ファルージャ 2004年11月


2004年4月、米軍がファルージャに侵攻した際は、わずかではあるが、ジャーナリストや外国人人道活動家がいて、ファルージャで米軍が行なった破壊と殺害、米軍が犯した病院の襲撃や民間人の射殺、救急車の狙撃といった戦争犯罪が外の世界に遅れることなく伝えられた。 とはいえ、大多数の大手メディアはそれらをまったく報じないか、あるいは「米軍によるゲリラの掃討」という転倒した図式で報じていた。 2004年11月、米軍が再びファルージャを侵攻した際には、独立ジャーナリストのファルージャ入りを完全に阻止し、密室の中で、攻撃を続けた。4月の侵略よりも大規模なものだということが伝えられたため、破壊と殺害の規模、犯罪の規模も推測はできていたが、実際のところは4月よりもいっそう伝えられなかった。 イラク人ジャーナリストのイサム・ラシードさんは、11月にファルージャにいて、米軍が何を行なってきたか映像に収めた数少ない一人である。2005年8月7日、東京飯田橋でラシードさんの講演会があったので、参加してきた。そこで紹介された映像の一部についてとったメモをFalluja, April 2004ブログで紹介したが、ここに再掲しよう。

イッサム・ラシードさん飯田橋講演会(2005年8月7日)より
2005年8月9日

白と黒、二重の煙が住宅街の各地から立ち上る。無人の道を重戦車が進む。普通の住宅地。周囲にあるのは普通の民家。今、銃弾が撃ち込まれているところに戦闘員がいるだろうか? 戦闘員がいるように見えるだろうか?

連続した銃声が聞こえる。米兵たちは撃ちまくっている。

笑ったような、恍惚としたような、米兵の表情がアップで映し出される。

「ゴー! ゴー! ワーオゥ!」

米兵の中から、喜びの声があがる。

怯えた女性が家族を呼んでいる。攻撃を逃れようとうろたえる母親たちに抱きかかえられる子どもたち。武器をもたず、子どもをかばって、うろたえてながら、人々は学校に逃げ込んだ。

近くの住宅地からは、白と黒の煙が立ち上っている。

足を怪我した中年の男性を運び出そうとしていた人々に向かって、米兵が発砲した。非武装で両手を塞がれた人々への発砲。病院を米兵が制圧していたために、怪我人を運ぶ先は、ない。逃げる地さえ失われて、それでも怪我人を運ぼうとする人々。

12時間ぶっ通しで、無差別空襲は続いた。そして、逃げだそうとする人々の無差別な射殺。

「ゴー! ゴー! ワーオゥ!」

米兵があげた声が頭の中にこだまする。

数万人のファルージャ市民が、逃げ場を求めて町の出口に殺到した。非難を求める人々で大混雑する町の出入り口では、「着の身着のまま」家を逃れてきた人々、子どもたちが映し出される。

ある親は、ファルージャを出て数キロ行ったところで、家を出るときに子どもとはぐれてしまっていたことに気づいた。ファルージャに戻ろうとする親を、周りの人が説得する。あなたの家は瓦礫と化した、娘さんは瓦礫の下だ、と。

ファルージャに留まることを選んだシャイフは、死体が埋葬されないまま、たくさん放置されていたことを語る。

ファルージャで米兵が人々を拘束し、自分の家族も拘束され行方がわからない、と、ある女性が語る。米兵は、手荒に扱わないと嘘をついて人々をモスクに集め、全員を拘束した。

少し障害のある男性が画面に現れる。この男性は、拘留され、犯罪者と一緒に監獄に入れられた。米兵が男性を殴った。それに憤って米兵に殴りかかった別の男性は、手足を縛られ、戦車の前に寝かされた。

「その後は見ていませんが、戦車に轢き殺されたはずです」とイッサム・ラシードさんは言う。

男性の家は、略奪されていた。

2004年11月、米軍によるファルージャ侵略空襲の半月前にファルージャを逃れた男性は、途中で家族から引き離され、拘留された。彼の顔は、「外国から潜入したテロリスト」としてテレビで放映された。イラク人を道ばたで捕まえては、テロリストだというでっち上げの宣伝をしているのではないだろうか?

細身の、精悍な顔をした男性が画面に登場する。男の子を抱きかかえている。この少年は、2004年4月の攻撃後、頭が膨らんできて、知的な遅れが出るようになった。医師は、「4月に米軍が危険な物質を使った影響ではないか」と語ったという。

路上に放置された遺体が映し出される。米軍は、攻撃後、遺体を埋葬したと言ったが、放置されたままだった。足のない遺体。首のない遺体。犬に食べられた遺体。自宅の台所で殺された男性の遺体。

「ファルージャでは犬までも狂ってしまいました」とラシードさんは語る。

***

ファルージャを逃れた人々が暮らす難民キャンプでは、残してきた家族のことも、自分たちの未来のこともわからないまま、人々が暮らしている。11月、寒い中で燃料も不足して。

乳飲み子を抱いた65歳の女性は、家族バラバラに逃げたあと、キャンプで3週間避難生活を送っている。

「私たちがブッシュに何をしたというのでしょう? ファルージャに、戻りたい」。

600人の避難民に、水道は一つ。洗濯、飲み水、料理のすべてをこの蛇口でまかなう。とても寒い中、水はとても冷たい。暖房はない。

避難民を受け入れたモスクの中はテントだらけで、未来への不安で満ちている。

息子と甥を米兵に拘束された女性が登場する。ファルージャの家は略奪され、焼き払われた。

帽子をかぶって遠くを見つめたファルージャ近くに住む若い男性が画面に登場する。空襲により姉が殺され、娘も殺された。父と兄は拘束された。

「それでも、私は身を寄せる場所を見つけることができて幸運だった」。彼はこう語った。

6歳から8歳くらいだろうか。二人の少女が登場する。米兵が家に侵入してくるのを、ドアの陰に隠れてみていた。ドアを蹴破って入ってきた米兵たちは、父を足蹴にして、拘束して連れ去った。

「イラクでは、小さい子どもたちも、自分たちが置かれている状況を知りつつあります」とラシードさんは語る。

***

2004年12月、赤新月社がようやくファルージャに入った。廃墟となった町。壁だけが残る家々。学校だったところには、大きな穴があき、瓦礫が散乱している。ありとあらゆる商店が、破壊されている。

「少し考えてみて下さい。皆さんが、もしこの町の住人だったら、どうすればよいでしょうか? しかも、家族を失ったり、家族が拘束されているならば?」 ラシードさんは問いかける。

砂地に整列した一面の墓が映し出される。向こうに見えるのはユーフラテス河だろうか? 墓碑には名前のかわりに、数字が書かれているだけ。米軍は、身元の判別にかまわず、遺体を「処分」した。

こうしたすべてを、米国は、ファルージャを封鎖した密室の中で行なった。ファルージャに入ろうとした米国人ジャーナリストさえ拘束して。

「ゲリラからファルージャの町を奪取」「米軍、ファルージャを制圧」

「俺達はイラク経済を活性化してるんだ(We're boosting the Iraqi economy)」と米兵の声が聞こえる。

犠牲となった子どもたちの映像が映し出される。足にざっくりと傷を負った子ども。頭を麻酔なしで縫われている子ども。頭に包帯をまとった子ども。

頭皮にぱっくりと穴があき、頭の中身が流出し、革袋のようになっていた子ども。

ラシードさんは次のように語る:
日本の皆さん、皆さんは、今、目を開かれている方々だと思います。少しでもイラクの現状について知識を深めてもらえればと思います。米軍は慈悲の心を持っていません。広島・長崎のように、日本に対しても、一瞬で何十万人もの人々を殺しました。今、イラクで日々、同じ様な殺戮を行なっています。

これに協力することが、どうしてできるでしょうか?

自衛隊が、どんなに攻撃に参加しないと言っても、協力していれば、占領の一部と見なされます。イラクの人々にインタビューしても、同じ答えが返ってきます。

イラクの市民は、自衛隊に撤退してもらいたいと考えています。撤退後、民間人が戻ってきて、イラクの復興に協力して欲しい、イラクの人々に聞くとこう答えます。

私も皆さんも思っているでしょう。イラクの次に狙われるのは、どこか?

今、イラクで起きていることを知ってもらいたいのです。


ラシードさん自身、「戦争」という一言が、実際にはどのような事態を表しているのか、立ち止まって想像してみて下さい、と述べていた。それを考えると、米軍のこうした行為を一言に還元してしまうことには、どんな言葉を選ぼうと、問題があるかも知れない。それでも、映像を見て、どうしても頭から離れなかった言葉がある。

無差別大量殺人

大手メディアは、「侵攻」「空爆」「ゲリラの掃討」「制圧」など、米軍がファルージャで行なっている行為に、様々な言葉を使っている。

いずれも、4月に現地から送られてきた証言、そして8月7日ラシードさんが見せてくれた映像を表す言葉としては、まるで不適切であるように思える。

米軍がファルージャで行なった行為を言葉で表すならば、無差別大量殺人としか言いようがない。実際、米軍は、ファルージャで、ただ無差別に、大量に、人を、民間人を、老人を、子どもを、女性を、武器をもたない人々を、殺してきたのだから。

殺人を「侵攻」とか「掃討」とか「制圧」と呼ぶことで、殺人者が、とりわけ大規模な殺人を命じたものが、擁護される。殺人を犯したことがいったん認められた上で擁護されるのではなく、殺人が別の行為にすり替えられて伝えられ、あたかも無差別大量殺人など進められていないかのように。

その結果、比較的「善意」の立場に立つ人々からも、とても奇妙な議論が生まれる。

たとえば、英タイムズ紙2005年7月7日付のある記事の見出しには、「西側は、サダム時代の拷問者が復帰したことに目をつぶっている」とある。

英国は、日本とともに、イラクで無差別大量殺人を進める米国を全面的に支持している。英軍自身、殺人行為をイラクで積み重ねてきた。拷問も行なってきた。

ところが、この記事の見出しは、「西側」は野蛮な他人の行為に都合に応じて目をつぶるダブル・スタンダードを大問題として強調することで、自らが犯している無差別大量殺人と拷問を都合良く隠蔽する立場に立っている。しかも、この手の記事は、非常に多い。

「今イラクから撤退したら内戦になる」。占領を正当化するために、しばしば持ち出される議論である。

けれども、これまで、そして今も、米軍を中心とする連合軍が、無差別大量殺人を犯してきたこと、今も殺人を犯しているという事実は、どこに行ったのだろう?

東京でラシードさんの講演を聴いたのは8月7日だった。60年前の8月7日、愛知県豊川市の海軍工廠が集中的な空爆を受け、約2500人が殺された。私が半分の遺伝子を受け継いだ人は、その空爆の生き残りだった。

アジア各地を侵略し、2000万人もの人々を犠牲にし、南京で虐殺を行なった日本は[と「日本」という言葉を使うのには多少の問題はあるが]、広島・長崎に投下された原爆をはじめとする、より強い軍事力による大規模な民間人の犠牲を出した。

「やった側はすぐ忘れるが、やられた側はやられたことを石に刻む」という言葉がある(らしい)。

かつて被ったことから日本が石に刻んだのは、「ついていく相手を間違えるな」、「間違いさえしなければ、やられる側にはもう二度とならない」というおぞましい処世術だけだったのだろうか。

少なくとも、小泉純一郎首相とその周囲の人物、さらに「新しい歴史教科書をつくる会」に参加するような人々にとっては、そうであるように思える。

にやにや笑いを浮かべながら無差別大量殺人を擁護し、市民の資産を売り飛ばすことだけに熱心な政治家たちには、ぜひ退陣してもらわないと、やはりとてもよろしくない。


ラシードさんの講演会は8月15日まで各地で続きます。お近くの方、ぜひ時間を見つけて、参加してみて下さい。スケジュールはこちらをご覧下さい。
益岡賢 2005年8月11日 

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