なぜか消えた海外移設計画

米国の情報公開法で公開されている米軍資料などを市民グループが分析し、「普天間」返還と新鋭機・オスプレイ配備計画の隠された関係に迫った。

資料からはヘリ部隊のハワイ移設を検討していることが分かった。

ではなぜ県内移設で決着したか真相を探った。(編集部の見出し)

 

 一九九六年四月一二日、当時の橋本龍太郎首相(当時)とモンデール駐日大使は「普天間基地を全面返還する」と共同記者会見で発表し、マスコミは大々的に報じた。大田昌秀沖縄県前知事も「厳しい状況の中で、県民が最優先課題として求めていた普天間基地の返還を実現させたことは両政府の誠意の表れと思う」と直後の記者会見で語っている。

日米政府の巧みなワナ

 思いおこすと、沖縄県民の基地の整理・縮小を求める声は、一九九五年九月の米兵による少女暴行事件の後さらに高まった。基地への風当たりが強くなる中、日米両政府はその年一一月、「沖縄に関する特別行動委員会」、通称SACO(Special Action Committee on Okinawa)を発足させた。それから五ヶ月足らずの橋本・モンデール会見の直後、「普天間をはじめとする県内への移設条件付き基地返還」へと後退させたSACO中間報告を経て、一二月に最終報告(以後SACO合意という)を出したのだった。

 九九年夏から、米軍の文書を掘りだし、読み解いてきた私たち「SACO合意を究明する県民会議」は、これら一連の経過が、実は基地の強化・近代化を図った米軍の中長期計画によるもの、と確信するに至った。先の大田さんの記者会見での表明やマスコミ各社の報道も、日米両政府が仕掛けたワナにはめられたのではないだろうか、と疑っている。

整理縮小要求を逆手に基地機能を強化

 つい最近、我部政明琉大教授らによって、「一九六〇年の核持ち込み文書」が発見された。このSACO合意=基地移設問題にも、隠された事実があるのではないだろうか。

 SACOは、わずか五か月で中間報告を出したが、このような短期間で基地の移設計画がまとまるものだろうか。私たちはこの疑問から出発した。  文書が見つかるたび、米軍の息の長い基地強化計画を知ってはおどろき、また隠し続けていることに気づいてはあきれた。まだまだ資料さがしの途中ではあるが、沖縄のこれからの進路を誤らせないために、私たちの「中間報告」として記しておきたい。  SACO合意で返還される軍用地を、三グループに分けると米軍の意図が理解しやすい。

 まず、基地の近代化を図っていることが明らかな施設。建ててから四十年以上経過した病院や住宅、通信施設を別の基地内に新設して、その跡地を返還するという楚辺通信所(象のオリ)、瀬名波通信所、キャンプ桑江の一部、キャンプ瑞慶覧の一部。

  次に米軍の長期計画を隠して、「沖縄県民の要求だから」と説明されている那覇軍港と普天間飛行場。

 第三のグループ…新鋭機オスプレイの訓練場を作る意図が隠されている北部訓練場、安波訓練場、ギンバル訓練場の三か所。

 そこでまず、那覇軍港の浦添市「牧港補給基地」沖への移設も、実は米軍の長期計画の一環であること、そして海兵隊が、以前からキャンプシュワブ沖に新たなヘリパッドを必要としていたことを米軍の文書から解き明かし、オスプレイの配備計画が、普天間返還と大いに関わっていることを明らかにしたい。 

復帰時に軍港移転探る

 一九六五年三月、アメリカ海兵隊はベトナム・ダナンに上陸したが、当時、沖縄は出撃・補給基地であった。  米軍が一九六八年一月三十日にアメリカの民間会社に作らせた報告書「沖縄・工業用地新都市調査」を琉球大学附属図書館で見つけたのがこの調査の最初の成果であった。この報告書によると、浦添市「牧港(マチナト)補給基地」沖に新軍港をつくる計画が立案されたのは一九六六年であり、その案を改訂したマチナト軍港図と予算も示されている。

 続いて、メンバーの一人が一九七〇年五月付けのアメリカ太平洋軍司令部から統合参謀本部への秘密電報を沖縄県立公文書館で見つけた。その内容は「那覇軍港を返還する代わりとして、(浦添)マチナトへの移設を米国は日本政府に交渉すべきである」としたものである。

 稲嶺惠一知事は「軍港の浦添移設は促進。基地機能の強化には反対」というが、もう三〇年以上も前から米軍は、先の報告書や秘密電報の中で、浦添への軍港建設によって、いかに機能強化が図れるかを書いているのである。

 「那覇軍港より大きい船が接岸できる。倉庫と統合され効率が良くなる。デモ隊などから安全な港になる。機密保持の面では大きく改善され、貨物の損傷等は大はばに減少する。運送作業を集中化することで経済効果も望める」と記している。さらに、「米国の琉球における長期的関係を最大限に生かせる」ともいう。つまり米軍は、このような視点で浦添への軍港移設を強く希望し、長期的に居座り続けることをも宣言しているのだ。

船舶への弾薬空輸狙う

 名護の東海岸にある辺野古には、およそ二〇〇〇名の海兵隊が駐屯しているキャンプシュワブ、辺野古弾薬庫、シュワブ訓練場がひとかたまりにおかれている。

 『情報公開法でとらえた沖縄の米軍基地』(梅林宏道・高文研刊)に引用されているキャンプ・シュワブについての米軍の一九八七年マスタープランには注目すべき記述がある。

 それによると海兵隊は、このキャンプシュワブ区域から沖合に待機する揚陸強襲艦などへのヘリコプターによる弾薬輸送の必要性を繰り返し述べている。しかし米軍内部の安全基準により、弾薬庫から約三百メートル、居住地域から約二百七十メートルの範囲の「弾薬吊りあげ輸送」が禁じられているため、この区域から船への空輸は完全に現在まで閉ざされてきた。船への弾薬空輸を実現することが海兵隊の解決しなければいけない長期的な課題である、と記されている。

 それをどのように解決しようとしたのだろうか。普天間返還とどのようにつながっているのだろうか。

鍵を握るオスプレイ

 鍵は、米軍がすでに三〇年も使っている輸送ヘリコプターにかわる新鋭機「オスプレイ」の配備だ。オスプレイは従来のヘリコプターに比べ 航続距離五倍、速度二倍、積載量三倍になり、配備するだけで機能強化される新型機である。

 オスプレイの量産を一九九四年十二月に国防総省は承認しているから、ただちに配備計画の作成にとりかかっているだろう。そう疑ってさがしているうち、オスプレイの配備計画表があるホームページhttp://mv22.sra.com/に行きついた。

 九七会計年度から表が始まっていることから九六年中にはこの配備計画を決めたことは確実である。県民が基地の「整理・縮小」要求を強くだした時期と重なっていることに注目しよう。しかもSACO最終報告は九六年十二月だから、この表とSACOでの検討は密接にリンクしているのは確かなことだ。

 普天間飛行場には、現在、輸送ヘリコプターや攻撃ヘリコプター、空中給油機などで編成された第三六海兵航空群が常駐している。その第三六海兵航空群へのオスプレイ配備計画はどうなっているだろうか。計画表にはこの部隊を「移動」させ、再編成して二〇〇六年に三機、翌年二十四機のオスプレイを配備することが明記されている。この「移動」予定地はどこだったのだろうか。

普天間常駐部隊の移設先はハワイ?

 配備計画表には「ASE K−BAY」とある。「K−BAY」の前についている「ASE」の三文字の意味は不明だが、検索していくと、ホームページが三つ出てきた。一つは自動車の部品店の「K−BAY」支店で、住所はハワイの「カネオヘ」となっている。

 あとのふたつは海兵隊がらみで、海兵隊そのものの同窓会と、ハワイ・カネオヘ湾に配備されているHMM262ヘリ中隊だけの同窓会風ホームページ。カネオヘ湾を、民間も軍隊も「K−BAY」と省略して呼んでいることがわかる。すると、この配備計画表を作った九五、六年の段階では、普天間の主力部隊をハワイのカネオヘ湾に移動させる計画だったことになるではないか。

 日本政府は、この配備計画表の真意をアメリカ側にただすべきだろう。ところが、オスプレイの第三六海兵航空群への配備が公表されていたにもかかわらず、日本政府は九九年一二月国会でも「配備計画は聞いていない」と言い続けている。ハワイへの海兵航空群の移設計画を隠し、「普天間返還は県民要求」とすり替える工作を、日米両政府が一体になって行ってきたことになる。

「普天間返還は県民要求」とすり替える企み

 ここで、橋本訪米直前の経過をみておこう。日米両政府のSACO立ち上げから二ヶ月後の九六年一月三〇日、沖縄県は普天間返還などを第一期とする「基地返還アクションプログラム」を発表した。

 その直後の出来事について、大田昌秀沖縄県前知事の『沖縄の決断』(朝日新聞社)から引用させていただく。―――一九九六年二月二三日の日米首脳会談を控えたころだったと思う。・・・中略・・・秩父小野田セメント会社会長の諸井虔氏が私と二人きりで会いたい、と言ってこられた。・・・中略・・・「私は総理に助言できる立場にある。米側に何を一番訴えたいのかを率直に言ってほしい」というお話であった。・・・中略・・・日米の友好関係を維持したいのであれば、普天間基地の返還を最優先にすべきだとお話した。・・・中略・・・諸井氏は私に、念を押すように「では、普天間が最優先ですね」と尋ねられ、「もし気持ちが変わったら、いつでも電話してほしい」と秘書の電話番号を渡された。―――

 先に見たように、海兵隊はオスプレイ配備にともない、普天間常駐の第三六海兵航空群をカネオヘ湾に移す計画をもっていた。一方で、シュワブ区域からの弾薬空輸を実現するために、その海上に新しいヘリパッドを建設する必要もあった。しかし、一九六〇年以降、新たな基地建設を許していない沖縄の人びとからの強い反発が予測された。

 そこで、もともとハワイに移設する予定であった普天間を「県民の要求だから」返す代わりに、海上ヘリ基地を建設するという口実をつくったのではないかという次の推理が成り立つ。

 立ち上げたSACOの討議のなかで、基地「整理・縮小」を求めて燃えている沖縄人のエネルギーを利用することに目をつけ、手はじめに「普天間は撤去できる」可能性を沖縄側にささやき、基地返還アクションプログラムで第一期に盛り込ませた。続けて橋本訪米直前に、知事の口でも言わせた、というわけだ。

 そして九六年二月末、橋本前総理とクリントン大統領の間で、「普天間返還」が初めて話し合われたことが報道された。こうして沖縄県の基地返還アクションプログラムと知事発言とが利用されて「普天間返還は県民の要求だから」、との「すり替え」ができあがり、冒頭で記した記者会見につながるのだ。

 当初の「普天間・全面返還」が「県内移設条件付き」に変節していく経緯をみても、この推理はあたっているだろう。

 普天間については今後も調べ続けるが、これまでみてきたとおり、SACO合意とは、老朽化した施設の更新、那覇軍港の移転促進、オスプレイ配備にそなえた関連基地の新設という、まさに基地のハイテク化・強化計画そのものなのだ。

 これらの結論をもとに、日米の密室でのやりとりを知るために、小渕総理とクリントン大統領宛に、私たちは公開質問状を準備した。

日米どっちが先に提案

 内容は、SACO合意に盛り込まれた返還基地について、個別の基地ごとに「日本、アメリカ、どちらの国が先に、どのような理由で返還を提案したのか」などの十一項目である。基地問題の交渉経過を知るのは沖縄人の権利だ。一九九九年九月二十八日、小渕総理への質問状を受け取った外務省沖縄事務所は三十日後の回答を約束したが、たびたびの催促にもかかわらず、いまだ総理からの回答はない。また、クリントン大統領への質問状は、在沖アメリカ領事館が受け取りを拒否したままだ。

 質問を受け取らない、回答しない、あるいは回答できない、それらが何を意味しているのか、もはや明らかなことだと思う。

SACO合意の真相を確かめて正しい判断を 

 戦後、沖縄の私たちは平和な暮らしを求め続けたにも関わらず、一九五〇年代、米軍の銃剣とブルドーザによる基地拡張が始まったが、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンの建設を最後に、四十年あまりも新たな基地はつくらせていない。「振興策」と引き替えに基地を容認したこともない。この事実を、冷静にふりかえってみようではないか。

 九八年秋に当選した稲嶺知事は、選挙公約では目立たないように「陸上に軍民共用空港を」としていたが、それが「海上でも容認」というのは公約違反ではないか。また南北一〇〇キロメートルの沖縄本島で、もう一つの民間空港が成り立つというのなら、需要予測をだした上で議論をしようではないか。

今ならまだ間に合う。

 辺野古へのヘリ基地建設については、名護市民投票で、すでに「反対」の民意が明確にされている。それを軍民共用空港の是非を論じたり、軍事利用は一五年に限る、などと焦点をずらしてはいけない。 

 沖縄の私たちが、SACO合意の真相を知らないまま、目の前にふりかざされた「振興基金」で世論を二分され、身内がふたたび争わされるのは、この上なく愚かなことだと思う。

 稲嶺知事はじめ、県議会も岸本名護市長も、今やるべきことは、SACO合意の真相について情報公開を日米両政府に求め、それを県民に、広く深く知らせることではないだろうか。正しい情報を持って、正しい判断をくだす。それが「今」を良くすることでもあり、子や孫、二十一世紀の人たちに、平和な世界を残す私たち世代の務めでもある。これは沖縄だけでなく日本全体の課題でもあるが、まずは稲嶺知事たちに、このような県民の願いが届くことを切に望んでいる。

                                  真喜志好一

                   (建築家・SACO合意を究明する県民会議)

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