イラク侵略から6年 ファルージャ虐殺から5年
益岡賢
2009年3月22日

2009年3月20日。米国が国際法に違反し、世界中の人々の反対を無視してイラクに侵略してから6年。夕方6時のNHKニュースは、米軍撤退へ向けた「イラク治安部隊」への「治安の移譲」状況を報じていた。米軍撤退後、イラク治安部隊は治安を担えるのかという問いを立てて、自らの知的崩壊を如実に示しつつ。

「俺がいないとお前はダメなんだ、お前には俺が必要だ」と、金もあって力も強いストーカーが言い、相手を拉致拘束して虐待を始める。ついでに相手の財産も略奪して。

このストーカー氏のために「やはりそうですよね、ストーカーさんがいないとあの人はやってられないでございますよね」とゴマをスリつつコンビニに買い出しに行ったりするトリマキ氏がいる。たとえばニッポンの小泉純一郎氏とその取り巻きと多くの大手メディア。

で、ストーカー氏が略奪も済んだしわずらわしくなってきたから拘束を手抜きしようかなと考え始めたときに漏らした言葉が「俺がいなくてお前がやっていけるかどうか心配だ」。トリマキ氏はすかさず「そうですよね、やはりストーカー氏がいなくなるとあの人がどうなるかわかりませんよね、心配です」。

いや、何はなくともストーカー氏による拉致拘束と虐待がなくなるはずだし、食べ物をストーカー氏に提供されていたのは拉致拘束されてたからだし、その金も実は(少なくとも一部は)もともと自分のものを略奪されたわけだし。

いない方がはるかにいいんですが。法的にはストーカー氏に賠償責任があるんですが。それでも殺された人と破壊されたものは戻ってこないんですが。

ところでさすがは不偏不党のNHK(BSでは優れた番組が色々あるようですが)。パシリ氏の役割を忠実に買って出て、まさにすかさず「米軍撤退後、イラク治安部隊は治安を担えるのか?」

でも、トリマキ氏、ストーカー氏が拷問や虐待や虐殺を行っているあいだを通して、イラクの人々が置かれた状況にほとんど関心を払ってこなかったのに、どうして今になって突然、イラクの「治安」に思いを馳せるの?

ちなみに、イラク人を対象にこれまで行われてきた世論調査では常に70〜80パーセントのイラク人が占領の即時終了と米軍の即時撤退を求めて来た。また、イラクではサダム・フセインの独裁政権と過酷な外部からの「経済制裁」のもとでも、何とか社会生活を営んできた。

植民地主義の歴史を見ると、こうしたストーカー行為とストーカーの語りは蔓延・跋扈している。「俺がいないとお前は文明化できない」とか、「俺たちがお前を解放してやる」とか。

侵略から6年。大人になると6年はあっという間に過ぎる。けれども6年と言えば、日本の学校制で言うと侵略時に小学校1年生だった子どもは中学1年生になる、そのくらい長い時間。この時間をずっと、イラクの人々は不法占領下で暮らしてきた。

6年前、侵略時のことを少し振り返ってみる。


侵略のレトリック

1. 大量破壊兵器

イラクは大量破壊兵器を開発・保有しており米国を脅かしている、イラクは武器査察を妨害しており、査察は有効に機能していない、したがって、我々はイラクを攻撃する必要がある。当時、大量破壊兵器をめぐって米国はこのように主張した。

はじめに原則論を確認しておこう。イラクが大量破壊兵器を持っていようがいまいが、米国のイラク侵略は犯罪である。

査察妨害については、イラクが1998年10月31日、国連決議第687号で設置された国連武器査察団(UNSCOM)を追放したことが、妨害を典型的に示すものとされている(米英は、この直後の12月17日から、「砂漠のキツネ」作戦を開始し、湾岸戦争を上回る数の巡航ミサイルで、イラクの100カ所近くを攻撃している)。けれども、このときの査察団追放は、国連安保理での決議を、安保理議長国であった英国がねじ曲げてイラク側に伝えたことも一つの原因となっている。さらに、11月14日には、UNSCOMの査察団は、イラクに戻り活動を再開していた。

実際、査察が、イラク側の不協力に面しながらも、全体として有効に機能していることは、1999年3月30日付で査察評価にあたったセルソ・L・N・アモリムが国連安保理に提出した報告にも記されており、また、イラク大量破壊兵器の破壊に成功していたことについては、元査察官のスコット・リッターも明言している。さらに、2002年11月25日には、モハメド・エルバラダイ国際原子力機関(IAEA)代表も、査察を通じた平和的解決が可能と事態を評価している。

2003年2月5日、コリン・パウエル米国務長官は、国連安保理で、イラク大量破壊兵器の「証拠」として、化学兵器を納めたトラック、ニジェールからのウラニウム購入の記録、核物質製造のためのアルミニウム・チューブなどは、すべて、国連関係者や米国関係者によって、反駁されていた。たとえば、元駐イラク大使代理ジョセフ・ウィルソンは、2003年7月6日、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した記事で、自分はCIAとディック・チェイニーの依頼に従って2002年にウラニウムの件を調査すべくニジェールを訪れており、そこで、その主張には根拠がないことを確認している、と明言している。また、アルミニウム・チューブについては、IAEAのエルバラダイが、2003年1月、国連安保理で、「チューブは遠心分離には適していない」と発言している。

実際、サダム・フセインは国内の権力を強化し反対派を弾圧していたが、その軍事力は弱体化しており、クウェートやヨルダンのような周辺の小国にとってさえ、軍事的脅威とはなっていなかった。

2004年1月23日には、デビッド・ケイ米国武器調査団団長が、「イラクに大量破壊兵器はなかった」と明言して辞任。2004年2月8日、ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は、イラクの大量破壊兵器保有の事実はなかったことを認めた。

小泉純一郎元首相は「サダムが見つかっていないからといってサダムがいないわけではない。大量破壊兵器が見つかっていないからといって大量破壊兵器がないとは言えない」と妄言を語り、妄言家らしい自己陶酔に浸っていた。

2. 「対テロ戦争」

2001年9月11日、複数の飛行機が米国ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンのペンタゴンに突入して以来、イラクがアルカイーダと結びついているという主張も侵略の正当化のために頻繁に持ち出された。そもそも、世俗的権力者であるサダム・フセインは、「イスラム原理主義」とは敵対関係にあった。

ブッシュ政権がイラクとアルカイーダの結びつきを示すものとして挙げた「証拠」は二つある。

一つは、2001年9月11日の攻撃の実行犯の一人とされるモハメド・アタが、2001年4月にプラハでイラク諜報と接触していたというもの。FBIは、2002年、アタがイラク諜報と接触していたとされる時期には、米国バージニア州にいたことを確認しており、また、チェコ政府の調査も、アタとイラク諜報筋とのプラハでの接触は無根拠と発表している。

もう一つは、英国政府が2003年2月に発表した「調査報告」である。パウエル国務長官は、2003年3月、これを鳴り物入りで安保理に紹介した。この「調査報告」は、MI6の手になるものとして公表されたものであるが、実際にはブレア首相の側近グループが作成したものであった。しかも、この報告は、米国の大学に提出された博士論文から勝手に継ぎ接ぎし、都合の良いところの文言だけを変えたものであった。

3. イラク「解放」と「民主主義」

イラクでは、シーア派が多数派である。また、スンニ派アラブ人よりも、クルド人人口の方が多い。一人一票の選挙を行うと、シーア派が政権の座に就くことが、当然予想される。それは、クルド人の地位にも影響を与えることになる。シーア派政権が誕生すると、民族的には異なれ、同じシーア派のイランと接近する可能性がある。また、イラクにおけるクルド人の地位の変化は、トルコ、イラン、シリアのクルド人に影響を与える恐れがある。

こうしたことから、米国は、サダム・フセインに代わるスンニ派アラブ人の指導者を求めていたと言われる。すなわち、フセイン政権と同様の独裁的支配を行いながら、米国の言うことはよく聞く指導者である。実際、1991年7月7日、ニューヨーク・タイムズ紙の主任外交担当トマス・フリードマンは、同紙で、「世界で最上のもの」、すなわち「サダム抜きのイラク鉄拳軍政」を実現する軍事クーデターがイラクで起こるまで、経済制裁を続けなくてはならないと述べている。こうした政権により、昔、サダム・フセインの「鉄の拳」がイラクを支配し、「米国の同盟国であるトルコとサウジアラビアが満足していた」時代が、サダム抜きで戻ってくるまで、と。

実際、1991年3月、湾岸戦争の際に起きたクルド人とシーア派の蜂起をサダム・フセインが弾圧していたとき、何一つ手を動かさなかった。フセイン政権崩壊後、イランの影響を受けた政権ができたり、クルド人をめぐる問題が表面化するよりは、サダム・フセインによるイラク独裁体制を選んだのである。

2003年3月のイラク侵略が、イラク「解放」と「民主主義」の実現などではあり得なかったことは、侵略の当初から、イラク人の意見など、子飼いの傀儡イラク人に言わせた都合の良い発言を除けば、何一つ考慮してこなかったことからもわかる。占領下イラクで日々続いている、米軍による弾圧や民間人の虐殺、暫定統治当局による新聞の発行禁止なども、イラク侵略が「解放」・「民主主義」とはまったく逆の状況を引き起こしていることを示している。

あるいは、国民の大多数の反対を受けて侵略に荷担しなかったドイツやフランスを、民主主義の機能不全であるかのように批判したことから、米国が使う「民主主義」は特別な意味を持っているのかも知れないと考えることもできる。これについて、クリントン政権下の米国国務長官マドレーヌ・オルブライトの興味深い発言を紹介しておこう。

こうしたことは見過ごせない。一九九九年にこうした野蛮な民族浄化が行われることを見過ごすことはできない。このような邪悪に対して民主主義が立ち上がる必要がある」〔1991年2月1日、ミロシェビッチによるコソボでの人権弾圧をめぐって〕。

〔イラクで50万人の子供たちが死亡したという代償は払うに値するものなのかと問われて〕「これはとても難しい選択だったが、代償は・・・・・・、われわれは、代償は払うに値したと思う」(1996年5月2日)。

我々米国のほうが、サダム・フセインよりも、イラクの人々を気に掛けている。これについては、誰と賭てもよい(マドレーヌ・オルブライト米国国務長官[当時]、1998年2月18日)。

「イラクの人々を気に掛ける」「民主主義」のために、イラクの人々の見解を完全に無視して50万人の子供の命を犠牲としても十分報われる、というのは何と典型的にストーカーの発言だろう。

法的観点から

ごく一部の「御用法学者」を除けば、世界中の法学者たちが、2003年3月に開始された米国によるイラク侵略は国際法違反であることについて意見が一致している。これは、国連憲章第2条4の、次のような規程に基づいている:

すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

例外は、二つある。一つは、国連安保理の決定による軍事的強制措置の場合(国連憲章第42条:ただし安保理決定自身が国連憲章の平和的紛争解決規程に違反することもある)、もう一つは、武力攻撃に対する個別的・集団的自衛権の行使の場合(第51条)である。米英のイラク侵略は、安保理決議なしに行われたものであるから、法的には国連憲章第51条の規程をめぐる解釈が問題となる。同条は、次のように述べている:

この憲章のいかなる規程も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。〔・・・・・・〕

この条項は、ジョージ・W・ブッシュが声高に叫ぶ「専制的自衛」「予防攻撃」を正当化するものではまったくない。法的には、条約をめぐる様々な側面を規定した条約法条約第31条1で「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする」とされている通りであり、「武力攻撃が発生した場合」を「我々米国が武力攻撃が将来発生しうると判断すると宣伝した場合」に読み替えることは、不可能である。

また、国連の意向を無視して侵略をごり押ししたことは、国連のもとでの集団的安全保障体制に反し、査察が効果を発揮していたことは、仮にイラクが他国への攻撃行為を行なっていたとしても、武力行使の有効な代替が存在したことを示しているため、武力行使が絶対必要であるという要件を満たさない。さらに、実際には大量破壊兵器はなかったが、仮に大量破壊兵器があったとしても、米英による侵略の際、イラクがそれを用いなかったことは、米英の武力行使が緊急のものでなかったことを示している。

大量破壊兵器の有無にかかわらず、また、イラクが他国を攻撃していたか、する意図があったかの有無にかかわらず、米英のイラク攻撃は、文字通り不法な侵略行為である。

なお、米英がイラク侵略の口実に参照した国連決議をめぐっては、こちらを参照。

占領下での米英の政策もまた、国際法を犯している。ジュネーブ条約第4条約の第55条及び第1議定書第69条に従えば、占領国である米英は、イラクの人々の人道的な必要をまかなう義務を負っている。それには、食料や医薬品、水、シェルターなどが含まれる。ファルージャの虐殺は言うに及ばず、イラク各地で、占領軍は、ジュネーブ条約をまったく遵守していない。

イラクの「治安」?

米国の女優スーザン・サランドンは、イラク侵略が始まる前、それに反対して、次のように言っている。

アメリカの若者たちが遺体袋に入れられて帰ってくる前に、イラクで女性や子供たちが命を落とす前に、知っておきたいことがあります。イラクは私たちに何をしたでしょうか。

何も、しはしなかった。何かしたのは、アメリカ合州国の側である。例えば、次のようなことを:

2003年3月28日。米軍はバグダッドの住宅街や市場を巡航ミサイルで攻撃。多数の民間人死者を出した。

2003年4月15日:モスルで米兵がイラク人の群衆に発砲し、13人が死亡。

2003年6月13日:米軍がバラトでイラク人27人を殺害。北西部の、米国曰く「テロリスト養成キャンプ」で70人を殺害。

2003年8月8日:ティクリートで米軍が発砲し、子供1人を含むイラク市民6人を殺害。翌9日、バグダッド北部の検問所で米軍が発砲し、子供3人を含むイラク市民5人を殺害。

2003年11月29日:サマラで攻撃を受けた米軍が無差別反撃。武装レジスタンス46人と民間人8人を殺害、60人以上が負傷。

2003年12月21日:「スンニ三角地帯」を米軍が急襲、イラク人女性3人が死傷、数百人を拘束。

2004年4月4日〜:米軍がファルージャを包囲攻撃。救急車への発砲、病院の占領などの戦争犯罪を犯しつつ、数百人の住民を殺害。

2004年4月末:米軍のアブグレイブ収容所でイラク人捕虜への拷問が発覚。

2004年11月:米軍がファルージャを再び包囲攻撃。数百人を殺害。

中略

2005年11月:ハディーサで米軍海兵隊がイラク人の家に侵入し、武器を持たない男女と子ども23人を至近距離から射殺。

中略

2009年1月22日:イラク北部モスル近くで米軍兵士が3人のイラク人兄弟を射殺。

2009年1月24日:キルクーク近くで米軍兵士が就寝中の男女2人を射殺、2人の間に寝ていた少女が負傷。

2009年2月7日:米軍コンヴォイからの発砲で、8歳のイラク人少女が死亡、市民数人が負傷。

6年間で、イラク人死者は数十万人から100万人、家を追われ国内外で難民となっている人々は400万人、寡婦や孤児は300万人から800万人と推定されている。

そうした中、日本の報道(西洋の大手メディアの多くもそうですが)が心配しているのは、不思議なことに「米軍撤退後、治安は大丈夫か」。

おぞましく、恐ろしい光景である。

イラク侵略から6年、ファルージャ虐殺から5年。これからしばらくの間、特に5年前のファルージャを中心に、過去のことも振り返ることにしよう。

益岡賢 2009年3月22日

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