長い記事ですが、コロンビア情勢に限らず国際情勢に関心をお持ちの方には、ぜひ読んで頂きたいものです。コロンビアにおけるおぞましい人権侵害の70%から75%を犯しているコロンビア版「死の部隊」準軍組織に対するイスラエル経由の「国際」支援体制、そして傭兵を使って反対派を極端な暴力で弾圧するという、米国がラテンアメリカで行ってきた典型的なパターンの一つが、よくわかります。なお、原文には、多数のリンクが張られていますが、スペイン語へのリンクやリンク切れも多かったため、割愛しました。ここでの話に関係する、米国による体系的な他国への介入については、ウィリアム・ブルム『アメリカの国家犯罪全書』を、ぜひお読みいただけますと幸いです。益岡が訳したものですが、淡々としたハンドブック的な記述の中に、著者ブルムの意志と人間性が伝わってくる、歴史を見直し、「アメリカ」を見直すために、非常に優れた本だと思っています。
「私は、準軍組織部隊の概念をイスラエルからコピーした」
カルロス・カスタニョ 『我が告白』 2002年
最近出版された自伝によると、1983年、「562」と呼ばれる一年のコースを受けるためにイスラエルに行ったとき、カルロス・カスタニョは、まだ18歳だった。コロンビア人カスタニョは、ある種のピルグリムのために「聖地」を訪れたわけだが、それは、平和を見つけだすためではなかった。コース562は戦争に関するもので、どのように戦争を仕掛けるかに関するものだった。これについて、カルロス・カスタニョは、その後、徐々に才能を発揮し、ラテンアメリカ史の中で、最も熟練し無慈悲な準軍組織の指導者となって行くことになる。
カスタニョがこのような道を歩み始めたのは、その数年前、父親が殺されてからだった。父親は大規模牧場主で、コロンビア最強の左派ゲリラFARC(コロンビア革命軍)が、「税」としての身代金を徴収するために拘束していた。1994年の麻薬取締局が述べるように、「コロンビアのゲリラは、伝統的に、強請や誘拐で活動資金を得ていた。大規模牧場主をはじめとする裕福な個人が主な犠牲者だった」。
コロンビア軍による粗雑な救出作戦の結果もたらされた父親の死に憤慨したカルロスと兄のフィデルは、復讐を誓った。この復讐は、コロンビアの土地所有階級と米国の海外政策の利益にぴったりと一致するものであった。この報復は、今日まで衰えを見せていない。
カスタニョ兄弟は、当初、コロンビア軍のボムボナ部隊に志願し、FARCに共感する人々を密告し、情報を提供し、さらには軍事作戦に参加しさえした。けれども、カルロスより14歳ほど年上だったフィデルは、ただ軍のために働くだけでは、目的を成就できないと考えた。ボムボナ部隊の士官の一人が、彼らを地元の「カルソ」と呼ばれる準軍組織「死の部隊」を紹介した。そこで、兄弟は殺人に耽り始めた。地元警察が彼らを捜査し始めたとき、さらに秘密裡に活動する必要性を悟った。米国に支配される多くの第三世界でと違い、コロンビアでは、警察と司法が、ときに軍と独立の行動を取ることがある[訳注:例えばインドネシアでは1999年初頭まで警察は軍の一部だった]。
報道によると、その後、フィデルは自ら「ロス・タングエロス」という準軍組織死の部隊を創設した。この名前は、自分の農場「ラス・タンガス」から取ったものである。ロス・タングエロス」は、1980年代後半から1990年代前半に、150以上の殺人を犯した。自伝の中で、カスタニョは、この時期に自分が犯したあるいは命じた殺害について、包み隠さず放している。この殺人の習慣を、カスタニョは自ら「都市のゲリラ」の日課と呼ぶようになった。ある虐殺で、ロス・タングエロスは近くの町から何十人ものカンペシノたちを連れてきた。自分たちの農場に連れてきた後、「彼らは一晩中残忍な器具を用いてこれらの人々に拷問を加え、それからそのうち一部の人々を射殺し、他の人々は生きたまま土に埋めた」。ロス・タングエロスは、コロンビア中に散らばる他の死の部隊とともに、9000人を擁する準軍組織へと成長し、現在では、1日平均して13人もを殺害している。
カスタニョの父親がFARCに拘束されていた時に、コロンビアの地方部には、軍や大土地所有者上流階級のために活動する小規模な準軍組織が多数あった。これらの多くは、地方の富裕層を守るだけのものであったが、中には、コカイン商売で金をもうけた「ニュー・リッチ」を左派ゲリラの「課税」から守るグループもあった。これらのグループの一部は、犯罪ギャング団やそのリーダーの名前を冠していた。これらのグループは「自警団」と自称していたが、コロンビア軍と共同で作戦を行うことが多いことから、「準軍組織」と呼ぶ方が適切である。ここでは、準軍組織と言う言葉を用いることにする。
1980年代の準軍組織は自暴自棄で訓練も不十分だった。ときに、共倒れになるような縄張り争いを行っていた。左派ゲリラの継続的な前進に対して攻撃を仕掛けるためには、準軍組織は団結し政治的・軍事的訓練を受ける必要があった。こうした準軍組織は、基本的に、米国政府の外交政策の意向に沿った活動をしていたが、米国政府がこれらの「死の部隊」戦略を表立って支援するわけにはいかなかった。けれども、他に出来る国が存在したのである[訳注:例えば、カンボジアでヘン・サムリン政権が樹立された後、ポルポトを支援するために、米国は中国とタイを経由した]。
実際にどうやってカルロス・カスタニョがイスラエルに行ったかは、彼を訓練した組織がどこなのかと同様、今も謎である。けれども、誰がそれを仕掛けたかは別にして、コース「562」がカスタニョに強い影響を与えたのは確実である。「何かがピンと来た。それから、私の振舞いは変わった。・・・イスラエル旅行後、この戦争に対する私の見方は大きく変化した」と、ベストセラーとなった自伝の中で、彼は述べている。この自伝は、スペイン人ジャーナリスト、マウリシオ・アラングレン・モリナが編集した一連のインタビューからなる。
イスラエルで、カルロス・カスタニョは目的意識の高い優等生だったようである。この訓練生時代について、彼は次のように回顧している。
普通思われるのとは逆に、私たちは、軍事訓練よりも教室の勉強の方に、より熱中した。授業では、世界が稼働する通常のやり方と通常でないやり方についてを協調していた。・・・私が自分の教育の仕上げを行ったのは、ここでである。・・・[教師たちは]私たちに適切な振舞いをするよう協調した。服装について、そして人前で話すときについて。私はまた、ホテルに入ってチェックインする方法の授業を受け、空港の出入国管理警察のところでどのように振舞うかについて分析した。図書館で本を読み、個々人が持つべき自尊心と安全について長い討論の時間を費やした。これは、自分自身を尊重し自信を得るためにこの上もなく貴重な経験だった。困難な脅迫的状況に勝利するために。
熱心な生徒だったカスタニョにとって最も重要だったのは、「世界の武器商売がどのように動いており、どうすれば武器を購入できるかについての講義を聴講した」ことであった。
そして、むろん、軍事に関する部分もあった。
私は市街戦、身の守り方、人の殺し方、誰かが自分を殺そうとしているときの対処法などについて指導を受けた。・・・装甲車を止める方法、標的の中に入るために粉砕爆弾を使う方法を学んだ。多重爆弾投射機の使用訓練を行い、RPG−7の正確な発砲法や窓越しに砲弾を発射する方法を学んだ。
補足コースとして、テロリズム、対テロリズム、暗視スコープ、パラシュート降下も学んだ。手製爆弾製造法も。つまり、イスラエルのノウハウは全て学んだのだ。けれども、誓ってよいが、このうちコロンビアの戦争で適用したものはほとんどない。私はイスラエルで非常によい基礎教育を受けた。とりわけ、何よりも大切なこと、つまり恐怖をコントロールする方法を学んだ。・・・
カスタニョはまた、イスラエル国防軍の最上層部の許可なしには実施できない訓練についても述べている。例えば、カスタニョの次のような話である。「空挺作戦を行い、夜間に地中海の島にパラシュート降下した。このとき、自由落下速度を調整するためのバラストとして重りを身につけなくてはならなかった」。けれども、本稿の筆者がイスラエル日刊紙ハーレツ紙に問い合わせたとき、同紙の関係者は、その真実性を疑っていると述べた。
彼の自伝によると、イスラエルで彼が行ったのは勉強だけではない。自由な時間には、イスラエルで軍事訓練を受けていたコロンビア軍兵士と会っていた。西半球で最悪の人権侵害を犯している軍の兵士たちが、中東で最悪の人権侵害を犯している軍による訓練を受けていたのである。しかしながら、これこそが、その後、非常に役立つことになるコネクションであった。
「シナイ砂漠で、私はコロンビアから来た軍人と会う機会があった。コロンビア軍部隊の兵士たちである。部隊の全員と会ったわけではないが、休息日に、一緒に出かけ、士官や軍曹たちと時を過ごした」。
カスタニョは、イスラエルにおける自分の啓示を次のように語っている。「コロンビアに戻ったとき、私は別人になっていた。・・・イスラエルで無限に多くのことを学び、自分の本質、人間性、軍事的達成の一部をイスラエルに負っている。とはいえ、繰り返さなくてはならないが、イスラエルで私が学んだのは軍事訓練だけではない。イスラエルで、コロンビアのゲリラを壊滅させることが可能だと確信するに至った。ある民族が世界全体から自分を守ることができるということを理解しはじめた。戦争で失うものがある人に「大義」をもたらし、その人物を私の敵の敵に仕立て上げる方法を学んだ」。
カスタニョがコロンビアに戻ってから間もない1985年までに、当時続々と生まれていた準軍組織の一部は、完全に、資金を麻薬取り引きに依存するようになっていた。実際、準軍組織の中には、当初から、麻薬取り引きを保護することでのみ成長したものもある。公正を機すために言っておくと、準軍組織の中にも、不正麻薬取り引きの保護をはじめとする麻薬関連の商売に手を出していない組織もある。もともと、裕福な土地所有者や大規模牧場主などの私設ガードとして生まれたものもある。1989年にコロンビア警察(DAS)が出した秘密レポートには、「準軍組織内への麻薬取り引きの汚染」という項がある。そこでは、準軍組織が麻薬に手を出し始めた場所と時間さえ特定されている。とはいえ、別の証拠(下記)では、準軍組織はこの報告にあるよりも早い時期から麻薬に手を出していたと言う。「1985年に準軍組織が抱えていた経済危機は、麻薬取り引きと同盟を結ぶことで解決された。・・・この同盟は1985年半ばに始まったものである。このとき、準軍組織がコカインを満載したキャンピングカーを捕獲した。・・・ヘンリー・ぺレスを通して麻薬商人たちと話を付けた後、準軍組織は、フォードアのトヨタ・ピックアップ・トラックと引き換えに、キャンピングカーと麻薬を持ち主に返した・・・」。ヘンリー・ぺレスは、カスタニョと同じく、カルソ準軍組織の一部であった。この組織は、当時、マグダレナ・メディオ自警団と呼ばれていた。実際、カスタニョは、ヘンリー・ぺレスを、兄のフィデル(DAS文書で名前をあげられていた)および前述した、カスタニョ兄弟を「死の部隊」に紹介したボムボナ部隊のアレハンドロ・アルバレス・エナオ少佐とともに、ヘンリー・ぺレスを準軍組織の「父」と呼んでいる。
このとき以降、これら準軍組織は、メデジン・カルテルや、ライバルのカリ・カルテルの活動を防衛して、拡大して行った。
米国麻薬取締局(DEA)もまた、事態を注視していた。DEAのエージェントは、少なくとも1993年以来、準軍組織と麻薬取引の関係に気付いていた。「情報が示すところによると、コロンビアの私設準軍組織の中には麻薬取引組織と協力しているものがある。1980年代を通して、準軍組織の中で最も重要な地位を占めるマグダレナ・メディオ自警団は、メデジン・カルテルの組織と緊密な関係を保っていた」。
その一年後、別の報告書の中で、DEAは左派ゲリラと麻薬取引との関係を分析し、正確にも次のように述べている。「コロンビア治安部隊が繰り返し繰り返し、FARCの部隊が麻薬取引活動に関与していると主張しているにもかかわらず、コロンビアでの麻薬製造、輸送、流通に対する、ゲリラ自身の関与は限られている。・・・FARCやELN(民族解放軍)の全国区指導者たちが、方針として、自ら独自に麻薬製造や流通に関わっているという信頼できる証拠は何もない。さらに、FARCもELNも、米国やヨーロッパにおける不法薬物の輸送や流通、市場に関わっていることも知られていない」。つまり、左派ゲリラは、自分の支配地域におけるコカ製造や輸送に課税はするものの、コカイン精製や輸送・販売に自らは関与していない。これは、準軍組織が、コカイン精製工場を過去も現在も運営し、国外へのコカイン輸送に積極的に関わっていることと対照的である。その後、確認されてはいないが、ゲリラが麻薬取引により大きく関わっていると示唆する情報もある。
準軍組織の指導者たちは、コロンビアに秘密でない訓練学校を設置した。1993年のコロンビア警察(DAS)諜報報告書は、これを「暗殺者学校」と呼んでいる。そうした学校のうち最初のものは「エル・テカル」と呼ばれていた。ここでは準軍組織の第一集団が訓練され、それが地方部へと深く浸透し、麻薬取引からさらに大きな資金を得、別の地域でさらに訓練校が設置されて行った。例えば、「セロ・ウノ[0・1]は、プエルト・ボヨカ=ザムビオ通りから9キロの場所に位置しており」、また、「エル・シンクエンタ[50]」ーカスタニョの本では「ラ・シンクエンタ」となっているーは、エル・デリリオとアリサ(サンタンデル)の間の道にあった。さらに、バーか売春所を思い起こさせる「ガラクシアス[ギャラクシアス]」といった名前の「衛星学校」もあった。DASの報告書によると、「これらの学校を卒業した者たちは、「準軍組織=麻薬取引」組織の中に取り込まれ、そこで4つの任務を遂行することとなった」:
麻薬業者のコミュニティと財産を、ゲリラ及びライバル・グループから守る
カルテルと準軍組織のボスを個人的に保護し、ボディガードとして仕える
組織の施設でコカインを製造する
愛国同盟[FARCと関係する合法的な左派政党で政治的暗殺の結果メンバーが壊滅した米州大陸唯一の政党]の党員及び麻薬取引に反対する政府関係者や政党のメンバーを攻撃する
これらの「暗殺学校」で訓練を受ける資格を得るためには、ヘンリー・ぺレスやその共犯者(いずれもカスタニョ兄弟の友人であった)たちのインタビューを受ける必要があった。生徒たちは「その地域の牧場主や農場主、麻薬商人からの推薦」により選ばれ、次のような質問を受けた。「イデオロギーは?父親や母親がゲリラであるとわかったとき、父母を殺すことはできるか?」。候補者たちは、戦争が永続するかもしれないと教えられ、また、唯一の敵は共産主義であると教えられた。それから、「候補者の情報を全て評価し検証した後に、その候補者は健康診断を受け、基本訓練コースに編入された。訓練の第一段階で、新人たちは、財務部門(麻薬製造)で活動するか、治安部門(ボディガードやパトロール)で活動するかに割り当てられた。訓練コースでは、a)カモフラージュ技術、b)小武器の扱いと行進、c)爆発物、d)自己防衛、e)身元の隠蔽技術、f)ボディガード技術、g)諜報、h)対抗諜報、i)通信、j)応急処置が教えられた。
しかしながら、コロンビア人たちによるこの訓練だけでは十分でなかったようである。そこで、1987年に、イスラエルの支援が求められた。このとき、恐らくコロンビア軍が仲介したものである。
主要メディアでは、16名のイスラエル人と数名のイギリス人訓練官は、「傭兵」と呼ばれた。これは、恐らく、メディア向け報告を書いたコロンビア警察DASのエージェントの偏見を反映したものである。けれども、これらの外国人訓練官たちは、「傭兵」と呼ぶには、正式の当局間関係を持ち過ぎていた。これらの訓練官があるレベルでの政府の承認のもとで活動していたことは明らかである。イスラエル政府は確実であり、さらに、以下で見るように、米国の政府組織の一部も承認していたと思われる。これらの訓練コースに参加したカスタニョは、コロンビア軍のメンバーがコースを準備したと述べている。このコースは、イスラエルの有名な士官ヤイル・クラインの手になるものであった。
このときも、訓練生候補者を選んだのはカスタニョの同盟者であるヘンリー・ぺレスだった。このときは、麻薬王ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャも候補者選択に関与した。カルロス・カスタニョはコースに参加し、彼等の組織は50の奨学金のうち5つを手にした。DAS文書によると、
プエルト・ボヨカの「エル・シンクエンタ」校の「パブロ・エミリオ・グアリン・ヴェラ」と呼ばれるコースで、イスラエル人の一団が訓練を行った。
これらの訓練官たちは、カルタヘナ(ボリバル)経由でコロンビアに入国して45日間この地域にいた。当初、彼等はプエルト・ボヨカの「エル・ロサリオ」宿舎にいたが、その後、ファンタシア島の贅沢な田舎家に滞在した。
また、カルロス・カスタニョが行ったように、最も優れた生徒たちがイスラエルでのさらなる訓練を受けることができるよう、さらに30の奨学金が提供された。「これらの訓練官たちが述べたところによると、最も成績の良い30名の生徒を、イスラエルで教えられる特別コースの追加訓練に送ることになっていた」。イスラエルに30名の準軍組織兵士を送る−これには明らかに、イスラエル軍そしてイスラエル政府の許可が必要であった。継続的に戦争状態にある国で、そうでないとは想像しにくい。
さらに、ニカラグアのコントラ・コネクションも存在した。「イスラエル人通訳のテディは、我々の情報源に、コースを短くし急がなくてはならないと述べた。というのも、訓練官たちは、ホンジュラスとコスタリカで、ニカラグアのコントラに訓練を与えると約束していたからというのだ」。イスラエル人訓練官たちが、たんに「雇われ」傭兵であると考える人々は皆、この引用をしっかり分析する必要がある。当時、ホンジュラスとコスタリカのコントラ・キャンプに入れたのは、米国政府の明示的な承認−特に国務省とCIAの承認−を有する者だけであった。武装しているとなると、なおさらそうである。このことから、これらイスラエルの訓練官たちが、イスラエル及び米国政府双方の最上級レベルから承認を受けていたことがわかる。
この時期、そして現在に至るまでも、コロンビア政府は一枚岩ではなかった。今日でも、全面的な米国の影響下にありながら、環境及び人権オンブツマン局といった政府の省庁は、米国国務省が作成し、コロンビア大統領あるいは関係官庁を通して伝えられる方針に従うことを拒否している。コロンビア政府の司法と警察が、準軍組織の躍進に憂慮し、1990年にはカスタニョの家宅を捜索して、24のバラバラになった遺体−その中には拷問を受けた形跡がある遺体もあった−を発掘したことなどは、ここから理解できる。
また、他の問題もあった。メデジンとカリの麻薬カルテルの間で競争が激化していた。1993年のDEA諜報報告によると、「1990年までに、理由は今も不明であるが、マグダレナ・メディオ自警団とメデジン・カルテルは深い敵対関係となった」。元の仲間だったメデジン・カルテルの親玉パブロ・エスコバルは、今や、米国諜報エージェンシーとDEAの支援を受けたコロンビア政府に狩り出される立場に置かれていた。カスタニョ兄弟は、新たな「MAS」[誘拐者に死を]という組織名のもとで、コロンビア政府と米国によるエスコバルの狩り出しを助けていた。エスコバルは、その結果、死亡した。カルロスは、エスコバルを殺害した警察部隊との通信ラインを維持してさえいた。というのも、彼は、「パブロ・エスコバルを殺害した捜索隊の司令官である有名な警察大佐ウゴ・マルティネス・ポベダの弟」と知り合いだったからである。二人とも、以前同じ時期にイスラエルで過ごしたのである。
エスコバルがシーンから消えた後、カスタニョ兄弟は、「コロンビア自衛軍連合」という名のもとに準軍組織をまとめた。スペイン語の省略形で、AUCと呼ばれている。ワシントン・ポスト紙のスコット・ウィルロンは、AUCについて次のように述べている。
これらの「死の部隊」からコルドバとウラバの農民自衛軍(ACCU)が現れた。これは、コロンビア中の私設軍隊の連合であるAUCの中で最古で最大のものだった。これは、カルロス・カスタニョの新たな指導によるものであった。彼は、地域的な自警団を全国的な政治運動へと変容させたのである。
これは劇的な効果をもたらした。準軍組織は数千人から9千人あるいはそれ以上の規模に成長し、タイム誌が2000年に報道したように、「AUCの報復を恐れたことを一つの理由として、この10年間に、少なくとも100万人の農民が、自分の家を逃れた」。ニカラグアのコントラや、エルサルバドル及びグアテマラの「死の部隊」同様、コロンビアの準軍組織は極端な暴力を使って人々を恐怖に陥れることで知られている。少なくとも一度、準軍組織は、犠牲者を拷問し殺害する際に、チェーンソーを用いている。
[訳注:米州機構による1999年のコロンビア人権調査報告は、次のように述べている。「1996年2月21日、アンティオキア州トゥルボ行政区のラス・カニャスのコミュニティで、準軍組織ACCUのメンバーがエディルマ・オカンポと娘のステヤ・ジルを拷問し殺害した。準軍組織−その一部はフードをかぶって顔を隠していた−は、午前10時半頃に犠牲者の家に現れた。ステヤの子供3人も家にいた。準軍組織のメンバーは犠牲者の手を縛り、ゲリラであるがゆえに、特別な治療を加えると述べた。エディルマとステヤの2名の女性は家から約100メートル連れ出され、子供たちの前で殴打された後、頭を切り取られた。それから犠牲者の腹部を、腰から首まで切り開いた。そして、ステヤの遺体をエディルマの遺体の上に載せ、コミュニティの他の住民に対して、同じようになりたくなかった、立ち去れと命じた。これらの行為は犠牲者に対しては物理的拷問を、目撃を強要され同じような運命になると脅された者たちに対しては精神的拷問を構成する」。]
一方、準軍組織が損失を被ることもあった。1994年、当時準軍組織の指導者だったカルロスの兄フィデル(「ランボー」として知られていた)が、−カルロスによると−コロンビア北部で起きたFARCとの偶発的戦闘で殺されたのである。けれども、フィデルが本当に死亡したかどうかについては疑問もある。米国国務省の中には、フィデルが今も生きていると考えている者もいるようであり、最近現れた記事では、彼はイスラエルにいるという噂もある。フィデルに関する事実がどうであれ、それ以後、カルロスが準軍組織トップの地位を引き継ぎ、準軍組織はさらに成長して、初歩的な空軍さえ備えるに至った。空軍は、CIAのブラック・プロパガンダが、これまでずっと、ゲリラが有していると述べていたものである。CIAは、それにより、コロンビア政府への軍事援助をいっそう増大させようと主流メディアを扇動していたのである。
コロンビアでは、黒い狙撃ライフルを至るところで目撃する。米国の支援を受けている軍と国家警察は、ともにそうしたライフルを用いている。けれども、このライフルは米国製のM16ではなく、著名なイスラエルのガリル狙撃ライフルである。これは、ロシア製カラシニコフを模倣したものであるが、ラテンアメリカに流通しているのは、より小口径で高速のさらに面倒な、M16と同じ223ラウンドのものである。ガリル狙撃ライフルはイスラエルの軍事工場で1972年以来製造されており、大きな成功をおさめている。けれども、イスラエル軍自身は、イスラエル内外の作戦で、あまりこのライフルを用いていない。というのも、イスラエル軍は、無料で米国からM16ライフルを入手するからである。
けれども、ラテンアメリカでは、グアテマラ政府もコロンビア政府も、ガリル・ライフルを主要な武器として用いている。グアテマラでは、1980年代、グアテマラ軍が無数の虐殺を農村部で繰り返していたとき、米国は、グアテマラ軍に表立って武器を提供しているように見られることを避けたがっていた。そこで、イスラエルが肩代わりをし、武器を提供するだけでなく、グアテマラの山岳地にある比較的紛争のないコバンに弾薬工場を建設さえした。これによりイスラエルはかなりの利益をあげたが、グアテマラにとってはそんなに美味しくはなかった。工場周辺はしばしば霧に包まれ、製造された弾薬はしばしば欠陥品で誤射が生じた。
コロンビアでは、イスラエル軍事産業は、単に弾薬工場を設けて弾丸を製造しただけでなく、ボゴタに、ガリル狙撃ライフルの製造工場され建てた。コロンビアで使われているガリル狙撃ライフルのうち、イスラエルから輸入されているのは一部に過ぎない。誰がこうした費用を支払っているのだろうか。コロンビア?いや、もう一度考えてみよう。イスラエルの狙撃ライフルに対する支払いは、米国がイスラエルとコロンビアに提供する軍事援助によって支払われているのである。こうして、知らず知らずのうちに、今一度、米国の納税者は、コロンビアの人々に血を流させる費用を負担している。
実際には、ゲリラは空軍を有していない。一方で、準軍組織は空軍を今も保有している。1990年代後半までに、準軍組織はヘリコプター数機と、整備技師、パイロット訓練を手にした。ヘリコプターの購入と維持には膨大な費用がかかるが、コロンビアでの戦争には非常に有用である。まもなく、カルロスはそれを知った。自伝によると、1998年のクリスマス休暇の際、FARCの部隊がカルロスのキャンプを急襲した。このとき、彼を準軍組織のヘリで救出したのは、シシリー島生まれでイスラエルで訓練を受けたパイロットと準軍組織の司令官サルバトレ・マンクソであった。
カルロスの自伝及び多数の報道によると、カスタニョはしばしば秘密裡に政府関係者と会っていた。2000年までには、こうした面会は公に報道されるようになった。2000年11月6日、カスタニョは、当時のアンドレス・パストラナ大統領政権の内務大臣ウンベルト・デ・ラ・カイェと面会した。この面会の結果、カスタニョは、準軍組織が捕虜として拘束していた国会議員7名のうち2名を釈放した。この文章を書いている現在、後述するように、カスタニョとマンクソは、アレバロ・ウリベ大統領のコロンビア新政府と交渉中である。
準軍組織が他の準軍組織を吸収して拡大するにつれ、武器がさらに必要となる。その供給源は幾つかある。そのうち一つは昨2002年5月に知られることとなった。武器の最大の供給元がイスラエルであるという点について、読者は驚かないであろう。イスラエルの武器商人たちは、長年にわたって隣国パナマととりわけグアテマラで営業している。イスラエル武器商人経由の取り引きのいくつか個別のものの詳細については正確さが疑われてもおり、また、いまだに全容は明らかではないが、次の一点だけははっきりしている。一連の身元詐称などにより、イスラエル軍と関係しグアテマラに拠点を置くイスラエル企業GIRSAは、3000丁のカラシニコフ・ライフルと250万発の銃弾を購入し、これを、米国のバナナ企業が管理する港を通してコロンビアに持ち込み、準軍組織に手渡している。
カルロス・カスタニョがイスラエルでの訓練について言ったことを思い起こすとよいかも知れない:「世界の武器商売がどのように動いており、どうすれば武器を購入できるかについての講義を聴講した」。彼はイスラエルで、武器購入のためのコネクションも作ったのだろうか。
この武器取引には、幾重にもわたる事実隠蔽と関与否認の幕が張られている。コロンビア警察がこの取引を暴いたが、誰も起訴はされなかった。何が進んでいるかについて知っていたのはイスラエルと準軍組織だけのようであった。武器を売ったニカラグア警察は、それをイスラエル製のミニ−ウジスとジェリコ・拳銃と取り引きするものだと考えていた。これに対し、元コロンビア大統領セサル・ガビリアが率いる米州機構の調査団は報告書の中でニカラグアを非難している。最近になってコロンビアの準軍組織を「テロリスト」リストに加えた米国国務省は、ウェス・カリントン報道官を通して、国務省は、この全自動狙撃ライフルが、米国のコレクターのところに行くのだと考えていたと発表した!
ウリベ大統領−カスタニョ・コネクション
コロンビアのアレバロ・ウリベ・ベレス大統領は、カスタニョ同様、麻薬取引を行っていた父親を、FARCにより失った。ウリベの場合は、FARCが攻撃した際、自分の牧場で戦って死亡した。他にも、この二人には似た点がある。カスタニョ同様、ウリベ一族もコカイン商売と密接な関係をもち、コカイン商売に対してヘリコプターの貸し出しさえ行っていた。実際、ウリベの父親は、悪名高いコカイン精製工場トランクイランディアに関与していた件で起訴されている。同工場がDEAとコロンビア警察が共同の作戦で壊滅されられた後である。1980年から1982年まで、ウリベはコロンビアのシビル・アビアシオン(アエロシビル)の局長であり、コロンビア全土の航空ライセンスを統制していた。当時、コロンビアの麻薬商売はほとんどが小型航空機で行われていた。1990年代半ばに、ウリベがアンティオキア州の州知事だったときには、CONVIVIRと呼ばれる準軍組織の設置を支援した。準軍組織のボスであるサルバトレ・マンクソはCONVIVIRで働いていたと噂されている。
準軍組織の合法化
前回のコロンビア大統領選で、「浄化」されたウリベが当選し、米国国務省はこれを消散した。ウリベ政権の計画の多くは、米国が作り出したランド・コーポレーションの研究に基づいている。ランドの研究とウリベの政策の中心は、コロンビア政府の支援を受けた大規模な、文民防衛/政府の情報提供者の創生である。ランド社の報告は、「プラン・コロンビア」の全てと同様、まず米国で執筆されている。この研究では、あらたな「コロンビア文民防衛」対ゲリラ機構を、ペルーの「ロンダ」や以前のグアテマラの「PAC」に基づいて構想している。これらは、軍の監視のもとで、「文民」が、各地の対ゲリラ兵士として従軍するものである。ペルとグアテマラの双方で、これらはゲリラの規模を大規模に縮小することに貢献したが、巨大な代償のもとにであった。すなわち、大規模な人権侵害を犯したのである。2001年6月13日にこのランド報告が公開される際、著者のアンヘル・ラバサとピーター・チョークがこのアイディアを述べたときに、ラバサは、現在の準軍組織機構を解散し、今度は軍の直接の統制のもとに、新たな「文民」防衛部隊に再編することができると述べている。
カスタニョ/マンクソの起訴
AUC指導陣がこの機構再構成計画に確実に協力するようするため、また、米国のリベラルな議員を、準軍組織に対する起訴を行うふりをすることによりプラン・コロンビアに協力させるため、米国のジョン・アッシュクロフト司法長官は、2002年9月24日、カルロス・カスタニョとサルバトレ・マンクソ、そしてフアン・カルロス・シエラを、1997年に17トンのコカインを米国と欧州に持ち込む輸送の手配をしたとして、米国政府により起訴されていると発表した。準軍組織がコカインを密輸していることは、別に米国にとってニュースではなかった。というのも、米国の文書は、1993年から、これについて確認しているからである。ところで、コロンビア政府はAUC指導陣を逮捕したであろうか?結局のところ、コロンビア政府は米国の開発援助を何百万ドルと受け取っており、ほとんどの場合、米国と手を携えて行動している。そのコロンビア政府は、カスタニョとその仲間達を逮捕するかわりに、2002年11月24日には、コロンビア発のニュースで、コロンビア政府が彼らと全面的な交渉に入っていることが伝えられている!
カスタニョとマンクソは、コロンビア政府のために一手を打った。コロンビア軍との「停戦」を宣言したのである。準軍組織は常にコロンビア軍と協力して戦闘を行っており、軍と悶着を起こすのは、何らかの犯罪商売を巡って軍と派遣を競ったときの小競り合いがあったくらいである。けれども、この「停戦」は、コロンビアで、そしてより重要なことには米国議会に対して、プロパガンダ上の効果があった。
本原稿を書いている現在、ウリベと米国大使館とが自らの望みを実現できるとするならば、AUCはAUCとしては解散し、コロンビアで合法的な「農民兵士たち」になることになるだろう。軍の訓練を受けながら、村に住み、軍基地には駐留しない「兵士」である。かくして、カスタニョの部下たちは再訓練を受け、合法化されて、米国の直接支援によりコロンビア軍の庇護のもとで対ゲリラ作戦を展開し、その血塗られた手は米国国務省のPRで洗い流されることになる。
そうなると、イスラエルはもはやコロンビアでは不要となる。とはいえ、イスラエルは、ガリル狙撃ライフルのビジネスを続けはするだろうが。そして、実際、イスラエルは自分たちがコロンビアにいたことが忘れられることを望むであろう。というのも、イスラエルの利害が、コロンビアで続く惨劇に対する責任の一部を負うことは疑いないからである。コロンビアでは一日20人もが殺され、その70%が準軍組織の手になるものである。過去10年間に数万人もが殺された。そして、犠牲者のほとんどは、実際のゲリラ戦闘員ではなく、ただ単に、ゲリラに対して共感を抱いていると疑われただけで殺されたのである。
不幸にして、世界のどこか別の新たな場所で、右翼準軍組織集団に対する訓練が行われることが予想される。そして、イスラエル政府とそのエージェントは、米国政府が直接行うには不快すぎる作戦を、喜んで担当するだろう。
ジェレミー・ビッグウッドはワシントン在住のジャーナリストで、ラテンアメリカでの取材と記事執筆に多くの経験を有している。また、米国における情報公開法の利用についてえのエキスパートでもあり、それにより検閲を受けた政府文書の公開を実現している。熟練した写真家でもあり、ナルコ・ニュースのオーセンティック・ジャーナリズム・スクールの教授として、昨年2月には、ナルコ・ニュースのフォトエディタの役割も務めた。