ベトナムからイラクへ

我々は、イラクを解放するために、イラクを破壊しなくてはならない:
イラクとベトナムの不気味な類似

エドワード・ハーマン
2003年4月30日
ZNet原文


米国のベトナム侵略とイラク侵略の間には、むろん、重要な違いがある。ベトナムでは、1954年から1965年まで、米国は、人々の間に深く根付いた共産主義の指導陣と運動を指示する大衆に対して、外から傀儡政権を輸入しようと試みていた。そして、米国がベトナムの全面侵略に突入したのは、こうした一連の介入の最終段階においてである。この侵略は、長年にわたる破壊の試みにもかかわらず、最終的に標的となったベトナムを征服することができなかった。対照的に、今回進められているイラク侵略と征服では、不人気な体制を追放した。米国は、15年から20年前には、この体制を支持し、自分に役に立つようなかたちで自ら提供した「大量破壊兵器」を使わせていたのであるが。イラク侵略において、標的とした体制を追放するのにほとんど時間はかからなかった。「平定」の過程は、今進められているところであるが。

けれども、重要な類似点もある。この類似性は、米国という帝国のマネージャーたちの性質と政策の継続性、及び、世界システムにおける米国の覇権行使に対する制約がほとんどないことを反映している。重要な類似点の一つは、どちらの侵略も、言葉の基本的な意味における「侵略戦争」でありながら、いずれの場合も、プロパガンダ組織がそうした告発や言葉の用法をまったく無視して、指導者たちの作戦にとっては無意味であると決めつけていたことである。これはちょうど、北米先住民を絶滅させる権利や、メキシコ領を奪取する権利が、先人たちに疑問視されなかったのと同様である。ベトナムの場合、米国が選んで押しつけた不人気な政府が政治的にはホーチミンと米国が戦っている勢力に対してまったく対抗できないことを認めながらも、米国当局とメディアは、傀儡政権の支配に抵抗することで侵略を行っているのはホーチミンと民族解放戦線であると非難していた。米国は、南ベトナムの人々による米国が押しつけた傀儡政府への抵抗を名指すために、「内部侵略」というすてきな言葉を発明すらした。南ベトナムの人々が南ベトナム侵略を行う一方、我々米国は、「南ベトナムを防衛している」というのである。我々が選んで押しつけた政府を、その市民自身から防衛しているという意味であった。メディアは、こうしたオーウェル風の用語法にまったく疑問を呈しなかった。

もちろん、米国政府筋は、南ベトナムの人々の「民族自決」と「自由」のために戦っていると称してきた。我々の傀儡に対して「内部侵略」を行っている南ベトナムの人々の。この論理はまったく明らかではないが、恐らく、次のようなものであろう。人々は自由な選択状況では決して共産主義を選ばない。それゆえ、共産主義を選んだ人々は洗脳されているに違いない。そして、きちんと教育してやれば、我々の傀儡政権を望むであろう。我々が勝利した際に我々の攻撃を生き延びた人々に対してきちんと教育してやれば。けれども、我々が大量殺害を行ったにもかかわらず、これはうまくいかなかった。それにもかかわらず、主要メディアは、米国が、民族自決と自由のための善良な戦争を行っていることを疑わなかった。メディアは「内部侵略」については何の憂慮も示さなかった。我々に対するコストが高くなりすぎて目標を達成できなかったときに、とても不幸になったなっただけである。

米国メディアは、また、米国が南ベトナムの指導者として選んだゴ・ジェン・ジェムが、ベトナム国籍を離脱していて、米国から直輸入された人物であることにも顔を青くしなかった。米国政府もジェム自身も、自ら率いることになった国でまったく支持がなかったことを知っていたにもかかわらず。イラクに対する軍事的征服ののちに米国がイラクに輸入したアフメド・チャラビは、45年間イラクの土を踏んでいない人物であるが、どうやら副大統領チェイニーに賞賛され、征服者により指導者の役割を指名されたものである。これは、米国が自国の裏庭で繰り返してきた、また、ベトナムでも行ってきた「善隣」政策という偉大な伝統に属する政策である。

ブッシュとブレアは、これまで以上に明らかな侵略をイラクに対して行った。このケースは、1936年のムッソリーニによるエチオピア侵略や1939年のヒトラーによるポーランド侵略と同じくらいあからさまな侵略行為である。標的となったのは、侵略者に対して何の脅威も呈しておらず、小さな遠くにある国であり、侵略者たちは、大規模な賄賂と脅迫にもかかわらず、攻撃に対する合法的装いを安保理で得ることすらできなかった。1930年代にイタリアやドイツのメディアがムッソリーニとヒトラーの侵略を侵略と呼ばなかったように、米国の主要メディアはこのイラク攻撃を侵略と呼んでいない。

ベトナムとイラクを巡るもう一つの類似点は、米国が国際的な反対の声を強硬に無視し、暴力以外の手段で紛争を解決しようという試みを強硬に無視した点である。ベトナムでは、米国は、1954年のジュネーブ協定の合意条件を暴力的に無視し、ベトナムの南半分に自前の専制政府を押しつけ、それから、その傀儡政権がやっていけなくなると、国連と民族解放戦線と米国の同盟国による交渉による解決提案を無視して、全面侵略と攻撃を行った。イラクの場合には、米国は、1990年8月にサダム・フセインがクウェートを侵略する前までは、ほとんど無際限に支援しちやほやしてきたあと、嫌がらせと脅迫を受けた安保理と世界中の大多数の人々の意思に反して、「体制変更」を行うための侵略に乗り出した。

ベトナムの場合もイラクの場合も、「国際社会」は侵略を阻止することも、また、侵略者たちを処罰することもできていない。ベトナム侵略の際、日本と韓国は米国の侵略占領に対する物資供給で大規模な経済的利益を得、また、どの国も、米国に対するボイコットや関係制限を行わなかった(ソ連が1983年に韓国の民間機を撃墜したときにはそうした処罰が適用されたが、米国がベトナムとインドシナ全土を侵略し、インドシナを破壊し数百万人を殺害した際も、そうした処罰は適用されなかった)。1969年に国連総会は、米国がベトナムで化学兵器を使用していることに反対する決議を83対3で採択したが、これを実際の政策に適用する者は、「国際社会」には誰もいなかった。ベトナム戦争後、米国は18年にわたり米国による侵略の犠牲者をボイコットしたが、このときには国際金融機関をはじめとする国際社会の協力を得た。インドネシアの独裁者スハルトが、東チモールを侵略して占領し、ジェノサイドを加えていた間中、スハルトに対して寛大な貸付を行っていた世界銀行は、米国によるベトナムのボイコットを支持した。このことは、貸付の政治的基盤をはっきりと示している。

米国権力に対する同様のへつらいは、イラク侵略とその前段階に対する「国際社会」のふるまいにも明らかである。1991年から2003年2月まで、国連は米英に利用されることを自ら許し、偽りに満ちかつジェノサイド的な査察=経済制裁体制を運営した。査察団を、米国は、サダム・フセインの大量破壊兵器を除去するためだけでなく−これは合意に書き込まれた通常の目的であった−、フセインを処罰し体制を変更するために彼を追放するため−米国にとってこれが本当の目的であり、米国政府関係者はこれを包み隠さず繰り返し述べていたが、国連と国際社会はそれにもかかわらず査察体制を支持し続けた−に利用した。このことは、査察=経済制裁が欺瞞であることを明確に示している。また、査察=経済制裁の欺瞞性は、国連安保理決議687に、中東全域における大量破壊兵器の破棄が要請されているにもかかわらず、イスラエルの大量破壊兵器の除去に、国連が破壊兵器査察を拡大しなかったことからも、明らかである。安保理決議のこの部分については、米国が承認しなかったので、無視されたのである。一方で、米国は、査察体制に問題があると主張して、イラクに対する経済制裁を強化し、100万人以上のイラク市民を殺してきた。そして最後に、米国が安保理による侵略の承認を得られないとなると、国連憲章にあからさまに違反しながら、米国はいずれにせよイラクを侵略したのである。

ベトナム侵略戦争の際と同様、国連と国際社会は、イラク侵略を阻止できなかっただけでなく、侵略者に対する処罰のための行動を何らとっていない。実際には、国連は侵略者に征服されたイラクで侵略者との共同作戦を計画することにより侵略者と協力し、それによって、侵略で粉砕された断片を拾い上げるにあたっての協力者としてわずかな「妥当性」を手にすると同時に、侵略者に対して事実上の国際的な承認を与えている。

米国政府とそれに追従するプロパガンダ体制は、ベトナムにおいて、我々の寛大な目的は、単に「内部侵略」を打倒するだけでなく、ベトナムの人々に「民族自決」の権利を行使させることにあるとまで述べていた。我々がベトナムに押しつけた傀儡政権が非常に不人気で、純粋に政治的には共産主義者たちにまったく太刀打ちできないために、我々米国が民族自決に反対する側に立って戦っているように見えたとしても、それは、ベトナムの人々が、自分たちの利益と自分たちが何を望んでいるかについて知らないからに過ぎない。一方、太平洋の向こう側にいる米国の政治家と軍人たちは、ベトナム人が何を望んでいるかについて知っているというのである。それゆえ、我々は「街[国]を救済するためにそれを破壊しなくてはならない」。これは、侵略戦争と大量殺戮から生まれてきた政府=軍の狂気の最もよく知られた例である(これに次ぐものに、ジョージ・パットン・ジュニアの司令下にあったベトナムの軍事キャンプに掲げられたバナー「殺戮は我々のビジネスである。そしてビジネスは良いものだ」と言うものがある)。

イラクでも、政府関係者と識者たちは、当然のことながら、侵略の目的は善良なものであり、石油とも、石油資源の豊富な中東を支配することとも、イスラエルの(そして神自身の)利益に仕えることとも関係がないと主張された。そうではなく、目的はサダム・フセインを「武装解除」することにあり、安保理の決定に対する敬意を広めることにあると主張された。米英の侵略作戦の中で、行方のわからなかった大量破壊兵器がイラクにより使用されもせず、また発見されもしないことが明らかになるにつれ、強調点は、抑圧されたイラクの人々を解放する願いに移された。ベトナム侵略の定式を現代風に改訂した公式は次のようなものである。「我々は、イラクを解放するために、イラクを破壊しなくてはならない」。サダム・フセインという「悪魔」を権力の座につけるために米国が果たした役割や、1990年8月以前に米国がサダム・フセインを支持していたこと、そして1991年から2003年まで、我々が「解放」してやっているイラクの人々に対する「大量破壊封鎖」により行われた大量殺害における米国の役割などについて、メディアが言及することはないという点については信頼していられる。また、メディアが、侵略を正当化するために最初のうちは用いられたサダムの恐ろしい大量破壊兵器についても、また、侵略自体が示しているような、国連憲章や安保理の決定に対する軽視についても、さらにはイスラエルに対して国連の決定を遵守するように要求していないことについても、占領地でのパレスチナ人「解放」についてはまったく関心を払っていないことについても、メディアが時間を費やさないだろうことも前提とすることができる。

ベトナム侵略もイラク侵略も、武力の膨大な格差を特徴とし、また、米国は、大規模な火力と民間人/組織を大規模に破壊する武器を使用した。その中には、「大量破壊兵器」に分類される兵器も多数含まれていた。どちらの戦争でも、米国人犠牲者の数を抑えることが目標の一つであった。それは国内政治的な理由によるものであり、そのために資本集約的戦争が採られた。けれども、このような手段は、標的とされた国の中で、巨大な民間人犠牲者を生み出しがちである。ペンタゴンがレポーターたちを中に入れさせたがらないのは、これが理由であり、そのために、ジャーナリストの数名を「偶発事故」で殺して、「無責任」なジャーナリスムへの警告を発し、そうした体制に反対する声の中での次善の策としては、ジャーナリストたちを「軍属」にし、兵士たちにくくりつけておいて「よりよい」規律を保たせようとした。

ベトナム戦争の際、米軍は大量のナパーム弾、燐弾、クラスター爆弾、フレシェット、大規模破壊力を持つ重爆弾、毒ガス、「ランチ・ハンド作戦」の名の下に森林や米作に対する化学兵器の使用を行ってきた。こうした兵器の多くは、戦争が進むに連れて「改善」された。戦争は、ペンタゴンにとって有益な実験場となり、武器の効率を上げる手段となったのである。こうした兵器のいくつか−毒ガスや化学兵器など−は、明らかに国際法違反であり、他の兵器も、国際法違反の疑いがある。しかしながら、あらゆる戦争犯罪の中で最悪の戦争犯罪である侵略戦争の罪に対して処罰がなかったと同様、身を守るすべを持たない農民社会に対してこうした不法な兵器を使用することに関しても、処罰はなされなかった。

米国が行う最近の戦争では、すべての場合に、劣化ウラン製兵器を用い、改良に改良を重ねたクラスター爆弾やバンカー・バスターなどの重爆弾を使用する。劣化ウランは、放射性の「汚い」武器であり、標的とされた地域の兵士だけでなく民間人にも深刻な健康の被害を及ぼす。劣化ウランの使用は、確実に国際法に違反している。けれども、ペンタゴンは劣化ウランを好んでおり、米国はそれを使用しているため、メディアと「国際社会」は劣化ウランの使用について口を閉ざす。劣化ウランは、クラスター爆弾や大規模爆弾とともに、ベトナムと同様空軍を持たないもう一つの敵イラクに対して使用された。今回のさらなる試験場の経験から、ペンタゴンが、さらに汚い爆弾とクラスター爆弾を改良し、次の文明化使命を負った戦争で使うことが期待できる。

ベトナムで、米国は「内部侵略」に対する戦いを戦っていただけでなく、内部侵略者による「テロリズム」とも戦っていた。内部侵略者たちはテロリストなので、フェアな戦いをせず、米国の武器を体験したのちは、正面から立ち向かって射殺されたり爆殺されたりするかわりに、あらゆる種類のゲリラ戦法を用い始めた。これにより、ベトナム人犠牲者と米国人犠牲者の比は、少し小さくなった(たぶんベトナム人犠牲者50人対米国人犠牲者1人から、20人対1人に)。ベトナム側が採用したこうしたトリックは、ベトナム側が米国に協力するベトナム人の殺害をいとわなかったという事実も伴って、ベトナム側をまごうかたなき「テロリスト」とした。一方、米国が「ベトコンの村と疑われる」地域にナパームを投下し、大規模な火器を投下しB−52で爆撃を行ったことや、フェニックス作戦における特殊殺人部隊の投入などは、「対テロ」作戦であり、ベトナム人たちの指導者を選ぶという我々米国の権利をベトナム人が拒否したという許し難い行為に対する対応であった。同様の言葉遣いが、2003年のイラク侵略のときにも速やかに導入された。イラクの民兵部隊や時折の自爆攻撃は「テロリスト」のしわざとされ、侵略者はイラクで討伐作戦を進める道を突き進む「同盟国」あるいは「連合軍」とだけ呼ばれた。侵略者たちが大規模なテロ攻撃を行っていたにもかかわらず、侵略という言葉の利用が禁止されたと同様の規則に従って、ここにはテロという言葉は存在せず、侵略を行ったまさにその側が、侵略を、「現場の事実」として認めさせた。

民間人の殺害は、ベトナムにおいての方が、2003年3月から4月のイラク侵略においてよりも、大規模に行われた。その大きな理由は、ベトナムにおける抵抗ははるかに大きく地勢がより難しいものだったためであり、また、戦争が何年にもわたって続いたことにある。けれども、犠牲者に対する世界の注目やアクセスがベトナムではより少なかったことも理由の一つである。とりわけ、米国と傀儡政権が武力支配していた南部では(ナパーム弾がベトナム南部でしか使われなかった理由はここにある。我々米国が内部侵略から「救い出そう」としていたまさにその人々に対して、米国はナパーム弾を用いたのである)。どちらの場合にも、ハイテク兵器による、標的国の兵士犠牲者は膨大であった。数年のうちに、ベトナムの人々は、冷酷な爆撃により根こそぎにされた。イラクでも、同様に、米英の大規模な火器と空軍力に対して小さな火器をもって立ち向かおうとした何千人もの若いイラク兵士が根こそぎ殺された。米国兵士の中にさえ、この格差に心を揺るがせた者がいた。ルイス・ウェーバー准将は、ある米国旅団がバグダッドに対するただ一回の攻撃で、少なくとも1000人のイラク人を殺したという事実についてコメントして、「奴らはただ死んでいる」と述べた。「カルバラ・ギャップでは、イラク兵士たちは健闘したが、それもむなしかった。我々には火力があったからだ。あまりに簡単だった」(イラ・マック三等曹長)。「うまい言葉が見つからないのだが、私は、この虐殺にほとんど罪の意識さえ感じた。沢山の人々を無駄にしたのだ。そのうちどれだけが無罪[ママ]だったか考えざるを得ない。我々の誇りの一部もなくなった。我々は勝利したが、その代価はどんなものだろう?」(2002年4月11日、ある兵士が個人的にクリスチャン・サイエンス・モニター誌に語った言葉)。

これは、長いこと続いてきた西洋の帝国主義的伝統の続きである。『機関銃の社会史』(パンテオン社)という研究の中で、ジョン・エリスは次のように述べている。「アフリカでは、自動銃が何百万平方マイルもの土地を奪取するために使われ、また、ヨーロッパ文明の利益を避けようと望む不幸な人々を教化するために使用された」。アフリカの戦士たちは、どんなに勇敢であっても機関銃には勝てなかった。それゆえ、例えばオムドゥルマン[スーダン中部の都市で、1898年にマフディの後継者たちが英軍元帥キッチナーの軍に敗北した地]では、犠牲者は、1万1000人のイスラム教徒に対して、28人の英国人と20人の英国同盟者であった。2003年のイラク侵略では、軍人犠牲者の比率は、約150人の米英軍死者に対して、正確な数はわからないが数千人をゆうに超えるイラク軍兵士の死者であり、その数は恐らく1万人から2万人の間であると推定される。それゆえ、死者の比率の格差はオムドゥルマンにおけるよりも小さいが、それでも、技術的に優位に立つ帝国主義者側に圧倒的に有利な比率となっている。

エリスは、大量のアフリカ人たち(やアジア人たちなど)を殺し、彼ら/彼女らの土地を収奪することができたのは、「アフリカ人たちが十分に人間ではなく、帝国主義者たちの道徳に訴えない」ことによる部分が大きいと述べている。「そうであったとしても、英国による息をのむほどの大勝利が、圧倒的に優れた武力によるものであるという点を静かに無視するならば、良心はさらに失われることになっただろう」と。

エリスはまた、当時の雑誌の記事には、「現地人に対して使われた機関銃の写真」の不在に特徴づけられると指摘している。当時のジャーナリストたちは、そのかわりに、「勇猛なヒーローたち」に焦点を当てた。「勝利の本当の理由については、誰も知りたがらなかったからである」。これは、耳慣れた事態ではないだろうか?


最近、「植民地主義」、「帝国」、「帝国主義」といった昔風の言葉が随所に出て来ます。「帝国」と「帝国主義」は全く違う意味を持つ言葉ですし、「帝国」はハート&ネグリの本でこのところ一躍多用されるようになっているようです。昔っぽい言葉ですが、説明概念として、そうした言葉が指していたもの・歴史を改めて振り返るのは有用に思えます。安直なレトリックではなく。
益岡賢 2003年5月5日 

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