序:記憶を発掘する
東チモールの人権侵害と犠牲者とのことを考え、参考までに、訳してみたものです。 原文は1998年に発表されたもの。これ自体として関心があったことと同時に、 現在、東チモールで進められている「受容・真実・和解委員会」の活動と「正義」 との関係を考えるために訳出を考えました。グアテマラについては、岩波書店から 『グアテマラ虐殺の記憶:真実と和解を求めて/歴史的記憶の回復プロジェクト』 が2000年に出ています。ペルーについては、フジモリが拓殖大学に職を得たと いう話があり、古いですが、現在も参考になるかと思います。
これまでの3年間、何万ものウルグアイの人々が、1973年から85年までの軍事独裁政 権下で失踪した人々の運命を調査するようウルグアイ政府に要求するため、5月20日の 「真実へ向けての行進」に参加してきた。ウルグアイ軍及び1986年に特赦法を採用する ことで軍の罪を問わずにきた政治的エリート達は、1989年住民投票で特赦法の廃止が否 定されて以降は特に、国の歴史のこの時期に関する章は終わったものと信じてきた。け れども10年たった現在でも、これらの問題は、軍事政権終了直後と同様にはっきりとし たかたちで存在している。
軍の脅しや文民政権のいやがらせにもかかわらず、過去15年間、犠牲者の家族や人権 活動家達は、真実を求める要求を続けてきた。この例は、抑圧的な軍事政権や内戦を経 験してきたラテンアメリカの国々で現在行われている、過去を巡る闘いの一つである。 過去を巡るこうした対立を過去に埋葬してしまおうとする政権側の努力にも関わらず、 独裁政権時代あるいは内戦下で起きた拷問や失踪、殺害などは、未だ現在の大きな一部 を構成している。過去を巡るこうした闘いを検討することが、当NACLA特集の目的である。
ラテンアメリカでの過去の記憶を巡る闘いは、明らかに不公平である。というのも、 この闘いが行われている場自体が、暴力とそれがもたらした恐怖によってかたちづくら れたものだからである。特赦法が、軍事政権自身あるいは手におえない軍をなだめてお くためにそれが必要だと考えた以降期の政権によって制定されている。これによって、 ラテンアメリカでは、軍政下・内戦下での人権侵害等の犯罪については罪を問わないこ とが制度的に保証されることとなっている。けれども、真実と正義を求める要求が存在 しかつ実際に増大しているという事実は、記憶し、死者に敬意を払うことが必要である ということを証していると同時に、暴力と弾圧によって作り出された社会の亀裂を物語 っている。
ラテンアメリカにおける民政への移行と和平プロセスは危うい(実質の薄い?)もの であるため、文民政権には、対立する記憶を巡って引き起こされた政治的闘争を解決す ることは難しく、まして国家によるテロの傷跡を癒すことはなおさら困難である。こう した状況のもとで、忘却に抗する闘いは様々なかたちをとって行われてきた。ウルグア イのような明白に政治的な闘いもあれば、(Elzabeth Jelinが述べるような)アルゼン チンやチリでの、記念碑や記念日を作るという努力もある。映画や文学その他の文化的 産物もまた、過去を記憶するための闘いの一部として用いられる。また、Tomas Moulianのような作家に見られる、記憶に批判的に介入しようという努力は、現在のラテ ンアメリカにおける過去の歪曲化や忘却を露呈させるために、過去の再解釈への道を開 く試みでもある。
ラテンアメリカのネオリベラリズムは、エリート支配層が押しつけようとしている忘 却を助け、そそのかしてきた。ネオリベラリズムは、1970年代及び80年のラテンアメリ カにおける進歩的企ての基礎にある社会連帯や平等、正義といった理念を忘れ、そのか わりに極端な個人主義と忘却、市場の原子化を行うことのもとに成り立つ。実際、軍の 暴力によって押しつけられ世界資本主義の地方管理人によって支えられたこの原子化は、 専制後/内戦後のラテンアメリカに広く行き渡っている。以前は軍政下政治囚を組織的 に拷問する場所であったウルグアイのPunta Carretas刑務所が、世界資本市場の小間物 に溢れた現代的な明るいショッピングモールへと変わったことは、抑圧的な過去と現在 のネオリベラリズムとの密接な関係を雄弁に語っている。
1998年4月26日、歴史的記憶の復活(Recovery of Historical Memory: REMHI)プロ ジェクトの最終報告書を公に提示したちょうどその2日後に、プロジェクトリーダーだ ったJuan Gerardi司教は自宅前で暗殺された。REMHIはグアテマラでの36年間に及ぶ内 戦下で行われた虐殺を記録するためにカトリック教会が主導して行った過去に例を見 ない計画だった。このプロジェクトは、和平協定の後を受けて設立される予定だった 真理委員会の仕事を支援するために、1995年に大司教管区ではじめられた。教会の指 導者達は、正しくも政府公式の真理委員会が権能も時間も限られていることを予想し、 委員会のデータを補強しようとしたのであった。Gerardi暗殺後、沢山のREMHIプロジ ェクトへの参加者が死の脅迫を受け、家や事務所は侵入された。REMHI報告書の何が、 かくも暴力的な反応をひきおこしたのであろう?
報告書には次のような統計が記載されている---36年間の内戦の間に起こった人権 侵害の79%は軍によるものであり、9%がグアテマラ民族革命同盟(URNG)によるもの であること。これらの犯罪のほとんどが、1980年から1983年の間、Romeo Lucas Garcia 将軍およびEfrain Rios Monttが国の権力を握っていたときに起こっていること。 けれども、これらの情報は別に新しいものではない。では、REMHI報告書の何が特別 だったのか?2巻からなる報告書を詳しく調べると、いくつかの可能な説明が浮かび上 がってくる。
REMHI報告書は、国外へFAXで送ることを目的として秘密裡に行われる高踏的な調査 ではない。報告書は、グアテマラ人が、国際社会ではなく他のグアテマラ人のために 調査し記録したものであり、その著者と主人公は、一時は恐怖により沈黙していたも のの現在声を上げる意志を持った普通の市民である。このため、REMHI報告書は、単 なる情報統計集を越えた、グアテマラの人々の紛いようのない言葉から織られたアン ソロジーとなっている。教区に所属する800人の人々が、インタビュアーとなるため、 プロジェクトの訓練セッションに参加した。インタビューのやり方に関する技術的な 訓練の他に、参加者---多くは自身が暴力の被害者である---は、証言の価値、歴史を 記録することの重要性、苦痛に満ちた記憶を呼び戻す際の精神衛生問題などについて 綿密な議論を行った。6000以上のインタビューが行われた。うち61%は現地の固有語 で、また39%はスペイン語で行われた。犠牲者の中には個人でインタビューを受けた ものも、グループで経験を語ったものもあった。報告書は、例えば「暴力が家族にも たらす状況」、「子どもに対する暴力」といったテーマを収録した、分析的なもので あるが、同時に各節には、生存者と目撃者による生々しいけれども注意深く記録さ れた言葉が記載されている。報告書が広く読まれるならば、報告書に含まれるこうし た証言は、自らの同胞人に対してなされた虐殺の規模について懐疑的な多くのグアテ マラ人にとっても決定的な証拠となる。
報告書の公開後に起こった暴力に対する二番目の説明は、そこには加害者の証言も 含まれているということである。ある教会職員(?)は、人権侵害を犯した側の16人 にインタビューしたという。これらのインタビューは、そのすべてが2時間から12時間 に及ぶ包括的なものであった。すべてのインタビューで、証言者は話をする前に泣き、 また、うち4例では彼らの妻が同伴し、彼らに正常な生活を取り戻すために証言する よう乞うたという。彼らは皆録音されることを恐がり、また現在も活動していると 信じている公安組織による報復を恐れていた。自分自身がやったことを証言したのは 二人のみであり、残りは自らが目撃した惨劇を証言していた。次のような証言が報告書 中に現れる。
女を見つけた。兵士を一人呼んで言った「この女の面倒をみてやれ。中尉からの 贈り物だ」「わかりました、伍長」と彼は言って、他の男達を呼んでいった「 ここに肉がある」。それで女を取り囲んで掴んだ。その女の坊主を女から遠ざけ、 彼女を犯したんだ。すごい輪姦だった。その後で、子どもを殺す前に女を殺せと 私は言った。子どもが先に死んで、女がいやな思いをしないように。
虐殺を行った兵士達のこうした証言は、軍隊の沈黙という規律を大きく犯している。 これが報告書公開後に起こったテロキャンペーンの一因となったことはまちがいない。
第三に、REMHI報告書は人権侵害を犯した軍隊・準軍隊・警察組織を詳細に記述 しているほか、和平協定により作られた公的な真理委員会と違って、犯罪を犯した ものの個人名も場合によって記載している。「惨劇のメカニズム」と題する報告書 の第二巻は、虐殺と拷問の方法を分析しており、また、こうした暴力に従事した 諜報機関や反ゲリラ組織の名を一つ一つ明らかにしている。証言は、意図的な脅迫や 誘拐、失踪、暗殺、拷問、慎重に計画された虐殺などについて明らかにしている。 さらに、報告書から、軍が特に市民を標的としていたことが明確にわかる。
REMHI報告書はまた、テロの戦略と技術がどのように教えられ実行されたかについ ても述べている。証言は、兵士達の教育法とどのように暴力行為に参加されるに 至ったか語っている。徴兵されたものたちを暴力に対して麻痺させるため、従わなかった ものたちには、侮辱や激しい体罰が加えられた。ある兵士の証言は次のように 言う。
隊長が血を見たいといったんだ。誰かが軽くしかたたいていないのを見ると、そいつ は次にやられるんだ。
軍やその同盟者達が近い将来政治的に受容されるためには、軍が共産主義を国から 追いだしたというイメージを守らなくてはならない。もし、REMHI報告書がそれに 値するだけ広く読まれるならば、軍のこの可能性はかなり低いものとなるだろう。 こうしたことを考えると、このレポートは体制全体に対する挑戦と見られうるもの である。
REMHIプロジェクトに関する最後の、そして恐らくグアテマラの治安部隊にとって 最も脅威となっている要素は、プロジェクトが報告書の公開で終わったわけではない ということである。実際、プロジェクトの最も重要な段階が始まるのはこれからであ る。Gerardi暗殺と引き続く脅迫によって現在ペンディングになっている計画では、 報告書を共同体に持ち帰り、報告書を巡るワークショップや談話会を組織し、 そして遺体の発掘と死者の埋葬、記念碑の設立を続けることになっている。プロジェ クトのこの最終段階がこのところ続く暴力の本当の標的であるかも知れない。軍に とって真に脅威なのは、報告書それ自体ではないかも知れない。軍の権力に対する 抗議は、人々がもはや沈黙せず歴史について混乱しなくなったときに始まる。 軍やその同盟者たちが本当に恐れているのは、1970年代と80年代の犠牲者達が、 未来の主導者になることなのである。
抑圧的な政権が姿を消したときに、しばしば過去に関する問題が、「現在」におけ る政治の中心的課題となる。世界中の人権活動家は、過去に国家によってなされた犯 罪に直面することが和解と回復への道であり、過去について沈黙することは敵意と対 立につながると述べている。圧政から脱しつつある政権は、過去の残虐行為をすべて 明らかにすべきであるという人々の要求に応えて、過去の人権侵害を公に承認する必 要性を認めている。
これまでの政権下で行われた人権侵害に関して、非政府組織による多くの重要な調査 がある。例えば、ブラジルで軍政下になされた人権侵害に関するカソリック教会による 秘密調査では、政治犯に対する組織化された拷問が報告されている。けれども、公の「 真実委員会」というかたちで国のもとになされる真実の追求は重点が異なる。こうした 「真実委員会」にはいくつかの特徴がある。まず、個々の出来事ではなく過去になされ た人権侵害のパターンに重点を置く。また、最終報告書を提出した後には解散されるこ とになる一時的な組織であり、政府(及び/または武装抵抗勢力)から公認されており、 そのため権威が高くまた公の情報源へのアクセスも容易である。また、真実委員会はそ れが何でないか、という点からも定義できる。最も重要なのは、真実委員会には加害者 を処罰する力、裁判力がないことであり、その点で、国の法廷や、例えば現在前ユーゴ やルワンダを扱っている特別法廷ないし最近ローマで合意された国際刑事裁判所のよう な国際法廷と区別される。また、真実委員会は、例え報告書で人権侵害が引き起こされ た構造の改善や補償計画を提言したとしても、それを実行する力を持たない。これらが 実施されるかどうかは政権の意志と関心とに依存している。
公式の真実追求は単純かつ議論の余地のないものではない。どの国のものであれ、「 公の真実」に対して懐疑的であるのは当然であるが、特に、多くの議論がありまた関心 のたかいことに関して検討されている、不安定で政治的対立のある場所ではなおさらで ある。被害者や人権活動家は、公の真実追求の結果、大文字の真実あるいは必要なかた ちと深さを備えた大文字の真実を得られないのではないかと心配する。彼らは、鎮痛剤 としての真実(「気分を良くして下さい、過去の件は終了しました」)あるいは国の責 任のがれとしての真実(「できることはやりました。これ以上は不可能です」)といっ た、本来の目的以外の目的に仕える真実を恐れる。こうした恐れにも関わらず、過去の 様々な真実委員会の活動は全体として肯定的に捉えることができる。政治的制約や圧力 にもかかわらず、多くの委員会は何千人にも上る犠牲者や目撃者の証言を記録して、説 得力のある偏らない報告書を作ってきた。
世界中で過去25年間に、20以上の真実委員会が設けられた。最近ニュースになった ものに南アフリカの「真実と和解の委員会」がある。南アのこの委員会は、先行する ラテンアメリカの真実委員会を調査した上で設置された。南アにおいて委員会の設置 法案を作成した人々は、ラテンアメリカで適用された全面的な特赦法や、多くの真実 委員会が真実追求において加害者の協力を得られなかったことなどを特に意識してい た。結果として、アパルトヘイト時代になされた政治犯罪について知っていることを すべて明らかにした加害者がその犯罪については特赦を受けるという、「特赦のため の真実」という枠組みが適用された。
軍事的圧政や内戦が終了した後のラテンアメリカで、真実を明らかにすることは、 しばしば第一のそして本質的な要求であった。アルゼンチンが民政に移行して最初に 政府が行ったのは真実委員会を設置することであり、このラテンアメリカ地域最初の 委員会は国際的な注目を浴びた。1983年から84年にまたがる9か月の間に、この「失 踪者に関する国家委員会」は1976年から83年の軍政下で起こった9000件近い失踪を 記録している(なお委員会自身これが全件でないことは知っている。実際の失踪者の 数は15000から30000と見積もられている)。監禁と拷問からの生還者の助けにより、 委員会は、主として警察および軍の施設内にあった200以上の拷問所を調査している。 委員会の報告書Nunca Masはアルゼンチン史に残るベストセラーの一つであり、いまだに ブエノスアイレスのキオスクで買うことができる。より重要なことに、委員会の 資料は直接検事に手渡され、それが続いて行われた軍政指導者達の裁判における 証拠や証人の情報源として用いられた。
1990年にチリでPatricio Aylwinの政府が新たに選出されたとき、この政権はAugusto Pinochetoの軍政下で行われたほとんどの犯罪に対しての処罰を不可能とすべく1978年に 制定された特赦法を覆すことが出来ないと結論した。政府はかわりに公の真実追求を もって17年にわたって国および武装抵抗勢力によって起こされた暴力行為を明らかに することとした。アルゼンチンと比べると、チリでの圧政下では、拷問にかけられな がらも生き延びた人が処刑されたり失踪したりした人よりも相対的に多かったが、 「真実と和解に関する国家委員会」は拷問についての記録を差し止めた。3000近い失踪 と殺害及び多くの政治目的での誘拐については焦点をあてたが、拷問については 一般的な拷問の実施を報告したにとどまった。その結果、それに続く委員会が実行 した補償政策は、被害者の多数を占める拷問からの生還者には適用されなかった。 それでも、委員会が失踪についての国の責任を公に認めたことは、被害者を認定する にあたって重要なことであった。
1991年に、エルサルバドルでの和平交渉への参加者は、国連が指名し運営する「真 理に関する委員会」によって12年にわたる内戦下で両側が犯した人権侵害を調査する ことに合意した。政治的分極化、引き続く治安問題、人権犯罪を報告することへの 恐れといった問題が多くあったため、他の国とは異なり、国際的な委員とスタッフ によって委員会を組織したのであった。1993年に公開された委員会報告書は、いくつ かの点で批判された。特に批判の対象になったのは、人権侵害に関係するとされた武 装左派のグループ偏りがあったという点と、「死の部隊」の背後にいたものを特定 しなかったという点である。こうした問題にも関わらず、委員会が高い地位(?)に いた加害者をかなり名指したこと、そして詳細な政策提案を行ったことにより、 人権侵害を行った将校・警官たちは退任させられ、またその後司法制度改善も行われた。 これに対し、政治首脳部はそれを承認も謝罪もしなかった。軍司令部は報告書を 偏見に満ち偏ったものとして公に却下したし、政府は報告書公開の5日後に、大規模な 特赦法を制定した。
グアテマラでの最近の出来事は、真実を告げることの危険を浮き彫りに した。1998年4月28日、グアテマラ大司教所属人権事務所の長Juan Gerardi Conedera氏 が暗殺された。事務所による歴史的記憶の復活(Recovery of Historical Memory: REMHI)プロジェクトが、過去30年にわたる残虐行為をまとめた報告書を提出した2日後 のことであった。Gerardi氏殺害の捜査は続いており、また動機も明らかになっては いないが、ほとんどのグアテマラ人は、殺害が報告書の公開に対する報復であった と信じている。真実を語ることが危険であるというのは別にニュースではない。 ハイチやエルサルバドルそして多くのアフリカ諸国で、インタビュー者は、被害者 が自分が被った苦悩を簡単に語るわけではないことを知った。加害者が近くにまだ 生きているときには、目撃者は自分が見たことを話すのが危険であることを知っている。 過去に犯罪を行っていたものからの直接間接の脅迫に怯えて全く話したがらない ものもいる。Gerardi司教殺害にもかかわらず、1996年の和平協定によって作られた グアテマラの公式な真実委員会は活動を続けており、1998年後半に最終報告書を 提出する予定でいる。
公の真実は、犠牲者と生存者の声が聞かれるために必要な全面的な国の記憶への 一歩であるという意味では、軍政からの移行期において重要な一歩である。 けれども国の弾圧の犠牲者と生存者にとって、真実だけでは十分ではない。 ほとんどの犠牲者は、公の真実報告を真の正義のための第一歩に過ぎないと 見なしている。真実委員会は、軍政から移行しつつある社会でのばく大な 要求に手をつけはじめる一歩にすぎない。過去の犯罪から解放されることは 容易ではなく、また法廷での正義なき真実は多くの人に取って満足できるものでは ない。それでも、公の真実追求は過去の犯罪を清算するための手だての重要な一つ であることは明らかであり、また、犠牲者や人権団体の主要な要求事項の一つでも ある。
これまでの真実委員会はほとんどが強い限界を伴っていた。ある場合には、 制約は委員会への委任書に書かれており、ある場合には、調査を行う期間や予算 が限られていた。けれども、これまでの委員会の大きな問題は、委員会それ自体に 内在するものではなく、政府が委員会の勧告を実施してこなかったこと、そして 司法が弱体であるか迎合的であったために委員会が提出した情報を加害者の 処罰に利用できなかったことにある。今後の課題は、 真実をよりいっそう公平にそして全面的に明確にすることができるよう委員会の 権限を強化すると同時に、過去の犯罪に責任を負うものに対する裁判を避けるの ではなく強化することである。
1997年4月22日、ペルーの特殊部隊が、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)が 72名の人質を取って立てこもっていた、在日ペルー大使館に突入した。この突然の 攻撃は午後3時15分、最高指揮者Nestor Cerpa Cartoliniを含むMRTAの主導者達が 大使館敷地内でサッカーをしていたときに行われた。国内外のテレビで大きく報道 されたこの突入劇は、大成功とされた。72人の人質のうち71人は救出され、14人の 「反乱者」全員が殺された。また、特殊部隊からも2人の死者が出た。
1996年12月17日に起こったMRTAによる日本大使館占拠は、フジモリ政権にとって 全く寝耳に水だった。ちょうどそのころ政府は、1980年代初頭から政治的に台頭 していたMRTAや、より激しいペルー共産党(「輝ける道」)らのゲリラ活動は 鎮圧され、もはや脅威ではない、という自らの宣伝を信じていたのである。警備 の厳しい大使館敷地で行われた、フジモリ大統領自身も出席を予定していた迎賓 パーティーにMRTAが侵入したことは、この確信を揺るがすに十分な出来事であった。
4か月にわたる人質危機の間、フジモリは繰り返し、ゲリラ側が人質に危害を加 えない限り、軍事的介入を行わないと述べていた。セルパが、もともとの要求である 400人のMRTAメンバーの釈放を大きく譲歩し、投獄されている20名のMRTAメンバーの 釈放と引き替えに人質を解放することに同意したことで、交渉は進展するかに見えた。 けれども、フジモリの取り決め撤回に対してセルパが人質のための医師訪問を一週間 停止したとき、政府側はこれを軍事介入開始のための格好の理由とすることができる と考えた。突入劇終了後、政府側は交渉に関して不誠実であり、実は軍事介入のため の特殊部隊を訓練しまたすばやい勝利のための情報収集のために時間稼ぎをしていた ことが明らかになった。政府は最初から、MRTAを完全に鎮圧することを最も望ましい 解決と考えていたのである。
ペルーの政治において軍の論理はますます中心的なものとなってきている。1992年4月、 フジモリ大統領は自己演出のクーデターを行い、議会と裁判所を解散し、憲法を 停止した。この「自己クーデター」の背後にあった目的は、ゲリラ活動の徹底的 弾圧であった。1992年9月12日の「輝ける道」の主導者Abimael Guzmanの逮捕により、 フジモリ政府はこの完全勝利という目標に近づいたかに見えた。Guzman逮捕後、 他の指導者も多くが逮捕され、輝ける道の重要な組織構造も事実上解体された。 MRTAは同じ年の始めに主導者のVictor Polayを含む首脳部が逮捕されており、 実質的に活動不能状態であった。両グループのリーダーを鉄格子の向こうに送り込ん だのち、フジモリ政権は、軍が反乱勢力を鎮圧したと高らかに述べた。
他のラテンアメリカの国々とは異なり、ペルーの内戦は和平交渉によってではなく、 軍の側の反乱勢力に対する一方的な勝利宣言によって終了したとされた。そのため、 残ったゲリラの戦士達を社会政治生活に組み込む手だてを考える努力もなされず、 また、内戦の真の原因を問題化することもなかった。政府側は戦争に勝ち、そして、 フジモリが1993年のGuzmanによる和平交渉提案に答えて言ったように、「勝者は 交渉しない」立場を取った。
この「反乱に対する大勝利」がペルーの最近の内部対立に関する公式な歴史 ナラティブ構築の土台となった。そこでは、輝ける道とそしてMRTAのみが暴力行為を 行ったものとされ、軍は法秩序の擁護者として国家的栄誉を得た。こうしたことから、 MRTAに対する軍事的「勝利」はフジモリ政権にとって政治的に必要なことであった。 これによって人質事件の状況を再び公式のナラティブに組み込み、さらには ペルーの政治社会生活における軍の主導的役割を強化することができた。
この公式の歴史では、15年にわたる国内対立において起こった30000もの死者は すべて輝ける道とMRTAに責任があるものとされた。これに対して、人権団体が 30000の死の約半数及び6000に及ぶ失踪が治安部隊により起こされたものであると 報告しているにも関わらず、である。軍によって引き起こされた暴力や人権侵害は 全て「テロリストという癌」に対する自衛であるとされた。テロリズムに対する戦い を行っている限り軍は自らがなしたいかなる犯罪行為についても責任を持たないと いうこの主張が、1995年に制定された恩赦法の背後にある。この恩赦法は、1980年 から1995年の間に人権侵害をおこした軍や警察のメンバーに無罪を保証するのみで なく、それ以前に逮捕された全ての軍・警察メンバーを釈放するものであった。 リマに拠点を億法律擁護協会のSusana Villaranは言う「軍の論理は、軍が敵を 鎮圧したことに、社会は感謝しなくてはならないというものである。」
MRTAと輝ける道の主導者たちが逮捕された後、ペルーで民主化が進んだわけでは ない。逆に軍がその権限を強め、近年では、軍に反対する可能性のある組織や制度を ますます組織的に廃止しようとしている。1992年の自己演出クーデター以降、 フジモリとその取り巻きは、特に輝ける道のペルー国家に対する「革命的」戦争 の遺産によるペルー社会の分断を利用して、新自由主義的権威主義を確立すること に成功した。
ペルー支配者が自らの権力を固めるためにこうした勝者のディスコースを利用できた ことは、1980年代の経済混乱と政治的暴力に強く結びついているペルーの政治生活の 解体状況を反映している。公式の見解に対する異論がほとんど起こらないの は、Guzman逮捕後のフジモリ政権に対する社会の支持という要因もあるにせよ、 政府の「軍の論理」が公式の歴史に対する全ての異論を転覆(??)とみなしている ことにもよる。その結果、最近の対立における軍の役割に関する公の議論は極端に 制限されているのだ。人権団体は、テロリズムの罪で不当に逮捕された人を釈放する といった特定のことに成功しているとはいえ、ペルー内戦下で何が起こったかに 関しての公式見解とは違った説明を行えるような社会政治環境はない。実際、最近独 裁体制や内戦が終結した他のラテンアメリカの国々と比べて、起こった暴力の解釈を 巡る対立は極端に少ない。反ゲリラ活動時の軍の行いに疑問を付すことはテロリズム とされることを考えると、現在のペルーに記憶を巡る闘いが実質的に不在であること は驚くことではない。
さらに、ペルーの内戦が政治的にではなく軍事的に終結したことは、逆にMRTAも 輝ける道も完全になくなったのではないことを意味する。特に、輝ける道は新たな 指導部のもとで部隊を再編し政治綱領を再考して活動している。1992年に言われて いたような政治的脅威とはなっていないが、地域によっては勢力を持っている。 こうした勢力の存在が、実は、軍による権力の掌握を正当化することに使われ、 また過去の公式解釈の裏付けとして用いられている。政治的レベルで対立を 問題化しないことによって、実質的に、国の軍国主義化が促されているのである。
ペルー政府の内戦に関する解釈においてもう一つ重要な主張は、「転覆に対する 勝利」が、フジモリの1992年4月の自己演出クーデター及びその後に適用された 強行路線の政策の直接の結果である、というものである。Guzmanの逮捕以降特に、 フジモリとその協調者は、 クーデター以降の文民=軍事政権の効率を繰り返し強調し、 それを1980年以降国を危機に陥れた経済的政治的混乱に対処することができなかった とされた文民エリートたちの無能力と対比した。フジモリは「テロリズムが 全てに浸透してしまった」とし、これに対して自己演出クーデターをペルーに 民主主義を再建するための「現実主義」と呼んだ。「自己クーデターを遂行しない のは無責任なことであった」とフジモリは言う。というのも、これによって 「テロリズムに対する戦いを遂行し、法曹界の汚職を追放し、ネオリベラル リフォームを行うことが可能になったのだから」。
この主張の背後には、文民政治家は腐敗し弱腰で、民主的制度・機構では 危機的状況に対処できない、というものである。軍隊は、国民国家を守り強化する ことができる唯一の組織とされる。これはペルーのみならずラテンアメリカ中 に広がる「国家安全保障」主義に深く根付いた考えである。実際ペルーでは、 1980年代後半に、民主的制度によって反ゲリラ活動を制限されたこと、また文民政治家 が経済危機になすすべもなかったこと、そして輝ける道が拡大したことなどに 不満を持った軍は、クーデターを計画した。計画は、ペルーの文民政治の停止、 国家の軍による支配と、武装抵抗勢力の完全な鎮圧を唱えていた。「緑の計画」 として知られる文書によって展開されたこの計画は、軍事クーデターによって 軍が15から20年間政権の座に付き、新自由主義の方針に従って国家と社会の関係を 再編することを提案している。
1990年のフジモリの勝利はペルー軍部のクーデター首謀者たちにとっては、かたち こそ違えど天の恵みであった。フジモリは対立候補である小説家・政治家バルガス= リョサに、選挙の第二ラウンドで勝利した直後、噂されたクーデターを宥めるために 軍との連合を模索した。フジモリには政党基盤も政策も(?)なかったため、 軍に大きく依存しはじめた。 議会が大統領に軍における昇任や引退の権利を付与する法律を可決して以降、 大統領の最高顧問であり国家諜報局(National Intelligence Service:SIN)の 実質上の長官であるVladimiro Montesinosは、軍の将校達のフジモリに対する個人的 忠誠を安定したものにするため活躍した。忠実な将校たちは昇任し、そうでないものは 退官を余儀なくされた。これにより軍隊の政治化が大きく進んだ。1991年末には モンテシノスはフジモリに対し、軍が計画していた20年クーデターを自ら実行し、 議会解散命令など不要にするよう説得した。軍は反ゲリラ戦に対する白紙小切手 と引き替えにフジモリを支持することを確約した。こうして始まった文民=軍 同盟によりペルーの政治社会生活の超軍国主義化が始まったのである。
ペルーの「伝統的」党派に対するフジモリの攻撃はこうした文脈から理解しなく てはならない。軍の言葉遣いそのままに、彼はペルーの政治、経済、社会にわたる 危機に対して、右派から左派までの全ての政治エリートに責任があるとした。フジモリ は、ことある毎に政治家達を避難することで、白人でありかつリマに済む政治家達 に対する人々の反感をあおり立てた。フジモリは政治エリートからすると部外者であり、 また日本人移民の子孫でもあったため、人々の政治エリートに対する反感から彼は 逃れることが出来た。こうした状況で、フジモリは、ペルーの経済エリートと手を 結び、新自由主義の方針に沿ってペルー国家と経済を再編することができたのであ る。伝統的な政治エリート達に対立することで、フジモリは経済エリートとの同盟 を隠蔽することができた。
ペルーのブルジョアの固い支持のもとで、フジモリと彼の軍部の同盟者は 政治権力を得ることができた。1992年後半に米国からの圧力を始めとする国際的圧力 によって議会開催を余儀なくされたときにも、彼は多数派であることができたため、 新自由主義政策も容易に採用することができたし、また軍の罪を問わないことも 主張できた。1993年に、議会は、軍に幅広い権力を認め、自由市場主義を明記し、 また(フジモリの)大統領への二選を可能にする内容を含む、新憲法を制定した。
1995年にフジモリが再選されて以後、ペルーは再び民主的国家に戻ったと論じた ものもいたが、実際には1992年の自己クーデター後確立された文民=軍事政権が 権力を掌握し続けている。ペルーは、時に言われるような、代議性民主主義でも 制限された民主主義でもなく、ある種の新人民主義ですらない。ペルーにあるのは、 米国を始めとする国際的な「民主主義」を強調する中で伝統的な軍事クーデターが 不可能であると考えた為政者による、複合的専制主義なのである。議会や司法、 憲法裁判所といった形式上の民主的機関は、ペルーが民主的な政府であるという 幻想を国際的に維持するために、維持されているのである。けれどもこうした機関 が権力が強要する制限を越えると、服従させられたり、懐柔されたり、転覆された りする。
今日のペルーにおける権力の本当の姿を示す事例には事欠かない。最も典型的なの は、コリマグループとして知られる、国家諜報局と軍諜報部(SIE)のメンバーから 構成された死の部隊により9人の学生と一人の教授が殺害された1992年7月のラ・カン チュタ事件であろう。軍のメンバーの関与を示す証拠が出された1993年4月に議会の 反対派たちが調査を開始しようと試みたが、軍司令部は協力を拒否し、また最高 司令官Nicolas de Bari Hermoza将軍は調査に従事した議員を「人殺しのテロリスト 共謀」していると非難した。翌日リマの街には軍の戦車が現れ、軍は議会を「 軍隊の権威を傷つける悪意ある目的で行われているキャンペーン」に関与している と非難した。2か月後、学生たちの焼き払われた死体が発見された後、事件は 法廷に出された。議会の政府側多数派は事件が軍事法廷で扱われるよう工作した( ちなみにこれは司法の独立に対する明らかな違反行為である)。カンチュタの殺人 に関して数人の軍人が軍事法廷で有罪判決を受けたが、その後議会の多数派は 彼らを釈放するための恩赦法を制定した。 ある裁判官がコリマグループが関与する別の虐殺事件の調査を継続しようとした際、 議会は、再び司法の独立を無視して、法廷による恩赦法の遵守を義務づける法律を 可決した。
もう一つの政府の専制を示す事例に、「正当解釈法」がある。1993年憲法には 大統領の再選は継続して2年までと明記されているが、1990年にフジモリ大統領が 初選をはたしたときにはこの憲法は発効していなかったため、第一期は考慮対象外 であるという議論に基づき、フジモリが三期続けて大統領となることを可能にする 法律を可決した。憲法裁判所がこの法律を違憲であるとした際、違憲派の判事は 手続き無しに解任された。より最近ではまた、1993年憲法で保証された権利に 従って「正当解釈法」に対する住民投票を求めた反対派の要求も議会により妨害 されている。それより3年前に、悪評の高い恩赦法に対する住民投票要求を避けるため、 住民投票の実行には議会の48人の賛成投票が必要であるという法律が制定されており、 これによって不人気な法律に対する住民投票を行う権利は実質上適用不能になって いたのである。再選法を巡って住民投票を要求していた反対派が140万人の署名を 集めていたにも関わらず、住民投票は要求された48に3票足りず、実行されなかった。
これらの例は、民主的制度が行政及び議会の多数派によって踏みにじられる様子を 示している。軍の影響は政治的領域に留まらず、ペルー社会に行き渡っている。 軍は、国土のおよそ16%を占める未だに非常事態宣言下にある地域で実質権力を 握り続けている。輝ける道と戦うための自衛組織として中部高知地域の農民により 組織されたrondas campesinasを通して、軍は地方でも強い影響力を持っている。
1998年5月に行政により犯罪問題の増加に対処するためとして布告された11の布告法 は、ペルー社会の軍国化を最も如実に示している。国家安全保障主義に基づいくこれら の法律では、強盗、殺人、誘拐、強姦、恐喝などを「悪化したテロリズム」と呼び、 これらの罪で告発されたものを、法廷に連れ出す前に15日間拘留することを許容して いる。さらにこれらの犯罪について、通常法廷よりも罪がはるかに重くまた16歳以上 は大人として扱われる軍事法廷で裁かれることが可能となった。軍事法廷では、 人が殺されることになる犯罪計画に情報を提供した罪で有罪になった場合、 実際に殺人を犯したものと同じ25年の判決を受ける。
これらの布告法は、1992年に制定され、公平な裁判の権利を侵害するとして広く 批判されまた実際に何百人もの無実の人をテロリズムを犯した罪で投獄することに なった、反テロリスト法に、ほぼ全面的に依拠している。反テロリスト法と同様、 警察の報告書が証拠として用いられるが、そこでの情報がどのように得られたか、 それが偽造されたものではないかどうかをチェックする制度はない。さらに、 報告書の執筆者は証人として喚問できない。最も問題なのは布告899号であり、そ こでは「有害ギャング行為」が、12歳から18歳までの青年による、他人の生命や 身体の安寧を脅かす、公共の財産を傷つける、混乱を引き起こすといった攻撃行為 と定義されている。用いられている用語が非常に曖昧であるため、この法律によって 容易に、反政府抗議行動に参加した学生を有罪とし刑期25年から35年の判決を言い渡 すことができる。
この犯罪防止法は、MRTAの人質事件が終わって後、フジモリ政権がいっそう進めた 強硬路線の一例に過ぎない。1997年以降、報道陣に対する攻撃も増加した。もっとも 知られているのはBaruch Ivcherの場合である。彼は、 政府が反対派173人について行ったスパイ行為、モンテシノスに対する高い税の還元、 カンチュタ事件の情報を報道にもらしたとされる前軍諜報員への拷問などを放映した ため、ペルーの市民権も自分のテレビ局へのアクセスも剥奪された。 それ以来、ペルー支配層の裏取引について調査するジャーナリストは弾圧の対象と なることが日常となっている。例えば、反対派日刊紙La Republicaのジャーナリスト Angel Paezが軍による武器購入に伴う汚職を報道した際、彼は死の脅迫を受け、 またタブロイド紙は彼を中傷しテロリストへの賛同者であると非難しはじめた。 また、再選法に反対票を投じて憲法裁判所を罷免された3人のうちの一人である Delia Revoredoは、政府の独裁性を公に非難して以降繰り返し嫌がらせを受け、 国外への避難を余儀なくされた。国税局はついで彼女の夫に嫌がらせを加えたため、 彼もまた亡命を求めた。ごく最近の、政権のこうした独裁化は、ペルーの状況は 今後悪化するであろうことを示している。
現在のペルーの政治情勢に見られる大きな変化は、数年前にはペルー国家を掌握 するにではとすら見られたゲリラ勢力が弱体化していることである。Guzmanの逮捕 と輝ける道の「戦略上の敗北」がペルーの政治情勢を大きく変えたことは確かで あるが、現在のペルーにおける中心的な出来事を輝ける道の敗北に見いだすもの は、軍部の「全面的勝利」というディスコースに同調することとなる。1991年以降 の政治的展開は、特定の事件に着目することではなくて、過程に着目することに よって検討しなくてはならない。分析しなくてはならないのは、輝ける道が 武器を取った1980年に始まり、民主的行政がゲリラ活動を鎮圧するために軍部に 権威を渡したことによって拡大され、1992年の自己演出クーデターにより、 民主的制度・組織が完全に行政と軍部に従属したことで頂点を極める、ペルーの 政治と社会の軍事化の過程なのである。
このような分析では、軍と武装ゲリラ双方がペルーの軍事化にはたした役割、 この抗争がペルー社会の分断をどのようにもたらし、またフジモリがその状況を 自ら権力を掌握するためにどのように用いたか、を考慮しなくてはならない。 抗争が勝利と敗北という用語で語られる限り、社会の軍事化、民主的制度の 失効、政治的反対派への攻撃、社会運動の弾圧といった、実際に起こっている過程 は曖昧にされたままである。
抗争を通じてペルーの日常となった恐怖と脅迫によって、ペルーの過去について の正史とは異なる解釈は曖昧なままに置かれている。例えば、犠牲者のグループは、 多くが貧しい農民でありまた親類が輝ける道に通じているとされるため、孤立し 非難の対象となっている。人権団体は、テロリズムの罪で不当に有罪とされた 数百のペルー人を釈放する運動の先頭にたち、また抗争下で輝ける道と軍の双方 によってなされた人権侵害を詳しく記録している。けれども彼らもまた、フジモリ 政権の「テロリスト」であり輝ける道の手先であるという非難の前に、孤立している。
けれども、記憶は思いがけないかたちで回帰する。テロリズムの罪で有罪とされた 囚人の件を見直している委員会に関して政府は強い統制権を持ってはいるが、 この委員会は、刑務所の過酷な状況や投降したゲリラの状況といった、抗争の 遺産に関する調査をはじめた。また、失踪した人々の問題を取り上げようとしている 団体もある。例えば1997年10月には、「ペルーの非常事態宣言地域下から 誘拐・拘留・失踪したものたちの親族の全国協会」(National Association of Relatives of the Abducted-Detained-Disappeard from the Emergency Zones of peru:ANFASEP) という被害者団体が、オンブツマン事務所にアヤクチョ地域で報告された2000件の 失踪について調査をするよう誓願した。1995年依頼、これらの件に対する法的調査 はフジモリの恩赦法によって阻害されてきた。さらには、抗争下でなされた 残虐行為に関する全面的かつ中立的な調査を行う真実委員会を提唱した人権団体 もある。ただし、フジモリとその軍事同盟が権力の座にある限り、このような委員会 が現実化するという期待を、彼らもあまり抱いてはいない。