ジョー・ワイルディング
原文
2004年4月20日
ファルージャへの二度目の旅と礼儀正しい誘拐者たち
第一装甲師団のトラットナー軍曹は苛立っていた。「戻るんだ。殺されてしまうぞ」。最初に言った言葉がこれだった。
リーが自分たちは報道陣だと言った。彼は軽蔑したように車を見た。「このゴミ屑みたいな車に乗ってか?」
そのほうが誘拐の標的にされにくいことをリーが説明した。突然、軍曹は、リーの顔を知っていると考えたようだ。ドイツに駐留していた彼は、BBCを見ている。いつもテレビでリーを見ていた。「クール! サインしてくれるかい?」
リーはサインを走り書きした。誰のことを言っているのかとまどいながら、同時に、私たちの前にいた車がすべて追い返された検問所を通り抜けるパスポートを手にしたことを喜びながら。トラットナー軍曹はしゃべり続けた。「ファルージャでは注意しな。俺たちは敵の奴らをどっさり殺してるんだ」。私たちが賞賛の目を向けなかったことに気付いた彼は、付け足した。「いや、奴らも俺たちを殺してるけど。俺はファルージャが好きだ。あのクソ野郎どもの連中を殺したんだ」。
トラットナー軍曹が風刺漫画に出てくるステレオタイプの登場人物だったらよかったのに。でも、これらの言葉はすべて、彼が実際に言ったことだった。私たちは焦げちゃうような暑さの中、ヒジャーブを手でいじっていた。「ここからは、そんなものを身につけている必要はない」と軍曹は言った。「ここから、解放されるんだから」。彼は笑った。私は、最近では女性への攻撃が増えているので、ますます多くの女性がヒジャーブを着ていると説明した。
赤新月旗をなびかせた救援車両の一団が検問所に近づいてきた。そろそろと、慎重に。「ああいうのを歓迎したくはないんだ」とトラットナー軍曹は説明する。話が出きる人に会って、口が軽くなっていたようだ。「ジーズ。英語をしゃべれる奴と会えてよかった。ああ、「ミスター」、「プリーズ」、「ホワイ」以外の英語を話せる奴ってことだ」。
「通訳は付けないの?」と誰かが彼に聞いた。
トラットナー軍曹は自分のライフルを援助車両団の先頭車両に向けて言った。「この通り、世界一の通訳を持っているさ」。
救急車一台だけが私たちと一緒に検問所を抜けた。残りの車両は追い返された。ファルージャに着いたとき、診療所とモスクには沢山の物資が届いていた---食料と水、医薬品---。裏道を通って持ち込まれたものだった。ファルージャの人々を助けようと、膨大な努力がつぎ込まれていた。けれども、病院は町の米軍制圧地域にあって、狙撃兵の銃により、診療所と遮断されていた。人々は、救援物資を病院に運び込むことも、病院から怪我人を運び出すこともできない状態だった。
私たちは、救急車に消毒薬と針、包帯、食料と水を積み込んで、出発した。この度は、拡声器を持っていった。道の角に救急車を止めて、車から降りた。病院は右手、かなり遠くだった。米軍海兵隊は左側に陣取っていた。紙でできたブルーのスモックを着た私たちの4人が、両手を上に上げたまま前へ進み出て、自分たちは救援チームであり、病院に物資を運んでいるところだと叫んだ。
返事がなかったので、私たちはゆっくりと病院へ向かって歩き出した。救急車も一緒に行く必要があった。手では運べないくらい物資が積まれていたから。そこで、私たちは、救急車を同行させると叫んだ。私たちが前を歩いて、救急車がそれについてくると。救急車が道に鼻先を出した。輝く新品で、米軍狙撃兵の銃撃で破壊された救急車の代わりとして持ち込まれたものだった。
発砲音が道を切り裂いた。二発の銃声、そしてヒューという音が気味悪いほど近くを通り過ぎた。救急車が、身を縮めたかのように、横道に引っ込み、私たちは角の家の庭に慌てて飛び込み、脇の戸口から出て、救急車の横に身を寄せた。
今度は、病院とは逆の、海兵隊の方に向かって歩いた。海兵隊員にきちんと話しをするために、拡声器を持って、私たちだけで、救急車なしで。ゆっくりと、ゆっくりと、足を運んだ。私たちは非武装の救援チームで、病院に物資を運ぼうとしているのだと叫びながら。
二発の銃声で、私たちは立ち止まった。私は、頭に来ていた。壁の後ろから、海兵隊員たちに、その行為はジュネーブ条約違反だと伝えた。「銃を持った者が医薬品の供給をさせなかったために治療を受けられないでいるのが、あなたの妹だったら、どんな気持になるか、考えてみて」。デービッドが私を後ろに引き戻した。私が、海兵隊が引き金にかけた指を引かせるような罵りを叫ぶところだったから。
病院に物資を運び込むことが一番緊急だったので、私たちは貴重な昼の時間を、事態を解決する権限を持つ相手を捜して費やした。暗くなってきたとき、私は依然として頭に来ていて、病院には消毒薬がないままだった。戻って診療所の後ろの家に入った。死の臭いで息がつまった。乾いた血と腐りかけた肉の臭いが、数日前の記憶を呼び起こした。腐りつつある死体と、それに群がる蠅と一緒に、救急車の後ろに座っていたときのことを。
その夜、空襲が始まった。私たちは家の外に立って、爆発と炎を見ていた。理屈上は停戦ということになっているのかどうかさえ、誰も思い出せなかった。誰かがロケット弾の破片を持ってきた。金属とケーブルがごちゃごちゃになって、燃料缶が中に入っていた。診療所近くの歩道に、布を敷いて置かれたそれは、宇宙から来たエーリアンのようだった。誰もがそれを見て、避けて通っていった。
私たちのところに来て、状況を伝えてくれた人がいた:ムジャヒディーンがヘリ一機を撃墜して、敵の兵士15人を殺した。夕方の市街戦では、12人の米兵が殺された。米軍基地への攻撃で600人が殺されたが、どうやって、いつ、どこでかはわからない。何千人もの米兵の遺体が、さらに東へ行ったルトバ近くの砂漠に棄てられた、と。米国が、ごまかせる限り米軍の犠牲者を少なく報じることは確実だと私は思っているが、この度は犠牲者を過剰に報じていると思った。誰かが私に、この人物は「コミカル・アリ」---昔の情報相---のいとこだ、と囁いた。それは本当じゃないけれど、彼が誇張しているというのは確かだろう。
飛行機と爆発の不快な音が夜通し続いた。私たちの部屋の外にある庭からロケット砲を発射していると思いながら、まどろみから目覚めた。リズミカルな深い、震えるような連発音が続き、ロケット砲手を阻止するために空から爆弾が投下されることを予期して、恐怖が私の腹の中で広まっていった。じっとしたまま爆弾を待つことができず、外に出た。ロケット砲を発射している人は、少なくとも2、3町は離れていることがわかった。
騒音は、モスクの祈りの歌に宥められたかのように、静かになっていった。誰かが、これは発砲を止めるよう求める祈りだ、と言った。それが本当かどうかはわからないけれど、ミナレットから色々違う歌を耳にする度に、それが何を意味するのだろう、祈りを捧げる呼びかけか、武器を取ることの呼びかけか、他の名認可か、ただ町が眠りに戻れるよう歌っているだけなのか、思いをめぐらせていた。
朝、停戦交渉が再び始まった。あらゆることがモスクで行われるように、これも地元のモスクの一つが中心だった。8日間にわたって、米軍は35万人からなるファルージャの町を制圧しようとしてきたが、戦士たちは今でも路上で武装しており、結局、米軍は停戦の条件を交渉しようとしている。人々はこう言っている。
診療所に一人の遺体が運ばれてきた。足を負傷し、喉が切り裂かれていた。人々は、彼が怪我をして道に倒れていたところを、海兵隊員たちがやってきて、喉を切り裂いたのだ、と語っていた。ピックアップがスピードを出してやってきて、一人の男が運び出された。腕がほとんど無くなっていて、少し突き出ていた付け根から、血が流れ出ていた。彼は出血多量で死亡した。
フランス人ジャーナリスト二人が、モスクの保護を得て、町に入ることを許可された。ちょうど二人が取材できるように、遺体には頭から足まで包帯を巻かれ、後部ドアの無くなったバンに運び入れられて、二人の少年が運転して遺体を運んでいった。その一人、アオデは、最初のファルージャ行きで出会った双子の一人だった。それより前に少女が連れてこられた。ポルカ模様のスカーフで顔を覆い、黒い袖無しのカーディガンの下にピンクのTシャツを着て、ジーンズをはき、彼女の手袋をはめた手には、カラシニコフが輝いていた。
きれいな身なりで服も新品で、とてもかわいらしい、11歳の女の子だった。写真を撮ったあと、男たちの一人---多分父親だろうと私は思った---が、仕事は終わったと言わんばかりに彼女を連れ去った。彼女はポスター向けに使われただけだろうこと、戦闘に参加するのではないことを望む。そう信じている。先日出会った、戦闘に参加しているという子供と同じくらい若かった。あの子もまた、実際に戦闘に参加していなかったことを望んでいる。
待っている間、私たちはモスクの導師と話をした。彼は、病院は、合わせて1200人の怪我人が出たことを記録しており、戦闘の最初の5日間で、500人から600人の死者が出ていて、最初の3日間で、86人の子供が殺されたと語った。米軍が制圧する地域で、何人が負傷し、何人が殺されたかについてはまったくわからない。導師は、臨月の女性がミサイルで殺されたが、胎児は助かったと述べた。生まれながらにして、既に孤児となってしまった子供。
「ファルージャの人々は、平和を愛しています。けれども、米軍の攻撃で、米軍はここでまったく友人を失いました。旧イラク軍出身で訓練を受けた少数の士官と兵士がファルージャにいましたが、今では、誰もがレジスタンスに参加しています。男たちが全員戦っているわけではありません。家族とともにファルージャを立ち去った人々もいますし、診療所で働いたり物資を運んだり、交渉団に参加する人もいます。最後の最後まで戦う覚悟です。100年かかろうとも」。
公式の数字では、海兵隊が制圧しているのはファルージャの25パーセントだと彼は言う。「いくつかの小さな地域を米軍は制圧しています。北東の一部、南東の一部、町の入り口の一部を、狙撃兵と軽車両で制圧しているのです」。シーア派とスンニ派が新たに団結したことを彼は喜んでいる:「ファルージャはイラクで、イラクはファルージャです。私たちは、イラクのあらゆる所から、援助と連帯を受け取っています」。
停戦は午前9時に発効した。車を持っている人々は、モスクの向かいにある倉庫の物資を積み込み、町中に出かけていった。病院への道の封鎖を解くことは停戦条件の一つだったので、私たちはもう必要なくなった。また、色々なアジェンダが進められていることが感じられ、別の人々の政治や権力抗争といった中にからめ取られそうだったので、ファルージャを立ち去ることにした。
町のはずれにある分岐は、舗装された道が最後の家々の前を曲がっており、未舗装の道が砂漠へと続いていた。砂漠へ続く道は海兵隊が制圧しており、道を通ろうと交渉するために運転手が車を降りたとき、海兵隊は警告発砲をした。舗装された道のほうは、姿は見えないがムジャヒディーンの統制下であった。突然、車のまわりで銃撃戦が起きた。デービッドが頭を下げたまま運転席に移って、バックして車をそこから出した。進むことのできる道は、ムジャヒディーンの道筋だけだった。戦士の一人が座席に飛び込んできて、私たちに指示を出した。
「私たちは捕虜になったのかしら?」とビリーは言った。
そうじゃない、大丈夫だ、と私は言った。危険な道から逃れる術を支持しているだけだと確信していた。座席に座った男は、私たちに、どこの国から来たか尋ねた。ドナはオーストラリア人、ビリーは英国人だと答えた。
「アッラー・アクバール! アハラン・ワ・サハラン」。翻訳すると、大体、神は偉大なり、ようこそ、といった意味である。私以外はアラビア語を知らなかったが、趣旨ははっきりしていた。「彼は、世界で最も貴重な捕虜を二人手に入れたと言ったんじゃないかしら」とビリーは言った。
私たちは車を降りた。いずれにせよ、カフィエを頭に巻いた男がロケットランチャーを車に向けていたので、少し居心地が悪いところだった。彼らはジープを持ってきて、私はそれに乗り込んだ。運転手が爆弾を足の間においていたことに気付かざるを得なかった。アメリカ人に対するもので私たちに対するものじゃないことは分かっていたが、それでも、逃げ出す余地の無いことははっきりしていた。
けれども、自分が捕虜になったという事実を受け入れたのは、モスクに向かう道を戻ってある家の前で止まり、デービッドと他の男たちが持ち物を検査され、そして2、3人の戦士が自分のカフィエを脱いで男たちの手を背中で縛り上げてからのことだった。
どうやったら逃れられるだろう。自分は彼らに殺されるのだろうか。釈放のために要求を出すのだろうか。痛めつけられるだろうか。ナイフと銃とビデオカメラが現れるのを待った。自分に、大丈夫、大丈夫と言い聞かせた。家族のこと、私が誘拐されたことを母が知ることを考えた。しっかりしなければ、今はそれ以外、できることはないのだから。自分の命がもはや完全に自分の手の中にはなく、起きていることを統制できないという考えと格闘する。そして、隣に座っている最高の親友の方を向いて、彼女に、大好き、心の底から、と伝える。
それから、私は彼女とは別の車に乗せられた。同じ場所に連れて行かれることを望み、自分がどこに向かっているのか知ろうとし、目印を覚えようとした。徒労だった。本当を言うと、何もない日でも、私は方向感覚がまったくなく、右と左を覚えるのにも苦労しているくらいだ。いずれにせよ、道には戦士たちがいるばかりで、どこにも隠れようがなかった。
ドナとビリー、デービッドとアフラルと私は、別の家に連れてこられた。大きな部屋を取り囲む壁にクッションがおかれ、部屋の一角には、焼き物と装飾品を入れたキャビネットの横にベッドが置かれていた。茶色のカフィエをまとった背の高い威厳のある男が座って、ドナに質問を始めた。名前は、どこから来たか、仕事は何か、イラクで何をしているか、ファルージャに来たのはどうしてか。
彼は私たちを引き離すことに決め、他の人々が私とデービッドとビリーを隣の部屋に連れていった。そこは、痩せた体にはだぼだぼのジーンズとトレーナーとTシャツを身につけた護衛がいた。顔は覆われ、目だけを出していた。あまりよくはわからないが、10代後半ではないかと思った。少し神経質だったが、私たちが落ち着いていたので、彼も落ち着いた。しばらくして、私たちがお互いに話していてはいけないと考え、身振りで黙るよう指示した。
ビリーは調子がよくなかった。暑くて、具合が悪かった。頭を腕の上に載せて、クッションに横たわっていた。戦士が枕を持ってきて、丁寧に彼女の頭を枕の上に載せ、クッションの上にあったものをすべて取り去って、毛布を彼女にかけられるようにした。別の一人が綿のシーツを持ってきて、毛布を広げ、シーツを彼女の上にかけて、毛布を取り替えた。ムジャヒディーンは毛布で彼女の体を包んだ。
次に質問を受けるのは私の番だった。私は元気だった。彼に伝えることができるのは真実だけだ。彼は、同じことを知りたがった:どこに済み、イラクで何をしていて、ファルージャで何をしているのか。私は彼に、サーカスについて、救急車での旅について、狙撃兵が私たちを撃ってきたことについて話した。それから彼は、英国の人々がこの戦争についてどう考えているかと訊ねた。このところの人々の見解については知らなかった。私を捕虜にしておいても価値がないと彼が考えそうなことを計算しようとした。
人々が占領に反対しているならば、どうして政府は占領をし続けることができるのか、と彼は言った。純粋にそれに関心があったと同時に、皮肉がこもってもいた。偉大なる解放者は真に民主的であるはずだし、真に人々の意志により統治されているはずだ? 英国憲法に関するジョーの長たらしい大言壮語のかわりに、彼はビリーについて訊ねてきた。彼女がどう答えるか知っていたので、それは簡単だった。デービドのときには問題をごまかし、彼があまり深く聞いてこないことを願った。彼のことはよく知らない、と私は言った。自分もまたジャーナリストであると言いたいかどうか、わからなかったからである。私は彼に、デービッドとは会ったばかりだと言った。マーティネスという名前だと思う、と。
彼は私に謝意を表し、インタビューは終わった。次はデービッドの番だった。ドナとビリーと私はインタビューについて小声で話しをし、守衛の少年はそれを止めなかった。お茶を飲むかどうか聞かれた。暖かいクスクス笑いが台所から聞こえた。二人の若い男たちが、自分たちが顔を覆い、カラシニコフを振るう自分たちが女性の一団に紅茶を沸かしている場面を仲間がみるところを想像していたのかも知れない。
デービッドのインタビューは短かった。私が外のトイレから、逃げ道を注意して見ながら---といっても不可能なのは分かり切っていたが---戻ってくると、全員、大部屋に戻っていて、紅茶が出来ていた。ビリーのバッグが部屋に持ってこられ、中身のチェックを受けた。カメラとミニディスク・レコーダ。男はカメラの写真に全部目を通した。診療所外のミサイルとバグダッドの写真何枚か。そして、ミニディスクに録音されていた導師との会話を聞いた。
ドナのカメラにも同じようなミサイルの写真があった。他に、ストリート・キッドの写真が何枚か、アパートの回りの写真が何枚か。ビデオカメラのテープは、アル−ダウラの新しいユース・センターの開所式を撮ったもので、自分は子供たち向けのプロジェクトを進める組織の代表だという彼女の証言と合致していた。別のテープにはブームチュッカ・サーカスの上演が映っていた。私がピエロをやっているという証言を裏付けるものだった。
誰も、私のバッグとデービッドのバッグは持ってこなかった。それについては言わない方がいいと考えた。何か気に障るものが入っていると困るから。特に、彼らがパスポートに注意を払わないようにと思っていた。みんなのパスポートを見出すと困る。ビリーのパスポートには、イスラエルのスタンプが押されているから。彼女がパレスチナで働いていたときのスタンプだけれど、猜疑心を引き起こすようなことはないに越したことはない。
質問が終わったときアフラルはヒステリーに近い状態になっていた。彼女は、私たちを拘束している武装した男たちのことよりも、昨夜ずっといなかったことに家族がどう反応するかについての方を恐れていた。私たちは彼女を抱きかかえ、なだめ、できるだけ彼女を落ち着かせて、家族には私たちから、彼女のミスではないことを伝えると言った。問題は、ファルージャに来るためにバグダッドを出発したとき、彼女が家に戻るには遅すぎたので、一日拘束されたために、二晩家を空けることになってしまったことである。
私は、いいかどうかわからなかったけれど、小声で歌い始めた。他の人も、歌詞がわかるところでは一緒に歌い始めた。歌が終わったとき、アフラルはすすり泣きを止め、一言、「続けて」と言った。そこで私たちは、次から次へと歌い始めた。祈りの呼びかけが始まり、歌うのが失礼になるときまで。
アフラルはまた鳴き始めた。ドナが彼女を安心させようとした。「私は神をとても信頼しているの」と彼女は言った。
「そう。でも、あなたは私のママを知らないでしょう」とアフラルは声をあげて泣いた。
戦争の前、私たちが初めてファルージャに来る前まで、紛争下に置かれた状況でどんな反応をするかについて知るのは不可能だと感じていた。自分がそれに、この見通しのつかない状況にどう振舞うか、についても想像できなかった。顔を覆って武装した男たち、恐怖、不安に。彼らは繰り返し、恐れる必要はない、と私たちに言った。「我々はムスリムだ。あなたたちを傷つけたりはしない」。
直感的に、私は大丈夫、と思っていた。それでも心では、彼らは私たちを壁に並ばせて撃つのだろうか、ただ部屋の中で撃つのだろうか、一人ずつ外に出ろというのだろうかそれともみんな一緒に殺されるのだろうか、弾丸を節約するために喉を掻き切るのだろうか、撃たれたあとどのくらい苦しむのだろうか、一瞬で終わるのだろうか、それとも命を失ってからも金属の痛みが肉体を駆けめぐって響くのだろうか、などと考えていた。
そんな考えは必要のないものだったから、頭から追い出した。他の人たちも同じことを考えていることは確かだったから:母はこれをどう思うだろう? これから何が起きるだろう? どんな気持だろう? それを声に出して言うのはフェアじゃなかったので、結局、何もすることなしに座って、その思いに気をもむだけだった。我慢して、一緒にいること以外、この状況では何もできなかった。
だけど私は次のように自分に言い聞かせていた:今はことの成り行きを変えることは出来ない。もし彼らが私にライフルを突きつけるか喉にナイフを突きつけるかして、それが私の命の最後の瞬間で、何もできることがなくなっても、助けを請うたりたじろいだりはしないよう決意しよう。私がファルージャに来て、人々を助け出そうとし、病院に物資を持っていこうとしたことは、正しかったのだから。そうしようとして命を落とすのは、理想的じゃないかも知れないけど、OKなのだから。
彼らは私のバッグを運んできた。ハンカチを消す手品を見せた。守衛---このときは別の守衛だった---は感心していないようだった。黒魔術。ハラム、罪深い行為。アッラーへの侮辱。失敗。彼が見逃してくれるよう、トリックの仕掛けを彼に見せた。かわりに、彼の子供のために風船のキリンを作った。彼は子供たちを安全のためバグダッドに避難させていた。
「私の兄は殺され、兄の息子と姉の息子も殺された。別の兄はアブ・グライブの刑務所に入れられている。残っているのは私一人だ。想像できるか? そして今朝、私の親友が殺された。足を怪我して道に横たわっていたところを、アメリカ人が来て、喉を掻き切ったんだ」。
今朝、診療所に運び込まれた人物のことだ。クソ。どうして彼らは私たちを殺さないんだろう?
けれども、時間が過ぎ去って、私たちは生きて呼吸し続け、うたた寝したり話をしたりしていた。彼らは食べ物を持ってきて、量が少ないことわび、再び、私たちを傷つけないと約束した。暗くなってきたので、一部を砂袋で封鎖した窓の後ろで彼らはパラフィン・ランプに火を付けた。部屋はどんどん暑くなってきたので、彼らが私たちを外に連れだして車に乗せ再び出発したときはほっとした。事態の変化は、同時に、何かしら怖いことではあったが。
新しい家はとても大きく、電気が通っていた。4人の女性は一つの部屋に案内され、デービッドは男たちと大部屋に残されることになった。彼にとってこれまでで最も恐ろしいことだった。他の4人と引き離されること。私たちは一日中つけていたヒジャーブをとった。男たちの一人がドアをノックし、床を向いたまま、私たちに、全てのチェックが終わったから、インシャー・アッラー、私たちを明日の朝バグダッドに連れて変えることになると言った。別のグループに誘拐されるかも知れないので、今解放するわけにはいかないと。
彼らは私たちに食事を運んできて、毛布を持ってきた。私たちは口実と言い訳を見つけて、大部屋にいってデービッドが大丈夫か確認し、オレンジを半分、チョコレートをひとかけ持っていった。私たちが彼のことを思っていると彼がわかるように。一緒にいて笑ったり歌ったり話をしたりできた私たち4人よりも、彼は無防備な立場にいた。これまでの出来事すべてが、もちろん確実ではないけれど、彼らは女性を痛めつけないだろうことを示していた。デービッドはそんなに安心できなかった。
その夜は、家の向こうのどこかで大規模で面倒な配管工事をしているような騒音に溢れていた。大規模なグラインディングの音のように間断なく続くリズミカルな一連の爆発音である。どうやら、これはクラスター爆弾の音らしい。ビリーと私は、夜通し手を繋いでいた。繋ぐ手があったから。朝になっても、胸の中に疑いのしこりは残っていた。朝の祈り---夜明け頃である---のあとで私たちをバグダッドに返すと言っていたが、すでに明るくなって随分時間がたっていた。もしかして、私たちが冷静に静かにしているように、釈放される予定だと言っただけかも知れない。
けれど、彼らは本当に私たちを釈放してくれた:地元のイマームの一人のところに私たちを連れていってくれた。彼は、自分が私たちを車でバグダッドに連れていく、と述べた。ファルージャの町はずれでは、車が列をなしていた。検問所から戻ってきている車もあった。通行人たちは、検問所に近づいたとき米軍兵士が発砲してきたと述べた。私たちは車から降りて、ヒジャーブをとり、例のわずらわしい手続きを再び始めた。拡声器を持ち、両手を上に上げ、自分たちは救急医療ボランティアの国際グループであり、ファルージャを立ち去ろうとしているところで、非武装だから、撃たないでくれと叫びながら、コンクリートとワイヤーの迷路を進んだ。
ようやく、兵士の姿が見える所まで来た。ようやく兵士たちは銃を降ろして、撃たないから手を下ろしてよいと私たちに言った。「あれあれ」と一人が言った。どうやら、自分のまちがいを認めるときときに使う米語のスラングらしい。「我々はこれ以上警告発砲はしない」。私たちは、兵士たちに、自分たちは2台の車で検問を通らなくてはならないと説明し、他の車についても通すよう求めた。兵士たちは、女性と子供、老人は検問所を通すことを認めた。問題は、女性のほとんどは運転しないので、夫たちが運転して彼女たちを連れていくことが許されないと、結局町を出ることはできないことであった。私たちは、「戦闘年齢」であっても家族と一緒だったら男性のドライバーが運転する車でも通すよう兵士たちを説得した。
ファルージャでは、女性と子供のほとんどが立ち去ったあとで、町が破壊されて全員が殺されるのではないかということを恐れていた。大規模な空爆により、あるいはサーモバリック爆弾[▲可燃性の燃料を大量に詰めこんだレーザー誘導爆弾で、爆発と同時に高温の炎が地下壕や洞窟の奥深くまで侵入し、通常より長いその燃焼効果によって内部を焼き尽して破壊するもの]か何かで。アフラルは、ファルージャを立ち去りたがっている男たちは、戦いたがっていない男たちなのだと説明を試みた。
「奴らをファルージャにとどめておきたいんだ」とその海兵隊員は言った。「イラク全土から戦士たちがファルージャにやってきている。だから、もっと簡単に奴らを殺せるように、奴ら全員をファルージャの中に閉じ込めておきたい」。
けれども、ここにいる男たちはファルージャから出たがっており、戦いを望まない住人なのだ。けれども、海兵隊にとって、それはどうでもよいことだった。我々は、海兵隊員たちから得られる譲歩はすべて引き出した。私たちは、心配そうに見ている難民たちに状況を告げ、他の人々のことについては、別のイマームにまかせることとした。我々の小さな隊列が進む道は静かだったが、それも次の検問所までだった。イマームはその地の人に話しかけ、アフラルに、アメリカ人が先にいると告げた。ヒジャーブを再びはずして、次のラウンドのために、車を降りた。
いやになるような暑い沈黙の中でわずかに音が聞こえたが、私たちの叫びに応答はなかった。少し先にある家からほこりが舞い上がっていて、戦闘の中に入り込んだのかと思ってしまった。海兵隊の戦列に近づくときは、英語で、できるだけ外国人だということが明らかにわかるように叫ぶことが、唯一の手である。けれども、どの戦列かがわからないときには、ちょっと危険だ。私たちの声が聞こえたら手を振るように叫び続けた。応答はなかった。
「ちょっとまった」とデービッドが言った。「奴らは海兵隊なのか?それともムジャか?」
シマッタ。どうか、ムジャヒディーンの中に迷い込んだのではないと誰か言ってくれ。私たちは躊躇した。車に戻って、かわりにイマームに来てもらう必要があるかも知れない。
「いや、大丈夫だと思う。奴らは海兵隊だ」。
「どっちかにして!ちゃんと教えて!」私たちよりもデービッドの方が多くの情報を持っているかのように、叫んだ。
私たちのところから見える男たちが身振りを示し始めた。大きく腕を振って、左側---私たちの方から見ると右側---を指さした。橋の方へ行け。それはサインで、私たちが求めていたものだったが、だからといって彼らが別の誘拐グループでないとは限らない。ようやく、一人が叫んだ。彼らはグリーン・ベレーだった。見慣れた海兵隊のようには見えなかったのは、そのためだった。ビリーと私は、車の方に戻って、こちらに来るよう合図を送った。誰も、私たちと車との間の苦痛な距離をもう一度歩きたいとは思わなかった。けれども、待てども待てども車は動かなかった。私たちが腕を振り、私がメガフォンで叫んでいるというのに。ようやく車が動き出し、私たちはあわてて橋の近くの多少は隠れることができる植え込みに走り込んだ。
「狂ったのか?」と兵士の一人が聞いてきた。
誰か分からない者たちに向かって歩く前と比べてかなり狂ったように感じていたことを白状なくてはならない。というのも、彼らの陣地から迫撃砲が爆音をたてて発射されていたから。その兵士は私に、心配する必要はない、外側に向けられたものだ、と言った。その言葉でいささか安心したのはむろんである。多くの点で、外へ向けられた迫撃砲は内へ向けられたものより好ましい。けれども、同時に、それはいささか招待状のようでもあった。至るところに、お返事下さいと書かれた、招待状。
そこを過ぎたあとで、もう一台の車が私たちから別れることとなった。デービッドは死地から連れ戻されたかのように運転手を抱擁し、それから私たちの車に乗り込んできた。まだアブ・グライブがあり、シュアラがあり、家にたどり着くまでに何があるかはわからない。シュアラの真ん中で、アフラルは止まって、道ばたの電話ボックスから母親に電話をしたがった。電話が長引き、車に詰め込まれた外国人がどうぞ気付いて下さいと言わんばかりに座っていたので、イマームさえ、パニック気味に見えてきた。疲れ切って神経がピリピリしかけてきた私たちは、彼女の背中を引きずって車に戻し、そこを立ち去った。
アパートの扉を開けて部屋の中に入って、ようやく、確かに家に帰ってきたと思えた。皆が、大声で同時に話しを始め、何が起きたか話し、シュールレアルな場面を思い出して笑い、抱擁しあって、下着に隠していたパスポートを取り出した。
「今は笑い話だけれど、でもあのときは・・・・・・」ビリーは言った。
ニュースでは、菜穂子と残りの日本人捕虜が解放されたこと、そして渡辺---サーカスがサマワに言ったときに私たちと一緒に来た写真家---が同行者と一緒に消えたことを伝えていた。ファルージャでは停戦が続いていると伝えていた。ハーブが近づいてきて、説教したけれど、私は聞き入れなかった。正しいことをしたと今でも考えている。
彼らは、戦争のただ中で奇妙に振舞っていた外国人だったので、私たちを拘束した。何をしていたか知り、釈放した。帰路、私たちは検問所を開くことができた。つまり、人々がファルージャから安全な場所へ逃れることができたのだ。たったこれだけのことしかしなかったとしても、それでもやる価値はあったと思う。そうはいっても、後になって落ち着いたときに、私は、ピエロたちと救急車のボランティアたちを世話してくれた自分の中のナマイキな天使たちに、小声でありがとう、と言ったのである。
日本国際ボランティアセンターがファルージャへの緊急支援を開始しています。イラクからの声バグダードバーニングも見て下さい。
ライフルを「世界一の通訳」とうそぶき、ファルージャに男たちがかたまれば殺しやすいと豪語し、「文化交流」を通してイラクを「解放」しイラクに「民主主義」をもたらそうと、ファルージャを閉鎖し、病院への橋を閉ざし、足を怪我した人の喉を掻き切ることで「復興人道支援」を進める米軍。無意味にファルージャに入り込んで、さらには一晩「テロリスト」の捕虜になり、米軍による「復興人道支援」と「イラク解放」活動の足を引っ張っている無責任な米英市民。そして、捕虜の荷物を捜査し、お茶を沸かして食事を提供するなどという許し難い行為をする「テロリスト」ムジャヒディーン。
「我々はイラクで人道復興支援をしてるんですよ。戦争をしているわけじゃない」。「イラクのサマワで復興支援にあたる自衛隊は・・・・・・」。「国際社会の一員として、イラクの復興に・・・・・・」。こう宣言する日本国の首相ならば、ここで紹介されている記事を、このように要約するかも知れません(しないかも知れないし、そもそも関心ないのだろうけれど)。
外務省のウェブページに、『イラクの大量破壊兵器 疑惑は解明されたのか?』(2003年2月)というpdf文書があります。これが、既に米国自身も誤りを認めた移動式生物兵器製造関連施設だの、IAEAが核分離には使えないと称したアルミ管を核兵器開発のために購入しただの、圧倒的な嘘と選択・省略による経緯のねじ曲げ甚だしい文書です。
こんなの作らせるために、私たちの税金で外務省職員の給料払っているなんて・・・・・・。これは、率直に言って、善悪以前に、単なる基本的な任務遂行能力の欠如のレベルのようにも思えます(むろん、悪意があるのかも知れないですが)。一方で、気骨のある天木氏を追い出す。外務省、心底、存在価値なし、という感じです。
22日発売予定の講談社『フライデー』に、ワイルディングさんの「ファルージャの目撃者より、どうか読んで下さい」(の一部)が掲載される予定です。たぶん。
ジョージ・W・ブッシュ米国大統領のホワイトハウスのFAX番号は、
+1-202-456-2461
東京の米国大使館政治部の電話番号は、
03-3224-5330です。