『難民を追い詰める国----
 クルド難民座り込みが訴えたもの』

 クルド人難民二家族を支援する会編著
 緑風出版 2005年7月 1700円+税


約1年前の2004年7月13日、トルコ出身のクルド人難民二家族、カザンキランさんとドーガンさんの家族が、東京は青山の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)前で座り込みを始めた。日本の入国管理局の振舞いに抗議し、難民認定を求めてのことである。

猛暑の中、抗議の座り込みは72日間に及んだ。

クルディスタンとクルド人、そしてトルコでクルド人が置かれた状況については、中川喜与志の労作『クルド人とクルディスタン』(鹿児島:南方新社)を皮切りに、今や新書でも解説書が出ているので、詳細はそちらに譲る。簡単に紹介すると:

トルコ、イラン、イラク、シリア、アゼルバイジャン、アルメニアの国境地帯クルディスタンに暮らす総人口約3000万人とも言われる民族。独自の言語と文化とを持ちながら、異なる国に分断され、それぞれの国で「少数民族」とされており、多くの国で弾圧を受けている。これに対し、自治と独立を求めるクルド人の運動は長く続いている。

人口約6000万人のトルコでは、約4分の1にのぼる1500万人ほどがクルド人であると言われているが、1924年のトルコ共和国成立以来、トルコ政府はトルコにはクルド人などおらず「山岳トルコ人」がいるだけだとしてクルド人の文化・言語・民族アイデンティティーをすべて弾圧してきた。

これに対するクルド人の抵抗や反乱は、すべて過酷な弾圧を受けてきた。

1990年代には、米国からブラックホーク・ヘリをはじめとする最新鋭の兵器を手に入れたトルコ軍によるクルド人への弾圧は激化し、また、新聞社の営業停止やジャーナリストの殺害といった弾圧やテロも増加した。1993年と94年にはクルド人に対する「謎の殺害」(「死の部隊」によるものと推測される)の犠牲者だけで3000人を越え、3500にのぼる村々が破壊され、その際、ナパームさえ使われたという。

たとえば、トルコ軍は「1994年秋、137の村を破壊した。これは、ディヤルバクル[トルコのクルド人居住地の中心都市]の北に広がる広大なトゥンジェリ地区の3分の1にあたる。トルコに残された最後の緑地帯の一つが、(米国供給の)ヘリコプターとF−16により、広範囲にわたって火に包まれた」(ジョン・ターマン『戦利品』1997年)。

EU加盟を目指すトルコは、その後、表向き「弾圧はない」と主張しているが、様々なかたちでクルド人に対する弾圧は今も続いている。

カザンキラン一家とドーガン一家は、そのようなところから日本にやってきた。難民として認められることを期待して。ところが、日本政府はトルコとの友好関係からか、トルコのクルド人をまったく難民認定していない。さらに、日本の入管は、クルド人に対してだけでなく、一般に、難民をあたかも犯罪者のように扱い、しかもカフカイスクな世界に突き落とすことで悪名高い。

本書は、クルド人難民二家族の座り込みの場に、意図してあるいは何となく集まってきて、意図してあるいは何となく支援を始め、「クルド人難民二家族を支援する会」を結成した人たちによる、座り込みと支援と日本の入管やUNHCRの対応などに関する、記録と報告である。

大まかな章構成は、次の通り:

第一部 人権を求めて
 第一章 決意の12人
 第二章 支援の始まり
 第三章 UNHCRの限界と法務省の壁
 第四章 メリイェムさん出頭
 第五章 青山のクルディッシュ・ダンス
 第六章 灼熱の72日間
 第七章 その後の二家族
第二部 よりくわしく難民問題を知りたい人のために
 第一章 二家族の思いの底にあるものは
 第二章 日本の難民迫害と難民運動
 第三章 ニューカン、ニンゲンニナリナサイ!

ほかに、コラムや用語集などが付いている。

大上段に構えた本でも体系的な本でもない。

カザンキランさんの家族やドーガンさんの家族のコメントを冒頭に、「支援する会」のメンバーが一人称で支援のとき思ったことや出会った様々な出来事を、どちらかというと日記風に書き記した文章が中心に構成されている。

悪く言うと、まとまりがなく、まったりとしている。一人称で書かれた文章が続いていながら、途中で語り主が変わっていたりする。したがって、トルコにおけるクルド人弾圧の問題とか、難民申請者を犯罪者扱いする日本の入管や法務省の問題とか、そういったことを襟を正して学ぼう、という人向けではない。

けれども、シャープに分析したり実証的データを積み重ねたりする本にはない、メリットがある。読み物として、だらっと何となく目を通しはじめても、それでも面白く、一気に読めること。あるいは、適当に拾い読みして、全体はわからなくても、何となく読めること。

そして、そのような本書の特徴は、本当に極めて大切な、支援者たち(の多分多く)の身の置き方と関係しているように思われる。

官製の国際交流イベント(あるいはそれに類する立派なNGO製の国際交流イベント)と比べてみると、その大切な点がはっきりするだろう。

官製イベント:イベントそのものが目的で、祭りのときの国際交流ポーズは立派だが、その前やその後に参加者たちが茶飲み友達になったり、釣り友達になったり、スーパーの安売り情報を交換したりといった当たり前の関係に発達することは、ほとんど、ない(投下される金と宣伝とを考えると、まったくない、といってもそう誤りではないだろう)。

一方、「クルド人難民二家族を支援する会」のメンバー(の多く、少なくともかなりの人たち)は、「日本におけるクルド人難民」という枠組みのなかで「彼女ら彼らクルド人」と「私たち日本人」という図式を否応なしに意識しながらも、同時に、ふとしたきっかけから知り合いになり近しくなった茶飲み友達との関係に近い身の置き方をしているように思える。

官製の「交流」イベントが、「交流」の証拠づくりならば、「支援する会」は、ゆっくりと時間をかけて(といってもそんなにまだ時間はたっていないけれど)、実際には隣りに暮らしているかも知れない、遠くから来た人々と、生活を共有するならば当たり前に培うべき関係を、当たり前に作りあげる途上にあるように思える。

ばりばりの政治活動家タイプの人は、そうした日常性に伴いがちな非政治性に苛立ちを感じるかも知れない。当たり前に関係を構築したとしても、日本政府の制度がかわらなければ問題解決にはならないではないか、と。一理ある。けれども、現在も入管や法務省の悪しき態度が続いているという事実は、少なくともこの問題をめぐる政治的な働きかけは、残念ながらこれまで十分ではなかったことを示している。

そんな中、生活を共有するならば当たり前に培うべき関係を当たり前に培いつつある人々の活動は、「制度を変える」ことをめぐっても、将来的に大きな力となりうるだろう[とりわけ「支援する会」の人々は、様々な試行錯誤を重ねて、制度そのものに疑問を突きつけ、制度を変えようと言う運動を展開しているのだから]。

本書の、一人称で、内輪っぽい話しも少なくなくて、まったりとしたトーンは、したがって、これまでは気づかなかった、当たり前に身近にいる遠くから来た人々と、時間と、空間と、場所と、その他の色々なものを共有するために、ゆっくり時間をかけてあたりまえに慣れていこうと(意識せずに)している、支援者たちの日常性をそのまま表しているものと読める。

しばしば政治的議論が言葉の上で空回りする中、そして小泉首相やブレア、ブッシュのように、言葉を殺そうとする人々が声を大に空疎なおしゃべりを続ける中、身近な生活の目線でクルド人難民「支援」を語る本書は、それが含む生活の具体性と厚みにおいて、とても貴重であり、そのおかげで、本書の各所に織り込まれたハードな情報も、耳知識にとどまらず伝わってくる。

そんなわけで、夏、ちょっとした旅行や休暇のときに、列車の中や、掃除の行き届いた窓を開け放した部屋で、くつろいで、ごろごろして、本書を手にとって読んでみて、語られていることを、当たり前の日常の一風景としてなんとなく思いめぐらすように読むと、本書が含むとても貴重な部分が脳と心に染みていくと思います。

軽く持ち運びやすくできた本で、値段も手頃なので、夏の旅行や出張のお供に、あるいは中学生や高校生の夏休みの読み物として、お勧めの一冊。

「クルド人難民二家族を支援する会」のホームページはhttp://homepage3.nifty.com/kds/。本の末尾に書かれたアドレスは、"homepage3"が"homePag3"と、"3"の前の"e"が抜けていますのでご注意を。こんなところも、日常生活っぽい。

益岡賢 2005年7月23日

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