南アフリカから見たパレスチナ ---- もう一つのバンツスタン、ガザ
2009年8月22日
アラン・グレッシュ
ZNet原文
ガザ戦争のとき、南アフリカはパレスチナの人々に強い連帯を表明した。ここ南アフリカでは、アパルトヘイト時代の南ア政府とイスラエルが協力していたことを誰もが覚えているし、多くの人々が今日パレスチナが置かれた状況と白人支配時代の南アフリカ黒人と有色人種の状況とが類似していることに気づいている。
ロナルド・「ロニー」・カスリルスは2001年11月に漫画家ザピロが書いたカスリスルの風刺画そのものだ。この風刺画では、ノーベル文学賞受賞者ナディン・ゴーディマやザピロ自身を含むユダヤ人の列の先頭にカスリルスがいて、要塞から逃げ出そうとしている。カスリルスは満面に微笑をたたえている。この要塞には「イスラエルを無条件に支持」との文言が飾られている。看守たちが「奴らを捕まえろ! 奴らを捕まえろ!」と叫んでいる。
カスリルスの笑顔は、彼の決意と同様、今日も変わらない。彼の生涯は山を動かすことに捧げられた。彼は1938年、バルト諸国から来たユダヤ人移民の息子として、南アフリカで生まれた。それからしばらくして、彼は人種差別主義に出会うことになる。とりわけ、1960年3月21日のシャープビルの虐殺で、警察が非武装の黒人デモ参加者に発砲し、数十人を殺した事件に。南アフリカが独裁制へと向かう序章の幕を開けたこの虐殺に対する国際的な反響は当時、一段と大きかった。1960年は、アフリカ諸国の大部分が独立を遂げた年だったのである。
カスリルスには、両親が語っていた東欧のポグロムを思い起こさせるこうした弾圧に背を向けることはできなかった。彼は共産党とアフリカ民族会議(ANC)に参加し、その後30年に及ぶ秘密活動と亡命生活に入ったのである。ANC武装部門の諜報部門長として、彼はテロリストのレッテルを貼られることを受け入れた。1970年代、南アフリカ当局がテレビで彼の写真を示しながら使った言葉は「武装しており、危険」[1]というものだった。1990年に南アフリカに戻り、それからアパルトヘイトが終焉を迎えたのち、彼はいくつかの閣僚ポストについたが、昨年末に政府職を辞任した。
アパルトヘイトと闘った活動家として、共産主義者そしてユダヤ人として、彼は早い時期からパレスチナ問題に関心を払っていた。2004年2月、南アの閣僚だったときに彼は、イスラエル軍に取り囲まれたラマッラーのムカタにヤーセル・アラファトを訪問した。「アファラトは窓からの眺めを私に見せて、『これはバンツスタン以外の何ものでもない!』と言いました。私は次のように答えたのです。『違う! バンツスタンが戦闘機の爆撃を受けたり戦車に粉砕されたことはありません・・・・・・南アフリカ政府はバンツスタンに資金をつぎ込んで立派な行政の建物を建てましたし、国際社会に認めさせるためにバンツスタンの航空会社を認めたのです』」。
殺虫施設を通り抜ける牛
2008年12月と2009年1月にガザで起きたことの衝撃波はすぐさま南アフリカにも伝わった。人々は大規模な抗議行動とデモを行った。強力な南アフリカ労働組合総評議会(COSATU)は、既に2008年4月に積み込まれたジンバブエ行きイスラエル製兵器の輸送を止めていたが、さらにイスラエル物資輸送のボイコットを呼びかけた。
「草の根のレベルでは、パレスチナの人々に対して共感があります。誰もが、パレスチナと南アフリカ、ガザとトランスカイやシスカイが似た状況にあることを知っているからです」とヨハネスブルグ大学の研究イノベーション担当副学長アダム・ハビブは言う。
南アフリカ政府は「ガザの地上侵略がもたらしたイスラエルによる暴力のエスカレーションをはっきりともっとも強い言葉で」非難した。南アフリカ政府はイスラエルに「虐殺」をやめ、兵士たちを「即時無条件で」撤退させるよう求めた。イスラエル大使との会談で、南アフリカの国会議員団は、イスラエル軍が行っている残虐行為から見ると「アパルトヘイトは日曜学校のピクニックのように見える」と述べ、外交問題評議会会長ジョブ・シットホールはイスラエル軍による検問所でのパレスチナ人の取扱いを、「殺虫施設を通り抜ける牛」を扱うようだと述べた[2]。
こうした状況下で、南アフリカのユダヤ人組織がイスラエルの政策を支持したことは批判と非難とを引き起こした。批判者の中には、アパルトヘイトに反対してきたユダヤ人知識人も含まれていた[3]。「イスラエルをもっとも声高に擁護したのは大使館ではなく、ラビ長のウォーレン・ゴールドシュタインだった。彼は無条件にガザ爆撃を支持したが、誰にとっても信じがたいことだった」とアダム・ハビブは残念そうに語る。
ガザ紛争がもっとも激しかったときに、在南アフリカユダヤ人コミュニティの代表団が声名で「ガザのハマスに対する軍事作戦を遂行するというイスラエル政府の決定を断固として支持する」と発表した。この代表団は、自分たちがユダヤ人とイスラエルを自ら同一視したことによりインターネット上で反ユダヤ主義的なユダヤ人商店ボイコットの呼びかけが起こったときに、それに怒りを表明した。ちなみに、南アフリカ政府もANCも、ムスリム知識人も親パレスチナ団体も反ユダヤ主義的な呼びかけをずっと批判してきた。
しかしながら、数千マイル離れた地での紛争が引き起こした激情はそうひどく驚くべきものでもなかった。それは、南アフリカとイスラエルの特殊な関係から来るものだった。少しだけ歴史を見ると、1948年5月のイスラエル創設と南アフリカ選挙での国民党の勝利は数週間のうちに続けて起きていた。この選挙の結果、アパルトヘイトあるいは「分離開発」政策のもとで、それまでの人種隔離はさらに激化した。国民党の指導者たちはナチスのシンパとして知られていた(国民党の指導者でのちの首相ジョン・フォルスターは第二次世界大戦中そのために投獄された)が、それにもかかわらず、イスラエルとますます親密な関係を築き上げることに成功した。
「頑固で屈強」
ハイファ大学で教えるベンヤミン・ベイト=ハラーミはこの逆理を次のように説明する。「ユダヤ人を嫌悪しながらイスラエルを愛する人もありえます。イスラエルはどういうものかユダヤ陣ではないのです。イスラエルはアフリカーナーと同様、植民地主義を推進する戦士で植民者です。頑固で屈強で、支配の術を知っています。ユダヤ人はそれとは違います。ユダヤ人には様々な性質がありますが、物静かで肉体的でなく、しばしば消極的で知的です。ですから、ユダヤ人を嫌悪しながらイスラエルに心酔することがあり得るのです」[4]。
共通点が何一つないように見えるこの二国の協力が始まった。イスラエル外相モシェ・シャレットが1950年に南アフリカを最初に訪問した。1984年11月、国連がアパルトヘイト政権に対する経済制裁を決議したとき、南アフリカ外相ロエロフ・フレデリック・「ピック」・ボータがイスラエルを訪問した。当時のイスラエル首相はイツハク・ラビンだった。『ル・モンド』紙は「二国の親密な関係」について書いた記事で、バンツスタンの傀儡諸政府と関係を持っている国は世界でイスラエルだけであり、そうしたバンツスタンのいくつかはイスラエルの西岸入植地と姉妹都市関係を結んでさえいると指摘した[5]。
両国の関係の基盤は第一に経済----1970年代と1980年代にイスラエル経済のかなりを支配していたユダヤ労働総連合(「社会主義」の労働組合評議会)のの保護のもと----にあった。「ヘヴラット・ハオヴディム」社を通して、ユダヤ労働総連合は対南アフリカをほとんど独占していた。キブツ主義も関係していた。ナチと闘った東欧ユダヤ人が創設したロハメイ・ハゲトット(「ゲットーの戦士たち」)キブツはクワズル・バンツスタンでカーマ化学工場を運営した。
軍事と治安に関しては、両国の同盟は戦略的な色彩をおびていた。イスラエルの手助けで南アフリカは核保有国になった[6]。プレトリアのイスラエル軍アタシェは参謀本部フォーラムのメンバーだった(そこまで高位のイスラエル軍のアタシェは他にワシントンにいただけだった)。イスラエル製兵器は南アフリカでライセンス生産されていた。
「ソウェトの獣」
両国の諜報部門は共産主義と戦うため、さらに当時から「テロリズム」と戦うために喜んで協力した。この「テロリズム」はANCやPLO、ポルトガルの植民地(アンゴラとモザンビーク)の解放運動、そして当時南アフリカの占領下にあったナミビアの独立を求めて闘っていた南西アフリカ人民機構(SWAPO)が引き起こすものとされた。
1964年のヴィロニア裁判でネルソン・マンデラが終身刑を言い渡された際に尋問の中心人物だった「ローイ・ルス」・スワンポエル陸軍准将は1970年代、イスラエルにしょっちゅう招待されていた。スワンポエルはナミビアで対暴動部隊を創設した人物で、「ソウェトの獣」と呼ばれていた。黒人居住区の蜂起を残虐に粉砕し、何百人もの人々の命を奪ったためである。一方、ジャーナリストでアリエル・シャロンの顧問を勤めるウリ・ダンは、南アフリカ軍への賞賛を表明した[7]。
両国の体制には明らかな違いがあるものの----たとえばイスラエルは先住民労働力を必要としていないし、アラブ人マイノリティに投票権を与えた----、顕著なイデオロギー的類似があるとロニー・カスリルスは考えている。「初期のオランダ人開拓者たちすなわちアフリカーナーは、他の場所の植民地主義者と同様、聖書と銃を使った。聖書のイスラエル人と同様、彼らは文明化の使命を負った『神に選ばれし者』を自称した」。
ユダヤ人コミュニティはイスラエルと南アフリカの共謀を批判せず、かわりに虚産主義とANCに関わるメンバーを追放した。元ANC議員でナチスの絶滅収容所で家族の何人かを失ったアンドリュー・ファインシュタインは、2000年5月、歴史上初めて、南アフリカの新議会にホロコーストのセッションを設けさせることに成功した。
「ナチスが1933年から1939年にユダヤ人に強制した政策とアパルトヘイト時代に南アフリカ人の大部分に強制された政策の間にははっきりとした類似が認められるにもかかわらず」、南アフリカ白人のほとんどと同様、南アに住む10万人のユダヤ人はアパルトヘイト時代に沈黙を守った、と彼は言う[8]。彼は、マンデラの裁判で死刑を求刑した主任検察官パーシー・ユタルの名をあげた。ユタルはのちにヨハネスブルグのもっとも重要な正統派シナゴーグの長に選ばれ、ユダヤ人コミュニティの指導者たちは彼を「コミュニティの名誉」と讃えた。
イスラエルとアパルトヘイト政権との共謀に付け加えるならば、1994年にネルソン・マンデラが南ア大統領になったあと、二国の関係は大きく悪化した。南ア新政権は軍事協力を停止し(とはいえ1998年に契約が切れるまでは契約を尊重したのだが)、PLOとアラファトを全面的に支持し、2000年の第二次インティファーダが宣言されるまで関係を維持した[9]。関係を停止したのは、米国(やイスラエル)などの、アパルトヘイトに共謀した国々が圧力をかけたためである。2004年にアラファトが死んだとき、マンデラは彼を「その時代を代表する優れた自由の闘士の一人」と呼んだ。
それでも、南アの中東担当元副外相アジズ・パハドはリアルポリティークの要求を無視はできないとあけすけに認め、「公式外交政策のリアリズムとANCが採用している原則的立場[パレスチナ支持と西サハラ独立]の矛盾」も無視できないと語った。
このリアルポリティークはパレスチナ支援団体を憤慨させた。このことは「ストップ・ザ・ウォール」キャンペーンが出した報告書の「イスラエルの占領、植民地主義、アパルトヘイトに対する民主的南アフリカの共謀」というタイトルにも表れている[10]。アフロ=中東センター[11]代表のナエーム・イェーナーは、タボ・ムベキ元大統領が「イスラエルとの関係正常化を望んだ」と言う。「今年、両国間の貿易は15パーセントから20パーセント増えた。とりわけ治安装備部門で増加した。軍事関係を再会しようという動きさえある」。イスラエル対する経済制裁の適用はもはや政策に含まれていない。ガザで犯された犯罪に関する国連委員会の委員長を務める判事は南アフリカ人ではあるのだが。
翻訳:ジョージ・ミラー
■ 辺野古通信
辺野古通信ご覧ください。
■ 『沖縄に基地はいらない ジュゴンの行進!』
日時:9月12日(土)午後3時集合
場所:水谷橋公園(東京都中央区銀座1-12-6)
(最寄駅 / 東京メトロ「銀座一丁目」「京橋」「宝町」》
デモ:3時30分に出発
主催:辺野古への基地建設を許さない実行委員会
連絡先:沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック(090-3910-4140)
市民のひろば(FAX 03-3234-4118)
■ 9・15ピョンヤン宣言7周年のつどい
過去の清算と拉致問題の解決を考える
-日朝国交正常化早期実現を!-
日時:9月15日(火)午後6時半開
場所:文京区民センター3A大会議室
講演:蓮池透さん(元拉致被害者家族連絡会事務局長)
西野瑠美子さん(バウネット・ジャパン共同代表)
■派遣労働の規制強化を求める請願署名
派遣労働の規制強化を求める請願署名署名プロジェクトから署名できます。
■アムネスティ・インターナショナル主催上映と講演会
上映会:「タクシー・トゥ・ザ・ダークサイド」
監督アレックス・ギブニー
2008年度アカデミー長編ドキュメンタリー賞受賞の「テロとの戦い」の闇に切り込む衝撃のドキュメンタリー、日本劇場未公開作品
講演:ペシャワール会事務局長福元満治さんによる「アフガンの今」
日 時:9月11日(金)
映画上映 ①14:30~16:15 ②18:30~20:15
講 演:20:15~21:00
会 場:福岡市男女共同参画推進センター・アミカス・ホール
(福岡市南区高宮3丁目3-1 西鉄高宮駅ヨコ)
参加費:映画前売り800円(当日1000円) 講演のみは無料
主 催:アムネスティ・インターナショナル福岡グループ
共 催:九州シネマ・アルチ
お問合わせ:092-712-5297
夜間092-551-0174(真砂)
・協賛団体:福岡自由学校/「報道と女性」研究会/たんぽぽの会/
NGO人権・正義と連帯フォーラム・福岡/
核・ウラン廃絶キャンペーン福岡/
アフガン・イラク戦争を阻止する実行委員会/
子どもを戦場に送らない!九条の会ふくおか/YWCA
/福岡女性団体交流会/女性エンパワーメントセンター福岡/
I女性会議/
・後援:福岡市、福岡市教育委員会
■ 神戸ドキュメンタリー映画祭
日時:9月19日〜27日
詳細は第1回神戸ドキュメンタリー映画祭をご覧下さい。
■ レイバー映画祭2009
日時:9月26日(土)13:00~20 : 40 (12.30開場)
会場:全水道会館ホール(東京・水道橋駅3分) 03-3816‐4196
主催 : レイバーネット日本 TEL03-3530-8590
参加費(通し券・出入り自由)
一般当日 1800円 前売予約 1500円
*障害者・シニア・学生・失業者は各200円引
電話予約 TEL03-3530-8590 FAX予約 FAX03-3530-8578
メール予約 http://vpress.la.coocan.jp/yoyaku-labor09.html
詳細はレイバー映画祭をご覧下さい。