Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

皇帝は新しい衣装(民主主義と彼は呼ぶ)に着替えたと主張しているが、ペテン師の正体をあばかれるときが来た。民主主義は輸入することも、押しつけることもできない。それは市民の大権であり、彼らこそがそれを作り、そのもとで生きることを望むことができるのだ。 第二次世界大戦の終結以来ずっと、アラブ諸国はさまざまな「緊急」事態のもとに生きてきた。これが安全保障の名を借りて治世者が思いのままにふるまうライセンスとなってきた。オスロ体制の下でパレスチナ人たちに押しつけられた政権も、その第一の存在理由はイスラエルの安全に奉仕することだったが、第二は政権自身の便宜(と利権のつかみ取り)のためだった。 ・・・ パレスチナの大義は、アパルトヘイト下の南アフリカの解放と同じように、いつもアラブ人のみならず世界中の偏見のない理想主義者にとってモデルになってきた。それを筆頭に、ありとあらゆる理由から、いま緊急に要請されるのは、パレスチナ人がみずからの運命の形成を自力で行なう力を取り戻すために、行動を起こすことだ。


緊急課題
Immediate Imperative
Al Ahram Weekly 2002年12月25日 No 617

パレスチナ人の生命と財産の毎日の喪失は、休みなく加速している。アラブのメディアも西洋のメディアも、ぞっとするセンセーショナルな自殺爆撃を報道している。犠牲者の写真と名前が掲げられ、悲痛な詳細が描かれる. 何度でも言うが、こういう行為は道徳的に許せないし、政治的にはどこから見ても自殺行為だ。だが同じくらい忌まわしいのは、イスラエルが、たいていは非武装の民間パレスチナ人をはるかに大量に殺害し(あちらでは90歳の男、こちらでは一家族全員、きのうは看護婦、今日は精神障害を持った青年)、パレスチナ人への破壊行為をもう何ヶ月も休みなく続けている自国軍に、制止はおろか少しの抑制を加えることも拒絶していることだ。だが、たいていの場合、こうした恐ろしい虐殺も新聞の後方ページに現われるのみで、テレビでは言及さえされない。超法規的な暗殺を続けていることについても.イスラエルは何のとがめも受けていない。ジャーナリストが「〜といわれている(証拠はない)」とか「当局の発表では」という文句によって自らの報道責任の無さを隠しているためだ. 中でも『ニューヨーク・タイムズ』の中東報道(イラクを含む)はいまやこの種の文句であふれ返っており、いっそ『当局の発表』と紙名を改めてはどうかと思うほどだ。

言いかえれば、イスラエルが引き続き非合法行為によって故意にパレスチナの民間人を締め上げているという事実はごまかされ、視界から隠されているが、じつは着実にずっと続いているのだ。65パーセントが失業し、50パーセントが貧困ライン(1日2ドル以下)を割り、学校も病院も大学も商売も絶え間ない軍事圧力にさらされている。これらはイスラエルの人道上の犯罪が外から見える部分に過ぎない。パレスチナ住民の40パーセント以上が栄養不良であり、飢饉が正真正銘の脅威になっているぶっ通しの外出禁止令、はてしない土地の接収と入植地の建設(200カ所近くに達している)、作物や樹木や家屋の破壊が普通のパレスチナ人の生活を耐え難いものにしている。 多くがここを去っており、またはヤヌン村(Yanun)の住民のように、入植者のテロ(家を焼き、殺すと脅す)によってとどまることが不可能になり、やむなく立ち退きに追いこまれている。これは民族浄化に他ならないが、シャロンの悪魔的な計画は、それを日々の小さな行為の積み重ねによって実行することである。そういう小さな事件はきちんと報道されることはなく、全体として一つのパターンを構成するものとして累積的に把握されることもない。ブッシュ政権の無条件の支援が背景にあるのだから、シャロンが「作戦にはいかなる制約も課さない。イスラエルは何の圧力も受けない。わたしたちを批判する者も、批判する権利のある者もいない。イスラエルが自国民を守る権利のことなのだから」と言ってのけるのも不思議はない。(『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン 』2002年11月15日号 のロイター電)。 なにゆえ、このような傲慢な態度が、反駁もされずにまかり通るのか、あるいはスロボダン・ミロセヴィッチが現在ハーグで裁かれている種類のことと直接結び付けられないのはなぜかということは、国際社会がいかに偽りのものになったかを示すサインである。合衆国の保護の下で、シャロンはテロリズムとの戦いにことよせて、好き放題にパレスチナ人を殺している。

これだけでも十分にひどいのだが、それでも足りないというのならパレスチナ人やアラブ人の情けない政治状況が指摘できよう。彼らのリーダーや支配階級が現在ほど腐敗したことはないし、これほど自国民に有害になったことも稀である。 アメリカ政府はイラク侵略後に中東の地図を書き直すという計画を発表しているのだが、それに対してこの人たちは、集団としても、個々人としても、組織的な戦略を掲げることはもとより、組織的な抵抗を組織することさえしない。これらの政権に今できることは、自分たちは合衆国にとって不可欠だと売り込むか、さもなければ自分たちの中の反体派の芽を摘みとることぐらいである。合衆国特使ザルメイ・ハリザド(ベイルート・アメリカン大学の卒業生で、かつてはニューヨークのわたしの隣人だったが、今はチェニーとウォルフォウィッツの子飼いのネオコンだ)の監視のもとで、ロンドン在住のイラク反体制派たちが繰り広げているみっともない口喧嘩や無秩序ぶりは、ひとつの民族としてのわたしたちがどういう位置にあるかをはっきり見せてくれる。 代表者たちが代表しているのは自分だけ、資源を横取りするため一つの国を滅ぼそうとしている大国の恩着せがましい尊大な庇護、信用のない専制的な現地政権(最悪のものがサダムだ)による恐怖政治、それらの政権の内部でも外部でも民主主義らしいものは不在──こういうことから見えてくるのは、とうてい安心できる将来像ではない。 一般的な状態について特に目立つことは、民衆の圧倒的多数の無力と沈黙である。彼らは全体的な無関心と弾圧に包み込まれて屈辱を味わっている。 アラブ世界ではすべてのことが、基本的に選挙で選ばれてはいない統治者たちによって上から決められるか、有能ではあるが任命されたわけではない仲介者によって裏で決められる。 資源はなんの説明責任もなくバーター取引されるか売り渡され、政治的な将来は有力者と彼らの現地下請け人たちの都合の良いように作られる。人道援助や市民の福祉を増進するための制度は少ない。

パレスチナの現状も、驚くべきドラマのなかにこのすべてを体現している。35年来の軍事占領が極度な段階に達し、イスラエル軍はこの9ヶ月のあいだ、西岸地区とガザの基本的な市民生活インフラを破壊してきた。占領地の人々は、電気やコンクリートのフェンスや、イスラエル軍による監視と自由な移動の阻止によって、ほとんど檻に入れられて暮らしている。 ヤセル・アラファトの一党は、少なくとも彼らがオスロ合意で売り渡したものや、イスラエルの占領に正当性を与えたことによって、現状の行きづまりと荒廃に責任があるのだが、それでも権力にしがみついているようだ。彼らの汚職と不法な蓄財についての驚くべき実態がイスラエルやアラブや世界中のメディアに少しずつ漏れ出しているにもかかわらず。この男たちの多くが、アラファトの代理人・使用人としてかつて築いた信用から、最近のEUとの秘密交渉、CIAとの秘密交渉、スカンジナビア諸国との秘密交渉にかかわっていたということは、深く憂慮されることだ。その間もミスター・パレスチナ御本人は引き続き命令を発し、ばかばかしい非難を表明し続けている。それらはみな、何の役にも立たないか、さもなければ途方もなく時代に遅れている。彼が最近ウサマ・ビンラディンを非難したこともその一例だし、2000年のクリントン提案を今頃になって受け入れると言い出したこともそうである。 それでもなお、アラファトや子分のモハメド・ラシード(別名ハリード・サラーム)のような人たちは、買収と、汚職と、自分たちの統治を長引かせるために、引き続き途方もない大金をばら撒いている。悪名高い中東カルテット〔アメリカ、EU、UN、ロシア〕は、ある日声を揃えて和平協議の開催と改革を発表したかと思うと、翌日にはもうその計画を撤回し、三日目にはイスラエルに弾圧強化を促す始末なのだが、だれも注意を払おうとはしないようだ。

何がひどいといって、パレスチナの選挙の実施を求めるほどばかげたものがあるだろうか。選挙については、イスラエルの悪行の囚になったアラファトその人が、実施を発表し、取り消し、延期し、ふたたび発表している。だれもが改革について語るなかで、ゆいいつ声が聞こえないのは自分たちの未来がそれにかかっている当の人々、すなわちパレスチナの市民である。彼らは貧困と苦難の増大とともに、大きな犠牲を払い、耐え忍んできた。この長年苦しんできた民の名において、新統治体制の提案がそこら中から出されているのに、当のその民からは出ていないというのは、グロテスクとは言わぬまでも、皮肉なことではないか。 確かにスウェーデン人も、スペイン人も、イギリス人も、アメリカ人も、そしてイスラエル人でさえも、中東の未来を開く象徴的な鍵はパレスチナであることは承知している。だからこそ、彼らはあらゆる手を使ってパレスチナ人たちを未来についての決定からできるだけ遠ざけておこうとしているのだ。そして、これに平行して進められているイラクとの戦争を推進する熱心なキャンペーンでは、多数のアメリカ人、ヨーロッパ人、イスラエル人たちが、いまこそ中東の地図を塗り変え、「民主主義」をもたらすべきだと公然と述べている。

皇帝は新しい衣装(それを民主主義と彼は呼ぶ)に着替えたと主張しているが、ペテン師の正体をあばかれるときが来た。民主主義は輸入することも、押しつけることもできない。それは市民の大権であり、彼らこそがそれを作り、そのもとで生きることを望むことができるのだ。 第二次世界大戦の終結以来ずっと、アラブ諸国はさまざまな「緊急」事態のもとに生きてきた。これが安全保障の名を借りて治世者が思いのままにふるまうライセンスとなってきた。オスロ体制の下でパレスチナ人たちに押しつけられた政権も、その第一の存在理由はイスラエルの安全に奉仕することだったが、第二は政権自身の便宜(と利権のつかみ取り)のためだった。

パレスチナの大義は、アパルトヘイト下の南アフリカの解放と同じように、いつもアラブ人のみならず世界中の偏見のない理想主義者にとってモデルになってきた。それを筆頭とするありとあらゆる理由から、いま緊急に要請されるのは、パレスチナ人がみずからの運命の形成を自力で行なう力を取り戻すために、行動を起こすことだ。 パレスチナの政治的な段階は、現在2つの選択肢に分かれているが、いずれも魅力がなく先のないものだ。 一方では、自治政府とアラファトが残したものがあり、もう一方ではイスラム諸政党がある。どちらの選択肢も、パレスチナの市民にまともな将来を保証することなどとてもできない。自治政府はひどく信用を失い、制度構築の失敗はあまりに基本的で、そのシニカルで堕落した歴史は全面的な妥協の連続であるため、もはや将来を託されるような能力はない。そうでないふりをする(自治政府の治安長官や有名な交渉担当官たちの一部が現在装っているように)のは詐欺師だけだ。イスラム政党の方は、絶望的になった人々を、果てしない宗教闘争と近現代に背を向けた衰退という否定的な空間に導いていくものだ。シオニズムは政治的にも社会的にも失敗だったとわたしたちが語るのであれば、別の宗教にすがってそこに現世的な救済を求めるようなことがどうして容認されようか? できるはずがない。人間の歴史は人間が作るのであって、神々が作るのでも、魔法や奇跡がつくるのでもない。「よそ者」を土地から排除するということは、その言葉を発するのがムスリムであれ、キリスト教徒であれ、ユダヤ人であれ、現実の人間の生活── 何十億という人々が異なる人種や歴史や民族的帰属や宗教や国籍などの混合のなかで生きてきたもの── への冒涜である。

けれども、大多数のパレスチナ人には(きっと大多数のイスラエル人にも)そういうことは分かっている。また幸いなことにハマースでもアラファトの自治政府でもない、もう一つの政治的な選択肢がすでに存在する。それは、今年六月に新しいパレスチナのナショナル・イニシアティブ(moubadara wataniya)を発表した占領地のパレスチナ人の素晴らしい動きのことである。リーダーのなかには、ムスタファ・バルグーティやハイダル・アブデル・シャーフィー、ラウィーヤ・アッシャワーをはじめ多くの無党派の人々がいる。弱体化したパレスチナ社会が「改革」の標的にされており、それを推進している政党の真の狙いは、今後何年にもわたって政治的・精神的な勢力としてのパレスチナ人を解体することだということを、この人たちは理解している。アラファトや彼の副官たちの選挙についての無駄話は、民主主義はじきに到来するのだと部外者を安心させるためのものだ。 実際には大違いで、こういう人たちが望んでいるのはこれまで通りの不正で破綻したやり方を継続することだけであり、そのためには完全な詐欺行為を含め、あらゆる手段を惜しまない。 忘れてはいけないが、1996年の選挙はオスロ体制のもとで実施されたのであり、その主な目的はイスラエルの占領を別の題目のもとに継続することだった。 立法評議会(al majlis al-tashri'i)は、アラファトの命令やイスラエルの拒否権発動の前には何の力もなかった。 シャロンや中東カルテットが現在提案しているのは、これまで通りの受け入れ難い体制の延長だ。 これが、世界中のパレスチナ人にとって ナショナル・イニシアティブが不可避の選択になった理由だ。

まず第一に、ナショナル・イニシアティブは、自治政府のようにイスラエルの占領に協力するのでなく、占領からの解放をめざしている。 第二に、これは広い範囲の市民社会の代表であり、従って軍人や治安関係の人々やアラファト宮廷の取り巻きたちなどは含まない。 第三に、それが主張しているのは解放であって、少数支配層やVIPに都合の良いように占領体制を再調整することではない。

最後に、最も重要な点として、このイニシアティブ(わたしは喜んで全面的推薦を与えたい)が提唱しているのは、民衆に奉仕するために選出され、彼らが必要とする解放、民主的な自由、公開討論や説明責任などを推進する統一政府という考えである。これらのことは、あまりにも長いあいだ先送りにされてきた。ファタハや人民戦線やハマースなどという旧来の分裂は今日ではもはや意味が無い。 そういう馬鹿げたこだわりにとらわれている余裕はない。占領下の民として、わたしたちが必要としている指導体制の主要目標は、イスラエルの略奪行為と占領を終わらせ、わたしたちに必要な公正、国民的な視野、透明性、直接の語りかけなどを満たしてくれる新たな秩序を打ち立てることでなければならない。アラファトは二枚舌を使ってきた。これに対して、バルグーティ(ここでは一例として挙げている)はパレスチナ人に向けても、イスラエル人に向けても、外国メディアに向けても、一貫して一つの主義に基づいた話し方をする。村々に医療サービスを提供しているため、彼には同胞たちに対する敬意がある。彼の公正さと指導力には彼に接した人々のだれもが刺激を受けている。また同じように重要と思われるのは、パレスチナ人たちを率いるのは、これからは高度な近代教育を受け、ものの見方の中心に公民権的な価値観が据えられているような人々であるべきだということだ。現在のわたしたちの統治者は一度も市民であったことがない。彼らはパンを買うために行列に並んだこともなければ、自分の医療費や教育費を払ったこともなく、気まぐれな逮捕の不確実さと残酷さ、同族集団による横暴、陰謀による権力奪取などをたえしのんだ経験もない。バルグーティとアブデル・シャーフィーのような手本は、このイニシアティブに名を連ねるすべての主だった人々と同様に、わたしたちが必要とする精神の独立と責任のある近代的な公民権の問題に答えようとする。古い時代はもう終わっており、できるだけさっさと埋葬してしまうのがよい。

結論として述べたいのは、本物の変化がおとずれるのは、人々が積極的にその変化を望み、自分たちの手でそれを可能にするときだけだということだ。イラクの反体制派が犯しているひどい間違いは、アメリカの手中に運命を託しながら、実際のイラクの民衆が必要としているものには十分な注意を向けていないことだ。イラクの人々は独裁体制もとで恐ろしい迫害に苦しんでおり、それに加えてじきに同じように恐ろしい合衆国の爆撃にさらされようとしている。 パレスチナでは、いま選挙を行なうことは可能なはずだが、それはくたびれ切ったアラファトの一団を再任するためのものであってはならず、むしろ真の代議制に基づいた憲法制定議会への代表を選出するためのものでなければならない。「パレスチナの民主主義」についてたわ言を吐いてきたにもかかわらず、アラファトは過去10年の悪政のあいだ積極的に憲法制定を妨げてきたというのが、嘆かわしい現実だ。彼が遺したものは、憲法でもなければ、基本法ですらない。老いぼれきったマフィアだけだ。それにもかかわらず、またパレスチナの国民としての生命に終止符をうとうとするシャロンの今狂気じみた願望にもかかわらず、わたしたちの市民生活を支える公共機関は、極度の困難と拘束の下で、いまも機能している。ともかくも、教師たちは教え、看護婦たちは看護し、医者たちは治療を施しているのだ。こうした日々の活動が停止したことは一度もない。たとえ必要が無限の努力を強要しているからだとしても。いまこそ、ほんとうに社会に貢献してきたこのような人々や公共機関が前面に出て、平和的手段による純粋に国民のための解放と民主主義を実現するための、知的・精神的な枠組みを提供すべきである。この努力においては、占領地のパレスチナ人も、在外《ディアスポラ》のパレスチナ人も、等しく努力する義務を負っている。 もしかすると、この国民発議は、他のアラブ人にも民主化の手本を提供することになるかもしれない。


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