膨張の準備よし
イスラエル、1948
M・シャヒド・アラム
2009年2月25日
CounterPunch原文
「アラブ連盟のアキレス腱はレバノンだ。レバノンのムスリム優位は人工的なもので、簡単に転覆できる。レバノンにキリスト教国家を作り、南の国境をッリタニ川に設定する必要がある。その国と同盟協定を結ばなくてはならない。それから、我々がアラブ軍団の抵抗を挫き、アンマンを爆撃すれば、トランスヨルダンを一掃することができる。そうすればシリアも墜ちるだろう。さらにエジプトが我々に戦争をしかけてくる気なら、ポート・サイドを爆撃する。戦争をこのように終わらせ、われらが先祖のために、エジプト、アッシリア、カルデアと貸し借りなしにすることができる」
ダヴィド ・ベン=グリオン、1948年
1948年、「土人」に対する最初の体力テストで、シオニストたちはパレスチナの45パーセント近くを制圧し、制圧した土地からパレスチナ人のほとんどを追放し、5つのアラブ・プロト国家の連合軍を撃退した。
しかしながら、シオニストがその栄誉に安んじて立ち止まることはなかった。彼らの関心はアラブとの平和にはなかった。1948年の出来事は、シオニストが何を手に入れられるかを示した。自分たちの側の犠牲はほとんどなしに、パレスチナ人社会を抹殺し、簡単にアラブ人を撃退したのである。
歴史的な瞬間、メシア的な瞬間だった。シオニストたちの多くが、これをいにしえの預言の実現と考えた。弱い、敗北した敵に償いを提供して和平を求めるべきときでは決してないと思われた。
自分たちのみごとな軍事的勝利に勇気づいたシオニストたちの目には最大限の目的が実現可能であるように映り、それを達成しようとし出した。それからシオニストたちは数を増やし、領土を拡大し、中東地域における支配的な勢力になることを目指すことになる。
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1948年、ユダヤ人によるパレスチナの植民地化は始まったばかりだった。その時点でイスラエルには65万人のユダヤ人がいたが、これは、世界のユダヤ人総人口のわずか4パーセントに過ぎなかった。
イスラエルが世界中のユダヤ民族の半分を受け入れる野望を持っていたなら、人口は10倍以上になる。イスラエルを世界のユダヤ人にとっての安全な避難所とすることを約束するシオニストのイデオロギーによると世界のユダヤ人の中でイスラエルの占める割合は劇的に上昇しなくてはならなかった。この、ユダヤ人の「安全な避難所」に、世界のユダヤ人のごくわずかしか暮らしていなければ、シオニストたちにとってきまりの悪いことになる。
さらに、他の二つの目的からも、イスラエルは人口学的な拡大を目指すことになる。領土拡大というシオニストの目標と、近隣諸国に対して圧倒的な軍事的優位を維持する必要性である。
ベン=グリオンの主張では、「70万人のユダヤ人」だけでは、「何世代にもわたり何世紀にもわたってきた夜通しの祈りの頂点に立つことはできない」。イスラエルの治安が外からの脅威に直面しないとしても、「かくも人口の少ない国はほとんど正当性を示せないだろう。というのもこのままではユダヤ人の運命を変えることはできないし、歴史的な誓約を成し遂げることもできないだろうから」。
こうして、1948年直後----実際にはそれ以前から----シオニストたちはイスラエルに何百万人ものユダヤ人を連れてこようと活動した。シオニストの計算では、この規模の人口増大は望ましいだけでなく、必要だし、実現可能でもあった。
シオニストの野望から、イスラエルは1948年に征服した土地以上を求めることになる。ベニー・モリスが書くように、「シオニスト主流派の考えは、以前からずっと、地中海からヨルダン川に至るユダヤ人国家を究極の目標としてきた」。
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様々な折に、シオニストたちは、パレスチナの地に加え、ヨルダン、シリア、レバノンそしてシナイまでを含む、さらに膨張主義的な領土拡大を主張してきた。
1936年10月、パレスチナ分割に関するピール委員会の勧告を受け入れる一方で、ベン=グリオンは次のように述べている。「我々は今このときに我らが最終目的を公表しようとするものではない。我らが最終目標ははるかに遠大なものだ----分割に反対する習性主義者の目標よりもさらに遠大なものである」。
1938年の別の演説でベン=グリオンは自分が抱いているユダヤ人国家の未来像にはシスジョルダン[ヨルダン川と地中海に挟まれた土地]、レバノン南部、シリア南部、今日のヨルダンそしてシナイが含まれていると述べた。10年後、彼はものものしく、「我らが祖先のために、エジプト、アシリア、カルデアとの貸し借りを」なしにすると述べた。
再び1956年10月、セーブル(フランス)で開かれ、イスラエルとフランス、英国が参加した秘密会議で、ベン=グリオンは、中東の地図をもう一度変える「すばらしい」計画----彼自身の言葉だった----を提案した。この計画によると、イスラエルはガザとシナイ、西岸を併合し(イラクがヨルダン川東岸を併合することになっていた)、また、レバノン南部をリタニ川まで併合する(これによりレバノンはもっとコンパクトなキリスト教国家になれる)ことになっていた。イスラエル坊やの野望は限界知らずだった。
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イスラエルとしては、仮に「気前よく」あろうとしたとしてもそうはなれなかったろう。パレスチナ人と近隣のアラブ人が、イスラエルが占拠した領土を取りかえそうとしていたから。
1948年、突然、シオニストたちはパレスチナの社会を消し去ったかに見える。けれどもこれはある程度まで錯覚である。米国の白人入植者とは異なり、イスラエルは先住民族を絶滅させるのではなく、追放した。
エジプトとヨルダン、レバノンのイスラエル国境地帯に集中する汚い難民キャンプに密集して押し込まれたパレスチナの人々が追放された記憶を忘れるわけもなかった。時を経て、喪失の深い痛みに苦しみ、アラブ人とムスリムの同胞の支援を得て、自らを組織し、人口も増えるにつれ、パレスチナの人々はユダヤ人植民地主義者/入植者への闘いを再開した。
実際、イスラエルは1967年6月に、残ったパレスチナの土地を征服することで、パレスチナの人々のレジスタンスを内部に抱え込んだのである。
さらに、長くつらい道のりを経る中で、イスラエルに新たなユダヤ人が移住してきはしたが、イスラエル内にとどまるパレスチナ人が増えたため、純粋にユダヤ人のみのイスラエル国家という性格は人口学的に脅かされることになってきた。
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イスラエルは近隣のアラブ諸国の抵抗にも直面することになる。
アラブの人々にとって、パレスチナの地に植民地主義・植民国家が存在することは認めがたかった。それは、植民者がユダヤ人だからではなく、彼ら彼女らが侵略者であり、帝国主義列強の後押しを受けて自分たちの土地を略奪していったからである。
1967年6月の敗北後と同様、アラブのプロト国家がすぐさま降伏したとしても、人々はイスラエルに反対し続けた。シオニストたちはそれを理解していた。彼らは、イスラムとアラブの心に自分たちが刻みつけたトラウマとなる傷を意識していた。
イスラエルが生き延びるためには、この集団的トラウマが政治的表出を見出しては困る。そこでイスラエルはアラブ民族主義運動が力をつける前に破壊すべくあらゆる手段を用いることになる。ぐずぐずしている時間はなかった。
すぐにアラブ諸国に対して圧倒的な軍事的優位を確立し、それを決定的に示す必要があった。実際1956年と1967年にそれを示し、その結果イスラエルはアラブ世界の政治エリート層に、イスラエルの条件でイスラエルを認めさせることとなる。
この軍事力を確立し、さらに国際法を犯して繰り返しその軍事力を誇示する力を手に入れるために、イスラエルはアメリカ合衆国と「特別な関係」を育む必要があった。
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イスラエルのアラブ人との紛争は、国境をめぐるものではない。
イスラエル国家創立を支持する法的ごまかしの皮を剥げば、このシオニストのプロジェクトは、西洋ユダヤ人の一部の有力勢力による、西洋列強の支援のもとでの、アラブの人々に対する宣戦布告だった。普通の戦争でもなかった。純然たる入植植民地主義として、シオニストはパレスチナの社会を破壊し、イスラム世界の中心をなす重要な地域で人口学的趨勢を劇的に変えたのである。
イスラエルのインパクトはパレスチナ地域にとどまるものではなかった。というのもこれは、より大きなイスラム世界への侮辱であり挑戦だったからである。
その結果、パレスチナの人々、アラブの人々、ムスリムの人々が次第に輪を広げてゆっくりと結集しイスラエルという植民地主義の侵入に抵抗し始めるにつれ、シオニストたちも西洋世界とりわけ米国でユダヤ教とキリスト教シオニストたちを奮い立たせることになる。
シオニストたちはこの入植植民地主義プロジェクトを、あたかも、「ユダヤ=キリスト教」西洋を率いる米国とイスラム勢力との「文明の衝突」であるかのごとく見せかけるべく、疲れを知らずに働いてきた。実際、それこそ、パレスチナ襲撃と中東での覇権確立を永続化し維持するためにシオニストたちが選んだ戦略なのである。
M・シャヒド・アラムはノースイースタン大学経済学教授で著書に「Challenging the New Orientalism」(2007年)がある。
ウェブサイトはhttp://aslama.org
背景がときに混乱した議論があるので、少し昔のことを書いた記事を翻訳してみました。単純かつ否定しようもない事実(といっても青を赤と言いくるめるような、あるいは事実などどうでもよいような田母神やその擁護者のような人物が跋扈する中では「否定しようもない」わけでもないのかもしれませんが):「イスラエルは西洋植民地主義列強の後押しでパレスチナを侵略して作り上げた侵略・植民地主義・入植国家である」。
そこから次の点も派生します:「イスラエルのパレスチナ攻撃・占領拡大・土地収奪はその一環であり、完全に不法・不当なものである」。
これを隠蔽した/忘却したところに成り立つ言葉は必然的に偏向します。さらにこの極めて重要な点を隠蔽/忘却するくらいですから、あからさまな事実関係の歪曲も日常茶飯事になります。
「Alternative Information Center」を主催するミシェル・ワルシャウスキーの著書Programmer le desastre : La politique israelienne a l'oeuvre (Paris: La Fabrique, 2008) が指摘しているそうした例を紹介します。以下、誤った言葉と解説はともにワルシャウスキーの著書から。
「ハマスがガザで権力を横取りして以来・・・・・・」
誤り。ハマスは選挙によってパレスチナ人の過半数の票を得た。この選挙が透明かつ民主的に行われたことは世界中が讃えるところである。ハマスは権力を「横取り」していないばかりでなく、選挙後すぐさま民族団結(挙国一致)政権の結成を受け入れた。そこでは敗者----ファタハとその支持者----が得票率を越えて政権に参加した。
「ハマスが民族団結政権に終止符を打った」
誤り。民主的に選ばれたイスマイル・ハニイェの政府と並行して二重政権をラマラに樹立したのは、パレスチナ自治政府大統領マフムード・アッバスであり、彼は米国政府の圧力をうけてそうした。これを機に、ファタハのメンバーはすぐさま民主的に選ばれた政府を離れた。
「ハマスはガザの分離を宣言し、ヨルダン川西岸地区とのあらゆる関係を断った」
誤り。イスラエル軍の護衛のもとで、ガザでクーデターを起こしたのはマフムード・アッバスであり、クーデターが失敗してアッバスの兵士がエジプトに逃れたあと、彼はガザの行政を停止した。ガザとのあらゆる関係を断つことで、アッバスはイスラエルと国際社会がガザを「敵対的実体」(ママ)と見なすことを認めたのである。ちなみにガザは、150万人の老若男女が暮らす地域で、食事の権利や医療の権利をはじめとするもっとも基本的な権利をイスラエルの政策により否定されている地域である。
「ハマス政府を認めることはできない、というのも、ハマスはテロ攻撃を行っているから・・・・・・」
誤り。大きな誤り。この4年間、ハマスは注意深く一方的な停戦を遵守してきた。そして、(まれになされた)襲撃も、ガザ北部から発射されたロケットも、おもにファタハとつながるアル=アクサ団によるものだった。
「ガザが『ハマス領』だとすると西岸は『ファタハ領』である」
前回の立法議会選挙で、ハマスが西岸でもガザ同様、投票で勝利を収めたことを忘れたのだろうか? そして、マフムード・アッバスの部隊が西岸を支配しているとすると、それはイスラム組織ハマスがどうあっても内戦に向けて坂を滑り落ちていくことを阻止しようとしたためであることを忘れたのだろうか? ハマスが方針を変更して政権を握る日があるとすると(ハマスには政権を取り戻す権利がある)、その時期を決めるのはファタハのギャングたちではない。
[中略]
こうした嘘プロパガンダを聞く耳を持つ人々がいるとすると----左派の男女の中にもいるのだが----それは、進歩的と言われる西洋の人々の中にも以前から浸透している「文明の衝突」というイデオロギーに響くものがあるからである。
しばしばフェミニズムや世俗主義を装って、西洋ではイスラム嫌悪が、賞味期限の切れたいにしえの反ユダヤ主義にとってかわっている。「ユダヤ=ボルシェビズム」にかわって「イスラモ=ファシズム」の言葉が流布し、突如として「ユダヤ」はキリスト教と結びついて、イスラム教徒を排除し、イスラム教徒を「西洋の他者」に押しやる・・・・・・。
ちなみに、しばらく前、東京新聞にマフムード・アッバスを「穏健派」と述べる記事が掲載されていました。
迫害者にとっては、ことを荒立てず、できれば沈黙を守る者たちだけが、善良なる被弾圧者である。
(エリック・アザン著『占領ノート----一ユダヤ人が見たパレスチナの生活』より)
日本のメディアにとって、日本と同様、米国に従順に従う者だけが、「穏健派」である、というわけでしょうか。
■ 『パレスチナ1948・NAKBA』自主上映会
日時:3月29日(日)
第1回 10:00開場 10:30開演
第2回 13:30開場 14:00開演
会場:茅ヶ崎市民文化会館4階 大会議室
(茅ヶ崎駅北口より徒歩8分)
入場料金:500円(要申込)
問い合わせ:湘南オリーブの会
電話 0466-33-9034
mails_shonan@ya2.so-net.ne.jp
これ以外にも各地で様々なイベントがあります。パレスチナ関係のイベント情報は、アル・ガド:パレスチナ/イスラエル関連を中心としたイベント、テレビ番組、書籍、映画などの情報メモをご覧下さい。
■ 反貧困フェスタ2009
とき:2009年3月28日(土)10:00~16:30
雨天の場合は校庭企画を中止します
ところ:千代田区立神田一橋中学校
東京都千代田区一ツ橋2-6-14
(神田神保町、岩波書店となり)
地下鉄「神保町」または「竹橋」より徒歩5分
■ 生活保護問題対策全国会議 北九州集会
「北九州から日本の生活保護行政の未来を展望する」
日時 2009年3月7日(土)
場所 街頭活動 小倉駅前 11時30分~12時
集会 KMMビル 13時 ~16時
小倉興産KMMビル 大会議室
主催:生活保護問題対策全国会議
共催:福岡・北九州生存権裁判を支える会
北九州市社会保障推進協議会
連絡先:093-871-1621