地上唯一の超大国は、決して謝罪しない

ウィリアム・ブルム
ローグ・ステート
『アメリカの国家犯罪全書』2003年3月刊行
第25章


私はアメリカ合衆国について決して謝罪しない。事実がどうであるかはどうでもよい。
ジョージ・ブッシュ[1]

キューバ

米国地方判事ジェームズ・ローレンス・キングは、1997年12月17日、次のように述べた。 キューバは「国際法と基本的人権をけしからぬまでに軽蔑し、国際空域で四名の人間を殺害した」。 そう宣言したあと、彼は、フロリダ在住キューバ人パイロットたちの家族に1億8760万ドルを与える決定を下した。 このパイロットたちは、1996年2月、キューバを目指したエアー・ミッションの遂行中に、キューバのジェット機に撃墜されたのである[2]。 (実際にキューバ政府は、世界中のすべての政府が同様の状況で行ったであろうことを実行したにすぎない。 キューバ政府は、航空機は、重大な攻撃意図をもってキューバ領空を侵犯したとみなし、「あなたたちは危険を冒している」と、明確な警告をパイロットたちに向けて発した。 同じ組織の航空機はそれ以前にもさらにキューバの領空深く入り込んだことがあり、キューバから警告を受けていた。)

1996年11月、連邦政府は各家族に、30万ドルの頭金を支払った。 この資金は、凍結されたキューバ資産から得られたものであった[3]。

これが、正義、ただし反共式、というものである。

けれども、1999年5月31日ハバナでのキューバによる訴えは、米国政府に完全に無視された。 これは、米国政府がキューバに対して続けてきた40年にわたる「戦争」でキューバ市民が被った死や負傷について、米国に1兆8110億ドルの賠償を求めるものであった。 資料は、キューバ内での武装ゲリラ支援、1961年のプラヤ・ヒロン侵略、グアンタナモの米国海軍基地からのキューバ転覆計画、伝染病の持ち込みなど、色々なアメリカの「攻撃行為」について述べていた。

キューバは、米国の行為により殺された3478名につき一人3千万ドルの、そして負傷した2099名につき一人1500万ドルの直接補償を求めているという。 さらに、キューバ社会が引き受けてきた殺されたり負傷した人のための費用に関して、殺された人一人につき1千万ドル、負傷した人一人につき500万ドルを求めている。 この金額は、米国のキング判事が四名のパイロットについて決めた一人当たり金額よりも「はるかに少額である」と文書は指摘している。

キューバ政府官僚は、訴訟の書類を、ハバナの米国利益代表部に持っていった。 アメリカ人たちは、受け取りを拒否したという。 キューバ政府は、この件を、国際的な場に持ち出す計画であると発表した[4]。

ベトナム

1973年1月27日、パリで、米国は、「ベトナムにおける戦争の終結と平和回復に関する協定」に署名した。 米国が合意した原則の中には、次のような、第21条がある。「米国は、その伝統的政策を追求し[ママ]、ベトナム民主共和国[北ベトナム]およびインドシナ全域の戦争の傷をいやし、戦後の再建をはかるために寄与するであろう。」

その五日後、ニクソン大統領は北ベトナム首相にメッセージを送ったが、その中で次のように述べていた。

「(1)アメリカ合衆国政府は、いかなる政治的条件もなしに、北ベトナムの戦後 復興に貢献する予定である。 (2)米国における予備的研究では、戦後復興に米国が貢献するための適切なプログラムは、五年間にわたる32億5千万ドルの補助金となるだろう。」[5]

それ以来、約束された復興支援金はまったく支払われていない。そして今後も決して支払われないだろう。

けれども−ここで深く息をつかなくてはならないが−ベトナムは米国に補償金を支払っている。 1997年に、敗北した南ベトナム政府に対してアメリカが行った食料とインフラ支援の[南ベトナムが残した]負債およそ1億4500万ドルの支払いを開始したのである。 つまり、ハノイは、自らに対して米国が仕掛けた戦争の費用を、米国に弁済しているのだ[6]。

どうしてこんなことが起こりえるのだろう?妥当な法律用語では「強請」という。 ワシントンが用いた強請屋は、世銀、IMF、輸出入銀行、パリ・クラブ等々の国際金融マフィアである。 ベトナム側は、拒否できない提案を突きつけられた。 支払いを行うか、我々のゴッドファーザーの手ですでに経験している相当な妨害をすら越える鋭い経済的拷問を受けるか[7]。

ワシントンのベトナム大使館(オフィスビルの中の小さな事務所である)で、報道担当第一書記官レ・ズン氏は、1997年、著者に、この問題およびニクソンの支払われなかった数十億ドルの問題は、ベトナムではいささか感情的な問題であるが、ベトナム政府は世界のやり方を変えるには無力であると述べた。

ニカラグア

何年にもわたって、米国とその手先のコントラ傭兵部隊に包囲されたニカラグアは、1984年、世界法廷(国際司法裁判所)に提訴した。 世界法廷は、オランダのハーグにある基本的な国際司法組織であり、ニカラグアは、港の機雷封鎖を含む継続的攻撃の停止を求めたのである。 1986年、法廷は、米国の行為は様々な理由で国際法に反しているとし、米国政府は、「それらすべての敵対的行為を速やかに停止し控える義務を負い」、「ニカラグア共和国が被ったすべての損害に対して賠償を行う義務がある」と宣言した。

提訴を予期していたレーガン政権は、相応の正しい対応をとった。 ニカラグアが提訴する三日前の1984年4月6日に、今後2年間にわたり、中米の問題を巡っては、国際司法裁判所の管轄権を認めないと発表したのである。 この宣言の出鱈目な恣意性をさておいても、1986年6月27日に下された法廷の裁定は、その二年間が過ぎたあとのものであった。 いずれにせよ、米国は裁定を無視した。ワシントンはニカラグアに対する敵対行為を減速もさせず、また、一銭たりとも賠償金を払わなかった[8]。

リビア

1986年の米国によるリビア爆撃で、何十人もの人々が命を落とし、百人ほどが負傷した。 死者の中には、リビア指導者ムアマル・カダフィの小さな娘もおり、カダフィの他の7名の子供と妻は、ショックや怪我のため、入院した。 その翌年、連邦不法行為請求法と海外製急報のもとで、爆撃で死亡および負傷した人々のために、ホワイトハウスおよび国防総省に対する65の請求が提出された。 それぞれの死につき最大500万ドルを求めた請求者には、リビア人とギリシャ人、エジプト人、ユーゴスラビア人、レバノン人が含まれていた[9]。 ほどなくして、請求者の数は340名に達したが、米国の司法制度のなかで、請求はどこにも取り上げられることが なかった。 最高裁は審理を却下した[10]。

パナマ

1989年、米国が破壊的な爆撃と地上戦を展開してパナマを侵略してから、何年ものあいだ、多くのパナマ人が、個人として、自分たちあるいは家族の死や負傷、家やビジネスの破壊に対し、様々な方法で賠償を求めようとしてきた。 けれども、これらの人々による法的請求や訴訟は、無慈悲な米国政府により拒否されてきた。 ある米国の法律事務所は、約200人のパナマ人(全員が非戦闘員である)のために、請求を提出した。 まず、パナマ運河協定の条項に従い、パナマで、米軍士官たちに対し−これは却下された−、ついで米国の法廷で二件の訴訟が行われたが、いずれも、どの段階でも審理を拒否され、最高裁までいった[11]。

1990年から1993年のあいだに、米州機構(OAS)の米州人権委員会に対し、300人のパナマ人が、米国は彼ら彼女らの権利の多くを侵害し、従って、「正当な賠償を受ける」資格があると主張し、申し立てを行った。 1993年、同委員会は申し立ては「考慮できる」と判断した。 けれども、1999年の時点で、現在「検討中」の「事柄本来の理非」をめぐり、ペンディングとなっている[12]。 長年にわたり、米国はOASに対し法外なまでの影響力を行使してきたことを心にとめておく必要がある。 ワシントンは一九六二年にキューバをOASから排除し、ほかのOAS加盟国が繰り返し、ますます強く、公に、キューバの再参加を支持しているにもかかわらず、現在まで、キューバを排除したままである。

数年前に、何件かの少額の支払い−かなり恣意的に見えるもの−が、パナマの「現場」で、米国筋からパナマ人に対して行われたとの報道があった。 けれども、1999年12月、国務省パナマ担当報道部は、「米国は、『正当な理由』作戦における戦闘にかかわる死や負傷や財産の損害について、まったく補償金を支払っていない」と述べた(「正当な理由」とは、そう皮肉でもなく、アメリカがパナマ侵略と爆撃につけた名前である)[13]。 さらに、国務省は、1989年以来パナマに提供された米国による援助の一部がパナマ政府によりそうした目的に使われたと付け加えた。 かくして、米国国務省は、世界に対して、米国がパナマの人々に加えた行為についてなんら罪も責任も感じていないこと、補償金を支払うといういかなる強制にも屈しないことを宣言したのである。

1999年12月20日、米国侵略10周年記念日に、爆撃による一般市民犠牲者への被害に対する米国の支払いを求めて、今一度、何百名ものパナマ人たちが、路上で抗議行動を行った。

スーダン

エル・シファ製薬工場のおかげで、スーダンの医薬品自給率は、5パーセント以下から50パーセント以上にまで上昇した。 スーダンという極めて貧しい国でもっとも死に至りやすい病気を治療するための薬の90パーセントはここで作られていた。 けれども、1998年8月20日、米国は、この工場は、トマホーク巡航ミサイル10発以上を打ち込むにふさわしいと判断し、それにより、スーダン人が実現してきたことを瞬時に破壊した。 秘密裡に入手した土のサンプルにもとづき、ワシントンは、この工場が化学兵器を製造していると主張したのである。 同時に、米国は、工場主サレ・イドリスが、テロリストたちと近い関係にあり、マネー・ロンダリングに関与しているという印象を世界に与えた。 ワシントンはさらに、イドリスがロンドンにもっていた銀行口座の2400万ドルを凍結した。 けれども、米国は、主張を裏付けることができなかった。 それどころか、あらゆる証拠や専門家の証言は、化学兵器製造という主張に対立していたのである[14]。 米国の主張は完全に崩壊し、一方、イドリスは自分の資産回復と粉々にされた工場に対する賠償を請求した。

1999年5月、米国はついに、イドリスの訴訟に対して、争わずに、口座凍結を解除した。 勝ち目がないとわかっていたのである。けれども1999年末の段階で、工場を破壊したことについても、イドリスの名声を著しく損ねたことについても、米国はスーダンにもイドリスにも謝罪していない。 また、イドリスが工場とビジネスを失ったことについても、従業員が仕事と収入を失ったことについても、怪我をした10名についても、賠償を行っていない。 この件を巡るワシントンの傲慢さには唖然とさせられる。 そもそもの最初の行為からである。「かつて一度も」、と元CIA職員ミルト・バーデンは言う。 「一握りの土のサンプルが主権国家に対する戦争行為を促したことはなかった」[15]。

イラク

1991年の湾岸戦争時に爆撃を受けた生物兵器施設は、実際には乳幼児食品工場であるというイラクのプロパガンダについて、米国政府とメディアは面白がっていた。 けれども、自国の技師が何度も現場を訪れたことがあるニュージーランド政府と、工場と頻繁に接触していたニュージーランドのビジネス関係者たちは、それが実際に乳幼児食品の工場であったと強く断言した。 工場の建設にかかわったフランスの業者も同じことを述べた。 けれども、統合幕僚長コリン・パウェルは、次のように言い張った。「それは生物兵器工場だった。確かだ。」[16] アメリカの賠償といえば、冬にロシアとの地上戦で勝利するくらいのチャンスしかない。

中国

例外だろうか?1999年5月にベオグラードの中国大使館を米国が爆破したあと、ワシントンは北京に対してむやみに謝った。 古い地図やら何やらが悪いといいながら。 けれども、これはどうやら、爆撃が実は事故ではなかったことを隠すためらしかった。 ロンドンのオブザーバー紙が10月と11月に掲載した、NATOと米国の軍および諜報筋の情報に基づく二つの報告によると、中国大使館が標的とされたのは、同大使館がユーゴスラビア軍の通信に使われていることをNATOが発見したからであるという。 NATOのジェット機がユーゴスラビア政府の通信施設を破壊したのちに、中国大使館が通信を行っていたという[17]。

軍事的目的以上に、政治的な目的があったようである。 米国のアジアにおける覇権に対して障害となっているのは明らかに中国である。 大使館爆破は、おそらく、中国がアメリカという破壊の神に逆らう考えを抱けば何が起こるかを示す小さな例だったのかも知れない。 通常よりもはるかに「もっともらしい否定」を使える状況に置かれた米国の指導者たちにとって、爆撃は抵抗しがたい誘惑であったろう。 そんな機会はきっと二度と来ないであろうから。

米/NATOのユーゴスラビアにおける爆撃「失敗」のあとでは、いつも、報道官が世界に向かって「命が失われたことは残念だ」としゃべっていた。 何年にもわたり、北アイルランドでは、爆弾が誤った標的を破壊したらしきときに、IRAが同じ言葉を使っていた。 IRAの行為は、例外なく「テロリスト」と呼ばれていた。

グアテマラ

1999年3月10日、グアテマラ・シティで行った演説のなかで、クリントン米大統領は、グアテマラの抑圧的勢力を米国が支援したことは「誤っていた。そして、米国は、その過ちを繰り返してはならない」と述べた。 けれども、「すみません」という言葉は、大統領の口からでなかった。 「謝罪」という言葉も、「賠償」という言葉も[18]。 米国が大きな責任を負う、40年にわたる恐るべき残虐行為は、適切な一言にも一銭にも値しないのである。

これは、リンドン・ジョンソンが1968年、ワシントンの傭兵政府による弾圧の絶頂期に訪問して以来、初めての米国大統領によるグアテマラ訪問であった。 むろん、ジョンソンは、今米国がグアテマラで行っている政策は誤っていたと言いはしなかった。 31年後にクリントンが言うよりははるかに意味があっただろうが。 かわりに、リンドン・ジョンソンが、聴衆に言ったのは、グアテマラは「永遠の春の地」と呼ばれると教わった、ということであった[19]。

ギリシャ

1999年11月、クリントンのギリシャ訪問は大規模で爆発的な反米デモを引き起こした。 当時米国が行っていたユーゴスラビア爆撃に抗議し、また、1967年から1974年までのギリシャの臨時軍事政権における拷問者の中の拷問者たちに対する米国の決定的な支援に抗議するものだった。 クリントンがギリシャを訪問した日に、彼は民間グループに対して演説を行い、そこで次のように述べた。 「1967年に臨時軍事政府が政権を握ったとき、米国は、民主主義を擁護するという米国の関心−責務というべきだろう−よりも、冷戦下の関心追求を優先した。 結局のところ、民主主義の擁護が、我々が冷戦を戦った大義だったのだ。 それを認めることが大切である。」 国家安全保障委員会のデビッド・リーベイ報道官は、すぐに、旧軍事臨時政府に関する大統領の発言は、「謝罪を意図したものではない」と指摘した[20]。

疑問が残る。米国が「民主主義を擁護する」ために冷戦を戦って、その結果、ギリシャの独裁者だけでなく、ほかの何十もの専制体制を支援する結果となったのは、どうしてだろうか? グアテマラのように、これらすべては単に「誤った」行動で、すべてが「過ち」だったのだろうか? 途切れるところのない「過ち」は意図的な行動と政策であると結論するのは、どの時点でだろう? さらに、米国の冷戦における「関心」が民主主義の大義に「優先」するというなら、民主主義と対立する、あるいは少なくとも調和しないような、その「関心」とは何なのか訊ねなくてはならない。 その、いつも米国の政治家が口にしながら、決して名前を与えられることのない「関心」とは、何なのか? (ヒント:金のあとを追うべし。)

おしまいに、クリントン大統領は1998年3月、ウガンダで次のような発言を行っている。

ソ連との競争ばかりが頭にあった冷戦時代、非常にしばしば、我々は、アフリカの国々そして世界のほかの地域の国々を、神から与えられた能力を全的に開化する目標へ向けた人々の闘争としてではなく、 米国とソ連の争いのあいだでの位置づけという観点から扱っていた[21]。

何が起きているのだろう? グアテマラ、ギリシャ、アフリカ、そして世界のほかの地域・・・ クリントン大統領は、半世紀にわたるアメリカの外交政策と縁を切ったのだろうか。 彼は、米国が、世界の人々に対して、死と破壊と拷問を、何ら理由なしにもたらしてきたと言っているのだろうか。 「共産主義」と呼ばれるものに対する戦いの崇高さとして絶えず教わってきたことが、イカサマだったのだろうか。

これらのことについて、ウィリアム・クリントンが何を本当に考えているか知ることは決してないだろう。 けれども、彼が何をしているかについては知っている。 「はじめに」と「介入」の章で述べたように、彼は、自分が口では退けたまさにその政策を続けているのである。 そして、いつの日か、未来の米国大統領が、昔クリントンがイラクで、コロンビアで、メキシコで、ユーゴスラビアで、そのほかの場所で行ったことは「悪しき」「過ち」だったと認めるかもしれない。 けれども、その未来の大統領も、口ではそうした言葉を言いながら、世界のそこかしこで、「悪しき」ことを自ら しているだろう。 変わらぬ「関心」のために。


[1] 米国戦艦がイランの旅客機を打ち落とし、290名の命を奪ったときに、副大統領として発言したもの。Newsweek, August 15, 1988.
[2] Washington Post, December 18, 1987.
[3] New York Times, November 11, 1996. p. 12
[4] ワシントンDCでのキューバ利益代表部と著者との会話。
[5] U. S. Aid to North Vietnam. 下院国際関係委員会アジア太平洋問題小委員会でのヒアリング, July 19, 1977, Appendix 2.
[6] Los Angeles TimesおよびNew York Times, March 11, 1997.
[7] これについては、Joph Pilger "Vietnam: The Final Battle," Covert Action Quarterly (Washington DC) No. 64, Spring 1998, p. 54-65.
[8] Holy Sklar, Washingon's War on Nicaragua (South End Press, Boston, 1988), p. 169-170, 314.
[9] San Francisco Chronicle, April 16, 1987, p. 15.
[10] ラムゼー・クラークとの著者によるインタビュー。1999年9月7日。クラークは多くの請願者のために活動していた。
[11] バージニア州アレクサンドリアの弁護士ジョン・キヨナガとのインタビュー。1999年9月10日。彼と彼の兄デービッドはこれらの件で弁護を務めている。Los Angeles Times, April 1, 1990における彼らの論説を参照。ほかに、 The Guardian (London), July 28, 1990, p. 7; San Francisco Examiner, April 26, 1992, p. 4.を参照。
[12] ワシントンの米州機構米州人権委員会のエリザベス・アビマーシャドとのインタビュー。September 7, 1999。訴訟は、サラスほか対アメリカ合衆国。訴訟10573.
[13] 1999年12月22日、電話を通して、著者に、国務省パナマデスクが、公式報道発表から読み上げたもの。
[14] The Independent (London), February 15, 1999, p. 12; Seymour Hersh, "The Missiles of August", The New Yorker, October 12, 1998, p. 34-41; New York Times, October 21, 1998, p. 1 and 8.
[15] Washington Post, July 25, 1999, p. F1.
[16] Peacelink Magazine (Hamilton, New Zealand), March 1991, p. 19; Washington Post, February 8, 1991, p. 1 (パウェルの発言とも)
[17] "Nato bombed Chinese deliberately", The Observer (London), October 17, 1999; November 28, 1999. ほかに Extra! Update (Fairness & Accuracy in Reporting, New York), December 1999.
[18] Weekly Compilation of Presidential Documents, March 15, 1999, p. 395.
[19] Public Papers of the Presidents of the United States (GPO), 1968-1969, Vol. II, p. 800.
[20] アテネ発AP, November 20, 1999, by Terence Hunt; Washington Post, November 21, 1999.
[21] Weekly Compilation of Presidential Documents, March 24, 1998, p. 491.


益岡賢 2002年11月19日

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