解っているのは、そのくらいだけ

 解らない。なぜ、最も基本のことが、こんなに難しくなったのか、解らない。それとも、私だけが変なのかもしれません。狼たちと生活をした私、今の世の中とうまく行く筈がないでしょう。しかし、私の目から見える今の世の中は、あまりにも非・不・反自然なので…
 多くの鹿たちを初め、私、たくさんのいきものも、根のあるものたち(”植物”)も殺してきました。が、それは、狼や虎と同じ、森の掟の中でやったこと。すなわち、森は、食べるため、そして、自分が食べられないためにだけ、他のいきものを殺すことを許します。しばらく前、知り合いの母子二組が私の所にきました。自動車から降りるなり、子供たちが、蟻たちや、そこにいた虫たちを踏みつぶし始めた。私、「その蟻たちを何に使うんですか?食べるんですか?それとも、薬にするんですか?」と、子供たちにたずねた。(実は、以前、鉄砲で撃たれたとき、蟻たちのいのちをいただき、その薬のおかげで、今生きています。)しかし、その子供たちは勿論、母親たちも、答えられませんでした。「環境運動」と、関わりのある、その、母さんたちです。

 花の香りをかぐとき、私の民族は、地面に顔を近づけ、花の隣に鼻を寄せます。その花を摘むどころか、触ることさえもしない。
自然に生えている草たちへの恨みも解らない。自然界に生きる事は、大変なことです。無数の条件が合わないと、生まれてこない。二本足が、”雑草”と呼ぶ、根のあるものたちは、実は、自然界から見て、その場所に必要なもの。そうでないと、生えはしないし、生きはしない。すべてのいきものにとって、同じことが言えます。が、二本足は、あらゆるものに、価値をつけます。自分たちにとって、価値のあるものが”良い”(生きることを、許される)。”価値”のないものを、切って、毒殺して、焼いてしまう。”除草”、”駆除”。二本足の生命は、なぜ、他のすべてのいきものより、”価値”があるのか、私、解りません。
  生きるため以外、他のいきものの生き方に邪魔をしないということが、私にとって、最初の教えでした。今もそれが、当たり前の日常です。そして、森に入れば、生きるため、他のいきものの生命をとる。同時に、自分も、他の生き物や、森そのものの、獲物になる。当たり前のことです。殺し、そして、殺される。その中から生きる輝きがうまれる。二本足=人間の世で、その輝きが失われたのは、他のどんないきものとも違って、いのちが入っていない生き方をしているからだ。しかし、その二本足たちこそ、自分たちが自然界の頂点だと思いこんでいる。自分たちが、すべてのいきものを、管理すべき、管理できると、思いこんでいる。自然界の外に自分たちを置いて、自然界を理解できると、思いこんでいる。 生き物たちを、管理出来る、管理すべきと思っている二本足たちに、言いたい。「他のすべての、いきものたちと同じ条件の中で生きなさい。森の掟で生きなさい」と。それができない、そうしたくないと、言うのならば、自ら自然界の外に、インチキな人工の世界の中に、生きている自分たちと同じ二本足たちだけを、管理しなさい、と。


 解らなくなった。だけど、もともと、解らなかったのかも知れない。どうして森の掟の外に生きられるのか?どう、その掟の外にあって”生きている!”と思えるのだろうか?これを、読んでくださっているあなた、もし、「解る」のなら、私に話してください、説明してください。
 今、かろうじて生きているいきものたち、それは、町の下水道の側溝を住みかとしている、タヌキたちも含めて、住んでいる場所で、保全しなければならない。二本足たちが、今まで、自分たちのことばかり、大切に思ってきました。いきものたちとの”共存”を、本当に考えているのなら、二本足たち以外の、すべてのいきものたちを先に思って、自分たちの”便利生活”を少しは犠牲にし、自然界に近く生きるべきです。たった、百年前まで、二本足たちは、自然の一部としての生き方をしていた。二本足たちが、入らない、入っていけない森が、たくさんありました。林業も、農業も、自然界があってこそ、二本足の生活もあった。しかし、”文明開化”とともに、二本足の、自分たち中心主義の考え方(宗教といっても、言い過ぎではない)が、主になった。そこから、“管理学”も生まれました。

 今、必要なことは、棲み分けです。二本足の陰も匂いも音もない森が必要。自分勝手な”共存”を言う前に、自分たち、二本足たちが自ら捨てた心を、取り戻さなければならない。日常の生活の中に、それを現さなければなりません。優しさや、”良い積もり”で、いきものたちの信頼を、受けることは、できません。
 解っているのは、そのくらいだけ。


ミタクエ・オヤシン(すべて、縁あるもののために)


6月18日                     タシナ・ワンブリ