Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

事実上、アラブ国家システムにおける政府側の思考パターンは、合衆国をアラブ側の政策の核心にある関心事と位置づけ、もっぱらその観点からのみ考えるというものになっている。第一次湾岸戦争(まもなく第二次が起こるはずだ)と冷戦終結を経て、アメリカは存続する唯一の超大国となった。しかし、このことはアラブ側にラディカルな政策の見直しを促すどころか、さまざまなアラブ国家が個別に──というか二国間の関係として──合衆国を積極的に受けいれようとする方向に走らせた。だが合衆国の反応はといえば、それを当然のこととみなすようになっただけだった。アラブ首脳会議は、信頼に足る見解が表明される場というよりは、侮蔑と嘲笑の場に近くなってしまった。アラブ諸国の指導者たちが、アラブ世界全体はもとより、自分の国さえも代表しているとは言いがたいことは、じきにアメリカの政策当局に悟られてしまった。おまけに、さほど優れた洞察力がなくとも、アラブ指導者たちと合衆国のあいだに結ばれたさまざまな二国間協定は、合衆国にとってよりも彼らの政権の安泰にとってのほうがずっと重要だったということぐらいは指摘できる。つまらない嫉妬や敵愾心がアラブ人を無力化し、近代世界においてものの数に入る一勢力とはみなされなくなったというようなことは、それ以前の話である。そういうわけで、今日イスラエルの占領の惨状に苦しむパレスチナ人が、そのことでイスラエル人を非難するのと同程度に「アラブ人」を非難するのも無理のない話なのだ。 ・・・・・湾岸戦争後に出現したアラブ世界の新秩序は、合衆国とアラブ人のあいだの一方通行を制度化した──アラブ側が譲歩し、合衆国はますますイスラエルに譲歩する


一方通行
One-way street
Al Ahram Weekly 2002年7月11〜17日発行 No. 594

ジョージ・W・ブッシュが世界に向けて行なった中東に関する6月24日の演説は、もとよりすさまじく低級な彼の演説の規準に照らしても、ぎょっとするようなものだった。混乱した思考、実際に生きて生活している人間の現実世界にはなんら実質的な意味を持たぬ言葉、パレスチナ人への説教臭く人種差別的な敵対的勧告、イスラエルが戦争と平和に関する法規をことごとく踏みにじり侵略と征服を進めているという現実についての信じがたい、妄想に近い認識の欠如などのおぞましい組み合わせ。こうしたものが、神の特権を横取りした頑固で無教養な説教好きの審判者のうぬぼれきった口もとから発せられる。こんなものが、今やアメリカの外交政策に君臨しているのだ。しかも──このことはきっちり覚えておかねばならないが──これをやっているのは、事実上勝ってもいない選挙をごまかして大統領になった男であり、テキサス州知事時代の業績を見れば、最悪の汚染、ひどい汚職、投獄と死刑の比率は世界最高という記録が並んでいる人物だ。このように金と権力をやみくもに追い求める以外にはたいした才能もないような怪しげな資質の人物が、パレスチナ人に対し、戦争犯罪人シャロンのひどい仕打ちばかりか、ご本人の空疎な糾弾がもたらす悲惨な結果までも押しつける能力を持っているというわけだ。世界でいちばん金に弱い3人の政治家(パウェル国務長官、ラムズフェルド国防長官、ライス大統領補佐官)に両側を固められ、ブッシュは二流弁舌家のたどたどしい口調でスピーチを行ない、その結果としてシャロンが合衆国の支持する不法な軍事占領のなかで、さらに多くのパレスチナ人を殺傷することを許したのである。

ブッシュの演説には、自分が提唱していることについての歴史的認識がまったく欠けていたが、問題はそればかりではない。それによって危害を拡大させる可能性があまりにも大きいのだ。まるでシャロンに草稿を書かせたかのように、アメリカがテロリズムに抱く不釣合な強迫観念と、「イスラエルの地」へのユダヤ人の優先権とテロリズムという項目のもとにパレスチナ人の民族(nation)としての存在を抹殺しようとするシャロンの決意とが、そこでは合体していた。その他の点としては、ブッシュがいいかげんな譲歩をちらつかせる「暫定」パレスチナ国家(いったい何を意味するのやら、暫定妊娠と言うのと似たようなものかも知れぬ)や、ときおり思いつきで口にするパレスチナ人の生活苦の軽減についての発言なども、彼の新声明への幅広い(いわせてもらえば、こっけいにも)肯定的な反応をアラブの指導者たち(熱意にかけては、ヤセル・アラファトが群れのリーダーだ)から引き出せることを保証するものではなかったことが指摘される。

50年以上におよぶアラブやパレスチナ人の合衆国への取り組みは、ゴミ箱に投げ捨てられる結果になった。というのも、ブッシュと彼の助言者たちが、自分たちはテロリズムを根絶する天命を授かったのだということを、みずからと選挙民の多数に納得させようとしたからであり、そこでのテロリズムとは、本質的にイスラエルに敵対するものすべてに他ならないからだ。この50年をざっと振り返ってみれば、アラブ側が反抗姿勢をとろうが従順姿勢をとろうが、合衆国が中東での自国の利益とみなすものには何の影響も与えなかったということはきわめて明白だ。合衆国は引き続き、迅速で安価な石油供給とイスラエルの保護を中東支配の二本の柱と考えている。


アブデル・ナセル[エジプト初代大統領 1956〜70年]からバシャール[アル・アサド、シリア大統領 2000年〜]、アブドゥラー[ヨルダン国王 1999年〜]、ムバラク[エジプト大統領 1981年〜]に至るまでのあいだに、アラブ側の政策は180度の方向転換を経験した。結果はどこも似たりよったりである。はじめにあったのは、独立直後時期の反抗的なアラブの団結である。バンドン会議やナセル主義の反帝国主義・反冷戦の思想に影響されたものだった。だがそれは、1967年に壊滅的な終焉を迎えた。

その後、サダト率いるエジプトを筆頭に方向転換が起こり、結果として99パーセントのカードを合衆国が握るという完全に誤った規定のもとに、合衆国とアラブの協調がもたらされた。アラブ内部の相互協力の名残も、1973年の戦争と石油禁輸措置[注1]をピークに次第にしぼんでいき、さまざまなアラブ国家同士が抗争するアラブ冷戦の時代が到来した。クウェートやレバノンのように、ときには弱小国家が戦場になったこともあった。とはいえ、事実上、アラブ国家システムにおける政府側の思考パターンは、合衆国をアラブ側の政策の核心にある関心事と位置づけ、もっぱらその観点からのみ考えるというものになっている。第一次湾岸戦争(まもなく第二次が起こるはずだ)と冷戦終結を経て、アメリカは存続する唯一の超大国となった。しかし、このことはアラブ側にラディカルな政策の見直しを促すどころか、さまざまなアラブ国家が個別に──というか二国間の関係として──合衆国を積極的に受けいれようとする方向に走らせた。だが合衆国の反応はといえば、それを当然のこととみなすようになっただけだった。アラブ首脳会議は、信頼に足る見解が表明される場というよりは、侮蔑と嘲笑の場に近くなってしまった。アラブ諸国の指導者たちが、アラブ世界全体はもとより、自分の国さえも代表しているとは言いがたいことは、じきにアメリカの政策当局に悟られてしまった。おまけに、さほど優れた洞察力がなくとも、アラブ指導者たちと合衆国のあいだに結ばれたさまざまな二国間協定は、合衆国にとってよりも彼らの政権の安泰にとってのほうがずっと重要だったということぐらいは指摘できる。つまらない嫉妬や敵愾心がアラブ人を無力化し、近代世界においてものの数に入る一勢力とはみなされなくなったというようなことは、それ以前の話である。そういうわけで、今日イスラエルの占領の惨状に苦しむパレスチナ人が、そのことでイスラエル人を非難するのと同程度に「アラブ人」を非難するのも無理のない話なのだ。

1980年代初期までには、アラブ世界のあらゆる部分において、アメリカの歓心を買う手段としてイスラエルとの和平に踏み切るという用意がじゅうぶんに整っていた。例えば、1982年のフェズ提案は、イスラエルがすべての占領地から撤退することと引き換えに講和を結ぶ用意があると明記していた。2002年3月のアラブ首脳会議は、同じシーンの再演だった──ただし、このたびは茶番劇としてだが。結果もまた前回と同様で、ほとんど何の影響力ももたなかった。合衆国のパレスチナ政策が根本から切り替わり、悪い方に向かったのも、まさに20年前のあの時からであった。CIAのシニア・アナリスト経験者キャスリーン・クリスティソンKathleen Christison が米国の隔週誌『カウンターパンチ』(2002年5月16-31日号)に発表した秀逸な論文で指摘したように、かつての「領土と平和の交換原則」はレーガン政権によって放棄された。クリントン政権になってその方針はいっそう明確になったが、皮肉なことにそれは、アラブ側の政策全般、とりわけパレスチナ人の政策が、できるだけ多方面から米国を懐柔しようと力を注いでいた時期のことだった。1988年11月までには、PLOは正式に「解放」を放棄し、パレスチナ国民評議会(PNC)のアルジェ会議(わたしも一議員として参加した)において二つの国家の分離と共存を求める決議を採択した。同年12月には、ヤセル・アラファトがおおやけにテロリズムの放棄を発表し、[当時PLOの根拠地であった]チュニスにおいてPLOと合衆国の対話が開始された。

湾岸戦争後に出現したアラブ世界の新秩序は、合衆国とアラブ人のあいだの一方通行を制度化した──アラブ側が譲歩し、合衆国はますますイスラエルに譲歩する。1991年のマドリード会議は、合衆国がパレスチナ人を承認し、イスラエルにもそれにならうよう促すというのが前提(パレスチナ人にとっては)だった。鮮明に記憶によみがえるのは、1991年の夏、PLO幹部や無所属の人々の一団と一緒に、アラファトから米国に要求する一連の保証を考案するよう頼まれたことだ。これから召集されるマドリード会議にわたしたちが参加するためのものだった。その時点ではわたしたちの誰一人として予想しなかったことだが、この会議が1993年のオスロ合意につながることになったのだ。結果的に、アラファトは合衆国からとりつけるべき保証としてわたしたちが提案したものをすべて拒否することになった。彼が望んでいたのは、自分がパレスチナ人の中心的な交渉担当者で続けることの保証だけだった。他のことはすべて彼にはどうでもよかったらしい。ワシントンではハイダル・アブデュル・シャーフィの率いる有能な西岸・ガザ地区代表団が、シャミール[当時のイスラエル首相]から、一切譲歩はせず、必要なら交渉を10年引き伸ばすようにと指示された手強いイスラエル代表団に対峙して、自分たちの任務を進めていたというのに。アラファトが思いついたのは、自分の同胞たちの誰よりも低い条件を提示することで競争者を倒し主導権を握りつづけようというものだった。そのため彼は誰よりも多くの譲歩を申し出たが、それが意味したのは、基本的にイスラエルに対しても合衆国に対しても事前の要求はまったくしないということであり、そのようにして彼は権力にとどまったのである。

このことが、1967年以降の国際情勢とも相まって、パレスチナ・合衆国間のダイナミズムを、いまではもう恒久的になってしまったオスロ時代およびオスロ後の歪曲へと固定することになった。わたしの知る限り、合衆国は一度もパレスチナ自治政府に(あるいは他のアラブ政権のいずれに対しても)民主的な手続きを確立するよう要求したことはない。むしろ正反対に、クリントンとゴアは共にそれぞれガザとジェリコを訪問したおりにパレスチナ自治政府の治安裁判所をおおやけに容認した。その一方で、汚職や独占といった弊害の排除については、ほとんど重きがおかれなかった。わたし自身は90年代の中ごろからアラファトの統治の問題点について書いてきた。そのときどきに自分の言いたかったこと(そのほとんどは、正しかったことが証明された)に応じて、中立的な口調のときもあれば、あからさまな侮蔑であることもあった。わたしは実用主義と現実主義を欠いたユートピアンであるとして非難された。他のアラブ人たちと同様、イスラエル人とアメリカ人には、パレスチナ自治政府をそのままの状態にしておくことに利害の一致を見出しているのは明らかだ。それゆえにこそ、自治政府はイスラエルの警察として、あるいは後にそうなったようにイスラエルが憎みたがるものすべてを引き受ける叩かれ役として、存続を許されてきたのだ。アラファト統治下では占領に対する深刻な抵抗運動は発達しなかった。アラファトは、武装集団やPLO内の他の派閥や治安部隊が市民社会の随所にはびこることを容認し続けた。不正な蓄財が横行する一方で、一般庶民の暮し向きはオスロ以前の水準から50パーセント以上も後退していった。

インティファーダがすべてを一変させた。バラク首相の在任期間もまた、シャロンが再び表舞台に登場する道を開いたことによって、すべてを一変させた。それにもかかわらず、アラブ側の政策はいまだに合衆国の懐柔のままにとどまっている。それを示す小さな徴候が、合衆国におけるアラブ側の言説の変化である。ヨルダンのアブドゥラー国王はアメリカのテレビでイスラエルを非難することを完全に止め、「双方」が「暴力行使」を止める必要があると常に言及するようになった。同じような言葉は、他の主要アラブ諸国の様々なスポークスマンの口からも聞こえてくる。これが示唆するのは、パレスチナはもはや正さねばならぬ不正ではなく、押さえ込まねばならぬ厄介者になってしまったということだ。

なかでもとりわけ重大なのは、イスラエルのプロパガンダ、アメリカのアラブ蔑視、アラブ側に(パレスチナ人と同様に)自国の民衆の利益を系統立てて示し、それを代表するという能力が欠けていることなどが、パレスチナ人に対する人間的な扱いの途方もない欠如へと導いたことである。パレスチナ人の日々の──いや毎時、毎分の甚大な苦しみには、なんの重みも与えられていない。これではまるで、パレスチナ人はそのなかの誰かがテロ行為を行ったときを除いては存在しないかのようだ。そういうときにだけ、世界のメディア装置はわきかえり、呼吸をしており感覚を持った人間としての、本当の過去と本当の社会を持った民族としてのパレスチナ人の現実の存在に、テロリストという言葉の巨大な覆いをかぶせることによって圧殺してしまうのだ。ときおり異議を唱える声があちこちであがるとはいえ、現代史において、これほどまでに系統的な人間性の剥奪が行なわれた例は、それに近いものでさえも、わたしは見たことがない。

最終的にわたしが懸念するのは、このような人間性の剥奪にアラブやパレスチナ人が協調する(敵に協力すると言った方がふさわしい)ことだ。メディアに登場するごく少数のわたしたちの代表は、ブッシュ演説やミッチェル提案などの利点について有能かつ感情を交えず語ってみせるのがせいぜいである。彼らのうちの誰一人として、一度なりとも、自分たちの同胞の苦しみや歴史や実在性などを提示したのを見たことはない。占領に反対する大衆運動を合衆国で起こす必要があると、わたしはしばしば述べてきた。しかし、ここに至ってわたしは、このように恐ろしい、カフカの作品を連想させるようなイスラエルの占領下に置かれたパレスチナ人には、もはやそのような運動を起こせる可能性は小さいという結論に達した。わたしたちが一つの希望を託せるところは、(パレスチナの選挙に関する前回の記事で提案したように)大衆レベルにおいて立憲議会を設立するという試みであろう。わたしたちはあまりに長きにわたりイスラエルやアラブ諸国の政策の受動的な対象という立場にあまんじてきたため、パレスチナ人が今こそ自分たちの力で独立した基盤を作るための第一歩を踏み出すことがどれほど重要であるか、またどれほど緊急であるかということを、十分に理解できていないようだ。自らの手でつくり上げた新たな手続きによって正統性を創出し、現存のものより優れた自分たちのための政体を築く道を開くことが今こそ必要だということが。これまでに発表された内閣改造や選挙の予定はすべて、オスロ体制の断片や残骸をもてあそぶばかばかしいゲームにすぎない。アラファトと彼の議会が民主主義化を考え始めるといのは、粉々になったコップを寄せ集めて再生しようとするに等しい。

さいわいなことに、この要請にぴったり答えるものとして、二週間前にイブラヒーム・ダッカークムスタファ・バルグーティ、ハイダル・アブドゥル・シャフィーによってパレスチナ・ナショナル・イニシアティブの創設が発表された。この動きは、PLOにもハマスのようなグループにも、アメリカやイスラエルの好意に(わたしに言わせれば、愚かしくも)依存することなく先に進む道を示すことができなかったという反省のなかから生まれたものである。このイニシアティブは、公正な和平、共存、そして非常に重要なことだが、世俗的な社会民主主義というパレスチナの歴史においてはユニークなヴィジョンを打ち出している。市民社会についての基礎知識がしっかりした、敵方への協力や汚職によって汚されていない無党派の人々の集団だけが、わたしたちの必要とする新しい正統性の骨子を提供できる可能性を持つ。わたしたちには本物の憲法が必要だ。アラファトがもてあそぶような基本法ではだめだ。わたしたちには真の代議制民主主義が必要だ。それは、パレスチナ人だけが立憲議会を通じて自力で手に入れることができるものだ。これだけが、アラブの世界のいたるところに浸透している人間性剥奪のプロセスを覆すことのできる唯一の前向きなステップである。さもなければ、わたしたちは苦しみの淵に沈み込み、引き続きイスラエルによる集団懲罰の恐ろしい苦難を耐え忍ばねばならぬことになるだろう。それを阻止できるのは、集団的な政治的自立のみである。わたしたちには、まだ十分にそれを実現する能力がある。コリン・パウェルの善意や「穏健派」という虚構が、わたしたちのためにそれをしてくれることなど決してありはしないのだ。絶対に。


注1 第4次中東戦争(エジプト・シリアとイスラエルの戦い)でアラブ産油国が石油戦略(生産削減、対米禁輸や米・イスラエル支持国への供給制限)を発動し、その巨大な影響力で国際的発言権を高めた

注2 Ibrahim Dakkak(一九二九〜)建築家、エンジニア、作家、政治評論家。Council for Higher Education, National Guidance Committeeなど各種のパレスチナ機関・団体の設立に関わってきた。ビールゼイト大学理事。

注3 Dr. Haidar Abdel Shafi(一九一九〜)ガザ出身の医師、政治家。ビールゼイト大学理事。マドリード和平交渉ではパレスチナ代表団の主席をつとめた。

注4 Dr. Mustafa Barghouthi(一九五四〜)人権活動家の医師、ラーマッラーにある医療NGOパレスチナ医療救援委員会(Union of Palestinian Medical Relief Committees)の会長。

Al-Ahram Weekly Online 11 - 17 July 2002 Issue No. 594


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