革命の種を蒔く

マリアム・ラーウィ(RAWA:アフガニスタン女性革命協会)へのインタビュー
2001年12月9日


タリバン支配の終焉によって、アフガニスタンの人々は、平和と自由の新時代が訪れることを期待できるのだろうか? アフガニスタン女性革命協会(RAWA)の見解は否定的である。すべての原理主義者グループを武装解除しない限り、タリバンが政権を取る前の、残虐で混乱した状態が戻ってくるとRAWAは考えている。2001年アジア人権賞受賞の際に来日したRAWAのマリアム・ラーウィ氏にRAWAの活動とアフガニスタン危機について聞いた。


RAWAとは
1977年、アフガニスタンにおける女性の権利と非宗教主義、民主主義を求める活動を行う団体として創設された。1980年代にはソ連の占領軍に対する闘いに参加、人々の意見を動員するため、デモや、学校や大学での集会を積極的に行う。パキスタンでアフガン人難民に対する学校を運営し、保健サービスも行っている。

1981年には、Payame-Zan(女性の声)という雑誌の刊行を開始し、女性の権利を提唱するとともに、アフガニスタンの原理主義グループによる人権侵害を告発してきた。RAWAの成功は、政権と原理主義者の敵意をかき立て、創設者ミーナは、1987年に、KGBエージェントに暗殺された。

ソ連の傀儡政権が倒れてから、RAWAは、アフガン女性の最大の敵は原理主義であるとの考えのもと、原理主義との闘いに力を注いできた。1992年から96年の北部同盟支配下で起きた人権侵害と、最近追放されたタリバン政権下での人権侵害について記録をとってきた。RAWAはまた、アフガニスタンで秘密学校、識字教育、移動保健サービスを提供し、女性が自分の権利について知ることを促している他、医療サービスも提供している。

厳しい予算の中、RAWAはパキスタンとアフガニスタンでの社会プログラムを継続している。ただし、安全上の問題のため、アフガニスタンでの活動は秘密裡に行われている。


あなたの背景は?RAWAに参加したのはどういう経緯ですか?

私は1974年カーブルで生まれました。父はロシア人と闘う自由の戦士で、私が9歳のときに殺されました。私の叔父やいとこたちの多くも、ソ連の傀儡政権により殺されました。私には男兄弟がなかったため、父が殺された後、母と4人の姉妹と祖母が残されました。多くの家族がそうしたように、私たちはアフガニスタンを離れ、アフガンとの国境近くにあるパキスタンのクエッタ難民キャンプに行きました。キャンプにいた最初の2年は教育を受けることができませんでしたが、それからRAWAがやっている学校に行くことが出来ました。その学校を卒業してから、RAWAで働いています。

RAWAの学校の勉強はどうでしたか?

私は学校でとても幸せでした。先生たちはできるだけ多くの機会を与えようとしてくれました。通常の科目の他に、政治問題の授業やスポーツ、映画鑑賞といった娯楽もありました。

私は学校でRAWAの創設者ミーナに何度も会いました。彼女は私に深い印象を残しています。ミーナは誰に対しても親切で親密でした。私たち子供に対しても同じように振舞っていました。私はとても若くて政治的なことを理解することができませんでしたが、彼女が指導者であり、RAWAの活動にすべてを捧げていることはわかりました。

あなたは頭を覆っていませんね。ムスリムですか?RAWAの他の女性もムスリムなのでしょうか。

私はムスリムです。そして他の女性もそうです。けれども、私たちにとって宗教は個人的なものです。RAWAは世界中のいろいろな組織と密接な関係があり、個人支援者がいますが、それらの人々は様々な国籍、宗教の人たちです。こうした人たちはいろいろと私たちを支援してくれますし、私たちはもちろんこれらの人々の宗教を尊重します。アフガン人の99%はムスリムで、私たちも皆ムスリムで、そして私たちの宗教に敬意を払っています。

あなたのグループが「革命」という言葉を使っている理由は何ですか?

(笑)「革命」という言葉で皆が怖じ気づきます。けれども、女性による独立した政治的社会的組織として、また、後進的で男性支配の強い社会で原理主義と闘っている唯一の女性団体として、私たちは革命的な仕事をしているのです。使っている武器は暴力ではなく教育ですが。教育を通して男性と女性そして次の世代の精神構造を変えることができるのです。

RAWAはこれまでずっとすべての原理主義グループを批判し、妥協を拒否してきました。それについて過激すぎると批判されたことはありますか?

もちろんです。けれども、私たちは、人々の、特に女性の声なのです。女性たちが感じていること、言っていることは、RAWAが言っていることよりももっと強いことです。息子を派閥の一つに殺されたり、夫が殺されたり、娘が強姦されたり、すべてを失って、働くことも許されず、売春婦として、あるいは路上で物乞いをして生き延びなくてはならなくなったふつうの女性とインタビューしてみるとわかるでしょう。彼女たちが感じていること、言うことは、私たちの立場よりも遙かに激しいものです。

あなたたちは反原理主義の立場を取っていますが、そのためにパキスタンでの活動が危険になったりはしませんか?

その通り、パキスタンでは安全を巡る多くの問題を抱えています。パキスタン政府はタリバン政権を承認し原理主義グループを支援しています。私たちが平和的デモを行おうとしたとき、殺害の強迫を受け、攻撃され、殴打され、逮捕されました。出版物を売っているときも、パキスタン警察はそれを妨害しますし、私たちの住所と連絡先を知ろうとしていつもあとをつけてこようとします。だから、RAWAは公開された公式の事務所を持つことができないのです。

米国の武力攻撃が始まって、RAWAの活動にはどのような影響がありましたか。

私たちがアフガニスタンの中で行っている活動のいくつかを中断しなくてはなりませんでした。米国の攻撃により治安が悪化し危険になったからです。崩壊前のタリバン政権からの圧力が強くなったことによる問題もありました。例えば、カーブルでは、タリバン政権は、撤退する前、家宅捜索を頻繁に行っていましたので、活動を続けるには危険すぎました。

一方、パキスタン側での活動もとても難しくなりました。私たちは、インタビューに応じ、ジャーナリストたちに私たちのプロジェクトを見せたり難民キャンプを見せたりするのに忙しくなりました。それに加えて、新しくキャンプにやってきた人々にシェルターや食料、毛布や薬を与え、越境しようとしている人を助けたりしました。これは簡単ではありません。ここに来る前は、ペシャワールの近くのジャロザイ難民キャンプに1週間いました。そこでRAWAが提供したものを配る手伝いをしていたのです。

そうしたキャンプの状況はどのようなものですか。

10万人ほどの難民がジャロザイと、ペシャワールに近いもう一つの難民キャンプ、アコラ・カタクにやってきました。これは9月からのことで、ふつうよりも遙かに多い人数です。キャンプにあるシェルターはビニールのテントだけなので、とても寒いのです。水も電気もありません。キャンプに来るために、人々は歩いて山を越えてくるのです。そして、キャンプに着いたとき、人々は寒さと、そしてあまりに長いこと歩いてきたために病気になっています。旅の途中で流産してしまう女性も多く、たくさんの子供が死んでしまいます。

難民がアフガニスタンを離れるのは、米国の爆撃のためですか。

はい。もちろん、多くの人は、米国の爆撃から逃れてきた人々です。けれども、北部同盟を恐れてカーブルから逃げてくる人もたくさんいます。

メディアは、北部同盟を、アフガニスタンの解放勢力のように扱っています。ふつうのアフガンの人々はそう考えているのでしょうか。

世界のメディア、特に西洋のメディアは、アフガニスタンに対してとても悪辣な役割を果たしてきたと思います。長い間、アフガニスタンは完全に忘れ去られていました。ところが、9月11日のあと、メディアは突然アフガニスタンに注目し、とても否定的にアフガニスタンを扱い始めたのです。メディアは、まるでタリバンが唯一の問題であるかのように報道し、1992年から1996年の4年間、北部同盟がカーブルを支配してアフガニスタンイスラム国と称していたときのことを完全に忘れています。

この4年間はアフガニスタンの歴史の中でも最も悲惨な時期でした。異なる司令官が異なる場所を支配し、お互いに、そして人々に対して、ロケット砲や爆弾で攻撃していたのです。対立するグループがある地域を新たに占領すると、報復として、その地域の女性を強姦し、男も女も子供も殺し、家を略奪し、人々を処刑していたのです。たくさんの若い女性が、強姦を恐れ、また強姦されて殺されることを恐れて自らの命を絶ちました。多くの女性が誘拐されました。安全というものが存在しなかったのです。

北部同盟の支配下にあった4年間で、カーブルでは5万人以上の人々が殺されたのです。そのことを世界は完全に忘れています。メディアは、タリバンが仏像を破壊したと報道していますが、そもそも、カーブル美術館を完全に破壊したのは北部同盟だったことについては何も言いません。北部同盟支配下の4年間に原理主義者たちが行った犯罪と残虐行為のことを、人々は、とりわけ女性は、決して忘れませんし許しません。

1996年にタリバンがやってきたとき、人々はタリバンを歓迎したことを思い起こさなくてはなりません。4年間、北部同盟グループの残虐行為の中で苦しんできた人々は、タリバンが平和と安全をもたらしてくれると考えたのです。もちろん、すぐに人々は、タリバンが北部同盟と変わらないことを知りました。

今、北部同盟が力を盛り返し、同じことが再び起きています。安全と平和の兆しは全くどこにも見あたりません。タリバンと北部同盟に違いがあるなどとどうして言うことができましょう。状況は同じなので、アフガニスタン内でのRAWAの活動は今も秘密裡に行わなくてはなりません。今も原理主義者たちが権力を握っており、私たちが原理主義者の犯罪を暴こうとしていることを知っているのです。

米国の武力作戦に対して、ふつうの人々はどう反応していますか?

人々にとって難しいところです。タリバン政権下で辛酸をなめてきたので、タリバン政権が倒れることを望んでいますが、その一方で、米国の攻撃により、罪のない人々が何百人も殺され、人々は苦しんでいます。人々は、米国の攻撃に対して、ロシアの侵略に対処したときのようには振舞っていません。米国がタリバン打倒を望んでいるのは明らかなので、アメリカと闘うのは馬鹿げているのです。

けれども、アフガニスガンが今のようになってしまったのは、アメリカをはじめとする外国の非人間的で不正な政策のためだということを、人々は知っています。アメリカと西洋諸国は、ロシア、イラン、パキスタン、サウジアラビアとともに、長年にわたって原理主義グループを支援してきたのです。こうした原理主義グループが力をつけ、アフガニスタンを制圧し、そして統制不能になったのです。米国政府は、自分が創り出したものが自分にとって危険であるとは考えなかったのでしょう。たぶん、米国は、残虐行為はアフガニスタンの中だけで行われ、苦しむのはアフガニスタンの女性だけで、アフガニスタン内のものが破壊されるだけだと考えていたのでしょう。

けれども、ニューヨークの世界貿易センターも破壊されたのです。米国政府は、そもそも最初にオサマ・ビン・ラディンをアフガニスタンに迎え入れ、アフガニスタンのパスポートを与えたのが北部同盟だったことを完全に忘れ去っているようです。北部同盟に何らかの支援や機会が与えられるならば、将来再び、ビン・ラディンやアルカイーダネットワークのようなものが生まれるのは確実だと思います。

タリバンが権力を奪われた現在、アフガン女性にとって明るい将来を構想することができますか?

アフガン女性が抱えている問題は、原理主義そのものであることは明らかです。ブルカを着なくてはならないかどうか、映画に行くことができるかどうかといった問題ではないのです。そして、北部同盟は原理主義者たちなのです。

女性の権利を巡って北部同盟とタリバンに違いがあるとすると、北部同盟は何も宣言せずに、女性に対して犯罪と残虐行為を犯してきたということだけです。タリバンはそれを公式の規則としたというだけのことです。例えば、北部同盟が政権の座にあったとき−ちなみに、女の子の学校を「地獄への門」と最初に名付けたのは北部同盟です−、多くの女性が、誘拐や強姦を恐れて、仕事や学校に行けなくなりました。これに対してタリバン政権は、公式にはっきりと、女性は家の外に出てはいけないといい、仕事を持ったり教育を受けたりすることを禁止したのです。

今、女性の権利について語ることが至るところで流行しているようです。だから、北部同盟も民主主義とか女性の権利とかいった言葉を口にだします。けれども、北部同盟が態度を変えたなどと信じることはできません。

RAWAはボン会談に招待されましたか?

招待されました。私たちのメンバーの一人が王の使節の一員として招待されたのです。けれども、他の3使節団から圧力がかけられ、さらに王の使節団の一部からも圧力がかけられたので、彼女はRAWAの名前で公式に登録することができなかったのです。王の周りには、原理主義グループと妥協したり、これを恐れたり、また、アフガニスタンの民主主義と世俗主義といったスローガンを唱えることを恐れたりする人々がたくさんいるということについて、私たちははっきりさせてきました。

ボン会議に女性が参加したこと、そして暫定政権に2名の女性が選ばれたことにより、アフガン女性の状況は改善されると思いますか?

政治に女性が参加することは、どんな場合でも、もちろんよい変化だと思いますし、将来さらによい方向に変化するための出発点となるかもしれません。けれども、政権に加わった女性が誰であれ本当に女性を代表しているかどうかを測る基準は、彼女が原理主義にはっきりと強く反対しているかどうかだと考えます。残念ながら、会議に参加した多くの女性は原理主義者と妥協するか、あるいは原理主義者と直接関係を持っている女性たちなのです。例えばアミナ・アフザリは北部同盟の使節団の一員でした。

女性問題大臣となったシマ・サマルは統一党の中央委員会委員です。これはハザラ人の原理主義者グループで、イラン政府の支援を受け中部アフガニスタンを拠点とする最も残忍で嫌われもののグループなのです。彼女がそんな政党の委員であるのに、どうしてすべての女性を真に代表することができるでしょうか。もちろん、彼女は女性ですが、反原理主義ではありません。そして女性を真に代表するためには、反原理主義でなくてはなりません。残念ながら彼女はそうではないのです。

彼女は、メディアの中でとても好意的に扱われています。パキスタンで保健センターを運営し、人々からヒロインと見なされているというのです。彼女が原理主義者とつながっているということについては何も報道されていません。

私たちは、彼女が統一党のために旅行をしたことについて多くの資料を持っていますし、彼女が統一党中央委員会委員として紹介されている少なくとも二つのインタビューのコピーを持っています。統一党指導者たちと会談しているビデオもあります。彼女はヨーロッパとアメリカでよく知られており、いろいろなNGOから支援やたくさんの資金を得ていますが、人々は彼女が原理主義グループにつながっているとは知らないのです。

もちろん、病院を経営しているなら、原理主義者であろうとなかろうと、人々は診療を受けるために病院に行きたがります。そして彼女はハザラ人で、ハザラの人々と働いているのですから、信頼しやすいのです。けれども重要なのは彼女の政治的見解であり、彼女は原理主義の側に立っているのです。

国際社会がアフガニスタンに対してできる政治的貢献はどのようなものであるべきとRAWAは考えていますか?暫定政権はアフガニスタンに平和をもたらすと考えていますか?

私たちはこれまでずっと、国連や米国政府、西洋諸国は、原理主義者グループへの支援をやめ、また、パキスタンなどの国に、原理主義グループへの支援をやめるよう圧力をかけることを求めてきました。けれども、これらの国々は私たちの声を決して聞かなかったのです。これは別に新しいことではありません。1981年にミーナがヨーロッパを訪れたとき、既に、彼女は、原理主義者はロシア人よりも危険ですらあると言っていました。今日、彼女が言ったことが証明されているのです。

アフガニスタンにすぐさま平和維持軍を送らなくてはなりません。さもなければ、前と全く同じようになるでしょう。話し合いは時間の無駄になるでしょう。原理主義のグループは武装解除される必要があります。そして、指導者たちは戦争犯罪人として国際法廷で裁かれるべきです。世界中が、ビン・ラディンとタリバンのメンバー逮捕を要求しています。米国に対するテロ攻撃を行い、(3000人以上の)アメリカ人の命を奪った責任者と見られているからです。けれども、北部同盟の指導者たちは、5万人以上のアフガン人の命を奪ったのです。これらの犠牲者にも、正義を求める資格があると思います。

国際社会は、原理主義者の相互協力を実現しようとすべきではありません。原理主義者たちは、分断され弱体だったときですら、恐ろしい残虐行為を犯してきたのです。力を得て団結したら何が起こるでしょうか?こうした敵同士を団結させてそれが唯一の選択肢だというのは、全くよい解決ではありません。それは、直接ではないにせよ、間接的に、アフガン人を攻撃するのと同じです。

現在、北部同盟は最大の軍事勢力で、暫定政権で重要な地位を占めています。内務大臣、外務大臣、防衛大臣などです。だからこそ、私たちは、唯一の希望が国連と国連が何をするかにあると言っているのです。国連がアフガニスタンから離れ、ただ、ほら、これがあなたたちの新政権だというだけならば、また戦争と争いが始まり、過去と同じ状況が続くことになるでしょう。

日本の読者に対して何か一言。

2001年アジア人権賞を受賞してとても光栄です。けれども、私たちにとっては、日本の人々が、アフガニスタンの原理主義に対する支援を拒否してくれることほどうれしいことはありません。私たちの闘いは、世界中の自由と民主主義を愛する女性と男性の闘いでもあると信じています。みなさんの支援がなければ、成功しないと思っています。

インタビュアー:ステファニー・クープ

RAWAについての、より詳しい情報は、
http://www.rawa.org/
を参照のこと。RAWAに寄付したい方は、
 アジア人権基金
 電話:03-5570-5503;ファックス:03-5570-5504
 電子メール:fhra@jca.apc.org
に問い合わせてください。

益岡賢 2001年12月24日

一つ上へ] [トップ・ページ