時は1938年、日本統治下の台湾東北部宜蘭県の山中深いタイヤル族のリヨヘン社(村)で警官兼教師の仕事についていた日本人巡査のもとに出征の命令が届き、山を下りることになった。普段から村人の面倒を見、慕われていた巡査を見送ろうと村の青年等が荷物運びを買って出た。その中には当時17歳の少女サヨン・ハヨンもいた。その日は物凄い暴風雨が吹き荒れ、リヨヘン社から麓迄行く途中の川の水かさが増し、サヨンは橋から足をすべらせて激流に飲み込まれてしまい帰らぬ人となった。
この悲劇は当時の台湾総督、長谷川清の知るところとなり、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にしたということで、愛国美談として顕彰されるようになり、サヨンの村には長谷川総督より記念の鐘が送られ、「愛国乙女サヨン遭難碑」も遭難場所付近に建てられた。
1941年古賀政男作曲、西条八十作詞で渡辺はま子が歌う「サヨンの鐘」が台湾全島で流行し、サヨンの悲話は台湾全土にひろがった。そして、この大ヒットに便乗して1943年に製作されたのが、李香蘭(山口淑子)主演の映画「サヨンの鐘」である。歌手の渡辺はま子さんの歌詞のノートには「海軍大将長谷川台湾総督の許可を得て作る」と記録され、台湾総督府の情報宣伝部員は「総督から少女の善行、徳行をさりげなく全島に普及させるよう指示された」という。この歌と映画によって、多くの現地の若者が高砂義勇隊や従軍看護婦に志願していったらしい(高砂族:たかさごぞくとは、台湾原住民の総称である高山族の日本統治時代の呼称であり、当時、日本は台湾人を蕃人、蕃婦と呼んでいた)。
映画「サヨンの鐘」のロケ地は、「霧社事件」で有名な霧社。霧社に住む、かつて首狩りの風習があり台湾で最も勇敢な民族といわれていたタイヤル族は、1985年、下関条約で台湾が日本領になってからも日本の統治に強く抵抗していたといわれている。日本軍は警察官らを霧社に入植させ、医療、教育、軍事教練を通じて直接統治を強め、帝国臣民として考え方を強制し、土着的な風習を排除していった。そうした状況に反発したタイヤル族は、1930年10月27日未明、日本人学校と台湾人公学校の合同運動会の会場で、日の丸掲揚、「君が代」のオルガンの調べを合図に族長モーナルーダオを先頭に武力蜂起し、日本人入植者227名中134人が殺害、26名に重症を負わせた。日本統治下史上最大の台湾民族による抵抗闘争だった。これに対し日本当局は警察だけでなく軍隊を投入し、蜂起しなかった原住民を先頭に総攻撃を開始、飛行機による爆撃や毒ガス(生物兵器)まで使用し、反乱を鎮圧した。これが「霧社事件」のあらましである。これに続く「第二霧社事件」というのがあり、日本警察に保護された放棄した投降者が、日本官憲の黙認の元、蜂起しなかった原住に襲われ殺害されたのである。こうして蜂起に参加したタイヤル族は、ほぼ根絶されその後、台湾の山地政策はさらに強化された。それから11年後、太平戦争が開始されると、軍はフィリピン・ニューギニア前線に「皇軍兵士」として高砂族を送り込んだ。
映画「サヨンの鐘」はこの「霧社事件」をかなり研究して作られている。たとえば、登場人物の皇軍兵士である三郎という名は、霧社事件当時、優秀な現地人が補助警官として日本名を持ち一郎、次郎という名がつけられていた事実がある。また三郎の幼なじみで出征するモーナはモーナルーダオからとられている。そして、サヨンの事件は、二度と「霧社事件」のような蜂起を起させない為の、日本統治下の台湾の人々の「皇民化」を示す恰好の宣伝材料となった。
実は、私は1999年に「霧社事件」でタイヤル族が蜂起したという現場を訪れる機会があった。今は電力会社の施設になっていたが、日本式の家屋がまだそこにあった。ここでの攻撃の合図が日の丸掲揚と「君が代」のオルガン演奏だったと知った時、日本による侵略の象徴なのだなと強く思ったものだ。今、教育の現場で日の丸、君が代が強制されていることがどういう意味を持つのか過去が教えてくれる。また、イラクへの自衛隊派遣で、現地のイラク人が自衛隊員に反発したとき、自衛隊がどういう行動をとるかは「霧社事件」が語っている。戦争や人を殺すキッカケをこちらから作ったり行ったりしてはならないのだ。
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