イラク戦争計画

ミラン・ライ著 War Plan Iraq (London: Verso) 紹介
2003年1月11日

ありがたいことに本書の日本語版が出版されました。
ミラン・ライ『イラク攻撃を中止すべき10の理由』
 NHK出版・1800円
ただ残念なことに誤訳や人名誤記が多いです(本原稿末尾参照)。


UNSCOM(イラクへの第一次国連武器査察団)代表リチャード・バトラーは、1997年、「ある種の文化では、真実というのは、口に出しておいて言い逃れができることがらを指す」と述べた。このとき彼は、イラク大統領サダム・フセインとその政権を指していたのであるが、『イラク戦争計画』(War Plan Iraq)の著者ミラン・ライによると、この言葉は、まったく同様に西洋世界に対してもあてはまるという。


米英の意図とUNSCOMの破壊


米国は、英国の支援を受け、フセインを武装解除する必要があると称してイラク侵略を正当化しようとしている。けれども、米英は、これまで一度も、イラク大量破壊兵器の除去を重視してこなかった。米英が意図していたのはフセイン追放である。その目的のために、米英は、1991年から1998年の武器査察を決定的に阻害したばかりか、現在もイラクの武装解除を妨害しており、さらに、イラクの人々に恐ろしい影響を与えている経済封鎖を続けている。

イラクの武装解除が最初に国連で決定されたのは、1991年4月、国連安保理決議687によってである。決議687号は、イラクに対し、「国際的監視のもと、無条件で」、化学兵器、生物兵器、核兵器および150キロ以上の射程をもつミサイルの「破壊、除去ないしは無害化」を求めている。また、そのプロセスを監視するために国連特別委員会(国際原子力機構[IAEA]の支援を受ける)の設置を決定している。この決議は、また、1990年イラクがクウェートに侵略したときに適用された経済制裁を再適用してもいる。

ライによると、米英は、同決議の経済制裁解除条件をめぐる2つの重要な段落の意味を次第にねじ曲げ、それによって、イラクがどんなにUNSCOMと協力してもフセインが政権の座についている限り経済封鎖は続くとイラクが考えるに至ったという。

安保理決議687の第21段落は、「関連するすべての決議」の実行状況を含むイラクの「政策と行動」を安保理が考慮したのちに、輸入の再開が可能であるとしている。「政策と行動」という表現は「極めて曖昧」であるが、米英は、さらに、「『関連するすべての決議』という文言を、イラクに対する要求を拡大するために利用し」、同決議の趣旨に明らかに反して、決議687号以降に採択された安保理決議をも含むと主張した。

UNSCOMの活動に対してさらなる打撃となったのは、第21段落よりもはるかに明確な文言を含む第22段落を無視したことである。第22段落は、イラクが国際的な監視に基づく大量破壊兵器の武装解除に従い、長期的な監視プログラムを受け入れれば、イラクは石油輸出を再開することができると述べている。

「ロシアとフランスは第22段落の重要性を強く主張したが」、「1994年までに、米国と英国は、『関連するすべての決議』にイラクが従うまで経済封鎖を適用し続けるべきであると決断した」。1997年、当時の米国国務長官マドレーヌ・オルブライトは、経済封鎖解除の基準をさらに強化し、「イラクが武装解除しても、サダム・フセインが権力を掌握している限り経済制裁は解除しない」と述べている。

政治目的のために外交プロセスをこのようにねじ曲げたことで、イラクにUNSCOMと協力させるための「褒美」を取り除いてしまったばかりではない。これにより、米国が査察に参加しているのは武装解除とはほとんど関係なく、もっぱら「政権変更」のための情報収集目的なのではないかとイラクに疑いを抱かせることとなった。

ライは、実際、UNSCOMと米国諜報のあいだにはかなりの協力関係が存在したと言う。合法的な査察活動にとどまっている限り、これは必ずしも問題ではないが、あとになって、1996年3月に米国がUNSCOMの遠距離監視機材に秘密裡に盗聴装置を仕掛けたことが明らかになった。査察の原則を傷つけたのである。これにより、UNSCOMには知られずに、米国は、イラクの軍事通信を入手し、フセインの動きをめぐる情報を入手することができた。また、1996年後半にUNSCOMとともに活動していたCIAの秘密エージェントがイラク共和国防衛隊によるクーデターを仕掛けたことも、さらにUNSCOMの立場を危うくさせた。このように米国がUNSCOMに侵入し操作していたことを、米国の「政権変更」という政策から見ると、少なくともイラク側にUNSCOMによる大統領宮査察を逡巡する理由があったことになる。大統領宮への査察は、1998年2月、コフィ・アナン国連事務総長が、査察団に外交関係者も随行するという査察手続き規定を交渉して合意したのちにはじめて行われた。

余談:1997年5月、米国上院は、「化学兵器の開発、生産、貯蔵および使用の禁止ならびに廃棄に関する条約(化学兵器禁止条約)」の履行に必要な法律を可決した。化学兵器禁止条約は、1993年の署名式以来、100カ国以上が批准していたが、米国上院は、同条約を批准するにあたって、修正条項の追加を主張した。上院の修正第307条は、「査察が合衆国の国家安全保障上の利益に対する脅威であると判断される場合には、合衆国大統領は、合衆国内のいかなる施設に対する査察要求も拒否することができる」としている。大統領宮への査察をめぐってサダム・フセインが要求していたのは、まさにこれそのもの(あるいはこれよりも弱いもの)である。

米国は、イラク内でのUNSCOMの立場を秘密裡に利用したばかりでなく、自らの「政権変更」という目的を進めるためにUNSCOMに圧力をかけた。1991年から1997年までUNSCOMの代表を務めたロルフ・エケウスは、2002年7月、スウェーデンのラジオ・インタビューで、米国は、フセインの動きに関してエケウスから情報を得ようとしただけでなく、安保理の一部メンバー(英国と米国であると思われる)が、「査察首脳に対して圧力を加え、イラク側から見ると問題があるような査察を行わせようとし、それによって直接的な軍事介入の口実に使えるイラク側からの査察妨害を創り出そうとした」と述べている。

UNSCOMを操作しようというこうした動きは、1997年にエケウスが辞任し、代表がリチャード・バトラーに代わったあとも続いた。リチャード・バトラーはオーストラリアの外交官で、米国の立場に対してエケウスよりもはるかに従順であり、ライによると、1998年にUNSCOMの活動が終わりを告げるまでの一連の出来事を理解するのにバトラーの存在は重要な要因となっている。

ライは「7年間にわたる査察と交渉、監視と対立を通して、UNSCOMは1998年までにその使命のかなりを達成していた」と述べる。イラク政府による妨害と偽りが続く中で、査察官はイラクの長距離ミサイル計画を破壊し、核プログラムを取り除き、生物兵器と化学兵器のかなりを、生産設備とともに、検証できるかたちで取り除いた。生物兵器と化学兵器の領域ではまだかなり問題は残っているものの、査察は、その使命遂行の「最終段階にいたという雰囲気」であった。

ハディル・ハムザ/ジェフ・スタイン著『私はサダム・フセインの原爆を作っていた』という本があります。ハムザについては、米国のUNSCOM査察官だったスコット・リッターがあまりにでたらめなので当初CIAすら相手にしていなかったと述べているだけでなく、IAEAの査察官でハムザの先生でもあったデビッド・オルブライトも「彼は自分が知っていることと他人から聞いたこととを混同していて区別がついていない」と述べてます。

イラクと査察団の間の緊張は極めて大きかった。この少なからぬ部分は、イラクが査察に協力すれば段階的に経済制裁をゆるめることに米英が反対し続けたことにもよる。経済制裁は、イラクの人々に恐ろしい人道的災厄をもたらしており、また、経済封鎖を解除すべきという国際的な圧力も高まっていた。1998年10月、国連のコフィ・アナン事務局長は、「査察プロセスを再生させるため」に、イラクが査察に従っているかどうかをめぐる「包括的レビュー」提案を安保理に提出した。ライによると、アナンの提案は、「イラクからイラクを非難する側に立証責任を移し・・・武装解除計画に『現実的な時限』を設定し、それにより、輸出に関する経済制裁に期限をつける」ものであった。

米英は「この建設的提案を否定すべく行動した」。イラクは、この「レビュー」のいくつかの側面について明確化を求めた。特に、第687号決議第22段落に明記されたように、「武装解除作業が終了すれば経済封鎖が解除されるかどうか」がイラク側のポイントであった。ところが、1998年10月30日に安保理がイラクに出した手紙(これはその月の安保理議長国英国が執筆を担当した)は、立証責任をイラクに差し戻しているばかりか、経済封鎖をめぐるイラク側の関心について言及していなかった。その結果、イラク側は、10月31日に、UNSCOMとの協力を全面的に停止し、国連査察官は撤退したのである。

しかしながら、実は、その半月後の1998年11月14日、イラクはUNSCOMとの協力を再開し、11月18日にUNSCOM査察官たちは仕事を続けるべくイラクに戻っている。査察活動はそれから約1カ月続けられた。この間のUNSCOMの活動は、バトラーによる安保理への全体評価報告に記されている。バトラーはこの報告で、イラクが協力しなかったため、査察活動は「まったく進捗しなかった」と述べているが、ライによると、バトラーによるこの一方的な結論に、安保理の外交関係者は非常に驚いたという。実際、報告書の本体においては、1998年11月18日から査察官が最終的に撤退する12月15日までになされた300の査察活動の中で、ほとんどすべての査察は問題なく進み、また、問題が発生した5件の査察活動においても、ほとんどのオブザーバにとって、問題は些細なものであり、査察プロセスにとって「致命的な打撃」ではなかったという(ライはある西洋の上級外交官が述べた、問題の多くは、単に「査察においてより明確な規則を設定する必要がある」ことを示しているだけだという言葉を引用している)。

例えば、12月9日、イラクは、バグダッドのバアス党本部に対する12名からなるUNSCOM査察団の立ち入りを拒否した。この出来事は、イラクによる査察妨害の典型例としてしばしば言及されている。けれども、バアス党本部は「繊細」な場所とされており(つまりイラクの国家主権や安全保障に関わる)、そして国連がイラク政府と交渉して合意した「繊細」な場所への査察手続き規定によれば、一度に受け入れる査察チームは4名までとなっていた。そして、イラクは4名の査察団による査察は受け入れていたのである。けれども、4名のチームがバアス党本部に入ったのちに、チームの主任査察官は12名の査察官の立ち入りを要求した。イラク側が拒否したのは、その12名の立ち入りであった。バアス党本部はさほど大きな敷地ではなく、バグダッドのダウンタウンにある家だったので、4名の査察団というのは、さほど理不尽に小さな規模ではなかった。

ライによれば、前任者のエケウス同様、リチャード・バトラーも、軍事攻撃を正当化するため危機的状況を創り出すよう挑発的な査察を行えという圧力を米国から受けていた。そして、バトラーはエケウスのようにこの圧力に抵抗できなかったのである。さらに、バアス党本部に対する査察は、同じ1998年の早い時期に二度計画されていたにもかかわらず、当時の米国の外交政策にとって都合がよくなかったため、米国の指示でキャンセルされたという。さらに、バトラーは、安保理に提出した最終報告を執筆するにあたり、米国当局筋から大きな協力を受けていた(クリントン米大統領は、最初の草稿を「弱すぎる」として却下したと報告されている)。そして、バトラーは、12月15日、米国から、空爆日程が直後に迫っているという強い示唆を受け、安保理と相談すらせずにUNSCOM査察団を一方的に撤退させたのである。そして1998年12月17日、米英は、「砂漠のキツネ作戦」という4日にわたるイラク爆撃を開始した(日本はそれへの支持を表明)。これは、安保理の承認なしに行われたものであった。皮肉なことに、安保理は爆撃が開始されたときにも、バトラーの報告を検討していた。この攻撃以来、武器査察はその後4年間、行われなかったのである。

ライはこの空爆について、次のように述べている。「この空爆計画は、査察プロセスが崩壊したことにより引き起こされたとされるべきものだった。それゆえ、この軍事行動を正当化するためには、査察団を撤退させる必要があった。これに従って、4日の空爆を行うために、UNSCOMはイラクから撤退させられたのである。・・・UNSCOMを破壊したのはバグダッドではなかった。UNSCOMを破壊したのはワシントンであった。」


砂漠のキツネ作戦とUNMOVIC妨害


砂漠のキツネ作戦における爆撃の半分近くが「大量破壊兵器関連施設ではなく政権関係施設を標的としていた」という事実は、武装解除は目的ではないというライの主張を改めて支持している。大量破壊兵器を除去するにあたっては、空爆よりも査察のほうがはるかに有効であることは実証されていた。それにもかかわらず、ワシントンはUNSCOMを破壊すると知りながら(そして罪のない多くの一般市民を殺害することになると知りながら)イラクへの不法攻撃を行ったのである。さらに、米国は、1999年12月に設置されたUNSCOMの後継であるUNMOVIC(国連監視検証査察委員会)によるイラク武装解除任務再開を進めることにほとんど関心を示さなかった。そのかわりに、米国は、ますます大きな批判を浴びている経済封鎖を維持し、そして2001年9月11日(ニューヨークとワシントンで「同時多発テロ」が起きた日)以降は、イラクと9月11日攻撃とを関係づけようと策動していた。

9月11日のテロ実行者とイラクのあいだに関係があるという証拠は存在しないことが明らかになり、また、イラクが大量破壊兵器をもっているという理由でイラク攻撃を行うことに対する合意が国連の支持なしには実現しないことが明らかになって、米国は、査察問題に改めて注意を払うことになった。けれども、米国は、このたびもまた、武装解除プロセスの再生には関心をもたず、戦争の口実としてプロセスを利用することに専心した。『イラク戦争計画』(War Plan Iraq)の出版は2002年9月であるが、最新情報が定期的にウェブサイト(http://www.justicenotvengeance.org)に掲載される。2002年12月の更新で、ライは次のように言っている。「武器査察団がイラクにいることにより、米国が計画している戦争は遅れ、脱線してしまう可能性がある。つまり、武器査察団は(戦争を望む)米国にとって、問題の解決ではなく問題の一部なのである。査察官は、米国の真の目的たるサダム・フセイン追放から見ると「サイドショー」にすぎない。それゆえ、国連武器査察官たちに戦争を正当化するための対立を煽るよう圧力がかけられている。おそらくは、米国の要求により、査察団が武器科学者とその家族を、質問のためにイラク国外に連れ出すというような(そして米国により政治亡命の機会が与えられる)。」イラクが禁止武器を保有しているという米英が主張する情報を、米英は、UNMOVICになかなか提供していない。この事実も、ライの分析を支持しているように思われる。


武装解除のアジェンダ


武装解除をめぐる議論で見落とされがちなのは、第687号決議では、イラクの武装解除は中東全域の武装解除の第一段階と位置づけられている点である。当然、これには、核兵器を保有し、化学兵器を保有していると思われ、そして生物兵器をすぐにでも保有することができるイスラエルも含まれている。イランもまた化学兵器開発力をもち、核プログラムも開始しているという。ライによると、誰がバグダッドで政権の座に着いたとしても、イスラエルとイランという両面の敵が大量破壊兵器を保有している限り、イラクも同様の兵器を保有することを目指すことにならざるを得ないという。したがって、「イラク問題」に関わる論理的な解決は、イラクでの監視プログラムを継続し、仮にイラクが禁止された要素や開発力を持っているにしても、それらが現実の武器開発プログラムにつながらないようにし、その一方で、中東全域の武装解除を真面目に進める以外にない。


イラク「解放」の嘘


ライの著書は、UNSCOMが破壊された背後にはイラクの妨害以外に多くの要因があったという点だけでなく、フセインが実際に追放されたのちに何が起こるかについてをめぐる論争に対しても重要な地検を提供している。ほかの主権国家の元首を追放する権利は −その元首がどれだけ独裁的であろうと− いかなる国にもないが、フセイン追放によりイラクが「解放」され、最終的にはイラクの人々の利益になると論ずる人々がいる。ライは、こうした議論に対する多くの反論を提起している。

まず、米国はイラクにおいてこれまで人々による体制変更の機会を支持するかわりに、フセインを追放しながら軍事的専制体制を維持するようなクーデターを起こそうとしてきた。ニューヨーク・タイムズ紙のトマス・フリードマンは、湾岸戦争の頃に、米国にとって最上なのは「サダムなしのイラク鉄拳政権である」と明言している。そんな国の主張する「民主主義」を信じるわけにはいかない。この政策は、イラクが分裂して、独立したクルディスタン(これはさらにトルコ南東部でのクルド人の独立への機運を高めるだろう)を促し、また、多数派であるシーア派へのイランの影響増大を促すような事態の阻止を意図したものである(イラクでは、シーア派が人口の約60%、クルド人は23%を占める)。

湾岸戦争時に、米国が「1991年2月28日に地上戦を停止したことにより・・・イラクのエリート共和国防衛隊の大部分(その多くはイラク南部のバスラに捕らわれていた)が壊滅せずに残った」。共和国防衛隊を破壊することが戦争の主要目的であると言われていたことを考えると、これは極めて奇妙なことである。「体制の屋台骨」であるこのエリート部隊は、ついで、1991年3月に起きたシーア派とクルド人の蜂起を弾圧した。この蜂起の一カ月前、米国のジョージ・ブッシュ一世大統領は、イラクの軍と人々に、フセインを追放するために立ち上がるよう呼びかけていた。それにもかかわらず、反対派がイラクの18地方のうち14の地方で実験を握り、フセインが「破滅に向かい始めた」中で、米国は、反乱を支援するどころか、「イラク政府に反乱派に対する戦闘ヘリと輸送用ヘリの利用を許可し」、反乱派によるイラク武器庫へのアクセスを邪魔したのである。ブッシュが意図していたのは軍事クーデターであり、「体制そのものを不安定にする」大衆蜂起ではなかった。それゆえ、大衆が蜂起したとき、ブッシュはそれを「妨害するために、直接大衆に発砲する以外のあらゆる手段を用いた」のである。

その後の10年間、同じパターンが続いた。米国はイラクの亡命オフィサたちのグループであるイラク国民協定(INA)と密接な関係を保ち、「宮殿クーデター」を策動し、フセインを別の軍事独裁者で置き換えようとした。その一方で、様々な利害関心を持つ人々を集めたイラクの反対派であるイラク国民議会(INC)に対して、「イラク内での活動ではなくイラク外でのプロパガンダのために」資金を提供している。最近数カ月においてはINCのほうがブッシュ政権からより多くの注目を受けているが、戦争を回避するためにフセインを亡命させることに関する議論や、サダム後のイラクにおいて上級イラク指導者だけを据えるブッシュ政権の計画などは、米国がイラクを「解放」しても、体制そのものはほとんど変わらないだろうことを示している。

イラク人口の60%がシーア派であり、ワシントンにはイラクでイランの影響が増大することをまったく望まないことを考えるならば、米国がイラクで多数意見に基づく民主主義を支持することはさらにありそうにない。

いずれにせよ、どのようなかたちの政府を望むか決めるのは米英ではなく、イラクの人々であるべきである。10年以上にわたって経済制裁を続け何十万人もの人々を死に至らしめ、経済とインフラ、保健医療と教育機構を破壊した米英の二国が、しかも1990年に至るまでサダムによる暴政を支援し続けたこの二国が、戦争を正当化するためにイラクの人々の人権を口にすることほど馬鹿げたことはないだろう。イラク攻撃が人道的破局を引き起こす可能性が極めて高いことを考えればなおさらである。ライが指摘するように、イラクの人々の状況を本当に憂慮し、世界を大量破壊兵器から安全な場所にしたいと本当に考える人々は、イラク復興のために経済封鎖を解き、長期的な監視プログラムを維持しつつ、中東地域の全般的な武装解除を進める道を選ぶべきである。そして、圧倒的な量の大量破壊兵器を保有している米国をはじめとする「大国」に、その放棄を迫るべきであろう。

イラクの人々の人権を保障することについては、イラクにおける国連人道プログラムの元代表デニス・ハリデーの次のような言葉も参考になる:「それは、イラクの人々の決めることだ。私は政権変更や暗殺を信じていない。イラクの人々の経済と生活が復興し、日常の生活が戻るならば、自分たちの国にあうと考える政府を選び取るだろう。」ハリデーは、インドネシアで学生により始まった反乱が「ほとんど血を流さずに」スハルトという「純粋な独裁者」を追放したことに言及しつつ、イラクの人々も「同じことができるのは確かである。その機会をイラクの人々に与えるのがわれわれの義務だ」と述べる。インドネシアで、米国は、32年にわたるスハルト圧制を支えてきた。スハルトがあまりに行きすぎてIMFに従わなくなったため、米国が支援を減じたことが、民主化の高まりをいっそう促したことを、つまり、米国の介入は独裁を強化し、米国が介入から手を引いたことにより民主主義が促されてきたことを忘れてはならない。

元国連武器査察官スコット・リッターは、イラク攻撃計画は、「私がこれまで耳にした中で最も馬鹿げたことだ」と述べる。ライの著書War Plan Iraqは、イラク攻撃が馬鹿げているだけでなく、悪しきことであることをはっきりと示している。

日本語版における残念な誤訳・誤記のいくつか
ほかにもいくつか目に付きます。かなり急いで訳したものと思いますが、ちょっと残念です。論理展開やレトリックは、英語版の方が明快です。

米国等によるイラクへの攻撃と、日本のそれに対する参加、そしてそうしたことを機にした有事法制に反対します。活動や情報については、Dont Fly!! Eagleおよびそこからたどれるリンク等もご覧下さい。特に、年表はここでの議論の確認に役立ちます。
日本の内閣総理大臣のコメントや外務省のイラク情勢紹介の不正な(何よりもイラクの人々のことなどどこにも頭にない)記述もご覧下さい。
また、本記事の内容を支持する別の証言として、ウィリアム・リバーズ・ピット/スコット・リッター著(星川淳訳)『イラク戦争 −元国連大量破壊兵器査察官スコット・リッターの証言 ブッシュが隠したい事実− 』(合同出版、2002年、1200円)もご覧下さい。

  益岡賢 2003年1月11日

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