アンドレ・ボルチェクによるシャイフル・H・ショディク/M・イマム・アジズ(NGO「シャリカット」)とのインタビュー
2003年7月27日
ZNet原文
M・イマム・アジズ(プログラム・コーディネータ)とシャイフル・H・ショディク(プログラム・オフィサ)は、インドネシアのジョグジャカルタ市の「シャリカット」というNGOで働いているだけではない。彼らは、元独裁者スハルトと軍のトップ幹部たち、そしてシニカルで無関心なビジネス界がインドネシアに押しつけた恐ろしい記憶忘却からインドネシアを救う仕事を行なっていると考えている。
1965/1966年の「反共」虐殺で、50万人から100万人の人が殺された。何十万人もの女性が強姦された。財産に対する損害は計算できないほどである。この常軌を逸した残虐行為の標的にされたのは、中国系の男女子供たち、インドネシア共産党あるいは「赤の中国」と関係を持つと避難された人々、さらに、ただ単にスハルトとその取り巻きに反対した人々であった。隣人たちの貪欲と妬みの結果殺された人もいた。罪と恥の意識が、自らの過去を決して振り返ろうとはしてこなかったインドネシア国家に住み着いてきた。
スハルトが政権を奪取してから、共産党は禁止され、人々には「宗教を持たなくてはならない」ことが強制された。虐殺(米国を始めとする「自由で民主的な諸国」はこれを歓迎した)が公に議論されることはなかった。そして、インドネシアの学校教育で語られることも、決してなかった。
スハルト失脚後も、余り大きな変化はない。軍は手を触れてはならない組織のまま残り、アチェから西パプア、アンボンに至る各地でテロと恐怖を広めている。東チモールにおけるジェノサイドを巡って、インドネシア軍の兵士は、ただ一人としてまともに処罰されていない。現在まで---すなわち、ジョグジャカルタの勇敢な人々がNGO「シャリカット」を結成し、「和解と市民的・政治的権利の回復を通しインドネシア民主主義と平和を強化する」ことをモットーとして活動を始めたときまでは。
「シャリカット」は、過去を理解し、残虐行為の責任者を処罰し、犠牲者に対して少なくとも道徳的補償を行わない限り、進歩はあり得ないと考えている。(過去ラテンアメリカの独裁後社会で)「ニ・パルドン、ニ・オルビド」(「赦しもしない・忘れもしない」)と呼ばれていたものに相当するものである。
この最初のインタビューは、2003年7月19日、オーストラリアのメルボルン大学で行われた。
Q(ボルチェク):あなたたちがどのような活動をしているのか教えて下さい。普通の人々に、1965年/66年虐殺で何が起きたか説明しようとしていると理解していますが。
A(シャリカット):「シャリカット」は1965年の出来事に続いて起きた虐殺の真実を見つけだすためのネットワークを作ろうとしています。さらに、紛争に関与した関係者の和解プロセスを促そうとも。和解が私たちの大きな目標で、私たちの調査はすべて、和解という最終結果に結びつかなくてはなりません。
Q:スハルト政権の公式発表と真実との間にはどのような違いがあるのでしょうか。私たちは、少数派の中国系の人々が中国共産党と協力していたと聞いています。実際には何が起きたのでしょうか。
A:私たちの見解と政府の見解には大きな相違があります。私たちは、ジャワ島の18都市で綿密な調査を行いました。それぞれ、状況は異なりました。中央ジャワのいくつかの場所では、多くの中国人犠牲者がいました。その一部は共産党の党員でした。ジョグジャカルタでは、虐殺は純粋に軍が引き起こしたものです。地域ごとに、誰が犠牲者でなぜ暴力が起きたかは異なるのです。
Q:1965年、実際には何が起きたのでしょうか。
A:まず、1965年以前に、問題が大きく積み重なりました。経済的問題があり、政党間の緊張があり、経済生活に対して軍が深く利害を持っているという状況がありました。1965年は、これらの問題すべてが溜まって溢れた年でした。軍は、これらの出来事を理解するための決定的要因です。他の要因---政党間の対立とか市民社会の緊張---は軍がインドネシアの政治経済生活を統制しようとしていたという事実ほどは重要ではありませんでした。むろん、国際的な要因がありました。冷戦が重要な要因となっていました・・・・・・
Q:1965年/66年に100万人が死亡しました。ジャワ島だけでなく、バリのように比較的平和的な場所でも死者が出ました。これらすべてはどのように始まったのでしょうか?誰が、インドネシアでこうした恐るべき暴力を爆発させる最初のサインを送り、最初の命令を下したのでしょうか。
A:前に述べたように、インドネシアには多くの緊張がありました。政治的・経済的緊張です。けれども、きっかけがなければ、引き金が引かれなければ、爆発はなかったと思います。誰が引き金を引いたか?むろん、軍がやったのです。むろん、先ほども言ったように緊張はありましたが、緊張状態と大量殺戮の間には大きな違いがあります!
Q:軍はスハルトを支持していたのでしょうか。
A:むろんです。軍はスハルトを支持し、そしてことを起こしたのです。
Q:軍がどうしてそこまで強くなったのでしょうか?
A:というのも、軍はそのときまでに政治ゲームに参加していたからです。一部はスハルト側に、もう一部はスカルノ側に。9月にクーデターがありました。スハルトに近い軍人が率いた者でした。ですから、軍はあらゆるレベルで、ジャカルタでも地方でも、2つの側に分かれました。9月以降、スハルト側が軍でとても強力になりました。
Q:スカルノの軍司令系統よりも?
A:スカルノの軍司令系統よりもです。
Q:そしてスハルト派が殺戮を始めたのでしょうか。
A:そうです。私たちはそれを証明することができます。とてもはっきりしています。国のすべての地域でそれが起きたのです。
Q:けれども、どうやったのでしょうか?軍は自分たちの間で闘い始め、そして民間人に「参加して、我々の敵を殺せ」と言ったのでしょうか?
A:いくつかのシナリオがあります。第一は、秘密裡の軍の支援を得て民間人が殺害を開始したというものです。第二のシナリオは政府職員が始め、隠れて殺害を命令し支援したというものです。第三は軍が民間人を直接殺し始めたときです。
Q:国際的な要因とはどのようなものでしょうか?スハルト側が米国から強力な支援を得ていたようですが?
A:そうです。
Q:これについては、情報はありますか?
A:この点について詳しくは調べていません。というのも、私たちの目的は、インドネシアの人々の間に新たな記憶を創設することで、そして自らの歴史を整理し記憶をリフレッシュすることで、対立したグループ間の和解を促すことにあるからです。
Q:どれだけ困難でしょうか?バリのようなところでは、人々は過去の殺害の問題についての議論をはっきりと拒んでいますが。
A:バリの状況は違います。ジャワ社会ははるかにオープンです。ここの人々は過去についてはるかに話す意志を持っています。けれども、それも、それぞれのコミュニティの指導者に依存します。
Q:けれども、ジャカルタですら、高い教育を受けた人々の中には、1965/66年の出来事自体を余り知らない人がいます。・・・・・・スハルト時代に何が起きたのでしょうか?情報は入手できましたか?
A:むろん、学校のカリキュラムでも、メディアにも、本にも、情報は何もありませんでした。
Q:では、この出来事について、学校では何が教えられていたのでしょうか。
A:1965年に共産党がスカルノに対するクーデターを試み、スハルトが国家を救済した、そして共産党の党員の一部を殺害したことは、インドネシア政府を転覆しようとしていたのだから正当である、といったことです(笑い)
Q:死亡した人々の人数については述べているのですか?
A:いいえ。人数についても、その後何が起きたかについても何も。学校教育では説明はなく、虐殺についての言及もありません。
Q:実際にはどれだけ残虐だったのでしょうか?極めて短期間に起きたのですか?どれだけ酷く、そしてどのくらい続いたのでしょうか?
A:恐ろしいものでした。多くの要因があります。場合によっては神学すら。宗教は、社会の別のメンバーを殺すべくし向けたりします。虐殺は数ヶ月続きました。10月1日から12月まで、3カ月です。
Q:殺害だけだったのですか?略奪と泥棒、強姦があったのでしょうか?
A:それらすべてがありました。もちろん、殺害だけではありませんでした。
Q:誰がやったのですか?ムスリムとキリスト教徒のように宗教で分断されたのですか?
A:まだはっきりしていません。例えば、中国人の多くはキリスト教徒でした。けれども、中国人は自らの組織を有していました。政治的なものではなく、民族性を示すものでした。この組織は全面的にスカルノを支持していました。ですから、ここでは宗教的なものだけでなく、政治的その他の要因があったのです。
Q:犠牲者についてのデータは?犠牲者のどれだけがキリスト教徒でどれだけがムスリムで、中国人の比率はどれだけで、共産党の党員の比率はどれだけでしたか?
A:私たちはいくつかのデータを持っています。例えば、ジャワの犠牲者の大多数は共産党の党員やその友人・家族たちでした。二番目に大きな犠牲者グループは、中国系の少数はです。これが、ジャワのケースです。
Q:この虐殺に関与した者で、現在軍で重要な地位にある人物はいますか?
A:ほとんどは今や引退しています。けれども、軍の中で反共イデオロギーは今も生きています。
Q:共産党は・・・・・・今も禁止されているのですか?
A:そうです。
Q:現在、メガワティ政権のもとでも?
A:今でも、です。新たな選挙規約で、共産党員や共産党員関係者も投票権はあるとされましたが、選ばれることはできません。
Q:インドネシアで恐るべきことの一つは、誰もが宗教を持たなくてはならないということです。IDカードに書かれなくてはなりません。私たちのように無宗教の人はどうなりますか?
A:(笑)単にインドネシアでは暮らせないだけです。インドネシアで宗教を持たないことは厳密に禁じられています。
Q:それは反左派キャンペーンの一環だと思いますか?というのも、全員ではないにせよ多くが無宗教だからです。
A:そうかもしれません。とはいえ、インドネシアでは事情は違います。というのも、インドネシアで共産党員のほとんどはムスリムだったのです。けれども、ムスリムとして、宗教は個人的なプライベートなことです。共産党の党員でムスリムである人は、IDカードに「ムスリム」と書かれますが、政府はそれに加えて「ET」と書きます。元囚人、という意味です。
Q:宗教の促進はスハルト時代に広められたことですか?スカルノのインドネシア国家に対する考えはとても世俗的だったようですが?
A:そうです。スハルト政権は、いわゆる公式宗教を導入しました。5つの公式宗教があります。イスラム、カトリック、プロテスタント、ヒンズー、仏教です。インドネシアに住む人は誰もが、これらのうちの一つを自分のアイデンティティとして持たねばなりません。
Q:でも、どうして?何が理由でしょうか?
A:反共プロパガンダの一部であったことは確実です。そして人々をよりよく統制するためです。スハルト時代には、無宗教の人は共産主義者と同じで、逆もまた真でした。けれども、実際には全く違うのです。インドネシアでは、選択の余地があれば共産党に喜んで投票するムスリムが一杯います。共産主義者が、イスラムと同様、正義を求めていると考えているからです。
Q:理論的なイスラムと同じように。
A:むろん、そう、理論的なイスラムと同じように。ハッサン・ライドのように。彼はスマトラ出身のムスリム、良きムスリムですが、共産党に属しています。私たち「シャリカット」は彼の伝記を出版しました。タイトルは、「ムスリム共産主義者の闘い」というものです。
Q:虐殺の後、インドネシア社会はどれだけ病んでしまったのでしょうか?これらの殺害、そしてその後の自己欺瞞と嘘は人々に巨大な心理的影響を与えたと思うのですが。
A:例えば、私の隣人が元囚人だったとすると、私は彼を受け入れることが出来ません。家に招待することができません。自治会の役員に選出することもできません。彼が最初の被害者だとすると、子供たちや兄弟姉妹、妻も被害者となります。ですから、共産党の党員であると批判されるならば、私の家族全員とさらには友人たちまでトラブルに巻き込まれるのです。この例は、社会がいまだにどれだけ病んでいるかを示しているものです。
Q:今おっしゃったことは、ジャカルタでもインドネシア全土でもいまだに起きている事態なのでしょうか。
A:はい。今も、今に至るまで。
Q:インドネシアはラテンアメリカの多くの場所と似ているように思えます。革命の全面的な爆発とは言わないまでも、少なくとも大きな変化の準備ができているのではないでしょうか。そして、インドネシアの人々の大多数が日常を暮らしている非人間的な状況を考えると、共産党がとても人気となる可能性があります。
A:その通りです。
Q:共産党が合法的になろうとする、インドネシア政治で重要な役割を果たそうとする試みはないのでしょうか?実際に何らかの別の名前で存在しているのでしょうか?
A:いいえ。インドネシアには、ムスリムのものを含めて多くの革命的組織があります。共産主義者はこうした革命的組織に参加しています。スハルトが政権を握って以来、ムスリムのものも共産主義のものも、革命的勢力は禁止されました。多くの左派寄りのムスリム組織は非合法にされました。スハルト政権時代そしてその後でさえ、一見市民組織と見えるもののほとんどが、軍主導のものです。MUIのようなイスラム教組織でさえ、軍が率いているのです。
Q:今でもそれが続いているのですか?
A:そうです。とはいえ、スハルト時代と較べるとわずかにその傾向は弱まっていますが。
Q:メガワティは軍に対してほとんど何もできないように見えます。東チモール虐殺に関与した兵士の裁判は悪い冗談みたいです・・・・・・
A:その通りです。
Q:現在、軍はどのくらいの力を持っているのでしょうか?そして、その権力のエッセンスは何でしょうか?政治的なものですか、経済的なものですか?
A:経済も政治も含めた巣bてです。以前と同様です。「新秩序」(スハルト政権秩序)が始まって以来、軍は経済的な権力を集積するのに大成功しました。そして、現在でも極めて強力なのです。
Q:あなた達は何をするのでしょうか。状況をどうやって変えようとしているのですか?
A:人々を組織しようとしています。ムスリムも共産主義者も、進歩的な人も。インドネシアを支配している規則を、少しずつ変えていくためのイニシアチブを組織しようとしているのです。それは、市民的・政治的・経済的権利を広げるものです。けれども、まず最初に、私たちはムスリムと共産党員の会合をアレンジしています。社会政治的行動を組織化するためです。
Q:インドネシアには、共産主義者あるいは共産主義の考えに共感する人々はどのくらいいるのでしょうか?
A:難しいところです。共産主義指導者のほとんどは、虐殺の最初の数週間で殺されました。現在、第二の波が来ています。共産党の第二世代です。ハサン・ライドのような人々を含めた。党員のほとんどは、農民や労働者として、共産党に参加した普通の人々で、共産主義の思想で強く教育されているわけではありません。
Q:けれども、これから教育があり、共産党が禁止されていなければ、どのくらいの人が共産党に投票するでしょうか?
A:そうだとすると、800万人くらいでしょう。たぶん。
Q:シャリカットは現在、1965/66年の虐殺を一般の人々に知らせるために具体的にはどんなことをしているのですか?
A:本と自分たちの雑誌を出版し、フォーラムやフォーカス・グループ討論やワークショップを組織します。主にジャワで活動しています。多くの地域です。私たちはムスリムと共産党の党員を一緒の場所に連れてこようとしています。和解と、それからよりよい社会を目指すためです。政治的・宗教的指導者を訪問し、一軒一軒を回ります。人々に自身の歴史を話すのです。人々に、直接真実を話すのです。しばしばこれは「隠れてやる」仕事です。ご想像できるかと思いますが、これらのことについて話すのは、まだ許されていないからです。
Q:国際的な組織からの支援はありますか?
A:「アジア財団」からのパートナーがありますが、それは、民主主義と市民社会をどうやって強化するかを巡るものです。
Q:インドネシアで次に何が起きると思いますか?メガワティのもとで、汚職があり、正当の一部は合法化されておらず、インドネシア市民であるために宗教について嘘をつかなくてはなりません。社会問題はアジアでも最悪の一つです。将来についてどう見ますか?
A:その通りです。状況は余り変わっていません。危機は続くでしょう。社会・政治・経済的な改革のペースは遅すぎます---インドネシアを民主的にするには不十分です。私たちの政治的・経済的態度も問題のままです。そして今も、過去を無視しています。1965年に起きたことを認識しない限り、インドネシア社会に変化はあり得ません。
Q:では1965年の惨劇を認めることが、インドネシアでプラスの変化には必須だと考えるわけですか?
A:そうです。1965年の出来事は巨大な問題であり、きちんと扱って解決を付けなくてはなりません。そして、そのとき何が起きたのか理解しなくてはならないのです。1965年は、政治的、経済的、軍事的、社会的そしてその他の問題が堆積したものです。
Q:インドネシアは歴史の長い分厚い文化を持っています。けれども、過去数十年の間、考えることについて政府は何も促してきませんでした。インドネシアにはほとんど芸術がなく、娯楽がたくさんあります。哲学がなく(宗教と哲学を区別してのことですが)、ポップがあるだけです[日本やアメリカ合州国に文化や哲学や思考はあるのでしょうか。。。そもそも哲学や文化とは?]。ジャカルタは世界で最も消費主義的で悲しい場所の一つかも知れません---アメリカの第三級の地方のようです。これは、人々を中立化させるための洗脳過程の一部でしょうか?体制に挑戦することを阻止するための?
A:(ため息)そうですね。そう思います。あなたが述べたことは、我々の文化が直面している巨大な問題です。スハルト時代が始まってから、公式の哲学だけが許されてきました。それをみんなが楽しまなくてはなりませんでした。ですから、人々を知的にとても怠惰にさせてしまったのかもしれません。
Q:それは政府の計画したことだと思いますか?
A:はい。そうです。けれども、シャリカットはその面でも貢献しようとしています。私たちはチームで活動しており、多くの組織---合計約20---の上部組織のようなものです。そのうちいくつかは文化組織で、出版社も含まれます。
Q:人々の受容態度はどうですか?人々はあなたたちが訪問すると興味を持って1965年の出来事について話し始めますか?
A:人々は一般に受け入れてくれます。自分たちが犠牲者だったり家族に犠牲者がいる人々ではとりわけです。私たちはインドネシアの学者の参加も促そう年、フォーラムを組織して私たちの側の研究者がこれらの出来事について教えたり学んだりすることができるようにしています。活動を開始する前は、私たちの歴史において決定的に重要なこの出来事について、知識人の間にはどうやら関心がなかったようなのです。
Q:現在の政府の立場はどのようなものですか?メガワティは1965年の出来事にどんな立場をとっているのでしょうか?彼女と接触しようとしましたか?
A:試みたことはありません。彼女たちが新たな選挙規約を適用しようとしているのは明らかです。それは共産党員を除外する者で、元共産党員さえ除外します。この政府から大きな変化は期待できません。
Q:少なくとも過去に対して政府が変わろうとするとは考えないのですか?文部省に対してカリキュラムを変えるように指示するとか?
A:いいえ、全く何も現在まで変わっていません。そして、近い将来何かが変わることを示すようなものは何一つ目にしていません。
Q:犠牲者への補償はありますか?
A:もちろんありません。誰も補償は受けていません。犠牲者が民間人だけではないことを指摘すべきかも知れません。警察官や海軍にも犠牲者はいるのです。
Q:親スカルノ派の人々ですか?
A:そうです。これらの人々は組織して政府に補償を求めましたが、これらの人々でさえ成功していないのです。
この記事は1965年のインドネシアにおける大虐殺の記憶を掘り返そうとしているグループに関するもので、虐殺そのものについての情報はあまりありません。それについてはインドネシア・1965年をご覧下さい。しばしばインドネシアやコロンビアについて、市民社会(敢えてこの言葉を使いましょう)のダイナミズムと政府の立場とを区別していない記事や発言が様々な立場の人から見られます。例えば、東チモールを巡ってインドネシア政府と軍の人権侵害責任者処罰を求める運動に対して「インドネシア糾弾に血道を上げる」などといった反応があったり、東チモールの状況に共感してインドネシアを憎んだり(しかし「インドネシア」とは何でしょうか?)といったことです。
実際には、インドネシアでは過酷な状況の中、多くのNGOや学生組織が社会変革や人権を求めて活動しており、東チモール問題に関しても、インドネシア国内では秘密裡に強い連帯が存在していました。ここで紹介されているシャリカットも、インドネシアにおけるそうした様々なNGOの一つです。
現在、アチェでインドネシア軍は大規模な軍事作戦を展開し、民間人や自由アチェ運動のゲリラたちを多数殺していますが、人権活動家や労働活動家、社会活動家、政治的に進歩的な学生組織などが標的とされています。そして、こうした人々は、コロンビアやグアテマラ、エルサルバドル、チリ、アルゼンチンなどでも(そして旧東欧政権でも)標的とされてきました。なお、アチェの実際の状況については、なかなか情報が入ってきません。インドネシア民主化支援ネットワークを始めいくつかの団体・個人が共同で、「アチェ・緊急人道支援」を開始しましたので、そちらもご覧下さい。
『「シャリカット」は、過去を理解し、残虐行為の責任者を処罰し、犠牲者に対して少なくとも道徳的補償を行わない限り、進歩はあり得ないと考えている』。現在、過去を忘れ歪曲して自衛隊の不法な派遣を進めようとしている政府を持つ国の国籍を持つ人間としては、身につまされる言葉です。米軍がサダム・フセイン捜索のプロセスで民間人10人ほどを虐殺するという事件が起きました。過去の理性的な理解を拒否して心情的な美化を試みている日本政府は、自ら殺害を犯すような状況の中に自衛隊を送り込もうとしています。さらには、国連決議なしでも自衛隊を海外に派遣できる(完全な侵略行為に相当する状況です)恒久法の計画が進められていると言います(東京新聞・7月29日)。反対の声を挙げていくために、とりあえずのヒントとして、こちらもご覧下さい。