ファルージャ背景


ユーフラテス川を望む町、ファルージャ。アンバル州にあるこの町は、首都バグダッドから西に約六〇キロ、バグダッドとヨルダンを結ぶ要路に位置する。この地には、遙か昔から、人々が暮らしていたという。現在の人口は、約三〇万人。潅漑設備を用いた農業が、産業の中心である。

サダム・フセイン支配下のイラクで、この町は、いわゆる「スンニ派三角地帯」の一部として、経済的には、比較的優遇されていた。ファルージャ出身者で、フセイン政権下の軍や警察、諜報に勤務していた者も少なくない。また、バアス党幹部にも、ファルージャ出身者がいた。とはいえ、米国や日本のメディアがしばしば報ずるように、フセイン派の拠点では、ない。ヒューマンライツ・ウォッチによると、フセイン政権崩壊の際にも、フセインに対する強い同情は見られなかったし、インタビューに応じた住民の多くは、フセイン政権下で自分たちが弾圧の犠牲者だったと感じている。また、ファルージャのあるイマームは、祈りの際、サダム個人を礼賛することを拒んだため、フセイン政権下で、問題を抱えてしまったこともある。

一九九一年一月に始まった「第一次湾岸戦争」のときに、ファルージャでは、多くの民間人が犠牲となった。最もよく知られているのは、英軍のジェット戦闘機が、レーザー誘導ミサイルを、人々で賑わっていた市場に撃ち込んだ事件である。このときには、約二〇〇人が殺されたと考えられている。これとは別に人口の密集した地域にも爆弾が投下された。さらに、レーザー誘導爆弾四発が、ファルージャ橋に向けて投下され、そのうちの一発が、もう一つの市場を直撃している。


二〇〇三年三月、米英主導のイラク侵略攻撃の際、地上戦こそなかったものの、ファルージャは、米軍による空襲を受けた。二〇〇四年四月、米軍第八二空挺師団第二旅団の第一大隊が、ファルージャに侵入。四月二八日、アル−カイード小学校を占拠したチャーリー中隊一五〇人が、小学校前で抗議行動を行なった市民に発砲し、約一五人を殺害した。

事件の経緯は、ヒューマンライツ・ウォッチの報告書に詳しい。その記述を借りて、少し整理しておこう。

米軍の大隊がファルージャに進出したのは二〇〇三年の四月二三日。四月九日から一一日にかけて、バグダッド、キルクーク、モスールといった主要都市が陥落してから、フセイン政権下のイラク軍や「フェダイーン」の一部が、ファルージャの町に来ていたという。同地区の米軍司令官アーノルド・ブレイ大佐は、「我々は、一般市民に安全に感じて貰うために」来たのであり、「住民とインフラ、そして当然ながら我々自身を守る権限を与えられている」と述べている。

米軍が侵入したとき、ファルージャでは、すでに、現地の指導者たちが文民行政委員会を設置し、行政官と市長を選出していた。これにより、ほかの都市で見られたような略奪をはじめとする諸犯罪は、ファルージャでは、かなり抑えられていた。

四月二四日、状況を憂慮したファルージャの指導者たちが米軍司令官と面会し、ファルージャは信教の篤い町であり、米軍兵士は慎重に振舞って欲しいと要望を出した。住民たちは、兵士の攻撃的なパトロールに怒りを感じている、と。ファルージャでは、米軍が暗視鏡を使って、夜間、人々のプライバシーを覗き見しているとか、子供たちにポルノ的な図柄の入った風船ガムを配っているという話が広まっていた。

アル−カイード小学校に隣接するナザル・モスクのイマーム、ムハンマド・アル−ズバーイは、次のように語っている:「米軍兵士たちは、ファルージャの住民に対して、あまり礼儀正しく振舞っていなかった。暗視機材を使って、屋根の上に人がいるかどうか監視し、周囲の家族を監視していた。人々のプライバシーが、これにより乱された。さらに、米軍は徹底的なパトロールを行なっていた」。

緊張は、こうして高まっていった。

米軍のファルージャ占領に対する抗議のデモは、四月二八日、午後六時半頃に始まった。一五〇人程の住民が、米軍が駐留するバアス党本部前に集まったのである。参加者によると、デモは平和的で、誰も銃は持っていなかった。彼らは、「神は偉大なり! ムハンマドは預言者なり!」といったスローガンを口にし、また、「サダムにノー! 米国にノー!」という、イラクでよく聞くスローガンも叫んでいた。

夜一〇時頃、人々は再び集まり、小学校の方へ向かった。一〇〇人から二五〇人程の人が参加していたという。ヒューマンライツ・ウォッチがインタビューした約二〇人の目撃者と参加者は、誰もが、デモ参加者は武器を持っていなかったと言っている。

デモの一行が小学校に到達するとすぐに、銃撃が始まった。デモ参加者とイラク人目撃者は、デモ参加者からは何一つ挑発行為がなかったにもかかわらず、米軍が発砲したことを強調する。一方、米軍兵士は、デモの一行が小学校に近づいてくるにつれ、発砲音が増えたと言っている。

ある匿名の兵士は、二〇〇三年四月三〇日付ガーディアン紙で、次のように言っている:「我々は三日にわたり発砲を受けながらここにいた。神経がすり減った。奴ら[抗議デモの一行]が道をやってきて建物に向けて発砲したとき、自衛する以外にすべはなかったんだ」。

ヒューマンライツ・ウォッチの調査団と軍事アナリストが数時間にわたってアル−カイード小学校を一部屋一部屋調査した結果、投石の跡は見られたが、米軍兵士たちの主張を支持するような弾痕などの証拠は、みられなかったという。

ファルージャが、米軍に対する強固な抵抗に転じたのは、この事件からである。

二〇〇三年一一月には、米軍から指名され米軍の協力者として知られていたタハ・ベダーウィ「市長」のオフィスが爆破され、ベダーウィ自身も辞任することとなった。

二〇〇四年、レジスタンスの戦士たちと米軍との間で戦闘が激化する中、三月三一日に、米国の傭兵会社ブラックウォーター社の社員四名が、車を運転中に襲撃され、その焼死体が人々により引きずり出されて殴打され、ユーフラテス川の橋に吊り下げられた事件が、日本のメディアでも大きく報じられた。

二〇〇四年四月、米軍はファルージャを実質上封鎖、四人の傭兵会社社員を殺害した者たちを狩り出すとして、ファルージャ住民への攻撃を開始した。これにより、四月半ばまでの半月で殺されたイラク人の数は七〇〇人にのぼると推定されている。

米軍による攻撃は、この文章を書いている二〇〇四年四月一七日現在も、進行中である。


参考:

Blum, W. Killing Hope: U.S. Military and C.I.A. Interventions since World War II. Monroe, US: Common Courage Press, 2003 (updated edition).

CBC News Online. Indepth: Iraq: Fallujah - City in Chaos. April 2, 2004. http://www.cbc.ca/news/background/iraq/fallujah.html

Clark, R. et. al. War Crimes: A Report on United States War Crimes against Iraq. Washington, D.C.: Maisonneuve Press, 1992.

GlobalSecurity.org. Fallujah. http://www.globalsecurity.org/military/world/iraq/fallujah.htm

Human Rights Watch. Violent Response: The U.S. Army in Al-Aalluja. vol. 15, no. 7 (E), June 2003.

Rai, M. War Plan Iraq: Ten Reasons Against War on Iraq. London: Verso, 2002.

Ritter, S. and Pitt, W-R. War on Iraq: What Team Bush Doesn't Want You to Know. Crows Nest, Australia: Allen and Unwin, 2002.

酒井啓子 『イラクとアメリカ』(岩波新書、二〇〇二年)

Simons, G. Targeting Iraq: Sanctions & Bombing in US Policy. London: Saqi Books, 2002.


人質になっていた三人が、イラクでの活動を続けたいとの意向を表明したのに対し、小泉首相(ママ)は、「あれだけ酷い目に遭ったのにまたイラクに帰りたい?どういう気持ちなんでしょうね」と発言しました。さらに「自覚を」と。「救出経費」(ママ)を家族に払わせるべきという議論さえ出ています。

日本の市民と世界中の人々、イラクの人々の声を無視して一方的な侵略を支持し、ファルージャでの米軍による虐殺から目を背け、憲法に違反して自衛隊を派遣し、米兵の輸送を航空自衛隊に行わせるといった犯罪行為を平然と行う人物には、分からないのでしょう。いや、おそらく、ただ理解することを拒否しているのでしょう。

密室での虐殺を何とか世界中の心ある人々に伝えたいと真面目に考える、フリージャーナリストや、劣化ウランの犠牲者をこれ以上増やさないために、影響の事実を調べたいと考える人や、ストリートチルドレンへの人道援助をしたいと考える人の、人間を見る視点と、一度きりしかない世界への愛着と、決断と意志とを。

拘束された三人は準備不足、注意不足だった、だから自己責任だ、と叫ぶ人々がいます。まるで、「どこが危険地帯かなど分かるわけはない」と述べた小泉首相は、何かを準備していたかのように。

元文相の島村宜伸氏は、「遊泳禁止の札が立っているのに泳ぎに行ったようなものだ」という倒錯した理屈をこねています。大阪のフォークシンガー岡本民さんは、これに対し、それはちょっと違う、「遊泳禁止の札が立っているところで溺れてる人がいて、それを泳いで助けに行ったようなものだ」と正論を述べていますが。

このたとえで言えば、三人は救出にたどり着けなかったことにもなるでしょうが、そうであったとしても、大規模な暴力を持って、むりやり人々を溺れさせている者たちには、そして三人の救出さえ大金を投下した[らしい]にもかかわらず何も出来なかった、犯罪的かつ無能な政治家が批判すべきことではありません。

今回の人質三人が勝手に行った、自衛隊の人道復興支援活動[虐殺を続ける米兵の輸送が「人道復興支援」らしい]の足を引っ張った、自己責任だ、という異様な倒錯は、まるで第二次世界大戦のときの「非国民」を思い起こさせる、と指摘してくれた方がいました。同感です。

日本政府は、今回の人質解放に際して、足を引っ張る以外何もしなかったのですから、「救出経費」を公開して、これだけ無為に浪費してしまいました、私たちは無能でダメな政治家です、と国民に謝罪して、憲法違反・国際法違反の自衛隊派遣を何も準備せずに送り込んだことで、三人の人道活動家とイラクの方々にご迷惑をおかけしました、と自衛隊を撤退させ、謝罪して、ただちに辞職すべきでしょう。

私たちは、イカれた弱い者いじめを公言させるために、税金を払っているわけではないのですから。
益岡賢 2004年4月18日 

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