田植え、稲刈り、収穫祭と年数回、三里塚へ行っていた。目つきの悪いおじさんや、機動隊のお兄さんたちや、バラ線等、無粋な物も目についた。でも、木々をわたる風もここちよく、野原にはタンポポが咲きみだれ、田や畑は青々としていた。里山の心安らぐ風景がたしかにあった。 同行した二人の息子は、都会では見せない生き生きとした表情で、自然とたわむれていた。帰宅の時をつげると、「もっと、ここにいたいから、一人で帰っていいよ、バイバイ」と、言われる始末。その場で、しがらみをすべて、捨てることができれば、私だって、そうしたかった。 そんな息子たちも、成長するにしたがい、部活やなにやで、足が遠のくようになっていった。私自身も、反原発をはじめとする、集会等と、日程が重なることが多く、三里塚へ行けなくなって、数年がたってしまった。 3月17日、バスツアーで久しぶりに来てみて、びっくりした。ワンパックの通信や、その他のニュースで、様子はある程度、わかってはいたが、現実を目のあたりにして、涙がこぼれそうだった。無残な姿の東峰神社、収容所のような東峰部落。 7月28日、二回目のバスツアー。すでに、暫定滑走路の供用が開始されている。手のとどきそうな至近距離を、離発着する飛行機に、身体がかたまってしまった。毎日毎日、この暴力にさらされつづける人々や、生命あるすべてのもののことを思うと、怒りがこみあげてくる。これこそ権力者による「テロ行為」そのものだと思う。 「公益」とか、「国際性」と盛んに口にするお役人たち、一カ月でもいい、家族づれで、ここに住んでほしい。すぐに、シッポをまいて、逃げだすに決っているが。でも、大地に根ざした生活をしている人々は、簡単に移転する訳にはいかない。食料自給100%を目ざす方が、「公益」にかなっているし、有事法制をつくるより、「国の為」だと思う。 「あなたたちの来訪が励み」と言ってくれる、三里塚の人々。でも、皆さんの強さや、あたたかさに、励まされているのは私達だ。本当にありがとう。 空港がなくなって、緑の大地に戻ることが本筋。でも、大量に出る、土に還ることのないゴミはどうしよう。国策の失敗のモニュメントとして、国会の中庭に積み上げてやったらどうだろう。空港より農地を守る方が大切と、後世の人に伝える為にも。 追伸 東峰部落にある、四棟の防音小屋? 公団がおいていったらしいが、あんな中にいたら、別の意味でノイローゼになりそう、バカにするのもいいかげんにしてほしい。変な気づかいをするくらいなら、空港と一緒に出て行ってほしい。豊かな大地をかえせ。 |
今朝も新鮮で安全なお野菜が三里塚から届きました。先々週には五、6センチくらいしかなかったホウレンソウが三倍程にのびのび成長しています。菜花の花が咲きかけているのをさっそく活けて食卓におきました。一週おきに農場から宅配便でいろいろなお野菜がきます。成田の空港反対運動をしてきた生産者たちと、都会の支持者が契約して続けられたものです。いくつかのグループがあるようですが、私のうちにくるお野菜は相当厳しい自然農法でつくられたもので、種を自家採取してよその血(?)が混じらないように苦心して栽培されています。中くらいのダンボール箱にたいてい一五種類ほどが入っています。葉もの、根菜類、なりものから、お豆、小麦粉に至るまで、今日は何が出てくるかと開けるときはほんとに楽しみです。それはそれはおいしいお野菜たちです。 私は三里塚闘争に参加しなかったので、こういう繋がりをもっていませんでしたし、知ってからも一人暮らしが長く、留守が多かったので、いいなぁ、と羨むばかりでした。やっと時間が自由になり、仲間に入れてもらったときは嬉しかったです。山口さんが三里塚行きのバスツアーを誘ってくださり、参加しました。 ポツンとお社が 坐ったきりで、検問もなし、楽々と行き帰りしてずるいようなバスハイクでしたが、着いた空港周辺はこういうところがあっていいのかと思うような、一瞬信じられない景色でした。東峰神社の杜の立木が伐られてしまっているのを確認しに行ったのですが、そこへ到る小径の両側に、高さ二メートル以上のジュラルミン色の塀が建て巡らオてあるのです。その上には鋭いトゲトゲが植え込んであります。それが道なりにずっと続いています。私はこういうところを歩くのは初めての経験でした。まわりの風景は一切見えません。塀が最後のところで丸くフラスコの形みたいに拡がって、真ん中に東峰神社がポツンと鎮座しています。切り株がいくつもありました。このバスツアーには三里塚闘争を共に闘った方がたくさん参加していましたが、みなここの様子がいちばんショックだったと口々に嘆かれました。 東京で私たちが集会やデモをすると、周辺にたくさんの私服というのか、公安というのか、黒い野球帽のようなのを被って、白いマスクをつけ、カメラで我々を撮りまくる暗ーい印象の小父さんがいっぱい集まっています。実にいやな感じで、こちらはほんとに少人数で、いつだって暴れることもなく申告してあるコースを外れることもなく、車道を警官に護られながらデモしているのに、歩道を平行して付き添う如くくっついてきます。公安の貯蔵庫はどうなっているのか知りませんが、ちゃんとネガの入っているカメラでの撮影ならば尨大な量の肖像の堆積になっているにちがいありません。 これと同じ様子の小父さんたちが三里塚にもいて、私たちが到着してより、食事中も移動にもつきまとってきました。色とりどりの風船のついた「ようこそ東峰に」の横幕の前で、持っていったお弁当、作ってくださった野菜いっぱいの味噌汁や漬物をひろげて、和気靄々と昼食を摂っているそのほんのすぐ傍で、私たちにカメラを向けるおっさんたち。どんなつもりでしょう。実は、平均年齢も高く、ヘルメットも被らず、ゲバ棒も持たず、楽しそうにお喋りしている一団にずいぶん落胆しているのかもしれません。 暗い視線と成田名物の春の砂嵐を浴びつつ、お野菜や卵を出荷している方たちの住居や鶏舎に行きました。家すれすれに例の高い塀が張り巡らされています。暫定滑走路が迫っているのです。飛行機が頭上40メートルのところを飛ぶそうです。ワールドカップをめざしてまもなく中小型の飛行が開始されます。頭の上40メートルって、あんなものが飛んでいい距離でしょうか! いやならどうぞ引越してください、という作戦でしょう。 農薬や化学肥料などを使わない自然農法のための土づくりとは、何年もかけて心を籠めてできるもので、どこかに土地があってもすぐまた農作業ができるのではないと聞いています。いま、私たちは安心して食膳に供せる食材を入手することは容易ではありません。最近のいやな話題の中でわけても口惜しいのは、鶏肉、豚肉のラベルごまかしのことです。一つの運動の形として生まれた農作物の宅配は、都会で、信じられるおいしいものを求める人たちの養いの種となっていて、決して農業者だけの作物ではありません。 土の上で遊ぶ鶏と豚 農の民から土を奪う、漁の民から水を奪う、生活権を国家が否定する構図はこの国が戦後ずっと行なってきた経済の動かし方です。バブルが弾けてみれば、あれほど儲けたはずのゼネコンも仕事がなくなり、倒産の末路です。国土は荒廃し、食物の自給力は細り、国じゅうの破滅を目のあたりにしています。国益、地方益を理由に強引にすすめる公共事業の残酷さは私も 「日の出最終処分場」 の反対運動で体験しました。成田ではもっとずっと多くの国家権力の蹂躙が行なわれてきました。いまその上、人や鶏の頭上40メートルに飛行機を飛ばすことを強行しかけています。 鶏舎の隣に豚舎がありました。うす茶色に小さい灰色の斑点がついた豚がいます。私が今まで見た豚舎はどこも相当の臭いを放っていましたが、ここはぜんぜん臭いません。足元は乾いた地面で、豚がとっとと走れる広さがあります。体が犬や猫のようにきれいで、思わず手を延ばして撫でました。四日前に生まれた赤ちゃん豚が十匹、お母さんの乳房にむしゃぶりついています。帰りのバスの中で、ここの豚肉を註文できるとご案内がありました。「顔を見たから安心ね」 と言いあったのでした。どうかあそこで農業が続けられますように、なんとか飛行中止の途がひらけますようにと切に願わずにいられません。 (「市民の意見30の会・東京ニュース」71号より) |
現地成田に通ってみた。まるで沖縄の基地に立った気分だ。だが、超低空で離着陸してくるのは戦闘機でもなく、爆撃機でもない。民間の旅客機だ。暫定滑走路のほぼ延長線上にある農家では、機体は30〜40メートル頭上を飛来してゆく。地上に叩きつけてゆく巨体の風圧は豊かな畑の土を舞い上がらせ、爆音は顔面を殴りつけ、ガソリンの異臭は吐き気を催させる。思わず首をすくめ、身を縮ませてしまう。戦場さながらだ。独断的空港計画を”公共性”とよび、地元の農家を問答無用で追い出しにかかる企みはこの地に立つとミエミエだ。三里塚闘争の「力の対立」から「話し合いの円卓」に路線を変え、二本目の滑走路はつくらないと国は言ってきたにもかかわらずだ。 「ここはただの地べたじゃない。20年かけて培ってきた有機農業の土だ。移転できるわけがない。」農家の怒りは、爆音によってかき消すことはできないはずだ。 国民の命を支える農民を踏みにじり、海外に遊びに行く人を優先する国家に、未来も民主主義も探しえない。 |
サッカーのワールドカップ開催に間に合わせるため、成田空港に暫定滑走路を建設するという計画が、1999年5月「降ってわいたように」出されてから三年。以来、工事は一方的に強行され、4月18日からの使用が目前に迫っている。 暫定滑走路の南端には、有機農業を営む人々が暮らし、畑が広がり、鶏舎があり、ワンパック野菜の共同出荷場があり、ラッキョウ工場がある。滑走路が使われるようになれば、頭上わずか40メートルをジェット機が飛び交い、轟音と排気ガスがまき散らされる。 3月17日、「暫定滑走路と無農薬・有機農法の畑が気になって……」という人びと50人が東京駅から観光バスをチャーターして千葉・三里塚・東峰部落を訪れた。66年に三里塚に新空港建設を閣議決定し、78年5月に開港したものの、36年経った今も完成していない。「なぜまだ暫定滑走路なのかをこの目で見よう」とこのツアーが企画された。 * 91年に国は空港を三里塚に強引に建設したことを誤ったのではなかったのか。しかし今、そんなことはなかったかのように力づくで豊かな大地を切り刻んでいる。安全な食べ物が求められているこの時代に、農業が無惨に軽んじられている。 (「ふぇみん」2002年4月15日より) |
春の一日、バスは満席で東京駅から動き出した。 空港周辺に着くと、航空燃料の臭いがする。あの、どでかい飛行機が飛ぶためには、自然界にあるシステムでは無理に決まっている。自然界では起こり得ない化学物質や轟音が撒き散らされている。 その空の下に故里をもった人が、今も大地と協力して生きている。傷だらけの土地である。故里はその個人を意味しない。その人に辿り着く迄の累積した人との農に対する思いの連続線上に現在がある。故里の否定は、一族の否定であり、人間そのものの否定とも言える。 自分の生存証明であるかのようにして、今も空港に、畑を耕し、野菜を育てる生活を見ることができる。豚も鶏も野菜も肥料も、竹林も雑草もそこにある。あることは、自分の存在を主張していることである。 分断された土地に、必要以上に高くて威圧的な鉄板の塀に囲まれた空からの、轟音と排気物質、施設からの監視。それでも、そこには、不思議な自然の断片と、まともな人間の生活がある。 国家の大義は、人間を壊してまでも、必要なのであろうか。暮らしはまともに生きることが困難な時代なのか……。 寸断されてしまった道、わずかに残された耕作地の野菜たち、土地はどのようになるのか多くの恐怖に似た不安が交錯する。 石井さん、島村さん、小泉さん、熱田さん達の隣に立ちたいという思いを新たにした。 上総の風は強い。その風に又、髪をなびかせてみたい。 |
3月17日、友人に誘われて三里塚へのバスツアーに参加した。 三里塚は私の遅い「青春時代」ともいえる懐かしい思いのあるところである。 本当に久しぶりに訪れることが、懐かしく、あの土のにおい、雑木林のたたずまいなどを考えるだけでわくわくし、バスの中での参加者の自己紹介の際も、そのはしゃいだ思いを述べた。知らなかったのだ。農業をしたい、土とともに生きたいという三里塚の農民は、長い年月の不屈の闘いのすえ、ついに政府・空港公団の頭を下げさせ、廃港にはいたらなかったものの、勝利した、という甘い認識でいた。あんなことになっているとは想像だにしていなかった。 たしかに畑はあった。雑木林もあった。鶏が元気に鳴いていた。豚は親豚、子豚、赤ちゃん豚が遊んでくれた。でも、それは記憶していた三里塚ではなかった。東峰神社は丸裸。畑や林、住まいに農道が連続した風景を作り出していた三里塚ではなかった。いたるところに高いフェンスがたてられ、すべてはフェンスに囲まれ、分断されていた。そして4月18日からはそのフェンスの中で(あるいは外と言うべきか)飛行機が発着するという。 暖かい春の太陽の下で、お忙しいなか石井紀子さんが作って下さった野菜たっぷりのみそ汁で手持ちのおにぎりを食べながら、石井武さんのお話を聞いたときも、その後フェンスの直ぐ横の畑で島村さんの説明を聞きながらも、たいへんだということは思っても、その場では実感がもてず、非現実的な世界にいるような気がしていた。 どすんとショックが来たのは帰ってきてからである。 自分の日常に戻ったとき、巨大な機体が出す轟音でとび起こされ、一日中その轟音の中で暮らし、農を営む小泉さんや島村さんたち、おいしい卵をせっせと産んでいる鶏さんたち、それに豚の親子は、いったいどうなるのだろうという思いがどっと押し寄せてきたのだ。そして、一生懸命生きている人たちの気持ちや生活をそのように踏みにじることができる人間が存在することに改めて驚きと、不信、怒りを感じた。この計画を作り、決定し、指示、実行したひとは、全員一日だけでもそこで暮らしてみるといい。どんなに想像力のないひとでも、それがどんなことか実感できるはずだ。多分わたしには我慢できない生活だろう。 今年は冬から春にかけて、横浜のわたしの家のまわりにカラスやスズメ以外にもさまざまな鳥が異常に多くやってきている。この鳥たちも今まで安心して住んでいた森を、林を失って、町にわずかでも残っている木を求めてきているのだろうと思う。 生きるものが生きにくくなる、いや生きにくくする社会をどうしたら変えていけるか、変える力になりうるか、自分に改めて問われている。三里塚は20数年前も今も、自分の、社会のあり方を問いかけてくる場である。その答えは……今はまだ分からない。 |
今年は春が駆け足でやってきました。そんなある日、思いがけず三里塚を訪れる機会を得ました。私にとっては30年ぶりの懐かしい土地。当時はヘルメットとゲバ棒をもって決死の覚悟で出かけたものでした。30年という長い時が流れて、3月17日、初夏のような日ざしをうけて、おにぎりとお椀をバックに入れて、東京駅からバスに乗り込みました。車中での自己紹介を聞きながら、迷ってばかりの青春時代がプレイバック。胸が熱くなる思いでした。 東峰について私たちをまず出迎えたのは、10人を超える私服の軍団。マスクをしたりノートで顔を隠したり、自分のしていることを恥じているかのよう。おりしも確定申告を終えたばかり。血税の無駄づかいだと腹が立つ。東峰神社のすぐ脇には高い塀が張りめぐらされ、驚いたことには、鳥居を囲む立木が根こそぎ伐採されていて、痛ましい。権力の姑息なやり方に、またまた腹が立つ。共同出荷場では、石井武さん、紀子さんの爽やかな笑顔に迎えられ、心づくしの味噌汁、つけものなどをいただきながら昼食。ここも高い塀と絶えることのないジェット機の騒音。本来、最も自然の中で営まれる農業が、無惨にもズタズタに切りさかれている不条理。暫定滑走路が使用されると、地上40メートルを旅客機が飛ぶといわれている小泉宅、島村宅、養鶏場、堆肥場などを見てまわる。騒音と排気ガスによる人体や作物に対する影響、被害は想像に難くない。たとえどれほど少数であっても、そこに生き、生業を営む人の人権を無視してはならない。日本国憲法にはっきりと明記されている。私たちは大いに怒るべきだ。横堀の熱田夫妻も意気軒高。非人間的な蛮行が、公共の利益の名のもとに強行されることがないようにと念じ、三里塚を後にしました。その日の夕食は、らっきょう、大根おろし、ほうれん草のおひたし、葱の味噌汁、そして炊きたてのご飯に生卵と、三里塚の恵にあふれた食卓となりました。 「春になると木々は芽を吹き、花はつぼみを膨らませる。人間よ、勇気を持てよ」という文の一節が私は好きだ。どんなに冬が長く、また寒さが厳しくても、私たちは希望を捨てず、勇気を持って本当の春を迎えたいと想う。 |
三里塚とは、1967年11月24日現地集会参加からですから35年のつきあいになりますが、この8年ほどは有機農業の仕事の関係等で年一回ぐらい行き、部分的に見ていただけでした。今回のバスツアーは二年振りの訪問ですが、東峰部落の変わり様と騒音を実感できましたし、また、地域全体を見、成田空港二期工事用地内反対同盟農家の多くに会う機会が得られて幸いでした。
1 航空騒音 1)東峰住民を訪ねる
2)空調付き防音避難小屋 2 現地のすさまじい変わり様にショック 1)東峰神社 2)お祭りひろば(小泉英政さん・島村昭治さん宅前) 3)横堀 4)木の根ペンション 5)千代田から岩山大鉄塔(記念館)を見る 総じて、道路の付替え・廃止が随所にあり、案内をしてもらわない限り全くわからないほどの変わり様です。案内してくださった千葉市民ひろばの林廣治さんは、「刻々と変わっている。自分は3月17日も来たが、今日でまた違う」とおっしゃっていました。 3 終わりに |