Edward
Said Extra サイード・オンラインコメント |
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国の内外を問わず、わたしたちの社会にはあらゆるレベルにアラブ的な党派心が染み込んでいる。その大きな理由は、おそらく理想や手本となる人物がいちじるしく不足していることだ。アブデル・ナセル亡き後、(かなり破壊的なところのあった彼の一部の政策には様々な意見があるだろうが)アラブの想像力に訴え、大衆的な解放闘争をしかける役割を果たすことのできるような人物は一人も登場しなかった。PLOの情けないさまを見るがよい。栄光の時代からすっかり転落し、髭も剃らない、年老いた男がラーマッラーの半壊した住居の壊れたテーブルに座っている。彼はどんな犠牲を払っても生き残ろうと必死で、たとえそのために敵に寝返ることになろうが、馬鹿げた発言を口走ることになろうが、その発言に少しでも意味があろうがなかろうが、お構いなしである。(アラファトは2週前、2000年にクリントンが提案した和平案を受け入れる用意があると発言したと伝えられている。ただ、残念ながら、今年は2002年だし、クリントンはもはや大統領ではない。)アラファトが占領地の人々の苦難と理想を代表する地位についてもう何年も経つ。そして他のアラブの指導者たちと同じように、彼もまた、真の目的も立場もないままに、熟しすぎた果物のように、ただそこにぶら下がっているだけだ。このように今日のアラブの世界には、強力な道徳的中心が欠けている。説得力のある分析や合理的な論議は、狂信的な大言壮語に道を譲ってしまい、解放のための共同行動は、自滅的な攻撃に落ちぶれてしまった。そして、誠実と公正を範とすべきだという考え(たとえ実行まではいかなくとも)は、まったく消えうせてしまった。
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不統一と党派抗争
Disunity and factionalism
Al Ahram Weekly 2002年8月15-21日 No.599号 |
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国連開発計画(UNDP)の2002年「アラブ人間開発報告」はさかんに引用されているが、ほとんどの調査結果の裏に潜んでいるのは、アラブ諸国のあいだの驚くほどの協調の不足である。
皮肉なのは、この報告のなかでも他のところでも、アラブは一つの集団として議論され、扱われているのだが、その実、彼らはめったに一体となって動くことがないらしい(悪い方向に行くときは別だ)ことだ。この報告は、アラブには民主主義がなく、アラブ女性はどこでも同じように抑圧された多数派[少数集団ではなく]であり、科学と技術の面ではすべてのアラブ国家が世界に遅れていると正しく指摘している。
たしかに彼らのあいだの戦略的協力はわずかなものであり、経済の領域においてはないに等しい。対イスラエル政策、対米政策、対パレスチナ政策などの特定の問題については、大げさな苦悩のしぐさと恥さらしな無力ぶりは共通しているものの、その裏には怯えた決意が透けて見える──なにはともあれ合衆国の機嫌を損ねないこと、イスラエルとは戦争せず、かといって真の和平も結ばぬこと、アラブ共同戦線などということは、たとえアラブ全体の将来や安全保障に影響することであろうとも、ゆめゆめ考えないこと。それでも、各々の政治体制の存続という話になると、アラブ支配階級は目的においても生き残りの術においても一致団結している。
このような惰性と無能力の散乱に、すべてのアラブ人が屈辱を感じているに違いない。だからこそ、エジプト、シリア、ヨルダン、モロッコなどの国々で、これほど多くの大衆が街頭に出て、イスラエルによる占領の悪夢を経験しているパレスチナ人への支援を訴えているのだ。アラブ指導者たちは手をこまねいて傍観しているばかりだからだ。街頭行動は、パレスチナへの支持の表明のみならず、アラブの不統一が現状打破を阻んでいることへの抗議でもある。この共通の幻滅をさらに雄弁に表象しているのは、イスラエルのブルドーザーに破壊された自宅の残骸を調べているパレスチナ人の女が、「ヤ・アラブ、ヤ・アラブ」(おお、アラブ人よ、アラブ人よ)と世界中に向かって嘆いているという、繰り返しテレビで放映された悲痛なシーンである。 アラブの民衆が彼らの(たいていは選挙で選ばれていない)指導者たちに裏切られているということを、これほど雄弁に証言するものは他にない。それが訴えているのは「あなたがたアラブ人は、わたしたちを助けるために一度でも何かしようとは思わないのか」ということだ。資金と石油はたっぷりあるのに、無感動な観客は石のように沈黙している。
個別レベルでさえも、悲しいかな、不統一と党派抗争が国民的な努力を骨抜きにするような例が次から次へと続いている。なかでもいちばん情けないのが、パレスチナ人のケースである。いま思い返して疑問に思うのは、アンマンやベイルートを本拠地としていた時代に、なぜパレスチナ人のあいだには8つから12もの派閥が存在せねばならなかったのだろうということだ。それぞれの派閥はイデオロギーと組織をめぐる無用な観念的議論で対立していたが、そんなことをしている間にイスラエルや地元の民兵組織がわたしたちを骨の隋までしゃぶっていたのだ。 サブラーとシャティーラの難民キャンプ虐殺事件で幕を閉じたレバノン時代を振り返ってみれば、人民戦線(PFLP)、ファタハ、民主戦線(DFLP)などの派閥が相互抗争に明け暮れていたが、それはいったい誰のために役立ったというのだろう。イスラエルがレバノン人右翼民兵組織を抱き込んでパレスチナ人を一掃しようと図っているというときに、ファタハの幹部たちは「テルアビブへの道はジュニエ(ベイルート北方のレバノンの海岸都市)を経由する」などと不必要に挑発的なスローガンを打ち出したのである。オスロ和平プロセスの時期には、ヤセル・アラファトが新たな派閥やその下位組織、治安部隊をつくり出し、互いに抗争するよう仕向ける戦術を取ったが、そんなことがどんな理想に奉仕したというのだろう? 彼の治下の人々は、イスラエルによるインフラ破壊とA地区(完全自治区)の再占領という事態に、なんの防備も準備もないまま曝されているのだ。
結局、いつも同じことの繰り返しなのだ。党派抗争、不統一、共通目的の欠如のおかげで、最終的には普通の人々が苦しみ、血を流し、絶え間ない破壊にさらされるという代償を支払わされるのだ。 社会構造のレベルでさえ、一集団としてのアラブは、共通の目的をめざして闘うよりは、内輪同士で争うことの方が多いというのがほぼ常識になっている。 わたしたちは個人主義なのだと言って正当化しようとする向きもあるが、それは、このような不統一と内部の混乱が結局は一つの民族としてのわたしたちの存在そのものを弱めているということを無視した議論である。なによりもがっくりさせられるのは、国外に居住するアラブ人の組織を蝕むような論争である。特に、合衆国やヨーロッパのように、アラブ系住民が相対的に少数集団にとどまり、アラブの闘争を頑として信用しない攻撃的な人々に囲まれた敵対的な環境では重大なことだ。それなのに、これらのアラブ系コミュニティーは、一致協力して動いていこうとする代わりに、周囲をとりまく環境には何ら直接の関係もなく必然性もない、まったく不必要なイデオロギー抗争や派閥抗争によってばらばらに引き裂かれている。
数日前に、アル・ジャジーラのテレビ討論会で、二人の出演者と不必要に挑発的な司会役が、現在の危機におけるアラブ系アメリカ人のアクティヴィズムについて激論を戦わすのを見て、わたしは驚かされた。出演者の一人はダルバーDalbahとかいう名前の「政治アナリスト」という曖昧な肩書きのワシントン出身の人物で(明瞭な所属団体や関係組織はわからない)、持ち時間のすべてを使って、アラブ系アメリカ人の熱心な全国組織アラブ・アメリカン反差別委員会(ADC)の信用を落とそうとした。この団体は効果が上がらず、指導部は自己中心的で日和見主義で個人的な汚職に染まっていると彼は糾弾した。もう一人の出演者は、名前は聞き漏らしたが、本人が言うにはアメリカに住んでほんの二、三年しか経っておらず、まわりで何が起こっているのかよく理解していないらしかったが、もちろんそれでも、自分はどのコミュニティー・リーダーより優れた考えを持っていると主張することだけは達者だった。わたしは番組の最初と最後の部分を見ただけだが、この討論にすっかり幻滅し、恥をかかされたように感じた。 いったい、こんなことをして何になるのだろう、とわたしは自問した。この国ではアラブ人が、数の上でも組織力でも圧倒的に大きく資金力のある多数のシオニスト団体に大きな差をつけられおり、そればかりか社会そのものも、メディアも、アラブ人やイスラムおよび彼らの理想一般に対し、きわめて敵対的である。そんな国で傑出した活動をしてきた団体を中傷して、いったい何の有益性があるというのだろうか? もちろん、なんの益もない。あるのは、この有害な党派心だけであり、ほとんどパブロフの条件づけのような正確さで、アラブ人はお互いを傷つけ、足を引っ張り合うばかりで、共通の目的をかかげて結束するということがない。もしアラブの土地において、そのような行動がとても正当化できないというのであれば、異国の土地においてはいっそう弁護の余地がないはずだ。そこでは、アラブ人は好ましからざる外国人やテロリストとして、個人としてもコミュニティーとしても標的にされ、脅かされているのだから。
アル・ジャジーラの番組をいっそう腹立たしいものにしたのは、ADCの運動に文字通り生涯を捧げた故 Hala Salam Maksoud や、公共心が強く医師の仕事を投げ打って無報酬でADCの運営にあたっている現理事長 Ziad Asliに、いわれのない不正確で不必要な個人攻撃を加えたことである。ダルバー氏は、この二人の活動家はもっぱら私腹を肥やすことのみに動機づけられていたとほのめかし、ADCはやることなすことなっていないとけなしつづけた。そのような申し立てが中傷的な虚偽であることはさて置いて、ダルバー氏の悪意に満ちた根拠のないゴシップ(それは以外の何ものでもなかった)は、アラブの共同的な理想を傷つけ、怒りといっそうの党派主義を後に遺した。さらに、アメリカの政治環境がアラブの理想には極端に居心地の悪いものになっていることを考えれば、ADC がワシントンでも全国的にも、メディアによるアラブ人攻撃に反駁し、9月11日以降の政府の迫害から個人を保護し、アラブ系アメリカ人を全国的な議論に巻き込み続ける組織として大いに成果を上げたことは特筆されるべきである。Asli理事長のもとでこのような成功をおさめたおかげで、同組織の職員のあいだに党派主義が伝染し、イデオロギー論争の仮面をかぶった個人的な中傷キャンペーンが突然始まったのである。もちろん、誰にも批判をする権利はある。しかし、わたしたちが現在合衆国で直面しているような脅威を前にして、なにゆえわたしたちはこんな風に自分たち自身を分裂させ、弱めるようなことをしなければならないのだろうか。そんなことをして得をするのは、イスラエル・ロビーだけだということは明らかではないか。ADCのような組織はわたしたちのアメリカ組織の最初のものであり、70年代半ばのファカハニ時代(レバノン)を彷彿とさせるような派閥抗争のなかでは役割りを果たすことができない。
国の内外を問わず、わたしたちの社会にはあらゆるレベルにアラブ的な党派心が染み込んでいる。その大きな理由は、おそらく理想や手本となる人物がいちじるしく不足していることだ。アブデル・ナセル亡き後、(かなり破壊的なところのあった彼の一部の政策には様々な意見があるだろうが)アラブの想像力に訴え、大衆的な解放闘争をしかける役割を果たすことのできるような人物は一人も登場しなかった。PLOの情けないさまを見るがよい。栄光の時代からすっかり転落し、髭も剃らない、年老いた男がラーマッラーの半壊した住居の壊れたテーブルに座っている。彼はどんな犠牲を払っても生き残ろうと必死で、たとえそのために敵に寝返ることになろうが、馬鹿げた発言を口走ることになろうが、その発言に少しでも意味があろうがなかろうが、お構いなしである。(アラファトは2週前、2000年にクリントンが提案した和平案を受け入れる用意があると発言したと伝えられている。ただ、残念ながら、今年は2002年だし、クリントンはもはや大統領ではない。)アラファトが占領地の人々の苦難と理想を代表する地位についてもう何年も経つ。そして他のアラブの指導者たちと同じように、彼もまた、真の目的も立場もないままに、熟しすぎた果物のように、ただそこにぶら下がっているだけだ。このように今日のアラブの世界には、強力な道徳的中心が欠けている。説得力のある分析や合理的な論議は、狂信的な大言壮語に道を譲ってしまい、解放のための共同行動は、自滅的な攻撃に落ちぶれてしまった。そして、誠実と公正を範とすべきだという考え(たとえ実行まではいかなくとも)は、まったく消えうせてしまった。アラブ世界が発散する空気はあまりにも堕落したものになってしまったので、今では、羽振りのよい人々がいる一方で、他の人々は牢屋につながれているという理由が、ほとんど誰にもわからなくなっている。
このことの、きわめてショッキングな例として、エジプトの社会学者が Saadeddin Ibrahimの運命が挙げられよう。数カ月前に民事裁判所から無罪放免された彼は、今度は国家保安法廷によって審議され、有罪と判定されて、残酷で不公平な判決を下された。先の裁判で無罪と判定されたものとまさに同じ「罪」で裁かれたのである。個人の人生やキャリアや評判を、このようにもてあそぶことのどこに、道義的な正当性があるのだろう? 彼が信頼の厚い政府顧問として多数のアラブ研究機関やプロジェクトの役員をつとめていたのは、わずか数ヶ月前の話である。しかるにいまや彼は有罪を宣告された犯罪者である。このように根拠もなく彼を罰することが、いったい誰の利益──国家統合のためであれ、一貫した戦略であれ、道徳的な要請であれ──になるというのだろう。いっそうの派閥抗争、いっそうの分裂、いっそうのあてどなさと不安、正義をくじかれた挫折感の浸透。
アラブ人はあまりにも長いあいだ政治参加と公民権という感覚を自分たちの支配者によって奪われてきたため、わたしたちの大半はもはや自分自身を超えるような理想に個人的に深く関わることが何を意味するのかを理解する能力さえ失ってしまったのだ。パレスチナ闘争──
ひとつの民族がイスラエルの絶え間ない残虐行為に耐えて、いまだに諦めていないというのは、共同的な奇跡だ
──では、生きた(自滅や虚無主義でなく)抵抗の教えがもっと明瞭に打ち出され、追求しやすいものになってもよいのではないだろうか。
真の問題は、アラブ世界全体や海外を含めても、わたしたちには大衆と対話しようとする指導者がいないことである。市民としての彼らを侮蔑的なほど軽視した非個人的な公式声明を通じてではなく、共同的な献身と個人としての手本の実行を通した対話が必要なのだ。イスラエルの犯罪への不法な支援を合衆国に止めさせることができないため、アラブの指導者たちは次から次へと新たな「和平」提案(中味は同じだ)を持ち出しているが、どれもこれもイスラエルと合衆国の両方から馬鹿にしたように却下される。ブッシュと子分の人格障害者ラムズフェルド[国防副長官]は、イラクの「政権交代」を促すためのきたるべき侵略についてニュースを漏らし続けている。それなのにアラブ側はまだ、この新たなアメリカの狂気に対して統一した抑止の立場を明確に伝えていない。
個人やADCのような組織が、理想を掲げて何かをしようとしても、破壊と撹乱しか求めていないようなトラブルメーカーたちに撃ち倒される。
確かに、わたしたちは自分たちについて、卑怯な落ちこぼれの集まりとしてではなく、共通の歴史と目標を持った一つの民族として考えはじめるべきときがきている。 ただし、それは一人一人の自覚にかかっていることであり、何もしないで「アラブ」を非難しているだけでは、何にもならない。結局のところ、わたしたちが「アラブ」なのだから。
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