アジ連セクシャルライツミニ学習会

反ポルノ運動と私たちの課題




 3月23日、アジ連・セクシャルライツミニ学習会「反ポルノ運動と私たちの課題」を行った。レポーターはアジ連事務局3名が行った。
 最初にポルノの賛否両論についてのレポートが提出された。討論資料として、アメリカ、日本のフェミニストによるポルノ賛否論や運動を紹介すると同時に、ポルノの法的規制という戦略をどう評価するのかなど問題提起を行った。その前提として北京女性会議行動綱領(メディアについて)や均等法など女性の置かれている社会的状況から考えていく必要性をも強調した。
 続いて、男性運動から見た脱ポルノ運動をレポート。男性運動というスタンスから脱(反)ポルノをテーマに取り上げているグループが皆無に近いことを紹介。その理由として、女性にとっての「痛み」を「快楽」として消費してしまうポルノと社会的立場の違いがあるだろう。男性運動が脱(反)ポルノを主張していくためには、ポルノ産業状況だけではなく、プライベートな問題の掘り起こしを通じて、地道に男性の権力主義的な側面を切開し、性意識を解体していくことが求められている。また、戦時中に従軍慰安婦制度などを個人的に拒否し続けた皇軍兵士もいたそうだが(『男性神話』彦坂諦)、その行為が如何に男(兵士)集団の中で大変な行為であるかを紹介した。その点、男性の権力主義的な性意識と男集団の構造そのものの変革に向け、どうアプローチするかが今後の課題だ。
 三番目にポルノグラフィと表現の自由をテーマにレポート。前提条件として,第一に,道徳主義・性的保守主義・恋愛至上主義に彩られた現在の性の「あるべき姿」を否定する。第二に,性的な差別秩序に反対するフェミニズムのあり方を正しく理解する、という伊田広行(女たちの21世紀「買春特集」掲載論文)規定の観点からフェミニストの限界性について言及。「差別的なものの無い価値観を共有するための具体的運動のあり方を目指したい」とした。
その後の討論では、3つの側面から議論された。
一つは「ポルノ」規定を巡っての議論である。例えば杉田聡さんは、『男権主義的セクシュアリティ』のなかでポルノを次のように規定している。「女性に対する性的暴力・強制・支配を、もしくは/かつ女性を性的におとしめるような仕方でその肉体やふるまい・性行為を描き、かつそれらを明示的もしくは暗示的な仕方で是認し、また時に推奨しようとする、性的に明示的な素材」と規定している。ここで明らかなように「性表現」がポルノなのではなく、セクシャリティ・ジェンダーの不平等性によって支えられている差別的な描写をポルノと規定しているのだ。また、アメリカのラディカルフェミニストであるC・マッキノンさんは「差別と行為と言論に分けることはできない。ポルノグラフィは実際の行為(『ポルノグラフィ』)」であると述べている。
 例えば、「表現の自由」を掲げた人間が「ニッガー(黒人)は殺せ」という落書きを書いたとき、それを許してはならない。なぜなら、その表現が黒人たちに向けられた攻撃だからだ。その表現を規制・糾弾するのは黒人たちの正当な権利であるからだ。このように、性表現を具体的な行為として捉えることを通じて、ポルノという女性に対する差別・抑圧をも許さない視点が生まれること。
 アメリカでは、伝統的にも公民権運動の盛り上がりなどから黒人やマイノリティへの差別禁止法も制定されている。一方、日本で人種や女性に対する差別禁止法が制定されてきたことはなく、市民運動が獲得してきた質も異なっていることなどを考えることが重要だということになった。
 二つ目は、「反ポルノ」とその権力性の問題である。
  アメリカの反ポルノ条例などは、フェミニスト内からも「右派勢力とラジカルフェミニズムとの連合」と批判されているが、その側面ばかりを強調したとしても「ポルノ」規制条例を制定させたラジカルフェミニズムの功績は否定することはできない。なぜなら、インディアナポリスなどで可決された条例が持つ意味とは、ポルノ被害者救済の条項(視点)がまずなによりも盛り込まれていることにあるからだ。現在の権力に「検閲」をゆだねるというものではなく、ポルノ被害者救済の視点から起草し、条例にしていることの意味は大きい。
 日本でも、石原知事が電車の中吊り広告の「わいせつ」広告の規制を表明した。その際に石原が女性に対する集票のためのポーズとして使う点や家長的に一方的な規制については批判すべきである。これは、同性愛者や精神障碍者への敵対を公然と行う、石原への賛美に終わらない批判スタンスを含んでいる。しかし、石原が行おうとしていることは、すでに90年代に「行動する女たちの会」が、反ポルノ運動の方法として非暴力直接行動など展開していた。その意味で、石原が女性の人権状況を考えざるを得なくなっているという成果として、「わいせつ」広告規制がある。その意味で、石原の「わいせつ」広告規制には賛成すべきだ。あるいは、表現を規制するとして安易に「保守」を批判するが、その中には女性たちもおり、その立場をどう考えるのかという討論も行った。
 三つ目は、マジョリティの差別意識によって作られた「わいせつ」概念の再検討である。既存の権力による「検閲」行為には、社会的マイノリティを「いけにえ」とし、差別分断を進めるという国家的意味あいがある。同性愛者、その他のセクシャルマイノリティの中で「反ポルノ」が生まれずらい状況は、自分たちの性表現を蔑み、否定するものとして「検閲」行為があり続け、権力のコミュニティへの不当な介入として映ってしまうからだ。その意味で、セクシャルマイノリティの権利を防衛することは、「反ポルノ」運動にとって重要な課題であることをも確認した。(猿田耕作)





ホームに戻る