2004年4月24日
ファルージャ侵攻を始め、イラクでは占領米軍による人権侵害や虐殺が多く報告されています。最近(だと思うのですが)TUPのほかに、反戦翻訳団さんのページが立ち上がりました。どちらも、ファルージャやイラク一般の情報を、本当にタイムリーに日本語で提供しています。ぜひ、ご覧下さい。
コロンビアでは、右派準軍組織AUC(コロンビア自衛軍連合)のカルロス・カスタニョが狙われ、ボディガード6人が殺されるという事件が起きました。これは、AUCの別の準軍組織によるものとされており、色々紹介したいことがあるのですが、滞っています。ファルージャの状況をTUPさんや反戦翻訳団さんがカバーしてくれているので、そろそろコロンビア情報に戻れるかも。
というわけで、この度は、時事情報はそちらのページにお任せして、イラク侵略の経緯をもう一度、ざっと整理しておこう、ということで、文章を書いてみました。「整理しておこう」といいながら、少し色々乱れていまし、長くなってしまいますが、折に触れ、背景や経緯を一貫して捕らえ直しておくと、現在起きていることの意味も捕らえやすくなると思いますので。
「グローバリゼーションは、権力を集中させると同時に責任を薄めた」(Les voies d'une justice mondiale. Science Humaines, Numero special no. 2. Mai-Juin 2003)
イラク。人口約二五〇〇万人。アラブ人が約七五〜八〇パーセント、クルド人が約一五〜二〇パーセント、その他約五パーセント。宗教別にみると、イスラム教シーア派が約六〇パーセント、スンニ派が約三五パーセント、キリスト教徒等が約三パーセント。概ね、シーア派は南部に、スンニ派のアラブ人はバグダッドからシリア・ヨルダン国境地帯までの地域に、クルド人はバグダッドから北部のトルコ・イラン国境地帯までの地域に暮らす。人口の四〇パーセントを、一四歳以下の子供が占める。
国土面積四三万七〇〇〇平方キロ。北西から南東に、国土を三分するように、悠久の川、チグリスとユーフラテスが流れる。国境線の総延長は三六五〇キロメートル。南から時計回りに、クウェート、サウジアラビア、ヨルダン、シリア、トルコ、イランと国境を接し、ペルシャ湾(アラビア湾)にわずか五八キロメートルの海岸線を有している。
現在のイラクを構成する地域は、長らくオスマン帝国に属していた。第一次世界大戦中の一九一七年に、英軍が占領、一九二〇年、英国が、「戦後処理」としてオスマン帝国を解体し、オスマン帝国のバグダッド、バスラ、モスルの三つの行政州を統合して作ったのが現在のイラクの直接の起源である。このときから一九三二年まで、イラクは英国の委任統治領下に置かれた。人々の反乱に対し、英国は爆撃を含む武力を持って弾圧するとともに、ハーシム家のファイサルを「イラク国王」の座につけ、統治に利用した。
一九三二年一〇月三日、英国委任統治期間が終了し、イラク王国が正式に独立する。独立後も、英国は、イラクに軍事基地を維持し、王の取り巻きを親英派でかためた。また、石油開発と採掘については、英仏米のコングロマリットが利権を確保している。
一九五八年七月一四日、軍事革命により、ハーシム王制が倒れ、共和制を布く。利権を失う危機感を抱いた西側諸国は、これに拒否反応を示し、激しく批判した。その後、二度政権が交代したのち、一九六八年の七月一七日、バアス党のアフマド・ハサン・アル−バクルが政権を掌握し、大統領となる。一九七〇年代には、石油収入の増加とともに、イラクでは経済が発展し、社会基盤と社会体制が整備されていった。
バクル政権のもと、バアス党政権のナンバーツーとして頭角を現してきたのが、サダム・フセインである。一九七九年七月一六日、アル−バクルは、サダム・フセインに政権を委譲する。彼は、石油収入を利用して、社会福祉の充実を図り、経済プロジェクトを進めた。これにより、イラク人の生活水準は、大幅に向上する。同時に、サダムへの個人崇拝を促進して反対派を弾圧し、バアス党政権というよりもサダム・フセインの個人独裁色を強めていく。
一九七九年の初頭には、隣国イランで革命が起き、親米独裁王制を布いていたパーレビー朝のシャーが追放されていた。イラクでは、イランと同じシーア派のイスラム教徒が多数派を占めている。ペルシャ人とアラブ人、民族こそ違うものの、イラン革命のイラク波及を恐れたサダム・フセインは、イラン革命政権との対立を強めていく。一九八〇年九月二二日、サウジアラビアやクウェート、フランス、ソ連の後押しを受けたサダム・フセインは、テヘラン等主要都市の空爆とイラン南部への侵攻を開始する。イラン−イラク戦争の始まりである。イスラム革命の輸出予防と、イランの混乱に乗じた国境線の変更を意図した攻撃であった。
一方、イランのイスラム革命が湾岸のアラブ諸国に影響することを恐れると同時に、中東地域にイランの変わりとなる新たな足がかりを求める米国も、サダム・フセインとの関係を深めていき、一九八〇年半ばまでには、全面的なイラク支援を行うまでになっていた。
一九八八年八月、イランとイラクの間に停戦が成立する。この戦争での死者は約五〇万人、そのうち四分の三がイラン人で、四分の一がイラク人と言われている。イラン−イラク戦争を通して、イラクは、戦争支出のために人々の生活が圧迫された一方、欧米各国から大きな軍事支援と資金を得て国内の軍事産業も発達し、大規模な兵力を抱える地域の軍事大国になった。
一九八八年三月一六日、イラクが、自国領内北部のハラブジャで、毒ガス兵器により約五〇〇〇人のクルド人を殺害した事件は、広く知られている。この事件が示しているように、イラクは化学兵器・生物兵器を有するに至った。そして、このイラクの化学兵器製造には、イギリス、西ドイツ、インド、ベルギー、イタリア等の企業が関わっていたことが、わかってきた。さらに、一九九〇年代には、米国もイラクの大量破壊兵器開発に関係していたことが暴露されている。
サダム・フセインと米国政府の蜜月関係は、イラクがクウェートを侵略するまで続いた。
湾岸戦争
一九九〇年八月二日、イラク軍は、隣国クウェートに侵攻した。
イラク側から見ると、クウェートとの紛争の起源はイラン−イラク戦争時にあった。イラクは、イラクがイランと戦争していたときに、クウェートがイラクの油田から二四億ドルもの石油を盗み取ったとクウェートを非難していた。また、イラン−イラク戦争終了直後から、クウェートとアラブ首長国連邦が、OPEC(石油輸出国機構)の生産割当を超える石油生産を開始していた。イランとの戦争で多額な負債を抱えたイラクは、これによる石油価格下落の影響を直接受けていた。七月の後半、クウェートはこれらに関するイラクの主張を退けていた。
米国は、すぐさまクウェート侵略を非難し、イラクに対する集団行動について主要国の賛同を得て、イラクへの貿易を封鎖した。また、これを機に、製造凍結が予定されていたB−二ステルス爆撃機の製造も継続されることとなった。ソ連・東欧ブロックの崩壊で、巨大な軍事費の削減の圧力が市民や議会から強まっていた中、米国政府にとって、この危機は軍事支出増大のチャンスでもあった。ワシントン・ポスト紙は、この危機から「利益を得そうなのは、防衛産業の諸企業である」と書いている。
八月六日には、米国の主導により、国連安保理で議決第六六一号が採択された。イラクがクウェートから撤退するまで、医薬品以外のあらゆる輸出入を禁止するというものだった(その直後の議決第六六六号では、食料も例外としている)。
米国は、この間に、米軍をペルシャ湾に送ってサウジアラビアに駐留させていた(イラク攻撃が開始された一九九一年一月半ばまでには、派遣された米軍の兵力は五〇万人規模となっていた)。そのこともあり、米国は武力行使を急いだ。経済制裁が発効してから四カ月に満たず、それが功を奏するかどうかの結果が見ようもない一九九〇年の一一月二九日、国連安保理は、一九九一年一月一五日までにイラクがクウェートから撤退しなければ、「必要なあらゆる手段」を採ると述べた、安保理決議第六七八号を採択した。
一九九一年一月一七日、米軍は、「砂漠の嵐」作戦で、イラクの空爆を開始する。米軍は、この日から約四二日間、爆撃を続け、約七万七〇〇〇トンの爆弾を投下。また、イラクとクウェートそしてサウジアラビアに、推定五〇〇トンの劣化ウラン弾を投下したと推定されている。二月一三日には、バグダッドのアメリヤ・シェルターでは、米軍のミサイル攻撃により、ここに避難していた一般市民一五〇〇人が、一瞬のうちに殺された[その後の調査で、死者の数は約四〇〇人とされている]。
二月二六日、イラクは撤退の開始を発表し、翌日には安保理決議の受諾を伝える。米国は、「ターキー・ショット」作戦で、クウェートからの退却路を空爆。これにより、避難民も含む数千人が殺された。翌日、ジョージ・ブッシュ大統領(一世)は軍事作戦の停止を宣言する。しかしながら、停戦後も、米軍は、イラク兵士数千人を殺害した。
四月三日、国連安保理は、湾岸戦争を停戦する決議第六八七号を採択し、六日、イラクは国連停戦決議を正式に受諾する。
膨大なイラク人犠牲者を出した湾岸戦争は、これで終結した。終戦後の調査で、国連査察団は、「連合軍」の攻撃がイラクにほとんど壊滅的な影響を与え、戦争前まではかなり都市化され機械化された社会であったイラクは、産業革命前の状態に引き戻されたと発表した。
経済封鎖
我々米国のほうが、サダム・フセインよりも、イラクの人々を気に掛けている。これについては、誰と賭てもよい(マドレーヌ・オルブライト米国国務長官[当時]、一九九八年二月一八日)。
湾岸戦争終結後も、イラクに対する前例のない経済封鎖は続けられた。国連安保理決議六八七号は、イラクへの経済封鎖解除条件を二つ含んでいるが、米英は、その解釈をねじ曲げて経済封鎖を継続してきた。食料や医薬品も、経済封鎖を検討する委員会の恣意的な判断で「待機」扱いとされ、イラクでは生活必需品に困窮する状況が続いた。これは、とりわけ子供を中心に、イラクで人道的破滅を引き起こした。
すでに一九九一年三月二〇日の時点で、国連の報告は、湾岸戦争がイラクに「破滅的な帰結」をもたらしており、「破滅が差し迫っている」と述べていた。一九九七年五月に発表された、ユニセフと世界食糧計画の共同調査の結果は、イラク中部・南部で、一九九一年の湾岸戦争直後には九・二パーセントだった五歳未満の子供の栄養失調率が、二五パーセントに増大したと発表している。七五万人である。
また、一九九九年のユニセフ報告では、一九九〇年まで下降を続け、一〇〇〇人当たり五〇人にまで減少していた五歳未満の死亡率が、一九九一年に跳ね上がり、それ以来、ずっと一二〇人前後であるとのデータを示している。表は、五歳未満と五一歳以上のイラク人について、一九八九年九月と二〇〇一年九月の死者数を対比したものである。
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死因 1989年9月 2001年9月
5歳未満
下痢 123人 2932人
肺炎 96人 1594人
栄養失調 67人 2354人
51歳以上
下痢 106人 638人
肺炎 73人 557人
栄養失調 260人 1701人
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出典:Simons, G. (2002) Targeting Iraq. London: Saqi.
食料や医薬品の欠乏に加え、経済封鎖のもとで、イラクは、湾岸戦争で汚染された戦場の汚染除去に必要な設備も専門知識も手にすることができなかった。とりわけ、劣化ウランは、イラク人に健康に深刻な影響を与えた。
バスラにある病院の癌専門医、アル=アリ博士は、二〇〇二年、次のように語っている:
湾岸戦争の前、癌で死亡する患者は月に三、四人でした」と彼は語った。「今では、私の部局だけで、毎月三〇人から三五人の患者が死んでいきます。癌による死者が一二倍に増えているのです。私たちの調査では、この地域では、住民の四〇パーセントから四八パーセントが、向こう五年のうちに、癌になるでしょう。こうした状況は、その後も長く続くでしょう。人口の半分近くが、癌になるのです。
経済封鎖に抗議して一九九八年に国連イラク人道調整官の職を辞任したデニス・ハリデーは、この経済封鎖について、次のように述べている:
私が実施を指示された政策は、ジェノサイドの定義に合致するようなものでした。ゆうに一〇〇万人を超す人々---子供も大人も---を実質的に殺害してきた、意図的な政策なのです。私たちはみな、経済封鎖の代償を払っているのがイラクの政権---サダム・フセイン---ではないことを知っています。逆に、彼の権力は強化されたのです。きれいな水がないために子供を失ったり両親を失ったりしているのは、普通の人々です。国連安保理が、現在、制御不能状態にあることは明らかです。安保理の行動は、国連憲章に反し、人権宣言に違反し、ジュネーブ条約を犯しているのです。歴史が、責任者たちを裁くでしょう。
湾岸戦争後、二〇〇三年のイラク侵略が開始されるまで、イラクの人々に、静かなジェノサイドが加えられていた。
侵略のレトリック
ジョージ・W・ブッシュは、二〇〇三年のイラク侵略を進める中で、正当化のために、いくつかのレトリックを使っている。大量破壊兵器、イラクのテロ支援、イラク「解放」と「民主主義」の実現が、その主なものである。
大量破壊兵器
イラクは大量破壊兵器を開発・保有しており米国を脅かしている、イラクは武器査察を妨害しており、査察は有効に機能していない、したがって、我々はイラクを攻撃する必要がある。大量破壊兵器をめぐる米国の主張は、このようなものである。
査察妨害については、イラクが一九九八年一〇月三一日、国連決議第六八七号で設置された国連武器査察団(UNSCOM)を追放したことが、妨害を典型的に示すものとされている(米英は、この直後の一二月一七日から、「砂漠のキツネ」作戦を開始し、湾岸戦争を上回る数の巡航ミサイルで、イラクの一〇〇カ所近くを攻撃している)。けれども、このときの査察団追放は、国連安保理での決議を、安保理議長国であった英国がねじ曲げてイラク側に伝えたことも一つの原因となっている。さらに、一一月一四日には、UNSCOMの査察団は、イラクに戻り活動を再開していた。
実際、査察が、イラク側の不協力に面しながらも、全体として有効に機能していることは、一九九九年三月三〇日付で査察評価にあたったセルソ・L・N・アモリムが国連安保理に提出した報告にも記されており、また、イラク大量破壊兵器の破壊に成功していたことについては、元査察官のスコット・リッターも明言している。さらに、二〇〇二年一一月二五日には、モハメド・エルバラダイ国際原子力機関(IAEA)代表も、査察を通じた平和的解決が可能と事態を評価している。
二〇〇三年二月五日、コリン・パウエル米国務長官は、国連安保理で、イラク大量破壊兵器の「証拠」として、化学兵器を納めたトラック、ニジェールからのウラニウム購入の記録、核物質製造のためのアルミニウム・チューブなどは、すべて、国連関係者や米国関係者によって、反駁されていた。たとえば、元駐イラク大使代理ジョセフ・ウィルソンは、二〇〇三年七月六日、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した記事で、自分はCIAとディック・チェイニーの依頼に従って二〇〇二年にウラニウムの件を調査すべくニジェールを訪れており、そこで、その主張には根拠がないことを確認している、と明言している。また、アルミニウム・チューブについては、IAEAのエルバラダイが、二〇〇三年一月、国連安保理で、「チューブは遠心分離には適していない」と発言している。
実際、サダム・フセインは国内の権力を強化し反対派を弾圧していたが、その軍事力は弱体化しており、クウェートやヨルダンのような周辺の小国にとってさえ、軍事的脅威とはなっていなかった。
二〇〇四年一月二三日には、デビッド・ケイ米国武器調査団団長が、「イラクに大量破壊兵器はなかった」と明言して辞任。二〇〇四年二月八日、ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は、イラクの大量破壊兵器保有の事実はなかったと認めた。
「対テロ戦争」
二〇〇一年九月一一日、複数の飛行機が米国ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンのペンタゴンに突入して以来、イラクがアルカイーダと結びついているという主張も侵略の正当化のために頻繁に持ち出された。そもそも、世俗的権力者であるサダム・フセインは、「イスラム原理主義」とは敵対関係にあった。
ブッシュ政権がイラクとアルカイーダの結びつきを示すものとして挙げた「証拠」は二つある。
一つは、二〇〇一年九月一一日の攻撃の実行犯の一人とされるモハメド・アタが、二〇〇一年の四月にプラハでイラク諜報と接触していたというものである。FBIは、二〇〇二年に、アタがイラク諜報と接触していたとされる時期には、米国バージニア州にいたことを確認しており、また、チェコ政府の調査も、アタとイラク諜報筋とのプラハでの接触は無根拠と発表している。
もう一つは、英国政府が二〇〇三年二月に発表した「調査報告」である。パウエル国務長官は、二〇〇三年三月、これを鳴り物入りで安保理に紹介した。この「調査報告」は、MI六の手になるものとして公表されたものであるが、実際にはブレア首相の側近グループが作成したものであった。しかも、この報告は、米国の大学に提出された博士論文から勝手に継ぎ接ぎし、都合の良いところの文言だけを変えたものであった。
イラク「解放」と「民主主義」
イラクでは、シーア派が多数派である。また、スンニ派アラブ人よりも、クルド人人口の方が多い。一人一票の選挙を行うと、シーア派が政権の座に就くことが、当然予想される。それは、クルド人の地位にも影響を与えることになる。シーア派政権が誕生すると、民族的には異なれ、同じシーア派のイランと接近する可能性がある。また、イラクにおけるクルド人の地位の変化は、トルコ、イラン、シリアのクルド人に影響を与える恐れがある。
こうしたことから、米国は、サダム・フセインに代わるスンニ派アラブ人の指導者を求めていたと言われる。すなわち、フセイン政権と独裁的支配を行いながら、米国の言うことはよく聞く指導者である。実際、一九九一年七月七日、ニューヨーク・タイムズ紙の主任外交担当トマス・フリードマンは、同紙で、「世界で最上のもの」、すなわち「サダム抜きのイラク鉄拳軍政」を実現する軍事クーデターがイラクで起こるまで、経済制裁を続けなくてはならないと述べている。こうした政権により、昔、サダム・フセインの「鉄の拳」がイラクを支配し、「米国の同盟国であるトルコとサウジアラビアが満足していた」時代が、サダム抜きで戻ってくるまで、と。
実際、一九九一年三月、湾岸戦争の際に起きたクルド人とシーア派の蜂起をサダム・フセインが弾圧していたとき、何一つ手を動かさなかった。フセイン政権崩壊後、イランの影響を受けた政権ができたり、クルド人をめぐる問題が表面化するよりは、サダム・フセインによるイラク独裁体制を選んだのである。
二〇〇三年三月のイラク侵略が、イラク「解放」と「民主主義」の実現などではあり得なかったことは、侵略の当初から、イラク人の意見など、子飼いの傀儡イラク人に言わせた都合の良い発言を除けば、何一つ考慮してこなかったことからもわかる。占領下イラクで日々続いている、米軍による弾圧や民間人の虐殺、暫定統治当局による新聞の発行禁止なども、イラク侵略が「解放」・「民主主義」とはまったく逆の状況を引き起こしていることを示している。
あるいは、国民の大多数の反対を受けて侵略に荷担しなかったドイツやフランスを、民主主義の機能不全であるかのように批判したことから、米国が使う「民主主義」は特別な意味を持っているのかも知れないと考えることもできる。これについて、クリントン政権下の米国国務長官マドレーヌ・オルブライトの興味深い発言を紹介しておこう。
こうしたことは見過ごせない。一九九九年にこうした野蛮な民族浄化が行われることを見過ごすことはできない。このような邪悪に対して民主主義が立ち上がる必要がある」〔一九九九年二月一日、ミロシェビッチによるコソボでの人権弾圧をめぐって〕。
〔イラクで五〇万人の子供たちが死亡したという代償は払うに値するものなのかと問われて〕「これはとても難しい選択だったが、代償は・・・・・・、われわれは、代償は払うに値したと思う」(一九九六年五月二日)。
我々米国のほうが、サダム・フセインよりも、イラクの人々を気に掛けている。これについては、誰と賭てもよい(マドレーヌ・オルブライト米国国務長官[当時]、一九九八年二月一八日)。
「イラクの人々を気に掛ける」「民主主義」のためには、イラクの人々の見解などには耳も貸さずに五〇万人の子供の命を犠牲としても十分報われる、ということらしい。
侵略と占領
仏独中露などの諸国そして査察団が国連の場で査察の継続を求め、世界中で大規模な反戦運動が高まる中、三月二〇日(イラク時間)、イラク侵略を開始した。四月九日、米軍はバグダッドを占領、サダム・フセイン政権の崩壊を発表。五月二日、ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は「戦闘終結宣言」を出す。
五月二二日、国連安保理は、米・英・西が提案した決議第一四八三号を採択し、対イラク経済制裁解除を決定し、また、米軍主導のイラク行政を実質的に認めることとなった。六月には米英による暫定行政当局(CPA)がイラクの「行政」を一本化し、七月、そのもとで暫定政権「イラク統治評議会」が発足する。八月、国連安保理は「イラク統治評議会」の発足を支持し、決議第一五〇〇号を採択してイラク支援派遣団の創設を決めた。
こうして、イラクは「解放」された・・・・・・
非通常兵器
米英は、イラクでいくつかの非通常兵器を用いてた。クラスター爆弾やクラスター弾、ナパーム、バンカーバスター爆弾、デイジーカッター、劣化ウラン弾などである。いくつか、例を挙げよう。
クラスター爆弾:二〇〇三年四月上旬、バビロン郊外の住宅地アルヒラに米軍がクラスター爆弾を投下。少なくとも三三名の民間人が殺され、三〇〇名が負傷。散裂した小爆弾が広範囲に残されることになった。
クラスター弾:二〇〇三年三月末、英国は、バスラでクラスター弾を発射したと発表。イスラエル製の砲弾で、一発の中に四九個の小爆弾を含むもの。
ナパーム:二〇〇三年三月二二日、CNN及び豪シドニー・モーニング・ヘラルド紙の記者たちが、バスラ近くで米軍がナパームを投下していると報道している。米軍はこれを否定。
バンカーバスター爆弾:二〇〇三年三月二八日、バグダッドに、強力な貫通型爆弾バンカーバスターが投下された。
デイジーカッター:バグダッド南東のクト村で、デイジーカッターによる爆撃と思われる大きな爆発音ときのこ雲が報じられている。
劣化ウラン弾:三月二八日、米軍戦車隊が、キフル都市部で劣化ウラン弾を使用。湾岸戦争の際と同様、米軍は広い範囲で劣化ウラン弾を用いた。サマワ周辺でも劣化ウラン弾が使用されたことが、日本の独立系ジャーナリストにより確認されている。
犠牲者
二〇〇三年一月、国連人道問題調整局は、イラクで紛争が起きるならば「五歳未満の子供の三〇パーセント〔一三〇万人〕が栄養失調で死亡する恐れがある」と報じていた。ユニセフの報道官は、同年四月七日、「紛争が続く一日一日、人道の時計が刻々と進んでいる。これは〔・・・・・・〕イラクの子供たちの命に関わる問題である」と述べている。
米英のイラク侵略は、ブッシュによる「戦闘終結宣言」前もその後も、多くのイラク人犠牲者を生みだしてきた[以下は主として「爆弾はいらない 子供たちに明日を」の年表から]。
二〇〇三年三月二八日:米軍はバグダッドの住宅街や市場を巡航ミサイルで攻撃。多数の民間人死者を出した。アルジャジーラは、一般市民を狙ったものであると、これを批判している。
四月一五日:モスルで米兵がイラク人の群衆に発砲し、一三人が死亡。
六月一三日:米軍がバラトでイラク人二七人を殺害。北西部の「テロリスト養成キャンプ」で七〇人を殺害。
六月二八日:ユニセフがイラクを調査、バグダッドで五歳未満の個ともの約八パーセントが深刻な栄養不良と発表。
八月八日:ティクリートで米軍が発砲し、子供一人を含むイラク市民六人を殺害。翌九日、バグダッド北部の検問所で米軍が発砲し、子供三人を含むイラク市民五人を殺害。
一一月二九日:サマラで攻撃を受けた米軍が無差別反撃。武装レジスタンス四六人と民間人八人を殺害、六〇人以上が負傷。
一二月二一日:「スンニ三角地帯」を米軍が急襲、イラク人女性三人が死傷、数百人を拘束。
イラク・ボディ・カウントは、二〇〇四年四月二〇日現在、イラク民間人犠牲者は八八七五人から一〇七二五人と発表している。この数は、日々、増え続けている。
法的観点から
ごく一部の「御用法学者」を除けば、世界中の法学者たちが、二〇〇三年三月に開始された米国によるイラク侵略は国際法違反であることについて意見が一致している。これは、国連憲章第二条四の、次のような規程に基づいている:
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
例外は、二つある。一つは、国連安保理の決定による軍事的強制措置の場合(国連憲章第四二条:ただし安保理決定自身が国連憲章の平和的紛争解決規程に違反することもある)、もう一つは、武力攻撃に対する個別的・集団的自衛権の行使の場合(第五一条)である。米英のイラク侵略は、安保理決議なしに行われたものであるから、法的には国連憲章第五一条の規程をめぐる解釈が問題となる。同条は、次のように述べている:
この憲章のいかなる規程も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。〔・・・・・・〕
この条項は、ジョージ・W・ブッシュが声高に叫ぶ「専制的自衛」・「予防攻撃」を正当化するものではまったくない。法的には、条約をめぐる様々な側面を規定した条約法条約第三一条一で「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする」とされている通りであり、「武力攻撃が発生した場合」を「我々米国が武力攻撃が将来発生しうると判断すると宣伝した場合」に読み替えることは、不可能である。
また、国連の意向を無視して侵略をごり押ししたことは、国連のもとでの集団的安全保障体制に反し、査察が効果を発揮していたことは、仮にイラクが他国への攻撃行為を行なっていたとしても、武力行使の有効な代替が存在したことを示しているため、武力行使が絶対必要であるという要件を満たさない。さらに、実際には大量破壊兵器はなかったが、仮に大量破壊兵器があったとしても、米英による侵略の際、イラクがそれを用いなかったことは、米英の武力行使が緊急のものでなかったことを示している。
大量破壊兵器の有無にかかわらず、また、イラクが他国を攻撃していたか、する意図があったかの有無にかかわらず、米英のイラク攻撃は、文字通り不法な侵略行為である。
なお、米英がイラク侵略の口実に参照した国連決議をめぐっては、こちらをご覧下さい。
占領下での米英の政策もまた、国際法を犯している。ジュネーブ条約第四条約の第五五条及び第一議定書第六九条に従えば、占領国である米英は、イラクの人々の人道的な必要をまかなう義務を負っている。それには、食料や医薬品、水、シェルターなどが含まれる。ファルージャの虐殺は言うに及ばず、イラク各地で、占領軍は、ジュネーブ条約をまったく遵守していない。
米国の女優スーザン・サランドンは、イラク侵略が始まる前、それに反対して、次のように言っている。
アメリカの若者たちが遺体袋に入れられて帰ってくる前に、イラクで女性や子供たちが命を落とす前に、知っておきたいことがあります。イラクは私たちに何をしたでしょうか。
何も、しはしなかった。何かしたのは、アメリカ合州国の側である。