チェイニー:謁見すべき人物
リンダ・マクウェイグ
It's the Crude, Dude (Doubleday, 2004)
第三章抜粋
イッサム・アル=チャラビは、ヨルダンのアンマンにある上流向けレストランで珍しいフルコースのランチョンに向いながら、時折蝿を振り払っていた。焼け付くような暑い日だった----北米人ならば断熱効果の高い空調の効いた建物の中に留まる贅沢を選び、外に出ようとはしないだろうが、アンマンの人々は違った振舞いをする。まさにこのレストランのように、高い丸天井にかかった天幕の下で扇風機がゆっくりとまわり、ゆったりとした風が吹く海辺のリゾ−トを思わせるアウトドアのレストランを訪れるのである。
イッサム・アル=チャラビは、ワシントンがサダム後のイラクを支配させようと期待したアフメド・チャラビとは別人である。イッサム・アル=チャラビは、イラクではよく知られた人物で、一九九〇年八月までイラク石油相を務めていた。一九九〇年八月、サダムは突然、石油省のボスにアル=チャラビのかわりに自分の娘婿を据えようと思い立った。当時のバグダードは緊張に包まれていた。サダムはクウェートに軍を送り込んだばかりだった----アル=チャラビは、そのことを、自分が罷免されたことと同時に、ある朝自分のオフィスに来て知ることとなった。すぐに自分は遺体となるだろうとの思いが心をよぎった。サダムが突然----娘婿に提供するためだけに----欲した地位についていたことよりも軽い罪で殺された人々もいたからである。けれども、アル=チャラビは幸運だった。秘密警察が来て彼を逮捕することもなかった。十年以上たって、家族を国際石油コンサルタント業を繁盛させているアンマンに移住させた彼は、高級レストランで夕食を取り、メルセデスを運転している。
ロンドンのユニバーシティ・カレッジでエンジニアとしての教育を受けたアル=チャラビは、以前から西洋びいきであった。流暢な英語を話し、西洋風の服を着ている。娘の一人は米国テキサス州に暮らし、彼自身米国で暮らした経験を持つ。イラク石油相だったときには、サダムご推奨だがあまり信頼できないソ連製技術よりも西側の技術を使うことを好んだ。彼は、自分のことをイラク政府の政治的側面には関与せず、イラクの富の開発だけに専心した純粋なテクノクラートだったと語る。サダムの終焉を目にして喜んだことは確実である。私たちと一緒に昼食を取っていた彼の友人は、アル=チャラビを「親米」派だと述べた。
それにもかかわらず、アル=チャラビは待っていたかのようにアメリカ人によるイラク再建のやり方を批判し始めた。「彼らはまともな仕事をしていない」と彼はぶっきらぼうに言った。「混乱を作り出すのに手を貸している」と。アル=チャラビにとってとりわけ腹立たしいのは、アメリカ人の手でイラクを再建すると米国が言い張っていることである。「米国は、イラク人にはその能力がないと考えて、外国人に頼っている」。実際には、イラクには高い教育を受けた労働力----恐らく中東で一番高い教育を受けている----があり、国のインフラと電力、水道、学校や病院の再建に十分以上の経験を積んできている。イラク人専門家はインフラの再建に多くの経験を積んできた----国連の経済制裁により最も基本的な部品や道具や機材が手に入らない中で、インフラの再建を行わなくてはならなかったのである。
とりわけイラクの石油産業にそのことは当てはまるとアル=チャラビは言う。彼は、イラク人は自分たちの手で石油産業を運営し修復するのに誰よりも精通していると主張する。「イラン=イラク戦争のとき、石油施設が標的とされ、ロケット攻撃を受けて爆破されたが、我々はそれを再建し復興することができた」とアル=チャラビは指摘する。彼は、一九八〇年から一九八八年まで続いたイラン=イラク戦争中、石油相に昇進する前には石油官僚の上級職をいくつか歴任してきた。イラク人専門家たちはまた、一九九一年の第一次湾岸戦争で米軍による大規模な爆撃を受けたあとも、施設再建をうまく行なってきた。「精製施設も発電所もすべて爆撃された。けれども六週間のうちに人々は電力と石油生産を復興していた」と彼は言う。「[一九九一年の]湾岸戦争のあと、米国人は、建造後五〇年から五五年たった精製施設がいまだに効果的に動いていることに驚いていた----経済制裁が加えられて部品が無かったにもかからずだ」。
アル=チャラビは、これと比べて、二〇〇三年四月にバグダードを征服して以来、占領米軍が最も基本的なサービスを復興するのに極めて無能だったと指摘する。私が彼とインタビューしたのはバグダード征服から四カ月後だったが、そのときもまだイラクは石油とガソリンを輸入しており、電力供給は不安定なままだった。彼は、イラクを機能させることができるのは儲かる契約のもとで仕事をする外国人だけであるという考えを物笑いにしていた。イラクの人々は、ほとんど資源がない中で、何年もの間、イラクを機能させていたのだと。
彼にとってとりわけ驚きだったのは、アメリカ人が基本的な治安を維持できないことであった。バグダード陥落後、石油省の周囲に米軍が配備されたが、博物館は警護されず、そのため略奪の憂き目にあってしまった。米軍はまた、国中の石油施設とパイプラインを守るためにほとんど何もしていない。その結果、多くの破壊攻撃が加えられ、石油生産の回復はひどく遅れている。
アル=チャラビは、これまでも常に破壊活動は問題だったと言う。様々な党派や分離主義運動が、政治的目的のために石油流通を妨害したりそれを支配しようとしてきた、と。この脅威に対処するために、イラク石油省は自前の警察隊を擁していた。数千人からなるこの「石油警察」は自前の武器と車両を持ち、イラクの通常警察とはまったく別に活動していたという。石油警察の唯一の任務はイラクの石油施設および数千マイルの石油パイプラインを警護することにあった。それに加えて、とりわけ危険な地域では、石油省は地元の部族との間で治安維持協定を結んだ。こうした体制により、イラクは石油を守ること----アメリカ人には難しい仕事であることが明らかになった----におおむね成功してきたと彼は説明する。
米国はイラク石油操業を復興させ治安を維持するために米国企業に頼ろうとしてきたが、アル=チャラビに言わせると、それらの仕事でアメリカ人に依存する必要などはない。「石油産業の運営は[イラク人]専門家に任せることができる。何十年にもわたってそうしてきたのだから。彼らは世界でも最も優れた人材だ〔・・・・・・〕これらの施設を[米軍主導の]連合軍が奪い取ることは受け入れられない」。
イラク人石油専門家たちの有能さについてのアル=チャラビの評価は、外部のオブザーバも保証している。ドイツ銀行が二〇〇二年一〇月に準備したイラクの石油操業をめぐる二〇ページの分析報告書は、イラク国有の「イラク国営石油公社」(INOC)には国連の経済制裁解除後にイラク石油の扱う能力が十分にあると述べている。同報告によると、INOCは「過去に、恣意的な生産の停止と再開の政策に悩まされ、一九九〇年以来資金と技術不足に悩まされたにもかかわらず、石油資源と技術の管理に関して高度な実績を有している。経済制裁後INOCの指導陣を変える必要はあるかも知れないが、基本的な組織構造と生産データベース、技術スタッフは、新たな石油管理企業の基盤として十分に通用する」。
他の何にもまして、アル=チャラビは、イラクの巨大な経済的可能性が浪費されることを悲しみ、苛立っているようである。彼は、イラクが現代的な経済を繁栄させる状況にあと一歩のところまで近づきながら、それを逃してしまったのを内部から目撃してきた。
イラクの国家開発の希望の中心にはいつも石油があった。そして一九七〇年代には、経済的繁栄は極めて有望なことに思われた。一九七二年、イラクの石油産業が国有化され、国際石油価格が急騰したことで、イラクに住む二五〇〇万の人々は、政治的自由はなかったものの、無料の医療サービスと無料の教育(大学も含まれた)を受け、所得税もない、高い生活水準を謳歌していた。しかも、それは始まりに過ぎないことが約束されていた:信じがたいことに、その当時開発されていたのは、イラクの巨大な石油資源の一%にも満たなかったのである。一九七〇年代後半にイラクの「石油計画国営公社」社長を務めたアル=チャラビは、膨大な石油資源の開発を監視し、イラクを中東の経済的中心にする事業に参画する準備を整えていた。一九七九年までに計画はすべて整っていた。そのための工事と施設建設契約への署名もすべて済んでいた。契約の多くは外国企業との間に結ばれたものだったが、すべての決定はイラク内部でなされており、イラク石油省が事態をとりまとめることになっていた。「我々は自分たちが手にしていたものを知っていた。自分たちでやろうと予定していたのだ」と彼は残念そうに語る。
一九八〇年、サダムがイランを侵略したために、これらの計画は中止された。それからの八年間、イラクのエネルギーと力をすべて隣国との戦争に振り向けなくてはならなかったからである。一九八八年、大虐殺が終わりを告げたあと、最終的に勝利に酔いしれはしたが経済的には壊滅状態となったイラクには、それでもなお巨大な可能性を持つ石油があった。短い間ではあったがふたたび楽観的見通しが生まれた。けれども、その二年後、サダムがクウェートを侵略したため、それもまた突然終わりを告げた。こんどは、イラクは米軍主導の部隊に迅速かつ決定的な敗北を喫し、それ以後の一〇年以上にわたって国連の経済制裁を受け続けた。これにより、イラク人のほとんどが貧困のどん底に沈むこととなった。
今やそのサダムがいなくなり、イラクの石油が有する潜在的な可能性がふたたび元の軌道に戻ってきたかのように見える。けれども、イラクの巨大な石油資源をイラク人が開発するという夢----一九七九年には十分手の届くところにあった夢----はふたたび視界から消え失せてしまった。アル=チャラビは、アメリカ人がイラクを支配し続けるだろうと考えている。「アメリカは今後何年も何年も、イラクに居座るだろう〔・・・・・・〕アメリカがいつかイラクを立ち去ることになるとは信じられない」。*** イラク人の手でイラクを再建し、イラク人の手で石油部門を運営することは、イラクの人々の間で広く共有されている夢かもしれない。それはまた、国際的な銀行のオブザーバたちから見ても妥当な考えかも知れない。けれども米国によるイラク占領を計画したワシントンの面々は、何一つそんなことを構想してはいなかった。もちろん、イラク人に与えられる末端の仕事は沢山あるだろうが、イラク再建に関わる諸企業の経営と所有----そして再建されたイラクをどのようなものにするかの決定----は、ほぼ完全にアメリカ人の手に握られることになっていた。この点は、米国財務省と米国国際開発庁の役人たちが執筆したもともとの私営化計画(前章で言及した)でも明らかであった。私営化を進めるために、何と米軍がイラクに侵攻する前に、最初の契約がバージニアにあるコンサルティング会社ベアリングポイント社(元KPMGコンサルティング社)に与えられていたのである。ウォールストリート・ジャーナル紙によると、それ以後の契約は「制限された範囲の競争企業」だけに開かれたものとなった。この「制限された範囲」の中には、デロイット・トゥーシュ・トーマツ社やIBM社といった著名な米国企業が含まれることになるだろうとウォールストリート・ジャーナル紙は指摘している。同紙は状況を次のように要約している:「[私営化]計画の実施は〔・・・・・・〕米国政府関係者からなる小さなチームと協力関係にある米国私企業の手に落ちることになるだろう」。
*** その後明らかになったように、戦争前に構想されていた包括的な私営化計画は、米国のイラク征服に対するレジスタンスが予想外に激しかったため、ほとんどすぐさま保留されることとなった。すでに述べたように、早い段階で私営化対象の資産から石油が除外されていた点は重要である。同様に、イラクの経済を外国の所有に開放する計画が発表されたときも、石油部門は外国の入札企業に開かれなかった。私営化計画から石油部門を除外しようという米国政府の決定が、イラクの中枢を担う資源を不正に取り引きしようとする米国にイラク人が突きつけた不屈のレジスタンスに対する対応であることは明らかであった。しかしながら、米国政府は私営化と外国企業による経済の所有をイラクに押しつけよう----それもこうした包括的な変更の可否をめぐってイラクの人々が投票により意向を表明する機会を持つ前に----という計画全体を撤回することはなかった。二〇〇四年の予算計画の中で、米国が指名したイラク行政当局は、国営企業モデルは「世界中で失敗している」と述べて、国営を中心としたイラク経済を私企業の投資に開放する意向を表明した。イラクの人々がそれに同意するかどうかは意に介さなかった。問題はすでにイラク人にかわって別のところで決定されていたのである。それゆえ、ブッシュが繰り返しイラクに民主主義をもたらすと叫ぶ中で、有権者がなすべき決断のうちで最も重要な決定のいくつか----自国の経済をどうするか----は、すでに米国政府の官僚たちによって決められていたのである。
国際法のもとでこの経済体制の変更がそもそも合法かどうかは疑問である。米国議会調査サービスが二〇〇三年六月に準備した報告は、占領軍が国営資産を売却することは一九〇七年のハーグ戦争法条約違反であると指摘している。「ほとんどの専門家は、イラクの法や経済、組織に恒久的な変更が加えられる前にイラクが正当な政府を持つ必要があると考えている」と、議会に向けて書かれた同報告は述べている。
米国政府はまた、イラク再建に関わる巨額の資金----これらすべてが米国の納税者から提供されたわけではないにもかかわらず----を自らの統制下においている。二〇〇三年五月、バグダード陥落からわずか一カ月後に、米国政府は、戦争前後にイラクの石油収入からもたらされた何十億ドルもの資金を、新たに設置したイラク開発基金に繰り込むことで国連の合意を得た。この基金を監視するために国連の監視委員会が設置されたが、最終的な統制は米国率いる連合国暫定当局(CPA)が行うこととなった。実際の金はニューヨークにある米国連邦準備銀行が保有し、この基金の顧問には米国財務省のジョージ・ウルフが指名された。石油インフラや電力計画などのために資金を配布する責任は連邦準備銀行が負うことになった。
イラク再建資金のほとんどは直接ペンタゴンが支配しており、ペンタゴンはベクテル社やジェネラル・エレクトリック社、ディンコープ社といった巨大米国企業に何億ドルもの支払いを行なってきた。しかしながら、石油サービス関係巨大企業ハリバートン社ほど米国によるイラク侵略占領で儲けた会社はなかっただろう。ハリバートン社は米軍の補助と油田の復興に関する複数の契約を手にした。ウォールストリート・ジャーナル紙の推定によると、これらの契約は、一八〇億ドル相当にのぼるという。そして、これについては、ディック・チェイニーが、これまでにもまして、物語りの中心にいる。
前章で述べた会合、二〇〇二年一〇月に行われたとウォールストリート・ジャーナル紙が報じた会合に立ち戻ることにしよう。ホワイトハウスが強く否定したこの会合には、チェイニーの参謀たちとエクソンモービル社、シェブロンテキサコ社、コノコフィリップス社そしてハリバートン社を含む石油企業数社が参加していたと言われている。仮に副大統領の特別室にエクソンモービル社の重役がいたことが会合の存在を政府が否定する十分な理由とならないとしても、ハリバートン社の重役がいたことが政府が会合を否定する十分な理由となるのは確実である。チェイニーとハリバートン社の関係は、ブッシュ政権ホワイトハウス内に存在する企業との癒着関するだらしない基準から見てさえ、いささかあからさま過ぎるのである。チェイニーは、ブッシュ大統領候補の副大統領候補に指名されるまで、ハリバートン社の最高経営責任者であった----同社はチェイニーにわずか五年間に四四〇〇万ドルの報酬を支払い、今でも年間一五万ドル以上の期間保証報酬を支払っており、またチェイニーはハリバートン社の株式一八〇〇万ドル相当を現在も保有している。副大統領就任後、チェイニーはハリバートン社との関係はすべて断ち切ったと繰り返し主張してきたので、二〇〇二年一〇月、彼と彼の参謀がハリバートン社の重役と会談し、ハリバートン社に巨大な収穫となったものについて議論したかもしれないとなると、恐ろしく目立ってしまう。
エクソン社やシェブロン社をはじめとする巨大石油企業がイラクからの配当を手にするのは未来のことになるかも知れないのに対して、ハリバートン社----ビッグ・オイル・クラブの名誉会員と考えることができる----は、まさに今、配当を手にしている。ハリバートン社が現在巨大な収穫をあげていること、そして同社がブッシュ政権内で恐らく最も有力な人物と近しい関係にあることは、ハリバートン社をイラク侵略武勇談の中で特異な地位に置いている。*** 石油産業と米国政府とがつながった世界の中で、チェイニーとハリバートン社そして歴代共和党政権の関係ほど居心地のよいものはない。チェイニーは大学院で政治学を専攻したあとワシントンで政治補佐官としてキャリアを開始し、ニクソン政権時代に当時経済機会局の局長だったドナルド・ラムズフェルドのもとで勤務した。経済機会局はリンドン・ジョンソン政権の「貧困に対する戦争」政策で重要な役割を果たした----ニクソン政権はこの戦争にはあまり関心を示さなかったし、ラムズフェルドもその子分チェイニーもそれにはまったく関心を示さなかった。その後生涯にわたり続くこととなった協力と友情のもとで、ラムズフェルドとチェイニーは二人で自分たちが運営している貧困対策事務所からスタッフのほとんどを追放し、その役割を契約私企業に与えることで、貧困対策の足を引っ張る企てに乗り出した。かくしてチェイニーとラムズフェルドは、右派が、私営化を、私企業部門を富ませ、不公平を是正しようとする政府のあらゆる政策の足を引っ張るためにお気に入りの戦略として採用する以前から、私営化ゲームのパイオニアだったのである。
チェイニーはその後議員に当選し、一一年間ワイオミング州選出下院議員を務め、その間一貫してエネルギー企業の利益を追求した(同時にいかなる状況であれ強硬に中絶に反対した)。ジョージ・H・W・ブッシュ政権の国防長官に指名されたチェイニーは、一九九一年、米国のサダムに対する最初の戦争を統括した。国防省を運営していた時期、チェイニーは米軍の相当部分を私営化するという大胆な計画に乗り出した----後に明らかになったように、この計画によりチェイニーは大金持ちになった。海外の軍事作戦における兵站支援の提供を私企業に任せようというのがチェイニーのアイディアだった。それまで伝統的に、こうした兵站の仕事----食事の準備や洗濯、トイレ掃除など、実際の戦闘以外のほとんどすべて----は予備兵が行なっていた。チェイニーは、これらの役割すべてを、ただ一つの私企業に任せようと提案した。
そこでペンタゴンは、ハリバートン社に接触した。ヒューストンに本社を置くハリバートン社は、油田建設とサービスで名声を勝ち取り、工事担当の子会社ブラウン&ルート社を通してベトナム戦争時代に軍のインフラのかなりを建設したコングロマリットだった。ペンタゴンはまず、ハリバートン社に三九〇万ドルを支払い、私営化されたシステムの運用計画を提案させた。ハリバートン社はさらに五〇〇万ドルを受け取って追加研究を行なった。一九九二年八月、チェイニーがまだ国防長官を務めていた当時、米国陸軍工兵隊は、ハリバートン社が九〇〇万ドル近くを受け取って定義した大規模な仕事をさせるために、何とハリバートン社自身を指名したのである。
その三カ月後、ビル・クリントンが大統領に選ばれ、チェイニーはすぐさま私企業に戻った。その後の数年間、チェイニーは真剣に大統領選に立候補することを考えて、ほとんどの時間を、全米で講演し資金を集めて過ごした。彼を支援した人々の中には、ハリバートン社とベクテル社の首脳もいた。チェイニーは結局、大統領選には出馬しないことにした。それから一九九五年、チェイニーはハリバートン社の最高経営責任者に----それ以前に石油産業で働いた経験もなく、世界で操業するフォーチュン五〇〇社はいうまでもなくいかなる会社を経営した経験もなかったにもかかわらず----雇われることになった。彼のペンタゴンとのつながりが、こうした欠点を補ってあまりあるものと見なされたことは明らかであった。チェイニーがCEOを勤めた五年間に、ハリバートン社はペンタゴンから二三億ドルの契約を受注した。そのすべてが、チェイニー自身が国防長官時代に開始した軍の私営化計画からもたらされたものだった(この受注額は、それ以前の五年間にハリバートン社が受注していた政府関係契約の二倍近かった)。それに加えて同社は一五億ドル----その前の五年間では一億ドルだった----の連邦貸付と保険補助金を受けた。チェイニーは、ペンタゴンの私営化計画をその両端から推進し、ハリバートン社はそれに対して巨額の報酬を彼に提供したのである。
チェイニーとハリバートン社そして共和党政権との関係は、その後もさらにいっそう緊密になっていった。ハリバートン社のCEOだった二〇〇〇年の春、チェイニーはジョージ・W・ブッシュの副大統領候補選出委員会の委員長となった。チェイニーの指揮のもとで、同委員会はあらゆる階層からブッシュの副大統領候補に適切な人材を捜し求め、結局、チェイニー自身に白羽の矢を立てた。どうやら困惑することもなく、チェイニーは自分が副大統領候補に最適の人物であると決断したようである。
これらすべてをどう理解すればよいのだろう? まず何よりも、チェイニーは利害抵触をあまり気にしない人物らしい。彼は、ハリバートン社に金を払ってプロジェクト計画を立てさせてから、同じハリバートン社にそれを発注することが適切かどうかに、また、後にその同じ会社のCEOになることが適切かどうかに、悩まされなかったようである。彼はまた、最も適切な人物を捜し出すよう求められた仕事に自分自身を指名することに後込みすることもなかった。政治的厚顔を競うオリンピックがあればチェイニーは確実に金メダルを獲得するだろう。
けれども彼の自己取引傾向については、彼自身の性格以上のものを問わなくてはならない。たとえば、米国がイラク侵略を決定するときに彼はどのような役割を果たしたのだろうか? そして彼は誰の利益のために動いていたのだろうか? チェイニーはサダム追放を最も熱心に提唱していた一人であった。したがって次のような問いをたてることは妥当だろう:彼は戦争を推進するにあたり、戦争が実現したら何十億ドルもの利益を得ることになる一私企業のために動いていたのだろうか? チェイニーがそれを利害抵触と認識することはあったのだろうか?
ここで、ブッシュ政権の対イラク計画が、その発足当初から始まっていたことを思い起こそう。元財務長官ポール・オニールがそれを明らかにしたあと、ブッシュ政権は、それをクリントン時代から続いていた反サダム政策の継続にすぎない些細な問題に見せかけようとした。けれども、実際には、そこには重大な相違があった。クリントンの政策は基本的に経済制裁を通してサダムを封じ込めることだったが、ブッシュの政策はサダム政権を転覆することだった。それは新たな政策だったにもかかわらず、ブッシュ軍団が政権の座に就いたときにはすでに進められていたのである。このことは、この政策の起源がブッシュ就任前にさかのぼるものであることを示唆している。前章で述べたように、このことは、イラクに対して戦争を起こすという考えが、ブッシュが大統領選挙のために記録破りの財政支援をエネルギー産業から受け取っていたときに形作られた可能性が高いことを示している。これはまた、イラク侵略というアイディアが、チェイニーがハリバートン社の最高経営責任者だったとき----そしてブッシュ軍団のために(結局のところ)自分自身を捜し求めていたとき----に形作られたのではないかということも示唆している。したがって、チェイニー特有の自己奉仕により、彼は、密接に関係しているというだけでなく実際に自分が経営していた企業に巨額の利益となる戦争の計画を立てる手助けをしていた可能性がある。
(もちろん、二〇〇〇年八月にハリバートン社のCEOを退いたあとも、チェイニーはハリバートン社の報酬パッケージと株を保有しており、恐らくは自分を非常に豊かにしてくれた会社に対する忠誠心も保っていただろう)。
副大統領に就任してから、チェイニーは、おおやけにはハリバートン社との関係を避けてきたし、ハリバートン社に影響を与える政府の決定に口を出しはしなかったと主張している。何十億ドルもの政府契約が関与している中で、チェイニーが注意深く利害抵触を避けてきたというポーズを示すことは極めて重要だった。この主張は信頼できるものだろうか? 『ニューヨーカー』誌の記事の中で、ジェーン・メイヤーは、チェイニーと関係のある共和党員が経営する多くのビジネス企業がイラクでの契約を受注したと報じている。彼女は、数件のイラク関係契約を受注した企業に勤める匿名のビジネスマンが語った次のような言葉を引用している:「イラク政策に関係することについては何でも、チェイニーこそが会うべき人物だ」。
確実にわかっていることは、二〇〇二年秋、イラク戦争の際に油田の火事を消火する計画を立てるために、国防省がハリバートンの子会社KBR社を秘密裡に雇い入れたことである。翌年の三月、イラク侵略が始まる直前に、米国陸軍工兵隊は、定期報告の中で、油田の火災を消す仕事に関する七〇億ドル相当の契約は競争入札なしでKBR社に発注されたと発表した。この発表はあまりに目立たないものだったので、民主党議員ヘンリー・A・ワックスマンの注意を引かなければまったく注目されることがなかっただろう。ワックスマンは、おおやけに契約の規模と競争入札がなされなかったこと、そしてチェイニーに関わる利害抵触の可能性があることを批判した。ペンタゴンから機密扱いの情報を引き出そうとの試みを数カ月続けたワックスマンは、この契約が火災の消火だけに関わるものではまったくないことを知った。契約は、イラク石油産業の完全復興をカバーしていたのである。さらに最近になって、米国率いる連合国暫定当局(CPA)が行なった予算要求は、新たな精製施設の建築と新規油田の採掘のためにKBR社がさらなる支払いを受け取る可能性があることを示していた。チェイニーが以前いた企業は、地上で最も有望な油田の開発に関与する準備ができていたようである。
副大統領チェイニーは、この報償のどれ一つとして自分が関与したものはないと主張し続けている。KBR社も彼の主張を支持し、契約について多くを語ることを拒否して、そのかわりに「イラクの石油インフラ復興を支援できることにKBR社は誇りを抱いている」といったたぐいの発表だけを行なっている。
復興支援にKBR社が誇りを抱いているというのなら、それ以上、何の疑問を呈することがあろう?*** 少数の企業が巨大な利益をあげてはいるものの、米国のイラク侵略がより大きな公益に損害を与えたことは明らかである----何千人もの死をもたらし、中東全土に新たな反米憎悪の波を引き起こした。しかしながら、米国政府が、より大きな公益を犠牲にして、石油私企業の利益のために喜んで働くという事態は、特に新しいものではない。
当然のことながら米国政府とビッグ・オイルの関係は複雑であり、石油に関する米国政府の政策を決定する要因は多岐にわたる。たとえば、石油価格のような基本的な問題に関しては、競合する利益の間でバランスを取らなくてはならない。一般に石油企業は高い石油価格を望むし、また、選挙戦における石油企業の役割は大きく、その財政支援も巨大である。しかしながら、消費者は低い石油価格を望む。そして消費者の中には、単に投票する人々だけでなく、石油を消費する主要産業(これらの業界も政党に献金を行なっている)も含まれており、極めて重要な選挙要因となっている。実際、石油価格が高いと経済全体が負の影響を被る。それゆえ、石油企業がどれだけ潤沢な政治献金を提供しても、政府が石油企業を喜ばせるには限界がある。
かくして米国政府内でビッグ・オイルの意向が常に反映されるとは限らない。ただし、常にとは行かなくてもしばしば反映されることは確かである----それにより、通常、公益が損なわれるにもかかわらず。石油経済学者で歴史学者でもあった故ジョン・M・ブレアが言うように「連邦政府の歴史的役割は、産業を制限することにではなく、産業による公益の搾取をより効果的にすることにあった」。国内問題から遠くなればなるほど、ビッグ・オイルがワシントンの政策決定に影響を与えるのが容易になることは確かだった。かくしてビッグ・オイルは二〇世紀を通して米国外交政策の主要な側面に一貫して影響を与えてきた----これについてはのちに詳しく見ることにしよう。ここでは、この点を示し、イラクでの武勇談をより大きな歴史的文脈に位置づけるために、いくつかの例を示すだけで十分であろう。*** 時をさかのぼること一九四〇年代の後半、サウジアラビアのイブン・サウード王は、自分の王国の足下にある富の性質にほとんど気付いていなかった。彼は自国の石油開発権を、米国企業(エクソン社、モービル社、テキサコ社、ソーカル社)のコンソーシアムであるアラムコ社に与えた。アラムコは投資に対して約五〇%にのぼる驚くべき利益率を享受していた。アラムコはサウジアラビアの王と王国を満足させておくことにも熱心で、高速道路や病院、学校を建設し、同国に福祉基金さえ設立した。しかしながら、アラムコはサウジの人々に、ある一つのこと、すなわちサウジの石油についての情報は与えなかった。サウジの石油について、すべての探索と開発、生産と販売を行なっていたアラムコは、サウジ唯一の財産について、またそれが国際石油市場でどのような役割を果たすかについて熟知していた。一方、サウジの人々はそれについて何一つ知らされていなかった。
しかしながら、遠く南アメリカから光がやってきたことで、この暗闇は一九四八年に後退していく。豊富な石油を有するベネスエラで政府が石油企業に対して大勝利を収め、石油一バレルにつき五〇%の採掘権料をベネスエラに支払わせることに合意させたのである。これは産油国にとって大きな前進であり、それを実現したベネスエラは、次に、石油企業が中東での生産に切り替えることを阻止するために、中東の産油国にも石油産業との間で有利な商談を進めさせようと試みた。ベネスエラの使節団が石油企業の財政文書----アラビア語に翻訳されていた----を携えて中東を訪問し、中東の石油を開発することでこれら石油企業がどれだけ巨大な利益を得ているか説明した。サウジの人々はこれらの情報を驚きの目で眺めた。第一に、ベネスエラが採掘権料として五〇%を手にするというのは----サウジが得ているのはたった一二%だった----驚くべきニュースだった。ベネスエラの文書は、さらに、アラムコはサウジの石油から、サウジ政府より三倍も多い利益を得ていることを示していた。アラムコはまた、サウジに対して支払っている採掘権料よりも多くの税金を米国に納めていた。
これだけでもまだ十分でなかったかのように、ほぼ同時に起きた別の出来事により、サウジはアラムコとの間でより有利な交渉を行うことを真剣に考え始めた。サウジアラビアとクウェートの間には膨大な砂漠地帯が横たわっており、公式にはそこは中立地帯とされ、両国の共同管理下に置かれていた。伝統的に遊牧のベドウィン族が暮らしていたこの地域は、一九四〇年代後半に、予備的な石油開発調査により巨大な可能性があることがわかってから急遽極めて重要なものとなった。その当時まで、中東の石油探査と開発は米国と英国をはじめとする欧州の数カ国に本社を置く主要多国籍石油企業数社により行われていた。しかしながら、中東のオイルゲームで稼ぐことのできる利益は巨大だったため、「独立」企業----緊密に統制されたカルテルとして操業する「メジャー」に属さない企業----の到来を招いた(このカルテルは米国と欧州に本社を置く巨大国際石油企業七社をもととしていたため「セブン・シスターズ」として知られていた----この点については別途述べる)。サウジが中立地帯の開発を検討し始めたとき、これら独立企業のいくつかが接触してきた。そしてサウジの人々は、すぐに、独立企業はアラムコよりもはるかにサウジに有利な条件を提示しようとしていることを理解したのである。
結局、サウジは中立地帯の採掘権を(学校建設と住居およびモスクの建設に加えて)五五%の採掘権料を提示したある独立企業に与えた。すぐに、この独立企業----パシフィック・ウェスタン社という米国の小さな会社だった----は、五五%という、アラムコよりも劇的に高い採掘権料を支払いながら潤沢な利益をあげていることが明らかになった。実際、八年のうちに、パシフィック・ウェスタン社のオーナーであるジョン・ポール・ゲッティという名の風変わりな隠遁生活者は世界一の金持ちとなった(それにもかかわらず、ゲッティは客が長距離電話をかけたがったときのために七二室を擁する豪華な自宅に有料電話を設置していたという伝説が伝えられている)。
一九五〇年までに、アラムコは今よりもはるかに多くの採掘権料をサウジに支払ったとしてもなお驚くべき利益をあげることができることがサウジの目に完全に明らかになった。結局のところ、石油の販売価格は一バレル一・七五ドルだったのに対し、サウジ政府は採掘権料としてわずか二一セントを受け取るだけであり、残りの一バレルあたり一・五四ドルはアラムコのものとなっていたのである(すべての必要経費と米国に対する税金を支払ったあとでも、アラムコの手元には九一セントが残された)。サウジはより大きな取り分を求め始め、サウジアラビアのアラムコ職員の支持さえ得た。しかしながら、ニューヨークにあるアラムコの親会社の重役たちはそう簡単に合意しなかった。彼らはサウジの人々を幸せにしておきたかったが、利益のより大きな取り分を与えることによってではなく、(たとえば新しい砂漠のモールや金をちりばめたモスクなどの)贅沢な贈り物を使ってそうしたがっていたのである。彼らが世界史上最も儲かる商売契約の条件を変更したがらなかったことは明らかであった。彼らはまた、より多くをサウジに提供すれば、他の中東政府も石油企業と自分たちとの契約を再考し始めるのではないかと恐れたのである。親会社は、結局、サウジアラビアとの間に成立している契約には修正を要する点はあまりないと結論した。
ワシントンでも、国務省の専門家が状況を検討していた。サウジをなだめるのが容易でないことははっきりしていた。何よりも、サウジにはより大きな利益を受け取る権利があることを示す証拠はあまりに強力だった。従って、アラムコの利益を減らすことなしにより多くをサウジに与えることが問題となった。一見したところ解決不能に見えたこの問題は、簡単に解決できることがわかった。実際、望ましい結果は、サウジとアラムコの契約にいくつか小さな変更を加えることだけで得られたのである。新たな契約は次のようなものだった:アラムコはサウジに一バレルあたり一二%ではなく五〇%の採掘権料を支払う----大きな増額である。けれども、この増加分を、採掘権料の一部と見なすかわりにサウジ政府に支払われる税金と見なす。この違いは決定的に重要であった。増加分が外国政府に支払われる税金の場合、企業は米国政府に支払うべき税金からちょうどその分だけを差し引きすることができる。これは巧妙なやり方であった。税金と見なそうが採掘権料とみなそうが、サウジは同じ額の追加金を手にすることになる。アラムコの観点からは、この変更を加えても最終的に手にする利益は変わらない。アラムコは、サウジにより多くの金額を支払う必要はあるが、ちょうどその分だけ米国に支払う税金を減らすことができる。実際、アラムコにとってはこちらのほうがはるかに望ましかった。というのも、一番重要な客が満足するからである。そしてサウジを満足させておくことは、アラムコとニューヨークにあるその親会社の長期的な成功にとって、決定的に重要であった。
かくしてサウジとアラムコはともにこの新たな体制から莫大な利益を得ることとなった:サウジははるかに多くの収入を得たし、アラムコは同じ額の収入を得ながらサウジを喜ばせることに成功し、それゆえ世界で最も儲かる契約を将来にわたって確保することに成功した。この契約で唯一損をしたのは税金を納める米国の市民であった。今や米国の予算から多額の金----年間五〇〇〇万ドル近く----が失われることとなった。数年のうちに、失われた額は年間一億五〇〇〇万ドルに増大した。その後約二〇年の間に、中東諸国で操業する石油企業は同様の方式を採用したので、米国の財政損失は数十億ドルにのぼる巨大なものとなった。実際、この体制は、石油企業がこの極めて寛大な税制上の優遇措置を利用するために海外に投資する巨大な誘因となった。一九七三年には、米国の五大石油企業はその利益の三分の二を海外から得ており、それらの収入に対しては米国に税金をまったく納めていなかった。その結果アメリカ人はより高額の税を政府に納めなくてはならなくなった(あるいは政府サービスの削減を受け入れるか政府負債の増大を認めるかすることとなった)。けれども唯一損をした米国市民は、この取決めについて後々になるまで何一つ知らなかったため、大きな問題とはならなかった。
この取決めは、より大きな公益にかなっていたと言えるだろうか? 安価な石油へのアクセスが確保されたのだから、アメリカ人(とそれ以外の西洋人)もこの取決めから利益を得たと論ずる者もいる。一見したところこれは妥当な議論に聞こえる。アメリカ人は確かに安い石油を望んでいる。けれども石油へのアクセスはそもそも危機にさらされていただろうか? 採掘権がアラムコの手にあろうが別の企業あるいは企業グループの手にあろうが、アメリカ人はいずれにせよ安価な石油にアクセスできていただろう(この時点ではサウジは石油価格についての決定権をまったく持っておらず、価格は主要石油企業が決めていた)。実際、主な目的が安価な石油にあるのなら、最善の対策は独立企業をサウジアラビアに参入させることで石油市場に競争を導入することだっただろう。これにより市場は石油であふれ、価格は低下しただろうし、さらにその過程で、巨大石油企業が動かすカルテルの独占支配力を弱体化させることもできたであろう。ほとんどの人々、とりわけ消費者は、これを好ましい事態とみなしたであろう。けれども、石油メジャーはそのような事態を望んではいなかった。
興味深いことに、サウジの採掘権を独立企業の手に手渡す可能性を、米国政府はどうやら一度として考慮しなかったようである。競争の強化から得られる潜在的な利益を米国政府は重要とも適切とも見なさなかった。この点は、部分的には、新たな取決めを提案する際の中心にいた国務省官僚ジョージ・マッギーがモービル社の元副社長だったという事実----この背景があったために彼はどんな解決が望ましいかについて一定の見解を持っていた可能性が高い----から説明できるかもしれない。後に上院委員会で考えを説明したとき、マッギーは、「採掘権の継続的確保は我が国にとって貴重な財産であった」ため、この取引が必要だったと言い張った。もちろん独立石油企業のほとんども米国企業であった。さらに、アラムコの手に資産を握らせておくことが米国にとって最上の策に思われたとしても、なぜ国務省は、単により多くの採掘権料をサウジに支払うようアラムコに指導しなかったのかという疑問が残る。
米国の税収をサウジアラビアに振り替えたのは、海外援助の一形態であると論ずる者もいる。聴聞会のあるとき、上院議員の一人がマッギーに、この取決めは「アメリカ合州国議会の決議や承認の必要なしに国家財政から行政判断によって何百万ドルもの金を持ち出す巧妙な方法ではなかったか?」と訊ねた。『セブン・シスターズ:巨大石油企業と彼らが創った世界』の著者アンソニー・シンプソンもこの考えに同意し、この取り決めにより米国政府は議会の承認なしにサウジに対外援助を提供できることになったと論じている----こうした援助に議会の承認を得ることはイスラエルが生存のために苦闘していた当時、困難だったと彼は言う。けれどもサウジとアラムコの契約を対外援助と解釈することは間違っている。米国国務省官僚がより多額の金をサウジに振り向ける手段を見つけだしたのは、彼らがアラムコの手に採掘権を保持させたかったからに過ぎない。国務省の官僚たちは、より多くの金額を提示しなければ、サウジは望ましい金額を提案するだろう独立企業あるいは独立企業のグループに採掘権を与えることを知っていた。したがって、基本的に、この新たな取り決めは、アラムコの手に極めて儲けの多い採掘権を確保させるためのビジネス契約に過ぎなかったのである。
この取決めは、対外援助の一形態でもアメリカ人に安価な石油へのアクセスを保証する手段でもなく、サウジが米国の四大石油企業からより有利な条件を引き出すことを阻止するために米国政府が介入しただけのことに過ぎなかった。国務省が介入しなければ、石油企業は、利益のより多くをサウジに支払うか、さもなくば採掘権を失うかしていただろう----そうした愚を犯すほどこれらの企業は蒙昧ではなかった。最終許容ラインは、これらの企業----エクソン社、モービル社、テキサコ社、ソーカル社----がより多くの金を支払いながらもそれによりあまりひどい損害を受けないことにあった。国務省(その中心にいたのはモービル社の元重役だった)のおかげで、これらの企業は損害を受けずにすんだのである。これらの企業は財政的出費を抑えることができ----そのしわ寄せとして米国の納税者がサウジを満足させておくために余分に必要な金を捻出することとなった。国家財政から外国政府に向けて「何百万ドルもの金を持ち出す巧妙な方法」どころか、それは国家財政から米国四大石油企業の金庫に何百万ドルもの金を持ち出す巧妙な方法----米国の市民から米国の巨大石油企業へのプレゼント----だったのであり、それを手配したのは、少なくとも理論的には人々を代表していることになっているアメリカ合州国政府だったのである。*** このときの巧妙な金の流れは、今日米国政府がイラクで金を動かしているやり方に多少似通っている。二〇〇三年秋、ブッシュ政権がイラク再建のために八七〇億ドルのパッケージを承認させようとしたとき、この法案に反対する人々は、これは対外援助としては親切すぎるという点を強調した(実際には、そのうち六七〇億ドルは米軍の支援に費やされ、イラク再建に残される額は二〇〇億ドルに過ぎない)。超保守派のアメリカン・エンタープライズ・インスティチュートの上級アナリスト、ダニエル・プレトカは、ブッシュ政権の再建パッケージがなかなか支持を取り付けられないことについて、「国内で対外援助を説得するのはいつだって難しい〔・・・・・・〕」と述べた。
確かに対外援助の必要性を米国の人々に説得するのは難しいことだろう。米国人が、金の一部が国内に投資されることを望む理由は十分に理解できる。米国のインフラは数十年にわたる課税削減により悲しいまでに放置されてきたのだから。けれども、イラクで進められていることを、いったいどう考えれば対外援助と見なすことができるのかは理解しがたい。第一に、米国が再建しようとしているのは、米国自身が二つの戦争とその間に挟まれた一〇年に及ぶ経済制裁で破壊した国である。そして、いずれにせよ、その金の最大の分け前は、一握りの米国企業を潤わせるために使われるのである。
イラク再建に米国の巨大企業を使うべきだという米国の主張は、もし目的が本当に再建であるならば、まったく説得力がない。イラク人ならば何十分の一という費用でできることなのだから。米国のほうが洗練された技術を持っていて再建の経験もあることは確かかも知れないが、イラクの人々に再建----下働きだけでなく管理運営(そして私企業がやる場合にはその所有も)をまかせたらどうだろう? 二級の仕事をするだろうか? 再建するのは彼ら自身の国である。どうしてイラクの人々に電力供給や治安活動、石油生産を、良かれ悪しかれ彼ら自身のやり方でまかせないのだろうか(とりわけそうすれば何はなくとも破壊活動とレジスタンスは少なくなるだろう)?
イラクをめぐる金の動きはアラムコの契約をめぐる金の動きと似ていないこともない。アラムコの契約の当時、一見したところサウジに向けられたとされる「対外援助」は、実際にはアラムコとその親会社の金庫に納まった。今日、表向きは外国(イラク)に向けられているとされている納税者の巨額の資金は、最終的に、ブッシュ政権と密接な関係を持つ強大な企業(ハリバートン社、ベクテル社、GE社、ディンコープ社)の金庫に収まる。
本当に、何と奇妙な対外援助だろう。*** 一九五〇年代のアラムコに見られたように、米国政府は、しばしば、より大きな公益に直接反するにもかかわらず、ビッグ・オイルの利益のために動いてきた。そのようなときに、人々を説得させるために持ち出された決め手は、「国家安全保障」が危険にさらされているという主張であった。確かに、「国家安全保障」を持ち出すと、国家を防衛するという共通の利益と競合するような利益など実にあり得ないという幻想を魔法のように創り出すことができる。こうした議論は、言われるところの「国家安全保障」があり得そうにないものでも、あからさまに馬鹿げていても、うまく機能してきた。
したがって、たとえば一九五〇年代、米国の国内市場における独立系米国石油企業との競争からビッグ・オイルを保護するための手段を正当化するために、ワシントンは「国家安全保障」を持ち出した。ビッグ・オイルにとって以前から独立石油企業は悩みの種だった。一九三〇年代、たくさんの独立企業がとりわけテキサス州でおびただしい量の石油を生産したため、巨大石油企業が設定した価格が切り下げられる恐れが出た。石油メジャーはテキサス州をはじめとする州政府を説得して州内で生産される石油の量に制限を課すことにより、競争を制限することに成功した。こうした生産制限により、石油価格はまさにメジャーの望み通りに維持されたのである。一九五〇年代後半、メジャーは新たな問題に直面した:独立石油企業が中東から大量の安価な石油を輸入したため、米国市場の石油価格を下落させたのである。メジャーはこの新たな競争を極端に忌み嫌い、外国産石油輸入の制限を導入するよう米国政府を説得し、一九五九年三月輸入割当制度が導入された。
何点か注目に値することがある。このときもやはり、中枢にいた政府関係者は巨大石油企業と近しい関係にあった。当時の米国財務長官で、輸入割当制度の導入を勧告した閣議委員会の中心人物だったロバート・B・アンダーソンである。財務長官職に就任する直前、アンダーソンは、著名な石油企業----ロックフェラー家につながりを持つ企業も含まれていた----との間で一〇〇万ドル相当の取引(石油採掘権売買に関するものだった)を行なっていた。この取引----一九七〇年七月にワシントン・ポスト紙のバーナード・ノシターが明らかにした----により、アンダーソンの就任中に二七万ドルが支払われ、石油価格の成り行き次第でさらに四五万ドルが支払われることになっていた。この取引に関与していた大石油企業には、スタンダード・オイル・オブ・インディアナ社そして国際基盤経済社と呼ばれる組織----ロックフェラー家が支配する企業だった----が含まれていた。
もう一つ重要なテントして、外国輸入割当の影響で米国の石油価格が上昇することになったことも指摘しておかなくてはならない。石油価格上昇により巨大石油企業が手にしたあからさまな利益は、輸入割当が「国家安全保障」に関わるものであるというおとぎ話により誤魔化された。輸入割当制をめぐる議会での徹底的な聴聞と議論の際にいつも持ち出されたのは----実際、持ち出された唯一のテーマは----「国家安全保障」であった。ところで、外国産石油の輸入を阻止することが、どうして国家安全保障を強化することになるのだろうか? これについては基本的に二つの議論がなされていた。第一に、外国産の石油を輸入しなければ、米国政府は将来外国産石油が遮断される危険を避けることができるというのである(確かにその通りであろう。現時点で外国産石油を遮断してしまえば、将来遮断される危険は無くなる)。第二に、外国産石油の過剰な輸入は米国の石油産業----まさしく強大に繁栄した産業だった----をひどく弱体化させ、石油産業全体が崩壊する可能性さえあり、そうすれば米国経済全体に恐ろしいダメージがもたらされるだろうというものであった!
これらの無茶な議論がほとんど反対の声もなくもてはやされた。かくして輸入割当制が実施されてからの一四年間、米国市民は、「国家安全保障」のかけ声のもとで、世界の他の場所に住む人々と比べてはるかに高い金額を石油に支払っていたのである。これがいかに馬鹿げたことだったかは、数年後、議会の聴聞会でエクソン社の副社長が証言したときに明らかになった。反トラスト・独占に関する上院小委員会の主任エコノミストだったジョン・M・ブレアが、エクソン社の副社長に、次のようにコメントしたのである:「我々の中には、欧州や日本の競争相手が石油に支払う金額が確実に低下している中で、米国の石油購買者が支払う金額の増加を招くような差別的な価格を設定することで、どうすれば米国の国家安全保障が強化されうるのか理解するのに困難を感じた者もいる。我々の一部は、それによって米国の国家安全保障は強化されるどころか弱体化されると考えている」。
もちろん、振り返ってみれば、より高い石油価格は石油使用の削減を促すのだから必ずしも悪いことではなかったと論ずる者もいるかも知れない。けれども、当時、石油使用の削減は意図されてはいなかった。また輸入割当政策はそのような効果を持たなかった。より高い石油価格といっても相対的には安価だったため、米国の石油消費が減少することはほとんどなかったのである。実際、外国産石油割当がもたらしたのは、確実に、割当がなかった場合よりもはるかに早いペースで、アメリカ人が、外国産ではなく米国産の石油を消費するという事態であった。一九七三年にエネルギー危機が襲い、米国人がわれ先にと石油を奪い合ったとき、ワシントンはすぐさま輸入割当を撤廃し、できるだけ多くの外国産石油を米国に流入させようとした。けれども、一四年間にわたりほぼ全面的に国内産の石油に依存したため、米国人は、悲しいことに、かつて潤沢にあった米国の石油資源が枯渇していることに気付かされたのである。
米国の石油資源枯渇に巨大石油企業が果たした役割を見るのは興味深い。一九五〇年代半ばに、まもなく米国の石油資源は減少に向かうだろうとの証拠があったにもかかわらず、巨大石油企業は繰り返しこれを否定し、将来にわたって米国産の石油は潤沢にあると主張した。「彼らが安心させるようなことをほのめかさなかったなら、一九五九年から一九七三年の政策は実際とは逆のものになっていただろう」とブレアは指摘する。「国内の石油生産に無理矢理依存して米国の限られた資源を加速度的に枯渇させるかわりに、平和時には外国産石油の輸入を用いて我々の限られた資源を維持するという理性的な政策へ向かっていたはずである」。
ワシントンが米国の石油資源を喜んで枯渇されたことは、政策的に恐ろしいまでの巨大な失敗だった。このときに石油が枯渇しなければ、米国の石油自給率ははるかに高く、外国産石油への依存度ははるかに低かっただろう。自国の資源が枯渇したのでかわりに外国産石油への無制限のアクセスによってそれを償うという米国政府の主張は、今日、世界全体に巨大な影響を与え続けている。
■土井敏邦ドキュメンタリー『ファルージャ2004年4月』
5月中旬にDVD・ビデオの販売が開始されました。個人向けは日本語版・英語版ともに3500円。感想はこちらをご覧下さい。
オンラインでのご購入は、こちらからもできます(送料500円)。
私たちが編訳した同じ標題の本と、このビデオは、言葉と映像、侵攻下にファルージャに入った人の目撃証言と侵攻前後のファルージャ住民の証言というかたちで、お互いに補い合うものとなっています。
どうか、個人であるいはグループ上映会で、自主上映で、見て、広めて下さいますよう(私たち編訳の本とともに)。
■講演会「戦争の民営化とは何か?」
「対テロ戦争」の背後に蠢く戦争ビジネス(戦争請負会社)の実体についてのお話です。
日時:2005年5月29日(日)
13:30開場・13:45分開始
場所:東京都文京区民センター3C会議室
地下鉄三田線・大江戸線「春日駅」
丸の内線・南北線「後楽園駅」
講師:本山美彦さん(京都大学教員・国際経済学)
参加費:800円
主催:グループ武器をつくるな! うるな!
「民営化」よりも「私営化」の方が適切な言葉ではないかと思いますが、傭兵会社が大流行の今、世界の暴力の流れを知るために。