はじめに〜性からの自由、性への自由を求めて〜 私にとって同性愛者たちのカミングアウトは、「異性愛」者であることに無自覚だった私自身への問いかけとしてあったと思います。 伊藤悟さんは、管理教育を批判した『先生!ビンタはむかつくぜ』(三一書房)を出版したところ、「『学校を誹謗中傷するような本を出した講師がいる高校に、うちのいい生徒は送れない』という圧力がかかり」解雇されてしまいます。伊藤さんはその著作(『同性愛の基礎知識』以下引用は「伊藤」とだけ記入する)の中で「同性愛者であるいことがバレて、それを宣伝されたら絶対に勝てない」という不安から解雇に対して不服を述べられない状況に追いやられていたと述べています。伊藤さんは、解雇される1年前に実際に「ゲイであること」を理由に脅迫を受けていたそうです。ゲイ・マガジンの通信欄で、ある男性と知り合い、文通を始めたところ、交通事故で彼が死亡してしまった。その数週間後に伊藤さんの学校宛に「お前が『ホモ』だってことを校長にバラすぞ!」という脅迫状が高校宛に送られてきたそうです。同性愛者は、このような心理的プレッシャーと実際の脅迫によってカミングアウトできない状況にたたされるのです。 私の友人(男性)であるKさんの場合、自分の性意識が「病気」だと思っていたといいます。Kさんは、異性との関係をつくって、結婚して二人の間に血縁に基づいた子供を「作ること」が、「一人前の男」というモデルにとって不可欠なものとして、意識していたといいます。そのことを経て自分が同性愛だということを「治療」できると考えていたのです。 このように同性愛者が生きていくということは、自分自身の意識の葛藤にはじまり、差別や人権が侵害されるという環境に立たされるのです。あるいは同性愛者が存在を全面に打ち出したとき(カミングアウト)、差別・偏見がさらに同性愛者たちに襲いかかってきます。 東京都のアカー(動くゲイとレズビアンの会)に対する「府中青年の家」利用拒否のケースではそれが典型的に現れた事件といえましょう。90年2月にアカーが東京都の公共施設である「府中青年の家」を合宿のために利用しました。アカーは、「青年の家」利用者たちが紹介しあうリーダー会で、「私たちの団体は、同性愛者同士おたがいに助け合いながら、同性愛者に関する正確な知識・情報を広め、社会的な差別や偏見をなくすための活動を行っています」と自己紹介しました。ところが、その夜から、他の宿泊利用者から嫌がらせを受け始めます。風呂場をのぞかれたり、「こいつら『ホモ』なんだよな」「また『オカマ』がいた」などの言葉を食堂や廊下などで浴びせられたりしたのです。アカーのメンバーは、「青年の家」管理者に対して、宿泊者全体での話し合いを要求しますが、不十分な場しか開かれず、「青年の家」所長との話し合いも拒否されます。さらにはその後に「府中青年の家」を利用しようとしたところを拒否されてしまいました。 アカーは、このような対応を行う「青年の家」管理者に対して、91年2月、「同性愛者の宿泊利用の是非を問う」裁判を東京都を相手取って行うことになりました。そして、94年3月30日、東京地裁は、東京都に対して「同性愛者の利用拒否は違法」とする判決を下します。判決の中では、東京都の主張すべてを棄却し、アカーに対する「府中青年の家管理者」の行為は、憲法20条の「学習権」、21条の「集会の自由」を侵害するものだとしました。また、判決では、同性愛者に対し「人間が有する性的指向の一つであって、性的意識が同性に向かうものである」と価値中立的な定義が公的に明文化されたことの意義は大きな前進でした。東京都は、この判決を不服とし、「青年の家に同性愛者がいること自体、他の青少年に悪い影響を与える」という論理を持ち出し、控訴したのです。しかし、東京都の控訴もむなしく、97年、第2審判決でもアカーは完全勝訴しました。 ある意味で、東京都が押し進めたアカー排除の論理が、現在の社会の性規範を体現しているのだと思います。そして、このような「性規範」の論理の解体作業をするということは、同性愛者が続々とカミングアウトし、差別を許さない闘いをすすめることにつながると思います。同時に「ゲイがカミングアウトすることは、『隠れ続ける』不安・緊張から”自分”を解放する力になるだけではなく、異性愛者を相対化することもできない世間の大勢に、性的自我の覚醒と自己点検を迫る」(『アンチ・ヘテロセクシズム』平野著以下引用は「平野」とする)のです。私をも含めて一人ひとりが、同性愛者をカミングアウトさせない社会の一員だったことをどこまで意識化するか、が重要だと思います。 平野さんが述べているように、「日常生活レベルで『ゲイとして』ヘテロと接することは、ゲイとヘテロの相互理解を深めると同時に、ヘテロ文化の枠組みに変革を求めること、闘いを挑むこと」なのです。私は、異性愛中心の社会に生きる異性愛者として、このメッセージをどう受け止めるべきか問われるべきだと思いました。 アジア連帯講座では、セクシャルライツ企画として連続で学習会を行い、セクシャリティやジェンダー問題をどう考えていくのか討論していきます。そして、どんな性的指向(セクシャル・オリエンテーション)であっても社会的公正を目指すために、今後も、アジアに広がり続けるエイズ問題や買売春問題などを多角的に取り組んでゆきたいと思います。 性的対象としての存在ではなく、一人の人間として生きていくためにはどうしたらよいのか、あるいは、性的対象にのみ貶める側である異性愛(特に男性)が分断・支配を克服していくにはどうしたらよいのか考えられる企画を提起し、行動してゆきたいと思います。その意味で、今回私が報告するわけですが、私は、ヘテロであり、男であるというところから、どこまで「同性愛者」の立場を共有化しているのかは疑問ですが、『同性愛の基礎知識』(あゆみ出版・伊藤悟著)と『アンチ・ヘテロセクシズム』(現代書館・平野広朗著)を参考に考えていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 「同性愛者」の起源はいつか? 「同性愛」という言葉は、ハンガリー人医師によって1869年につくられました。また、「異性愛」という言葉自体、「同性愛」という言葉が作り出されたあとに出てきた用語でした。つまり、「同性愛」という言葉自体が「病理」「逸脱」「犯罪」を含意して用いられており、「異性愛」という言葉も生まれず、「同性愛者」を治療対象としてのみ考える「異性愛者」が生み出した概念だといいます(『メンズリブ批評』河口論文を参照)。 あるいはキリスト教社会はゲイに対して不寛容であったといわれています。しかし、『キリスト教と同性愛』(ジョン・ボズウェル著)によると「12世紀に至るまでキリスト教会は、大勢としてゲイに寛容であった」と述べられています。逆に、ゲイに対して不寛容だったのは、帝政ローマ崩壊〜10世紀後と13世紀〜今日までとしています。その原因としてボズウェルは、「閉塞した社会」の問題と密接不可分なのではないかとしています。すなわち同性愛者の不寛容は、ユダヤ人の不寛容と同時進行だったことから考えられるように、多数は基準以外の少数派を排除する構造を作ることで支配階級は社会を維持してきたのではないかということです。まず偏見あり、後に論理が「ねつ造」されるのです。だたボズウェルの記述そのものが本質主義(性の問題を変化しないものとみる)的な視点で書かれている点もあり、「ゲイに『寛容』とされる時代にあっても『女性役割』ゲイはみすがされ、永続的カップルを称揚していた(平野)」女性蔑視的な社会であったことは今も昔も変わりありません。 科学者は、いくつもの同性愛者に関する研究をしました。同性愛者に関する珍説を発表しては、その珍説が消滅するということを無責任にも繰り返しています。これらは、研究者の「偏見」に基づき、同性愛者を研究対象とし、「科学」なる非科学で「差別」を正当化する姿勢にほかなりません。例えば、「同性愛者・脳の組織の発達と関連 米の学者が新説(朝日 91.9.11)。あるいは、「7ページを割き、同性愛特集『ニューズ ウィーク日本版』(92.2.27)。同様な研究が」『SCIENCE』(93.7.16号)。 これらの特集について「なぜ、自分たちは、同性愛者を差別するのかという考察はない。なぜ『研究対象』とするのか」、「突き刺すのが男で、突き刺されるのが女(平野)」というヘテロ社会の「真理」を揺るがす同性愛者たち。不安から目を逸らし逃れるために、自分を問わず同性愛を研究する姿勢に貫かれていると平野さんは述べます。 旧ソ連では、同性愛者を「治療」と称して電極を人体につけ、同性のポルノに反応すると電気ショックを与えていました。ナチス・ドイツでは、同性愛者は障害者と同じようにピンクトライアングルを付けさせ、強制労働や虐殺されました。 自称「科学者」たちは、「科学」なるもので「差別」を正当化し、「異性愛者」を問わず、研究します。そして、「偏見」の物語を「ねつ造」し、社会体制の不安や意図をマイノリティの攻撃に転嫁させる論理は、ソ連やナチスが行ったような「価値無き生命」を作り出してしまうことだと思います。また、同性愛者のマイナスのイメージと環境を社会が作り上げることによって、民衆の分断と支配があるのだと思います。そして、自ずと、同性愛者のクローゼット化が起こるのです。 これは男女二元性社会が持つ男イメージ、女イメージを作り上げ、そのモデルを絶対化し、親や教師は子供にセックス(生物学的性)によってジェンダーを植え付けていったこととも密接不可分でもあります。 異性愛中心社会とはどういった社会か? では、私たちは、現在、同性愛者をカミングアウトさせない空間をどのように作り上げているのかを考えたいと思います。 私の経験からもいくつか思い出されます。 私が小学校の時に一人の「女言葉」を使う男性の上級生がいて、彼はイジメられていました。よく、「『ホモ』っぽい」などと人間を中傷する際には、「女性的な」とか「歩き方や仕草がナヨナヨしている」とかを問題としていたように記憶しています。「『男を愛する男』の存在を異性愛社会は『愛する男』を『女であるはず』と異性愛の文脈で読もうとするからそう解釈してしまうのです。『ホモっぽい』とは女性に対する差別をも含んでいる(広野)」のです。 小学校の高学年の頃だったでしょうか。仲間内でポルノグラフィを見るということが風靡していました。そこでポルノを見ているうちに誰彼ともなく、「誰でもいいから襲っちゃおうか」という話がとびだしてきました。そして、その「襲う」という行為自体は、反対者が出て事なきを得ました。が、その反対者に対して「お前、意気地がねエなあ」とか「お前、『ホモ』かよ」などという罵倒が飛び交いました。このような環境は、私の小学校の頃から、男が集まれば作られていました。同時に、ポルノが女性を襲えない男性を「意気地なし」とか「ホモ」とし、「男らしく」ない男の子を排除してしまう雰囲気を作り出してしました。 あるいは、私が中学の時に同性と手をつないでいたら笑われ、「危ない」と言われました。私は、この事をきっかけに、なぜ「危ない」のかも判らないまま、同性と手をつながなくなってしまいました。 このようにして男の子は「男」になるのでしょうか。 私の体験を通じても、「同性愛者」あるいは「女っぽい」男の子を排除していく空間が作られていくのが判ると思います。伊藤さんは、このようなことを捉えて、「思春期のない同性愛者」と述べています。 あるいは、教師の害悪も大きいと言います。たとえば、伊藤さんは、「みなさんぐらいの年になると、当然、男の子は女の子に、女の子は男の子に魅かれます」という教師の一言やテレビなどで使われる笑いのための同性愛者ネタなどを発するなども同性愛者の子供たちをクローゼット化する役割を果たすと述べています。 このような中で、同性愛者・セクシャルマイノリティは、異性愛者が持つ「思春期」を過ごすことになるのです。「思春期の不在」によって同性愛者・セクシャルマイノリティは「異端者」として自分のセクシャリティに気づくことを余儀なくされるのです。同性愛者・セクシャルマイノリティの沈黙は、異性愛者のフリをすることを強いることでもあります。 伊藤さんの著作でもふれられていますが、宮崎県では、「オカマ」とののしられ自殺した高校生がいました。彼は、書店でゲイ・マガジンを買おうとしたが、ゲイであることを知られてしまうことを恐れるあまり、万引きしてしまいました。ところが、彼は店員に見つかってしまい、店員に「お前、『ホモ』か」とののしられたあげく、親にまで通報され思いあまって自殺してしまったのです。 このように同性愛者が一生を生きていくということは大変な難関が次々と押し寄せてくることです。結婚制度は、「結婚して、子供をつくり、幸せな家庭を築いてこそ、初めて一人前の人間になれる」という社会的功利が、結婚しないどころか異性の親密な友人もいない同性愛者に対して”攻撃”に近い疑問が投げかけられるのです。 伊藤さんは、「異性愛者のフリ」をするための辛さを著書に書きつづっています。 「同性愛者は恋人がいなかったり、結婚しようとしなかったりすることに関して、さまざまな言い訳を用意しなければなりません。独身主義だと言ってみたり、同性の恋人を異性の恋人だと想定して話してみたり、あるいはただ笑ってごまかしたり、涙ぐましい努力を続けるのです。上司や親戚に縁談でも持ち込まれようものなら、とりあえずの苦しみから逃れるために、自分の意思に反した結婚を選ばざるをえなくなる同性愛者が残念ながら少なくありません。そうなると、同性愛者にとっても相手の異性にとっても、悲劇です。同性愛者が日常生活で使うエネルギーは増えていく一方です。(伊藤)」 居住権の問題も深刻です。アパートを貸すときに、借りる人のランキングがあり、「男ふたり同居」というのは最下位にランキングされているといいます。ラブホテルも同様です。そのため同性愛者のカップルは、二人でアパートを借りるとき、カップルだとわからないような様々な工夫をするのです。このように 同性愛者は、二人きりになれるプライベートな空間を持つことが、このうえなく難しく、そのために、公園やサウナなどの「ハッテン場」が形成されているのです。しかし、ハッテン場に対しても異性愛者は襲撃します。昨年アメリカで起きたマシュー・シェパードさんの虐殺などに見られるように、同性愛者であることを表現できる空間でさえも危険にさらされてしまうのです。その他にも生活のあらゆる所まで同性愛者は「異性愛者のフリ」をして生きることを余儀なくされるのです。そして、同性愛者がカミングアウトをして生きるということは、このような「異性愛者」を前提として作られた社会に自分の存在をかけて異議申し立てをすることなのです。 「エイズ予防法」や「風俗営業法」は誰を守ったのか? 1989年エイズ予防法が施工される際に「ハイリスク・グループがセックス産業で働いている場合に罰則を加える。その人たちの人権まで守る必要があるのか。一人の人権を守るために、99人の生存権を侵害してもいいのか」(自民党・大浜方栄エイズ問題小委員会委員長)などと発言しました。 このように同性愛者やセックスワーカーは、「ハイリスクグループ」とされています。「ハイリスクグループ」の人権を侵害しても「感染させる者」=「売春婦」、「ゲイ」=「エイズ」と結びつけました。そして「99人(男たち)の生存権」とは、買春や女遊びをする男たちであり、このような自らの行動を省みることない男たちの危機感の表現でもあります。 あるいはエイズ予防財団が作った2枚のポスターでは、「予防」する対象が誰であるのかを浮き彫りにしています。それは、裸の女性をコンドームに閉じこめているポスターとパスポートで目を隠すニヤけた男が描かれている。そして、「気を付けて」というセリフが添えられています。 「外」では性的快楽=排泄を楽しみ、「内」では夫・父親と妻・母親として生殖業務に励む。これが「フツーの生活」「健全な家庭」の内実だ、と平野はさん指摘しているます。「女性には貞操観念と『売春婦』の烙印を押しつけ、男性は経験豊富を自慢したがる異性愛社会(平野)」なのです。 最後に 「差別語・差別表現について」 最近読んだ本の中に『新版 朝鮮にかかわる差別表現論』(明石書店・明石書店編集部編)というものがあります。この本は、かつて明石書店が出版した『文学の中の被差別部落像 戦後扁』という本の中で「北鮮」「南鮮」という言葉を使ったことをきっかけとして、何人もの読者から抗議が寄せられました。この言葉をきっかけとして、出版社として「差別語」であることを自己批判する目的をもって編まれたものです。この差別語を「たいしたことじゃないのに」と思う方もいると思います。しかし、その「たいしたことじゃないのに」という「差別する側」の姿勢そのものが、「差別される側」にとって差別していることになるのです。 例えば、「日本は核武装すべきである」「強かん魔」発言をした西村衆議院議員が、この言葉に抗議を受けて自己批判する目的で本を編まれるようなことをするしょうか。決してすることはないでしょう。というのも彼は、「差別」をしてでも、「国益」を擁護する立場にいるからです。彼は、「差別語・差別表現」をたまたましてしまったのではなく、「差別者」という立場がそうさせたのにすぎません。その意味で、私たちは、アジア民衆とつながり、国内だけではないマイノリティの解放を目指す立場にいるわけですから、このような本を出版した明石書店の姿勢そのものに学ばなければなりません。 そして何よりも、「差別語・表現」を変えていくことは、「言葉のあや」や「言い換え」では決してないと思います。『新版 朝鮮にかかわる差別表現論』の中の次の記述を私たちも心に刻むべきでしょう。 「日本帝国主義の植民地であった『南鮮』をさす言葉として、つくられ、使用されてきた言葉が、今日もなお、日本人によって朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国を呼ぶ『略称』として使用されている。だが、今日、そのいずれの国も日本の植民地ではない。かつての『朝鮮』は戦後の分断の中で血みどろの闘いを続け、国づくりを行ってきた。そのなかで、『植民地朝鮮』の残滓を捨て去るための努力が払われ、『鮮人』はもちろん、『北鮮』『南鮮』が意味していた『植民地朝鮮』もその過程で消滅していった。だが、戦後、朝鮮植民地統治への責任を問われることもなかった日本人は、植民地支配の言葉をそのまま使用し続けて、あやしむことがなかった。・・・・(中略)『ゴロがいい』とか『おさまりがいい』とかの感覚こそ問われねばならない。・・・(中略)『北鮮』を無自覚に使い続けることを許している日本人の歴史認識こそ深刻に問われねばならない」。(「『北鮮』の用語に見る日朝関係」内海愛子著・『新版 朝鮮にかかわる差別表現論』所収) 私は、何気なく使っている単語の中に「差別語・表現」があることに無自覚に過ごしてきたような気がします。ワープロを使っていても「オカマ」や「ホモ」、「レズ」という単語はそのまま変換しても出てきますが、「同性愛者」は「同性愛‘社’」となったり「ゲイ」も登録しないとでてきません。 「オカマ」は、古語で使われてきた「お尻」を意味し、「ホモ」、「レズ」などは「ニガー」「ジャップ」の短縮形と同様の差別語であることは伊藤さんの著作でふれられています。マスコミなどで耳慣れた言葉を探すのは、すぐに出てきます。あるいはアカーが訴えた「府中の家」裁判で、東京都は、『現代用語の基礎知識』にあることを根拠に同性愛嫌悪(ホモフォビア)を展開したといいます。私たちが依拠するものは、マスコミや『現代用語の基礎知識』が発する言葉を絶対とする姿勢ではありません。辞典の「同性愛者」に記述された差別表現を変えさせたアカーの闘いであり、同性愛者たちの「カミングアウト」に耳を傾け、「自己否定」にまで向かう環境を変える同性愛者やセクシャルマイノリティの解放運動にあります。そして、マジョリティの側が差別語・差別表現を作り、無自覚に使っていることを改めることが重要な「連帯」に結びつくと思います。 私が今まで話してきた内容についてまだまだ不十分な点があります。そして「同性愛者と女性差別」問題やレズビアンが主張する問題など話す必要性があるのでしょう。しかし、私が話すということに「当事者性」をめぐる問題とも重なり、限界もあります。今後も同性愛者やセクシャルマイノリティの解放に向けて事務局内部でも討論を引き続きしてゆきたいと思います。(了) |