ブルー・イン・ザ・フェイスBLUE IN THE FACE |
85 分・アメリカ・1995年 監督:ポール・オースター、ウェイン・ワン 製作総指揮:ハーヴェイ・カイテル、ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン 脚本:ポール・オースター、ウェイン・ワン 出演:ハーヴェイ・カイテル、ミラ・ソルヴィノ、ジャレッド・ハリス、ジャンカルロ・エスポジート、 ロザンヌ、ジム・ジャームッシュ、マイケル・J・フォックス 場所:キノ・キュッヘ 日時:2005年8月21日(日)16:30〜 問合せ:042ー577ー5971(キノ・キュッヘ) 佐々木 健 |
小説家のポール・オースターとウェイン・ワン監督が組み世界的ヒットとなった「スモーク」の続編的作品。ニューヨーク・ブルックリンに住む様々な人々の人情劇が繰り広げられたオーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)の煙草屋が舞台の「スモーク」の撮影直後、可能なキャストで短時間・低予算で2本目の映画がつくれないかというオースターとワンの希望で製作された作品だ。どちらを先に見てもいいのだが、両方からは背景が同じでも全く違った映画が出来上がるというという面白い見方も出来ると思うので、両作品を見ることを薦める。 物語(というか内容の紹介) オーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)は、ブルックリンで煙草屋を営みながら、スペイン人のヴァイオレットという恋人がいて、今度の土曜にライブに 行く約束をするが、別の用事を入れてしまう。10代の子供達が、窃盗や銃を撃ったりするブルックリンという街にあって、オーギーの煙草屋は様々な人種が集まるたまり場になっている。そんなブルックリンという街をルー・リードは住み慣れて街を出ようと思ってから35年になると言い、煙草屋にたむろしている妹の彼氏と姉が喧嘩したり、またオーナーの妻が夫ヴィニーとのことを愚痴りに来たりする。しかしオーナーのヴィニーは、赤字の煙草屋を閉めて健康食品の店にするというのだ。 常連のジム・ジャームッシュは禁煙を決意し最後の一本をオーギーと一緒に吸いたいと言う。店の前には、ブルックリン名物のベルギー?ワッフルを欲しがる女が店の場所をたずねている。店にはラップに乗せて腕時計を売る行商人が現れて、イアリアと黒人の混血の常連客に言いがかりを付けたりするが、オーナーのヴィニーが登場しカントリーを唄って雰囲気が良くなったりするのだ。 昔ブルックリンには大リーグの球団ドジャースがあり、メジャー初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンは栄光の42番といわれ国中にファンがいたがドジャースはカリフォルニアに移転してしまった。そのジャッキー・ロビンソンの幽霊が煙草屋を閉店しようかどうか悩むオーナーのヴィニーの元に現れる。ドジャ ースの移転は金に負けたのだが、人々の心の中に残っている。物より心だと昔ながらのブルックリンの良さを説く。 ヴィニーの妻が再びやってきて、夫が自分に無関心な事に頭に来て一人でラスベガスに行くと言い出すが、結局ヴィニーも一緒に行くことになる。数日後歌う電報配達(マドンナ)が、ヴィニーが店を売らない事にしたという電報を届けにやってくる。喜んでオーギーとヴァイオレットが店の前で踊りだすと周りから大勢の人々が集まりだし572人ものダンス・パーティになる。その9ヶ月後オーギーとヴァイオレットには子供が生れ、一年後、白いスーツのラッパー(時計売り)が現れ、「悪い知らせがある」と言ってまたヴィニーが歌う。「人生生きてりゃいいこともあるさ、気楽に生きりゃこの世は天国」と。 解説 この映画を楽しく見ようとするなら、ブルックリンという街のことを知っておいた方が良い。と言うわけで、映画にもそこに住む多様な人種の人々が登場しブルックリンを紹介する。「ブルックリンには230万人が住んでいる」「住んでいる人種の数は90で、会社や店が3万2千軒、キリスト教会とユダヤ教会堂とモスクが合計1500ある」「1994年、強盗が3万973件、凶悪暴行事件が1万4596件、殺人事件が720件起きた」またある女性が「ブルックリン気質とは、自分に自信を持ってこうと決めたらとことん貫き通すこと」と言う。また若い女の子は「ブルックリンの娘の喧嘩は殴り合いをし、瓶やバケツまで持ちだしたりする」というし彼氏はといえば「一日中、ビールを飲んでハッパをやってという。「ブルックリンには自然がいっぱいあって、他の街よりも住みやすい」らしい。「87万2702人のアフリカ系、41万2906人のユダヤ系。46万2411人のヒスパニック系が住んでいる」「良いところはいろんな国の人間がいるところで、悪いところはそのいろんな国の人間が衝突しているところ」「ブルックリンの道路には326万8121個のくぼみがある」「ブルックリンにしかないものは、木にひっかかったビニール袋だ」「ブルックリンのレストランでは1日に7999個のベルギー・ワッフルが食べられる」 こんな風にブルックリンという街は雑多で混沌とした街なのだが、住民は皆好きな様なのだ。それはいろんなものが対立していながらも共存し続けているからではないかと思ったものだ。映画はそれを決して説明したりはしないのだが、映画の冒頭では、黒人の子供が白人の若い女性のバックを引ったくり逃げるのだが、オーギーが捕まえて警察に逮捕してもらおうと言うと、女性は子供を許してやってという。オーギーは再び女性のバックを子供に渡して逃がしてしまうのだ。これと対応するような話が、ラストに出てくる。ダチをけしかけて老人が経営するチキン料理の店に強盗に入らせ、老人を殴って金を奪うのだがダチの母親がそのことを知って、子供を老人の店に連れていき「牢屋に入れるなりどうにでもしてくれ」というが老人は許してやって、子供は老人の店で真面目に働き、老人の亡き後その店を経営して繁盛しているのだという。こういう話が説教臭くなくさりげなくちりばめられている。なんでだろうとこちらは考えてしまう。また黒人の時計売りのラッパーは時計の値段に当たり前の様に、黒人値段と白人値段をつけている。メジャーリーグ初の黒人選手、ドジャースのジャッキーの活躍のおかげでその後、黒人も白人も人間の見方が変ったと言う話。また、「木にひっかかったビニール袋を見るたびうんざりしていたが、それを取ることで、楽しみに変った」と言う話。またルー・リードは「煙草で死んだ友人がたくさんいるが、それは同時に15分でスコッチを空けたからで、逆の意味では煙草は健康的だ」と言ったりする。ジャームシュは「映画で煙草をすうのがカッコいいと思って吸い始めたのに、ハリウッドでは法律で煙草を吸ってはいけない」また「煙草の煙は消えて行き死を連想させるが、生きることは死ぬことでもる」と言う。 いわゆる、矛盾したり、正反対のことを言ったりがこの映画の中にふんだんにちりばめられているのだ。それがブルックリン的であり、人間的であるかともいうように、正しいことに縛られるよりも「間違いは良いこと」であり、「狂気の社会では正気が狂気でもある」のかもしれない。 本当に世の中は何が起こるかわからないのだが、多民族共存の人生のコラージュ的なこの作品をみて「島国根性」の日本人にはどう見えるのだろうと考えてみた。つまらぬナショアリズムで共存ではなく異質な者を排除してしまうやり方。おおらかさよりも自分自身を保持しようとする堅物的な態度がどんどん住みにくい世の中にしている様な気がする昨今、この「ブルー・イン・ザ・フェイス」は何度か見て考えてもいい。この映画を楽しめる様になればしめたものだ。 それに、この映画(スモークでも)で、ブルックリンという街は貧しいが、貧相ではないと思った。「スモーク」ではオーギーが3年かけて貯めた大金が 5000ドル(5?60万円)で、(ある意味で)この程度の金で泣き笑いする訳だし、歌って踊る郵便配達のマドンナがオーギーからもらったわずか5ドルのチップで「これでママに補聴器を買ってあげられる」というのだ。本当にこうした経済感覚なのだろうと思う。本当はブルックリンの住民の所得面も知りたかったのだが・・・ 今や、日本の労働者人口の1/3が非正社員(フリーターや派遣社員や非常勤)でそのうちの4割が年収100万以下、4割が200万以下という現実がある。状況はもっと厳しい方向に進み貧富の差がどんどん拡大するのだろうが、この映画のような多民族が共存出来る精神的な力量を持ちたいものだと思った次第だ。 |