Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

今ひとつロードマップから漏れている恐ろしい事実は、現在イスラエルが西岸地区に建設を進めている巨大な「分離壁」だ。南北347キロにおよぶコンクリートの壁を走らせる予定で、120キロはすでに建設されている。 この壁は高さ25フィート(7.5メートル)、幅10フィート(3メートル)で、建設コストはキロあたり160万ドルと見積もられる。 この壁は単にイスラエルと想像上のパレスチナ国家を1967年の停戦ラインに従って分離しているだけではない。実際にはパレスチナ側の土地をさらにえぐり取るものだ。時には5、6キロも内側まで。 壁のまわりには塹壕や電線や堀が張り巡らされ、一定間隔で監視塔が設置される。 南アフリカのアパルトヘイト終焉から10年近く経った今、この吐き気のするような人種差別の「壁」が建設されようとしているのに、大半のイスラエル人や、いやおうなくこの費用の大半を払うことになるアメリカのイスラエル支持者たちからは、わずかな不満の声もあがらない。 カルキリヤの町に住む4万人のパレスチナ人にとっては、住む家は壁のこちら側にあるのだが、彼らが耕作し、それで生計を立てている土地は壁のあちら側にある。 壁が完成してしまえば──たぶん、合衆国、イスラエル、パレスチナ人のあいだでプロセスについての論争が何カ月も続いているうちに──およそ30万人のパレスチナ人が彼らの土地から切り離される。 「ロードマップ」はこれについて沈黙しているし、また最近シャロンが認可した西岸地区の東側にも壁を設けようという計画についても黙っている。そんな壁が建設されれば、ブッシュが夢みる国家を建設するためのパレスチナ領土は本来のものの40パーセントに縮小してしまうだろう。これが、シャロンがはじめからずっとねらっていたものだ。


「ロードマップ」の考古学
Archaeology of the roadmap
Al-Ahram Weekly Online : 12 - 18 June 2003 (Issue No. 642)

五月前半、コリン・パウエルはイスラエルと占領地を訪問した折、パレスチナの新首相マフムード・アッバースと会見し、またそれとは別にハナン・アシュラウィやムスタファ・バルグーティなど少数の市民団体活動家とも会見した。バルグーティによれば、パウエルはコンピュータ化された地図で、入植地や、高さ八メートルのフェンスや、パレスチナ人の生活を困難にし、将来を曇らせている何十ヶ所ものイスラエル軍の検問所などを見て、驚きといささかの狼狽を示した。パレスチナの現実に関するパウエルの見方は、その威厳のある立場にもかかわらず、控えめに言っても欠陥のあるものだ。とはいえ確かに彼はこの資料を持ち帰りたいと申し出、さらに重要なことに、ブッシュがイラクに注いだと同じ努力が「ロードマップ」の実現のために注がれるだろうとパレスチナ人たちに保証した。ほぼ同じ主張が、今度はブッシュ本人によって五月末にアラブ・メディアによるインタヴューの中で確認された。ただし、例によって彼が強調するのは一般論であり、具体性には乏しい。彼はヨルダンでパレスチナとイスラエルの指導者たちと会見し、その前には主だったアラブの首脳たちとも会見した──もちろん、シリアのバシール・アル・アサドは除いての話だ。これはみな、現在アメリカが大いに力をいれているらしい推進策の一環だ。アリエル・シャロンが「ロードマップ」を受け入れたことは(あれこれと保留をつけて無意味化してはいるが)存続可能なパレスチナ国家の誕生には縁起の良いことのようだ。ブッシュのヴィジョン(この言葉は、断固として最終的な三段階の和平計画となるはずのものに奇怪な夢のような響きを与える)は、自治政府の再建、イスラエルに敵対する扇動や暴力の完全排除、このプランを起草したいわゆる「カルテット」(アメリカ、国連、EU、ロシア)とイスラエルの要求を満たすような政権の樹立によって達成されることになっている。イスラエルの方では、移動制限の緩和や外出禁止令の解除など、人道的な状況の改善に着手することになっている。ただし、いつ、どこで、ということは明記されていない。第一段階では、二〇〇三年六月までに最新の六〇ヶ所の高台入植地(二〇〇一年三月以降に創設された「不法な前哨入植地」と呼ばれているもの)を撤去することになっている。だが、その他の入植地の撤去についてはなにも記されていない──西岸地区とガザには二〇万人が入植者しており、イスラエルに併合された東エルサレムにもさらに二〇万人が入植しているのだが。第二段階は二〇〇三年の六月から十二月までの移行期間とされ、この時期には「暫定的な国境を持ち主権国家の属性を備えた(なにひとつ明言されていない)独立したパレスチナ国家の創出というオプション」に努力を集中させ、最終的には国際会議による承認を経てパレスチナ国家を「創出」する。ただし、ここでも国境は「暫定的」なままだ。第三段階は、この紛争に完全な終結をもたらすためのもので、国際会議を通じて、難民、入植地、エルサレム、国境など最もやっかいな問題の解決を図る。このすべてにおいて、イスラエルの役割は協力することだけであり、真の責任を負わされるのはパレスチナ人側で、矢継ぎ早に成果を出しつづけることが要求される。その一方で、軍事占領は、二〇〇二年春に再占領された主要地域では緩和されたとはいえ、おおむねそのまま継続する。監視という要素は組み入まれておらず、このプランの構造の欺瞞的な対称性のため、次に何が起こるか(もし起こるならば)については、イスラエルがおおむね決定権を握っている。パレスチナ人の人権問題は、現在は無視というより隠蔽されているが、「ロードマップ」にはなにひとつ具体的な是正措置が書き込まれていない。これまで通りのことをつづけるかどうかは、明らかにイスラエルの胸一つなのだ。

今度ばかりは、ブッシュも中東問題の解決に真の希望をもたらしたと、常連コメンテータたちは言う。ホワイトハウスからの計算づくのリークによって、シャロンがあまりに非妥協的な場合にイスラエルに対して発動されうる制裁措置のリストが流されたが、これはすぐに否定され、やがて消えてしまった。新たに浮上してきたメディアのコンセンサスでは、ロードマップの内容──従来の和平案を引き継いだ部分が多い──は、イラクでの勝利によってブッシュが自信を深めたことのあらわれと描いている。パレスチナ・イスラエル紛争に関するおおかたの論議と同様、作為的なきまり文句や現実離れした前提が、力の現実と生身で体験された歴史をないがしろにして、議論の流れを方向付けている。懐疑や批判の声は反米的だとしてはねつけられる。その一方で、ユダヤ系組織の指導層のかなり大きな部分が、「ロードマップ」はイスラエルにあまりに多くの譲歩を要求するものだと非難する。それでも体制派のマスコミは、シャロンがこれまでは決して認めなかった「占領」という言葉を口にして、三五〇万人を超えるパレスチナ人に対するイスラエルの支配を終わらせるつもりだと実際に発表したことを、何度もくりかえす。だが、そもそも彼は自分が何を終わらせようと言っているのか承知しているのだろうか?『ハアレツ』紙に論説を寄せるギデオン・レヴィは六月一日の記事で、シャロンは「何年も包囲攻撃を受けてきた共同体の外出禁止令下の生活について、たいていのイスラエル人と同様、何もわかっていない。チェックポイントでの屈辱や、出産する女を病院に連れて行くため、砂利とぬかるみだらけの道を命がけで進むしかない人々について、彼が何を知っているというのだ?飢餓線上の生活についてはどうだ?家屋の破壊についてはどうだ?夜中に両親が殴られ屈辱を味わうのを見ている子供たちについてはどうなのだ?」と書いている。

今ひとつロードマップから漏れている恐ろしい事実は、現在イスラエルが西岸地区に建設を進めている巨大な「分離壁」だ。南北三四七キロにおよぶコンクリートの壁を走らせる予定で、一二〇キロはすでに建設されている。この壁は高さ二五フィート幅一〇フィートで、建設コストはキロあたり一六〇万ドルと見積もられる。この壁は単にイスラエルと想像上のパレスチナ国家を一九六七年の停戦ラインに従って分離しているだけではない。実際にはパレスチナ側の土地をさらにえぐり取るものだ。時には五、六キロも内側まで。壁のまわりには塹壕や電線や堀が張り巡らされ、一定間隔で監視塔が設置される。南アフリカのアパルトヘイト終焉から一〇年近く経った今、この吐き気のするような人種差別の「壁」が建設されようとしているのに、大半のイスラエル人や、いやおうなくこの費用の大半を払うことになるアメリカのイスラエル支持者たちからは、わずかな不満の声もあがらない。カルキリヤの町に住む四万人のパレスチナ人にとっては、住む家は壁のこちら側にあるのだが、彼らが耕作し、それで生計を立てている土地は壁のあちら側にある。壁が完成してしまえば──たぶん、アメリカ、イスラエル、パレスチナ人のあいだでプロセスについての論争が何カ月もつづいているうちに──およそ三〇万人のパレスチナ人が彼らの土地から切り離される。「ロードマップ」はこれについて沈黙しているし、また最近シャロンが認可した西岸地区の東側にも壁を設けようという計画についても黙っている。そんな壁が建設されれば、ブッシュが夢みる国家を建設するためのパレスチナ領土は本来のものの四〇パーセントに縮小してしまうだろう。これが、シャロンがはじめからずっとねらっていたものだ。

イスラエルは大幅に修正しつつもこのプランを受け入れ、アメリカも本気で取り組む姿勢を明確にしているが、その根底にある無言の前提は、パレスチナ人の抵抗がある程度成功しているということだ。そのために使われる手段の一部や、途方もない代償、またも新しい世代から多くの犠牲が出ていることを嘆かわしく思うかどうかは、また別の話だ。イスラエルとアメリカの圧倒的な優越にもかかわらず、若いパレスチナ人たちは完全には諦めていない。ロードマップの出現については、あらゆる種類の理由が挙げられている──イスラエル人の五六パーセントがそれを支持している、シャロンもついに国際社会の現実に屈服した、ブッシュは他の地域で軍事的な冒険に乗り出すためにアラブとイスラエルの援護が欲しい、パレスチナ人もついに分別を取り戻してアブー・マーゼン(マフムード・アッバースは、この名の方が親しまれている)を首相にした、等々。

確かに一部はその通りだ。だが、言わせてもらえば、パレスチ人が頑として自分たちを「敗北した民」(イスラエルの参謀総長が最近述べたように)とは認めないという事実がなかったとしたならば、和平プランなどというものが出てくることもなかったろう。とはいえ、ロードマップが解決らしいものを少しでも本当に提唱しているとか、基本的な問題に取り組んでいると考えるのは大間違いだ。和平についての一般的な言説の多くと同じように、このプランは、必要とされる抑制や放棄や犠牲の責任を全部パレスチナ人に負わせ、それによってパレスチナ人の歴史の厚みや重みを否定しているのだ。「ロードマップ」を読み通すということは、時代も場所も忘れ去ったどこにも位置していない文書に立ち向かうことに等しい。

言い換えれば、「ロードマップ」は和平プランというよりは、平定プランに近いものだ。パレスチナが「問題」であることを終わらせようとするものだ。それゆえ、この愚直な文体の文書には「遂行」という言葉が何度も出てくる。つまり、パレスチナ人がどんなに行儀よく振る舞うことを期待されているかということだ。暴力を使わず、抗議をせず、民主主義を拡大し、指導者や組織を改善する──これらの要求はみな、根底にある問題は、パレスチナ人の抵抗の凶暴性であって、それを生み出した占領状態ではないという考えに基づいている。イスラエルに対してはこれに匹敵するような要求は何もなく、期待されているのはただ先に述べたような「不法な前哨地」(まったく新しい分類であり、あたかもイスラエルがパレスチナ人の土地に建設した入植地の中には合法的なものも一部はあるかのような印象を与える)の放棄だけであり、主要な入植地については「凍結」しなければならないが、決して撤去や解体が要求されるわけではない。パレスチナ人が一九四八年以降、そして再び一九六七年以降、イスラエルとアメリカのおかげで耐え忍ばねばならなかったことについて何も記されていない。アメリカ人研究者サラ・ロイが近刊書で述べているようなパレスチナ経済の「脱開発」de-developmentについても何も記されない家屋破壊、樹木の引き抜き、五〇〇〇人以上の投獄、指導者の暗殺、一九九三年以降の封鎖、インフラの全面的な破壊、信じがたい数の死者や身体障害者──こういうものがすべて、ひとことの言及もなく放置されている。

アメリカとイスラエルの交渉担当者の凶暴な攻撃性と融通のきかない一方的外交は、すでによく知られている。パレスチナ側の代表は年老いつつあるアラファトの同世代仲間のリサイクルにすぎず、ほとんど信頼すべきところがない。実際、「ロードマップ」はヤセル・アラファトの政治生命を引き伸ばしたかのように見える。アラファト訪問を避けようとするパウエルや部下たちの努力も無駄だった。爆撃でボロボロになった議長府に閉じ込めて彼を打ちのめそうとする愚かなイスラエルの政策にもかかわらず、彼はいまもものごとを掌握している。彼はいまもパレスチナの選挙で選ばれた大統領であり、財布の紐も握りつづけている(といっても、財布はちっとも膨らんでいない)。そして彼の地位について言えば、現在の「改革派」内閣(二人か三人の重要な新人が加わっただけで、あとはみな旧来の顔ぶれだ)の誰ひとり、アラファトに匹敵するようなカリスマも権力も持っていない。

アブー・マーゼンを手始めに取り上げてみよう。はじめて彼に会ったのは、カイロでわたしがはじめてパレスチナ民族評議会(PNC)の会合に出席した一九七七年三月のことだった。彼は飛びぬけて長い演説で、集まったパレスチナ議員たちに、シオニズムとシオニスト反体制派の相違を説明した。その説教くさい調子は、カタールで中・高等学校教師をしていたときに磨き上げたものに違いなかった。これは注目すべき教育だった。当時たいていのパレスチナ人は、イスラエルを構成しているのはアラブ全員が憎悪する原理主義シオニストだけではなく、さまざまな和平推進者や活動家もいるのだということを本当にはわかっていなかったからだ。

後から思えば、アブー・マーゼンのスピーチをきっかけに、PLOはパレスチナ人とイスラエル人の(主に秘密の)会合を進めることになったのだ。彼らはヨーロッパを舞台に和平について長い対話を重ね、それぞれの社会においてオスロ合意を可能にさせたような支持層の形成に大きな影響を与えた。

とはいえ、アラファトが、アブー・マーゼンのスピーチやその後の一連の動きに認可を与えたことを疑うものはなかった。対話への動きは、イサム・サルターウィやサイード・ハンマーミ のような勇敢な人々の命を奪うことになった。パレスチナ側の参加者は政界の中心勢力(ファタハ)から出ていたが、イスラエル側のそれは社会的に無視され悪しざまに言われる少数の和平推進派で、まさにそれゆえ彼らの勇気は称賛に値した。PLOがベイルートを拠点にした一九七一年から八二年にかけては、アブー・マーゼンはダマスカスに駐在したが、その後の一〇年ほどはベイルートを追われたアラファトたちと合流して、チュニスですごした。わたしはそこで彼に何度か会い、彼のよく整理された執務室や穏やかで官僚的な態度、パレスチナ人がイスラエル人と共に和平推進に有益な貢献ができる舞台としてヨーロッパやアメリカに明らかな興味を示していることに感銘を受けた。一九九一年のマドリード会議の後、彼はヨーロッパでPLO職員と独立系知識人を呼び集め、来たるべき交渉に備えて水利や難民や人口統計や国境などの問題についての書類を作成するチームを作り上げたと言われている。これは後に一九九二年から九三年にかけてのオスロ秘密交渉となるものの準備だったが、実際の交渉では、わたしの知るかぎり、これらの書類はどれひとつ使用されず、パレスチナ人専門家はだれひとり交渉の席には直接参加せず、最終的に出てきた合意文書には、彼らの研究の成果はなにひとつ反映されていなかった。

オスロ交渉では、イスラエル側は専門家をずらりと並べて、地図や書類や統計を引き合いに出し、少なくとも一七パターンの合意文書草稿を準備していたが、それに対し遺憾ながらパレスチナ側の交渉担当者は三人の完全に異なったPLO党員に限られていた。彼らのだれひとり英語ができず、国際交渉についての(あるいは他のどんな交渉も)経験もなかった。

アラファトの考えは、代表を送り込むことによって、なによりも自分の関与を保証しようということだったようだ。ベイルートを撤退し、一九九一年の湾岸戦争でイラク側につくという破滅的な選択をした後では、その必要は大きかった。もしも彼に他にも何か目的があったというのなら、その場合はちゃんと準備をしなかったことになるが、それは彼のいつもの流儀だ。アブー・マーゼンの回想録や他のオスロ交渉についての逸話では、アラファトの部下が合意の「立役者」と認められているが、彼自身はチュニスを離れたことがなかった。アブー・マーゼンはさらに、[九三年九月の]ワシントンでの調印式(アラファト、ラビン、ペレス、クリントンと並んで、彼も登場した)から一年もかけて、ようやくアラファトに、彼がまだオスロ合意によって国家を得たわけではないことを理解させた、とまで述べている。それでも、和平交渉についてのたいていの説明では、そんな状態でもアラファトがすべてを裏で操っていたことが強調されている。これではオスロ交渉がパレスチナ人の全般的な状況を相当ひどく悪化させたのも無理はない。デニス・ロスという元イスラエル・ロビー職員(今またこの職に復帰している)が率いるアメリカの交渉団はつねにイスラエルの立場を擁護した。だがイスラエルは、一〇年におよぶ交渉の果てに、パレスチナ人に占領地の一八パーセントを返還しただけで、しかもそこにはイスラエル軍が依然として治安、国境、水利を管理しつづけるという非常に不利な条件がついていた。当然ながら、入植地の数は二倍以上に増えた。

PLOが一九九四年に占領地に帰還してからは、アブー・マーゼンは、イスラエルに対する「柔軟性」、アラファトへの卑屈な従属、ファタハの創設メンバーで中央委員会の幹事長を務める古参でありながら組織的な政治基盤が完全に欠如していることで広く知られる、二級の人物にとどまってきた。わたしの知るかぎり彼が何かに選出されたことはなく、もちろんパレスチナ立法評議会には選出されていない。PLOとアラファトのパレスチナ自治政府は透明性をまったく欠いている。政策決定の過程や、資金がどのように使われ、どこにあり、アラファト以外のだれに発言権があるのかということは、ほとんど知られていない。

けれども誰もが同意するのは、アラファトという、魔性の徹底管理主義者で病的な支配欲の持ち主が、あらゆる物事の中心でありつづけていることだ。アブー・マーゼンが改革推進のため首相に昇進したことは、アメリカ人やイスラエル人には大いに歓迎されたが、たいていのパレスチナ人には、一種のジョークにすぎないのはそのためだ。あの親爺が権力にしがみつくために新手のからくりをあみだしたようにしか見えないのだ。一般的な人々の理解では、アブー・マーゼンという人物は、ぱっとしない、ほどほどに汚職をやり、明確な独自の考えはなく、ただ白人男性に気に入られたいと思っているだけの男だ。

アラファトとおなじように、アブー・マーゼンがこれまで住んだことがあるのは湾岸、シリア、レバノン、チュニジア、そして現在の占領下のパレスチナだけである。彼はアラビア語以外の言語を知らないし、雄弁家でもなければ人前に出る人物でもない。これに比べれば、モハンメド・ダーラン というガザ出身の新しい治安長官──イスラエルとアメリカが大きな期待を寄せて喧伝するもう一人のホープ──は、もっと若くて、利口で、かなり冷酷だ。彼がアラファトの十四か十五の治安警察組織のひとつを任されていた八年の間、ガザ地区はダーラン王国《ダーラニスタン》として知られていた。彼は去年辞職したが、それはヨーロッパ、アメリカ、イスラエルによって「統一治安長官」として改めて採用されるためだった。とはいえ、もちろん彼もまた、ずっとアラファトの子分であることに変わりはない。彼はいまハマースとイスラーム聖戦をきびしく取り締まることを期待されている。これはイスラエルがなんどもくり返す要求だが、その裏にあるのはパレスチナに内戦に近いものを引き起こしたいという願望だ。イスラエル軍が抱く一縷の望みである。

とにかく、アブー・マーゼンがどれほど勤勉かつ柔軟に仕事を「遂行」したとしても、三つの要素に縛られることになるのは明らかだ。ひとつは、もちろんアラファトその人だ。彼がいまも支配しているファタハが、理屈の上ではアブー・マーゼンの権力基盤なのだ。いまひとつはシャロンだ(ずっとアメリカが後ろ盾につくだろう)。

「ハアレツ」紙が五月二十七日に掲載した「ロードマップ」に関する一四の「発言」の中で、シャロンはイスラエル側には柔軟性といわれそうなものを示す余地は、きわめて限られていることを知らせている。三番目は、ブッシュとその取りまき連だ。戦後のアフガニスタンやイラクに対する処理のしかたから察するに、将来かならず必要になってくる「国づくり」を積極的に推し進めようという気持ちも、能力も、彼らにはない。すでにブッシュの支持基盤である南部の右翼キリスト教徒たちはイスラエルに圧力を加えることにやかましく抗議しており、また強力な親イスラエル・ロビーは、イスラエルの占領するアメリカ議会という御しやすい付属物を従えて、イスラエルへのいかなる強制をほのめかすことにも反対するような行動を、ただちに起こしている。イスラエルを抑制することは、最終段階に入った今、決定的に重要なことだというのに。

こう言うと現実離れして聞こえるかもしれないが、たとえ当面の見通しがパレスチナ人にとっては厳しいものだとしても、すべてが真っ暗なわけではない。先に述べたような不屈の精神、パレスチナ社会(蹂躙され、崩壊寸前で、いろんな意味で荒れ果てた)が、まるでトーマス・ハーディのツグミのように、突風に羽毛を波打たせながらも、せまり来る夕闇に向けて気迫を込めてさえずることができるという事実に話を戻そう。アラブの社会でこれほど御しがたく健康的に野放図なものは他になく、これほどに市民的、社会的な自発性や、機能している公共施設(驚くほど活気のある音楽学校など)に富むものも他にはない。在外のパレスチナ人は、多くは未組織であり、故郷を追われ、国のない、惨めな生活を送っている場合もあるけれど、自らの集団としての運命にかかわる問題に積極的に関与しており、わたしの知る人々はみな、なんとか運動を前進させようと常につとめている。自治政府に浸透できたのは、このエネルギーのほんのわずかな部分だけだ。アラファトというきわめて両面的な価値をもつ人物を除いて、自治政府は共同の運命に関して、奇妙なほど重要性のないものにとどまっている。最近の世論調査によれば、ファタハとハマースが両方合わせて有権者の約四五パーセントの支持を得ている。残りの五五パーセントは、それらと大きく異なり、ずっと希望の持てる政治体に発展している。

そのに、特に感銘を受けたものがある(自分でも関与することにした)。その重要性は、唯一の純粋な大衆を基盤とする組織として、宗教政党とその根本的にセクト主義の政治学も、アラファトの古参の(若くはない)ファタハ活動家がたてまつる伝統的な民族主義も、共に退けていることにある。「ナショナル・ポリティカル・イニシアティブ」(NPI)〔パレスチナ・ナショナル・イニシアティブのこと〕と呼ばれるこの組織の中心人物は、ムスタファ・バルグーティというモスクワで教育を受けた外科医である。彼の主な仕事は農村部の十万人以上のパレスチナ人にヘルスケアを提供している農村医療支援委員会のディレクターである。かつては筋金入りの共産党員だったバルグーティは、静かな口ぶりで人々を組織し、統率する。パレスチナ人の動きを阻害する何百もの物理的障害を乗り越えて、彼は各国を回って文字通りほぼすべての主だった無党派の個人や団体に呼びかけて、主義主張の境界を超えた解放と社会改革をめざす政治プログラムの支援に結集させた。驚くほど旧来のレトリックにとらわれることなく、バルグーティはイスラエル人、ヨーロッパ人、アメリカ人、アフリカ人、アジア人、アラブ人たちと協力し、うらやましいほど上手に運営された連帯運動を築きあげた。そこでは多元的共存の主張が実践に移されている。NPIは、インティファーダがあてのないまま軍事化していることにも絶望してはいない。失業者への職業訓練を用意し、困窮者への社会サービスを提供しており、それを持って現在の状況とイスラエルの圧力に対する解答だと考えている。何よりも、いまや政治政党として認知されようとしているNPIは、パレスチナ社会を、国内のものも国外のものもふくめて、自由選挙に動員することを目指している。イスラエルやアメリカの利害ではなく、パレスチナ人を代表するための本物の選挙を行うためだ。このような真正性が、アブー・マーゼンに用意された道には大きく欠けているように思う。

ここでのヴィジョンは、40パーセントの領土の上にでっちあげの暫定国家を築き、難民を切り捨て、エルサレムはイスラエルが握ったままというようなものではなく、軍事占領から解放された主権を持った領土であり、その推進力となるのは、アラブであろうがユダヤであろうが可能なものはすべて巻き込んだ大衆運動である。 NPI は本物のパレスチナ人の運動であるため、改革や民主主義は日常的に実践されている。パレスチナの最も著名な活動家や無党派の人々がすでに何百人とこの運動に参加しており、組織としての会合も開かれている。イスラエルが移動の自由を制限している中で多大な困難に出会いながらも、今後も海外とパレスチナの両方でさらに多くの会合が開かれる予定だ。公式交渉や論議が進められてはいるものの、その一方では非公式で敵方に取り込まれていないオルターナティヴが多数存在しており、その中でもNPIと拡大しつつある国際連帯運動が中心的な要素となっていると考えれば、少しは慰められるというものだ。


注1 トーマス・ハーディの詩 The Darkling Thrush の引用です。<戻る

夕闇に鳴く鶫(つぐみ)

私は、雑木林へ通じる枝折戸(しおりど)に凭(よ)りかかっていた、―
  灰色の「寒気」が亡霊のようにあたりに漂い、
「冬」のどろどろした佇(たたず)まいが、暮れなずむ夕日を
  不気味なものにしていた。
冬空を背にして浮かび上がった蔓(つる)の小枝は、
  竪琴の切れた絃のように縺(もつ)れ合っていた。
今まであたりを出歩いていた人という人はみな、
  暖炉の火を求めて家の中に入ってしまっていた。

この荒涼殺伐な光景は、今まさに去ろうとする
  この「世紀」の空しく横たわる遺骸、
どんよりとした冬空はその納骨堂、
  吹きすさぶ風はその死を悼む悲歌、とも思われた。
遠く過ぎ去った春の日の生々躍動の活力は、
  今見るかげもなく衰え果て、枯渇し、
地上の生きとし生けるものに生色なく、
  そのさまは私の姿さながらであった。

すると、突如として、頭上の寂しげな小枝の間から、
  一羽の鳥の鳴き声が迸(ほとばし)り出、響きわたった。
無限の喜びに溢れた夕べの讃歌を
  心ゆくばかり叫んでいる歌声だったのだ。
痩せ、老いさらばえた鶫が一羽、
  羽毛が烈しい風に煽(あお)られているのも意に介さず、
迫りくる夕闇に向かい、ただ必死に、この時とばかり、
  自分の魂をたたきつけていたのだ。

かくも歓喜に酔いしれた歌声を、
  この老いたる鳥に促すようなものは、
見わたす限り、地上のいかなるものにも
  見つけることはできなかった。
私は思った、― この嬉々たる夜曲の調べのうちに
  脈々と生きているのは、
この鳥が知り、私にはついぞ無縁ともいえる、
  「希望」という、あの幸福な思いではないのか、と。

イギリス名詩選 平井正穂 編(岩波文庫 '90初版)
http://www1.odn.ne.jp/~cci32280/PBThomasHardy.htm


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