「国のために死ねる人間づくり」を許さない! 六月二十九日、「国旗・国歌法案」が衆議院で審議入りしました。これは周辺事態法などのガイドライン法の成立を受けて、盗聴法、破防法改悪、国民総背番号制導入などの「戦争ができる国づくり」のための「国のために死ねる人間づくり」に向けた、危険な法案にほかなりません。 小渕首相は、衆院本会議で「君が代」の「君」の解釈を「日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇を指す」とし、また「代」については「『国』を表す意味もある」という解釈を打ち出しました。この解釈は、日本が「天皇の国−天皇制支配国家」であることを明確にする意図を持っていることをあらわにしたとしか言いようがありません。 政府は「強制や尊重義務は法案に盛り込まない」としていますが、そもそも法制化する意図は「強制のため」以外のものではないでしょう。教育現場では「日の丸・君が代を掲げるか否か」という論議が法制化されれば、「国旗・国歌を掲げるか否か」という論議にならざるをえません。「国旗・国歌法案」は、「思想信条の自由」を踏みにじり、「非国民」をあぶり出す装置として「日の丸・君が代」をより機能させる意図を持っているのは明らかなのではないでしょうか。 マスコミの論調では「日の丸に罪はなく(デザインとしても)いいのではないか」という意見が主流になっています。この言葉を「日の丸」を掲げた日本軍に侵略され、殺害されたアジアの人々はどう思うでしょうか。「天皇の赤子」として「同化」を強要され、言語・文化を奪われたアイヌの人々にとって「日の丸」とは忌まわしい旗でしかないでしょう。おなじく「同化」を強要され、天皇ヒロヒトに切り捨てられた結果、沖縄戦の悲劇を体験し、いまでも基地の重圧に苦しむ沖縄の人々にとっては……? 「貴あれば賎あり」「上がつくられれば下もつくられる」として天皇制支配の必然として生み出された部落差別に苦しめられてきた人々にとっては「君が代」とおなじく「日の丸」も天皇制支配のシンボルでしかないでしょう。 民主党は、「日の丸」だけ法制化する「修正案」を提出する方針のようです。まったく根本を見誤っているとしか言いようがありません。「日の丸」にも「君が代」にも反対しなくては、自民党の攻撃を打ち破ることはできません。 「国民的討論を」?−−−やはり日本共産党の責任は重い 法案に対して一般から広く意見を聞く「公聴会」では、自民党推薦の参考人からも慎重意見が続出しました。広島や沖縄での「公聴会」や、参考人として発言した部落解放運動の活動家などからも「法制化」に対して、厳しい意見が出されました。 日本共産党は「国民的討論を」などと主張していますが、「国民」の外に存在するアジアの声や「マイノリティ」にされている人々の意見をどう考えているのでしょうか。 そもそも、腐敗したイベントでしかないオリンピックやナショナリズムを扇動するサッカー・ワールドカップを無条件に賛美し、『しんぶん赤旗』の紙面に「サポーター」の日の丸を大写しし、「国旗・国歌の法制化は必要」などと突然発表して、自民党の「日の丸・君が代」法制化攻撃に水路を開いたのは、日本共産党だと言わざるをえません。 今年二月の広島の高校校長の自殺に関して、「(教育現場で)沢山の人がリンチに遭い……それは部落という問題と関係がある」という宮沢蔵相発言を日本共産党は高く持ち上げ、「いかに部落解放同盟(の糾弾)が教師などを自殺に追い込んだか」などというデタラメな記事を『しんぶん赤旗』に掲載しました。 校長自殺を契機にした「日の丸・君が代」攻撃のさなかに、自民党と歩調をとって、まず部落解放運動を攻撃することで、法制化反対運動の足を引っ張った日本共産党の責任は重いと言わざるをえません。 そもそも国旗も国歌もいらない 日本共産党などは「国旗・国歌の法制化は必要」と言い、マスコミは「日の丸・君が代は否かどうか」という議論で止まっています。私たちは「国旗・国歌そのものがいらない」と主張します。そもそも「国旗・国歌」の存在理由自体が、国家による国民統合のシンボルという機能を果たすものであり、必然的に差別を生み出すものでしかありません。 それは「愛国心」の強要であり、「愛国心」とは「汝の国家権力を愛せ」ということです。私たちの社会と労働に寄生して搾取する資本を暴力装置によって防衛して、システム化しているのが「国家」です。私たちは、そのような「誇り・ナショナルアイデンティテイー」そのものを嫌悪し、否定します。そして、一人の自由な人間として、差別も戦争もない世界を求めるものです。「国旗・国歌法案」は、日本の差別分断支配を強化し、私たちがアジアの人々と真につながる権利を奪うものです。 この軍事大国化のための反動法案を絶対に葬りさろうではありませんか! |