米原万里著
中公文庫 2004年8月 533円+税
ロシア語の通訳で有名な米原万里さんの最新エッセイ集文庫版(「最新」は「集文庫版」にかかるのであって、個々のエッセイは1990年代末からのもの)。
これが抜群にハイセンスで面白い。料理をただ「美味しい」と言うだけでは何の説明力・記述力もないので、料理評論では「美味しい」と言っちゃいけない、という話があるらしい。それを考えると「面白い」といきなり言ってはいけないのかも知れないけれど、でもハイセンスで面白いものはハイセンスで面白い(それに、セカチュウが流行るような世の中だから、多少記述を放棄しても許されることにしよう)。
第一。話に阿呆な教養主義ではないそしてむろん無知でない教養の裏付けがある。第二。既存の社会的体系(既にそれが腐っていることは、最近では、ネクタイを付けたプロ野球オーナーたちの、営業利益を上げられない無能さを省みずに、Livedoor社長がTシャツを着ていることについて、反発を買うのではと論ずる報道にも現れている:反発を買っていてプロ野球人気を落としているのは、ネクタイをした無能なオーナーたちなのに)から少しずれてナナメ横断的に付き合いつつ自分の足で歩いている。第三。社会状況を鋭敏に観察している。第四。歴史のモノとしての厚みに対する感覚が鋭い。第五。ロシア風に小咄をたくさん知っている(きっと)。第六。ウィトゲンシュタインが「腕を上げるには単に腕を上げる」と言っている(ちょっとちがうけど)のを思い起こさせる対象の語り。ま、単に面白いので、こんな説明抜きに、お勧めの本なのだけれど。
そんなわけで、一見10分しか持たない似非アナロジーっぽいもの、読み手を惹き付けるための装飾としてだけでなく、ちゃんと考えると、論理的に成立する関係をしっかり踏まえて用いられている。どっかの権威筋が作ったような低レベルの概念のアソシエーションがない(昔「ローマは一日にしてならずというように、ローマ見物も一日ではできません」という意味の文を英語の教科書で見て驚愕した覚えがある。一日三食食べるから一日三回排便しなくちゃいけない、みたいなノリ。そんなんだと、辛いモノとキウイを食べ過ぎると痔になっちゃうかも)。
たとえば、「選択的不注意」というエッセイは、次のように始まる。
五匹の猫ならびに二頭の犬と同居するうちに面白いことに気付いた。絶対に見たくない不快な物事に直面したときに、犬と猫のとる行動様式がかなり違うのだ。
そら違うでしょう。でも、何のお話?
「竿師の水虫」は、安部譲二の『塀の中の懲りない面々』に出てくる竿師のお話から始まり、英国諜報機関の誘惑スパイたちにも話が及ぶ。でも、実は日本のお話。
「今日も『囲い込み運動』」は、ロシアで「ある日突然、公共の広場や空き地が、文字通り塀で囲い込まれて、私営のホテルやデパートが建てられてしまう」ことにかけたお話。話題をさらった東京は新宿南口の「再開発」後、あの辺の道に「この通路/橋でデモや署名活動、云々を禁止します JR東日本・ナンタラ」との看板を見ている人にもお馴染みのテーマ。
あと、自分が教養があって賢いと思っていて、自分が言うことに言うハナから陶酔してしまうようなタイプ(というと言い過ぎだけど。トニー・ブレアとか)の人には、こんな言葉。あるシンポジウムに著者がパネラーとして参加したとき:
わたしの隣席に座ったのは、テレビなどでもしばしば見かける人気経済学者のS。そのSが、突然ブチあげた。
「今度のサミットは、ぜひ沖縄でやるべきだ。そう首相にも進言している」
〔ちょっと略〕
それを聞いた瞬間、耳を疑った。馬鹿じゃないか、この人。それとも、演技の上手い偽善者なのか。横から眺めていると、彼が話しながら自分で自分の言葉に興奮して顔が上気し、声がうわずっているのが手に取るように分かって可笑しい。ということは、馬鹿の方か。
最後の、「ということは、馬鹿の方か」は、斎藤美奈子を思い起こさせるおもしろさ(確か米原万里は斎藤美奈子のエッセイにあとがきを書いていたと記憶している)。
「幼児に英語を学ばせる愚」では、次のように言う
どんな外国語も、最初の言語である母語以上に巧くなることは絶対にない。日本語が下手な日本人は、それよりもさらに下手にしか英語もフランス語も身につかない。・・・・・・
しばらく前に東京の地下鉄にあった某英語学校の吊り広告を思い出す。「英語を母語とする外国人と楽しく話すことが英語上達の秘訣」みたいなことが書いてあったけれど、つまんないヤツとは、ナニ人だろうが、ナニ語で話そうがつまんない、という単純な事実が完全に抜け落ちていた。
今大売れに売れている『ハリー・ポッター』が30年前のケストナーやリンドグレーンと比べて極端に簡単な言い回しと語彙で書かれていて、学校では「日本語」をめぐり言語力ではなく愛国心を育むことがどんどん強調されている中、大変示唆的なエッセイ。
生活することと書くことと考えることとが上手く結びついていて、現在の日本で多くの人が切実に抱える問題を扱っていて、共同体的な諸カテゴリーとの距離感も感心させられて、553円で、文庫本だから古本屋さんでもきっともうすぐ見つけることができるようになってもっと安く入手できて、と、いいことばかりの一冊。
内容についてはほとんど紹介がなくて、ごめんなさい。