「アイアン・ホース」 |
1924年アメリカ映画 監督ジョン・フォード 場所:キノ・キュッヘ 日時:2002年12月15日(日)15:30〜 解説:佐々木 健 |
●映画の誕生 1839年「写真の発明」 1877年「連続写真の成功」エドワード・マイブリッジ(カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォードが「馬が全速力で走るとき、四本の脚が同時に地面から離れることがあるかないか」の掛をした。 ★ジョージ・イーストマンがロール・フィルムを誕生させた。 1889年10月6日トーマス・エジソン「最初の活動写真の実験」 1891年撮影機「キネトグラフ」、映写機「キネトスコープ」の特許の申請。 1894年4月14日「キネトスコープ館」ニューヨーク、ブロードウェイ1155番地。 一人一人が覗く形式。25セント(当時の熟練労働者の時給) ★特許の申請事項に映写幕を使用する可能性を盛り込まなかった。ヨーロッパで同じ特許の申請を行わなかった。 1895年12月28日オーギュスト&ルイ・リュミエールが、パリのキャピュシーヌ大通り14番地のレストラン、グラン・カフェのインドの間で、「シネマトグラフ」による一般有料試写会を開催。 1909年映画館は8000館を越える。 ●ニッケルオデオンの流行 20世紀に入ると、スクリーン椅子などの設備を備えて、5セントの入場料をとるようになった。 「ニッケルオデオン」(5セント映画館)、1日12時間、1回の上映は30分程度、最初は日替り、後一つの映画が3〜4日上映。フィルムレンタルは週15ドル。 黄金時代(1905年~1915年) 当時人気はボードビル。(15セント~25セント)に比べ、5セントの映画は労働者でも見ることが出来た。アメリカ映画はその始まりから、文字の読めない人々にも、心躍るヒーローとヒロインを提供しロマンスと興奮と笑いをもたらした。 移民や労働者たちのための「大衆娯楽」という性格をもっていた。 ★アメリカ文化のもっとも大きな特徴は知識や芸術や小品を「大衆化」したことだが、映画はそれまで少数の人間しか見られなかった演劇を大衆化することに成功した。(無声映画ー英語がよく理解出来ない大量の移民たちにもかけがえのない娯楽になった)ーアメリカ映画が広く国際性を獲得する一因。 司馬遼太郎「多民族国家であることの強みは、諸民族の多様な感覚群がアメリカ国内において幾層もの濾過装置を経てゆくことである。そこで認められた価値が、そのまま他民族の地球上に普及することができる」(アメリカ素描) ●ユダヤ系移民の進出 ハリー・ワーナー(ポーランドからの移民の子供。3人の弟とともにペンシルバニア州で映画館を開いた。) カール・レムリー(ドイツからやってきた。「ユニバーサル映画」フィルムの交換、レンタル業の開始。映画製作への進出。) アドルフ・ズーカー(ハンガリーからアメリカに渡ってきた。フェイマス・プレイヤーズ社を設立。映画製作のジェシー・ラスキーと組んで「パラマウント映画」を始めた。 スケンク兄弟(ロシアからやってきた)はヴォードビルの興業師マーカス・ロウは、大規模な劇場チェーン、ロウズ社を設立、作品製作も始めた。 ルイス・B・メイヤー(リトアニアから渡ってきた)は、マサチューセッツに映画館を開き、ニューイングランドの大手配給業者に躍進。 サミエル・ゴルドウィン(ワルシャワからきた)はジェシー・ラスキーの妹と結婚師、映画製作に進出。 「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」の誕生。マーカス・ロウが社長のロウズ社が母体となりゴールドウィン社を取り込んで、ルイス・B・メイヤーが製作事業の中心。 ルイス・J・セルズニック(ロシアのキエフ出身)は宝石商から映画製作に進出。息子ディヴィット・セルズニックはメイヤーの娘と結婚し、「風と共に去りぬ」を作る。(配役を決めるための寝椅子方式) ハリー・コーン「コロンビア映画」を設立。ドイツ系ユダヤ人を父にロシア系ユダヤ人を母に持つ。 ★のちにアメリカの映画界を牛耳ることになるこれらユダヤ系アメリカ人の年齢は1910年時点で、年長のレムリが43歳で、年少のメイヤーが25歳、彼らのエネルギーが原動力となりアメリカ映画は急速に発展していく。 ●ハリウッドの誕生 1910年ジェネラル・フィルム・カンパニー(エジソン社&バイオグラフ社):独自の配給会社。地方の配給組織を次々に吸収し2年後には全米9千軒ものニッケルオデオンの半数以上を傘下に収めた。 ユダヤ系移民:当初は劇場経営と配給業に専念。1909年頃よりニューヨークやシカゴで映画製作に乗りだす。パテント(活動写真の特許権会社)がエジソンの撮影機の特許を盾に取り、妨害。 そうした妨害に嫌気がさして、パテントの目の届かないところで撮影をしたいと考え選んだ場所が当時まだ未開の地に等しかったカルフォルニアの「ハリウッド」(ヒイラギ林)という場所だった。1886年にカンザスからやってきた不動産業者の妻がロスに近いこのあたりが当時広大な森林地帯だったからだと言われる。当時の人口は1万2千人。 ★ハリウッドの魅力は気候がいいこと。一年のうち355日は青い空が広がり、周囲に砂漠があることも当時の流行だった西部劇をつくるのに都合がよかった。労働者の賃金もニューヨーク・シカゴに比べ安かった。 またニューヨークやシカゴの様に支配階級が出来上がっていなく、ユダヤ系独立製作者自身が支配階級を形成することも夢ではなく、結果的に彼らの願いどおり、彼らは結束を固めてユダヤ系アメリカ人による一大映画村「ハリウッド」を築き上げた。 1911年ネスター社が現在のほぼ中心地に撮影所を建てた。翌年ユニバーサル映画が向かい側にスタジオを建てた。その翌年セシル・B・デミルが撮影所を建て、「スコウ・マン」を撮影、この撮影所が「パラマウント・スタジオ」に発展。 1918年第一時世界大戦の終わり、撮影所の数は70を越え、世界の映画の80%がハリウッドで製作されるようになった。 1917年 パテントの力が弱体化、独占禁止法で、特許会社自体が違法と宣告。 1915年2月8日「もはやニッケルオデオンの時代は終った。これからは大劇場と超大作の時代がはじまる。これだけ多くの人々が映画を見るのだから、中には言葉のわからない人もたくさんいる。だが、映画は万人共通の言葉だ。良い作品は見る人に、忘れられない感動のひとときを与えるのだ」シカゴの映画製作者の宣言。こういわしめた映画がD・W・グリフィスの「国民の創生」だった。 ●西部劇 アメリカ人にとって、今日のアメリカという国がいかにして作られたか、と言うことを探索するドラマとしての特質をもっている。 ●ウィリアム・S・ハートの西部劇 初期の西部劇はカウボウイが馬の曲芸を見せて喜ばせるといった単純なものだったが、ウィリアム・Sハートは初めて劇的な性格をもった人物を主人公にして本格的なドラマを作りだした。 彼の描いた典型的西部人は、荒くれ男で列車強盗や銀行強盗のような無法はやるが、根は純情で、女性を尊重し、馬泥棒やインディアンに武器を売る様な行為は卑劣なこととして憎む人間である。無法者が純な女性の忠告に翻然と目覚めて正義を行うが、結局自分はその女性にふさわしくないことを悟って、一人さびしく荒野の彼方にさすらいを続けていく、というようなお決まりのストーリーだった。 「人生の関所」1920年 ●フロンティア・スピリット かつてアメリカ人は、自分たちの国を本当に良い国だと信じていた。自分たちはアメリカに逃れてきたのではなく、古い因習の旧大陸を見捨てて、神が幸福を約束する「新天地」にやって来たのだ、と考えていたし、西部の開拓と言うのは、先住民族であるインディアンから土地を強奪することではなく、荒地に神の福音をもたらすことだと思っていた。 「幌馬車」1923年ジェームズ・クルーズ 「アイアン・ホース」1924年ジョン・フォード (西部劇に開拓物というジャンルを打ち立てた傑作) ジョン・フォードもこのころは、もっぱら白人の正義を信じている。アメリカ人はこのようにして未開の地を白人の機会文明で輝かしいものにしていく文明の使徒だった。それは正義であり、誇るべきことである、そういう自身に満ちたアメリカ魂の宣言がここに行われる。 ○地理学的な意味でのフロンティア 1平方マイルに2〜6人(1家族)位の人口。このフロンティアに接する地域をフロンティア社会と呼んだ。 ●フロンティアの消滅 1890年インディアンの組織的抵抗が全て終わり、国勢調査の結果フロンティア・ラインの消滅が報告された。 1890年暮、サウス・ダコタのウーンデッド・ニーでスー・インディアン約350人が軍隊に包囲され、武装解除されている間に争いが起こり、300人近くが殺された。軍隊の側からは、「戦闘」とよばれ、インディアンの側からは「虐殺」とよばれた。この時点で全米インディアンの組織的抵抗は全て終った。有無をいわさぬ征服という実情だった。 ■大陸横断鉄道の建設(このあたりの10年間に多くの国が近代的統一国家への道を歩みだす) 1861年 ロシアの農奴解放令 イタリア王国の成立 1865年 南北戦争終結 1868年 日本の明治維新 1871年 ドイツ帝国の成立 ○戦争終盤、カリフォルニアから約20万ドルの大金を抱えてワシントンの議会にやってきたコリス・ハンティントンはそれと引き換えに「大陸横断鉄道建設許可状」を持ってカリフォルニアに帰った。 こうして設立された会社が、政府からの莫大な交付金や沿線土地の下付を背景に鉄道建設の競争をしながら、とうとう1869年に大陸横断鉄道を完成させた。この時大勢の中国人移民が、西部での敷設作業に従事している。(日本で新橋・横浜間に鉄道開設は1872年) 「鉄道はアメリカ産業に最初に現れた大企業であり、後に巨大な産業的企業の財政を処理し、それを管理していく上で唯一の利用可能な手本となった。鉄道の発起人、融資者、経営者たちは巨額の投資や複雑な管理様式を必要とする民間事業体を設立した最初の事業家たちだった。アメリカの実業家は他の国々の実業家に先んじて新しい方法を開拓した。それは、アメリカの鉄道が公企業ではなく、民間企業だったからであり、また鉄道網やここの鉄道が大規模だったためでもある。こうして19世紀終りには、アメリカ一国の鉄道網が全ヨーロッパを凌駕し、アメリカに何人もの鉄道王が生まれた。」 参考文献「アメリカ映画の大教科書(上)」井上一馬 「世界映画史」佐藤忠男 「物語 アメリカの歴史」猿谷要 |