『戦争とプロパガンダ 2』 より |
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オスロ合意とは1993年9月、イスラエルがはじめてパレスチナ解放機構(PLO)をパレスチナを代表する交渉当事者と認めて和平にむけた枠組みを直接交渉で取り決めたもので、@イスラエルとPLOの相互承認の交換書簡と、Aイスラエルが占領する地域に5年間のパレスチナ暫定自治期間をもうけ、そのあいだに最終的な返還条件を決める交渉を行なうという「暫定自治の取り決めについての原則宣言」からなる。 交換書簡では、アラファートPLO議長がイスラエルの生存権を認め、テロ戦術を放棄して平和的な紛争解決をめざすことを表明し、ラビン・イスラエル首相はPLOをパレスチナ人の正式代表として認め、交渉を開始する意思を表明した。「原則宣言」では「5年を超えない移行期間のあいだに、ヨルダン川西岸地区とガザに暫定自治政府をつくり、国連安保理決議242および338(イスラエルの占領地からの全面撤退を要求)に基づく恒久解決に至る」とうたっている。 具体的なスケジュールとしては、@イスラエル軍は暫時撤退し、A西岸・ガザでパレスチナ自治政府の首長と評議会(議会)議員を選出、B暫定自治開始から3年以内にパレスチナの将来にかかわる重要問題(エルサレムの帰属、難民の帰還権、入植地の将来、国境など)を解決する最終地位交渉を開始し、自治開始後5年をめどに両者が歴史的和解を達成する、とされていた。 しかし1995.11のラビン暗殺でその実施は危うくなった。そもそも、オスロ合意はイスラエル労働党が米民主党とともに進めたもので、パレスチナ人との共存がうたい文句であった(それが真に共存をめざすものであったかどうかは、また別の問題である)。しかしイスラエルの右派は占領地も含め歴史的にパレスチナと呼ばれた地域のすべてを「イスラエルの土地」とみなしており、占領地(48年の国連分割案よりは狭いものの、現在ではパレスチナ人の土地として国際社会に承認されている西岸地区とガザ)からもパレスチナ人を追放することを公然と主張している 96年の総選挙で右派リクードが労働党を破りネタニヤフ内閣が成立するとオスロ・プロセスは暗礁にのり上げた。不毛な3年間を経て99年5月にエフード・バラクの率いる労働党が政権に復帰すると、滞っていた和平交渉をふたたび活性化させようという動きが始まった(シャルム・エッシェイク合意)。78年にエジプトとの単独講和を結んだベギンやオスロ合意を結んだラビンの後継者をもって任ずるバラクは、パレスチナ人との最終和平合意を結ぼうという野心を持っていたが、彼が提案した内容はパレスチナが真に国家として独立するにはほど遠く、アラファート自治政府の承認をとりつけることはできなかった。 そうするうちに、イスラエルの抑圧的な占領政策の加速によってパレスチナ自治区の貧困化が進み、解決の糸口が見えない占領状態の継続にパレスチナ住民の不満が募っていった。2000年9月のアル=アクサ・インティファーダと翌年2月のシャロン政権の誕生によって、オスロ和平プロセスは完全に崩壊した。 ここに至るまでの諸合意を以下に簡単に整理しておく。 1994.5「ガザ・エリコ先行自治協定」(カイロ合意)により、西岸地区のエリコとガザ地区からイスラエル軍が撤退し、先行自治が開始された。アラファートPLO議長がガザに入り、パレスチナ自治政府が発足。 (1994.10 ヨルダンがイスラエルと講和を結ぶ) 1995.9 暫定自治拡大協定(タバ合意) 地図 ヘブロンを除くヨルダン川西岸のアラブ人居住区全域からのイスラエル軍の撤退と、一年以内の最終地位交渉の開始、暫定自治政府の選挙実施などを明記。この結果、パレスチナ自治政府の完全自治(エリアA)が西岸地区の7つの都市に拡大。それ以外の地域は、行政はパレスチナ側が行なうが治安はイスラエルと共同で管理する不完全自治区(エリアB)と、引き続きイスラエルが行政も治安も支配する地域(C地区)に分けられた。パレスチナ自治区の占領地全体に対する割合は、ガザ地区では80%、西岸地区ではエリアA(2.0%)とエリアB(26.0%)、全体では28%で、暫時拡大することになっていた。(数字の出所は中東和平財団) 1996.1 パレスチナ立法評議会(議会)と自治政府の首長(プレジデント)選挙がおこなわれ、自治政府の長にはヤーセル・アラファートが選出された。 1997.1ヘブロン協定 地図 ヘブロンが自治区に追加された。 同市のパレスチナ系住民のみが住む地域は完全自治区域(H1)となったが、ユダヤ系とパレスチナ系が住む地域はイスラエルの支配地区(H2)におかれるという、事実上の分割承認。 1998.11 ワイ合意 地図 ネタニヤフ首相とアラファートの最終地位交渉に向けた合意。イスラエル軍の西岸地区からの追加撤退などを定めたが、後にネタニヤフによって破棄された。西岸地区のパレスチナ自治区は不完全自治も含めて占領地の30%(エリアA 9.1%、エリアB 20.9%)に拡大。 1999.9シャルム・エッシェイク合意 地図 和平交渉の再活性化をめざしてエジプトのシャルム・エッシェイクで交わされた合意。2000年9月までに最終地位合意を達成することを目標にワイ合意の実施スケジュールを定めたが、結局は実現しなかった。西岸地区のパレスチナ自治区は、不完全自治もふくめて占領地の59%(エリアA 17.2%、エリアB23.8%)に拡大した。 2000.7 キャンプ・デーヴィッド交渉 任期終了直前のクリントン大統領が最後の調停を試みたが、最終地位の合意には至らなかった。この会議については、バラク・イスラエル首相が大幅な譲歩を提案したにもかかわらずアラファート議長が拒絶したかのように喧伝されたが、実際にはとてもパレスチナ側の受け入れられるような条件ではなかった。冒頭に掲げた地図(中東和平財団によるものだが、正式に発表された地図は存在しない)は、この会議の直前にバラク首相が提案した最終的なイスラエルの撤退案であるが、一見すれば自明のように自立国家が形成できるようなものではなく、「占領地の全面返還」を要求する国連決議とはかけはなれたものである。 以上のような経緯で、現実にパレスチナ人が完全自治を獲得しているのは西岸地区の17%、ガザの80%に過ぎず、最終地位交渉の実施も引き延ばされたままである。その間イスラエルは入植の拡大を継続したており、ピース・ナウの調査では、93年からの8年間で、占領地におけるユダヤ人入植戸数は62%増加した。2002年4月初めには、これらの自治区もイスラエル軍によって再占領された。 **** パレスチナに関連する重要な国際条約主要国連決議 l 総会決議181 (1947) 英国委任統治終了に際し、パレスチナをアラブとユダヤの二つの国に分割し、エルサレムは分離して国際管理の下に置くというパレスチナ分割案 l 総会決議194 (1948)イスラエル独立戦争によって65万人のパレスチナ難民が発生したことを受け、難民が帰還する権利を決議。 l 安保理決議242 (1967) 第三次中東戦争によりイスラエルはヨルダン川西岸、ガザ回廊、ゴラン高原、シナイ半島を占領し、エルサレムを併合。さらに60万人のパレスチナ人が難民化した。国連安全保障理事会はイスラエルの占領地からの撤退を求め、それと引き換えにアラブ諸国にはイスラエル国家の承認と和平を求める決議を行なった。 l 安保理決議338 (1973)第四次中東戦争を受けて、停戦要求と安保理決議242による和平の呼びかけを再確認安保理決議1322 (2000.9)デモに対するシャロンの過剰な武力行使に対し、安全保障理事会はジュネーブ第四条約の遵守を求めた。 その他の条約 l ジュネーヴ第四条約 (1949)戦時および占領下における民間人の保護を規定 l キャンプ・デーヴィッド条約(1978)カーター米大統領の仲介でエジプト大統領サダトとイスラエル首相ベギンのあいだに講和が成立し、イスラエルがシナイ半島を返還する見返りに、エジプトは周辺アラブ諸国のなかではじめてイスラエルを承認した。 |
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(=^o^=)/ 連絡先: /Posted on: 28/Nov/058