「最初の一撃はあまりに苦痛で、死にたいと思った」
グロリア・エスペランサ・レイェス
(ホンジュラスで受けた拷問について。拷問で、彼女の胸と膣に電気ワイヤーが付けられた。)
「奴らはいつも、殺してくれと言う。拷問は死よりもひどい。」
ホセ・バレラ ホンジュラスの拷問者[1]
一九九九年七月一四日、トルコ。 警察があるクルド人家族の家に押し入り、二人の娘−一四歳のメディーヌと妹のデブラン−を尋問のために連れていくと宣言した。 「私は服を着に寝室に向かった」と、デブランはのちに言う。 「けれども、メディーヌは・・・まっすぐ窓に駆けていってそこから身を投げた。」 メディーヌの母は次のように説明する。「私の娘は、再び拷問を受けるよりも、死を選んだのです。」[2]
「拷問は一瞬で終わるかもしれない。 けれども、拷問を受けた人は決してもとのままではいられない。」
アムネスティ・インターナショナル報告書[3]
戦争状態、戦争の脅威、内政の不安定又は他の公の緊急事態であるかどうかにかかわらず、いかなる例外的な事態も拷問を正当化する根拠として援用することはできない。
拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(拷問禁止条約)第二条第二項[4]
「身体的虐待をはじめとする侮辱的扱いは否定された。
それが悪いからではなく、歴史的に効果のないことが証明されたからだ。」
一九八八年、CIAの副作戦主任リチャード・ストルスはこう述べた[5]。
CIAはこうしたことを好んで口に出す。 もっともらしい否定の響きがあると考えるからである。 しかし、拷問で口を割らせることはできないとか、拷問がそのために極めて有効でないと信じるものがいるだろうか。 リチャード・ストルスとCIAは、上に紹介したメディーヌが、もし自殺する機会がなかったならば、拷問でも告白しなかったろうと信じさせたいようである。 拷問の効果はさらに大きい。 というのも、拷問の目的は、情報を得るというよりも、罰を与えることにより、犠牲者が今後は内なる理想主義を掘り出して反対活動に関わらないようにし、また、仲間に警告を送ることにある。
こうした目的で、CIAは何十年にもわたり、拷問と共存してきた。 (トルコがワシントンと非常に近しい戦略的同盟関係にあることを思い起こそう。 ホンジュラスについては、以下で述べる。) 友好的な拷問者と結託するのは、注意深く隠されたCIAの秘密だった。 そのため、長い間、実際の苦痛に満ちた詳細が伝わることはなかった。 けれども、明るみに出た記録もある。それらを下記に紹介しよう。
一九四〇年代後半、CIAは新たなギリシャの治安組織KYP創設に手を貸した。 まもなく、KYPは、秘密警察がどこででも行うようなことを始めた。体系的拷問も含まれていた。 KYPがもっとも活発だったのは、一九六七年から一九七四年の軍事政権時代であり、この期間には、日常的に恐るべき拷問が行われた。 アムネスティ・インターナショナルは、のちに、次のように述べている。 「公式声明や証言からわかる拷問に関するアメリカの政策は、否定できる限り否定し、否定できないときはもっとも軽く見るというものであった。この政策は、軍事政権支援の自然な帰結である。」[6]
アムネスティがギリシャに派遣したアメリカ人法律家ジェームズ・ベケットは、一九六九年、拷問者のなかには、米国の軍事援助によって得られた拷問道具もあると囚人に言っていたと書いている。 一つは「太くて白い二重ケーブル」の鞭で、「科学的で効果的」だった。 もう一つは頭を締め付ける輪で、「鉄の渦巻き」と言われ、徐々に頭と耳を締め付けるものだった[7]。 ベッカーは、拷問者たちにとって、アメリカの支援は決定的に重要だったと 書いている。
何百名もの囚人が、バシル・ラムブロウ警部の小演説を聞いた。 彼は、赤・白・青からなる米国援助のシンボルを掲げた机の後ろに座っていた。彼は囚人たちに、抵抗がまったく無意味 であることを占めそうとした。「おまえたちは、何でもできると考えて、自分を馬鹿げた 存在にしている。世界は二つに分かれている。一方に共産主義者たちがいて、他方に 自由世界がある。ロシア人とアメリカ人、ほかには誰もいない。我々はといえば、 アメリカ人なのだ。私の後ろには政府があり、政府の後ろにはNATOがあり、 NATOの後ろには米国がある。我々と戦っても無駄だ。我々はアメリカ人なのだから。」[8]
一九六〇年代、グリーン・ベレーは、ベトナムでの兵役を前にした兵士たちに、尋問の一環として拷問をどう使うか教えていた[13]。 ベトコン[ママ]の社会基盤を一掃するためにCIAが開始した悪名高いフェニックス作戦では、容疑者に、男女を問わず性器に電気ショックを与えたり、耳に一五センチの釘を刺し、釘が脳に達し犠牲者が死ぬまで少しずつ叩いたりといった拷問を加えた。 重要な容疑者の口を割らせるために別の容疑者を空輸ヘリから突き落としたりもした。 むろん、これは、突き落とされたものに対しては殺人、突き落とされなかったものに対しては拷問の一形態というものだろう[14]。 ジュネーブ条約に違反して、米国は、捕虜が拷問を受けることを完全に知っていながら、捕虜を南ベトナム政府に引き渡していた。 こうした拷問には、米軍兵士が立ち会ったことも多い[15]。
南米とワシントンの米国政府職員たちは、この新聞インタビューに腹を立てた。 ワシントンのOPS長官は次のように言ってこの事態を説明しようとした。 「モンテビデオのこの三名のブラジル人記者はインタビューを送ったことを否定している。 のちに、このインタビューがジョルナル・ド・ブラジル紙の編集室で誰かに挿入されたものであることを我々は発見した。」[18]
ミトリオネはモンテビデオにある自宅の地下に防音室を設置し、そこで、拷問技術のデモをウルグアイの警察官に見せていた。 四名の乞食が捕まって連れてこられ、ミトリオネはこの四名に、様々な電圧が体の各所に与える効果を実験した。四名は死亡した。
「望ましい効果のために、正確な苦痛を、正確な場所に、正確な量」というのがミトリオネのモットーだった。
「望むものを手にしたいならば−ちなみに私はいつも望むものを手に入れてきたのだが−」、 「ちょっと間をおいてセッションを長引かせるのがよい。すぐに情報を手に入れるためでは なくて、政治的手段として、反政府的活動に関与することに対する健全な恐怖を つくりだすために。」[19]
一九六〇年代から一九八〇年代にわたり、グアテマラの治安部隊、特にG−2という軍の具体は「反体制派」を繰り返し拷問していた。 拷問法の一つは、軍の戦地電話を小さな発電器に接続し、性器周辺に電気ショックをかけるというものだった。 この道具と使い方は、米国に提供されたものである。 米国と各国の雇われ部隊は、この技術に熟練していた。 CIAが助言を与え、武器と装備を提供したG−2は、様々な場所に拷問所をもうけており、そこで、電気ショックだけでなく、手足の切断や体を焼き焦がすといった拷問を行っていた。 犯罪の証拠を隠滅するために、G−2は自前で火葬場をもっていた。 CIAは完全にG−2内部に入り込んでいた。 一九八〇年代から一九九〇年代初頭にかけて少なくとも三名のG−2隊長がCIAから支払いを受けていたし、ほかにも、下士官の多くがCIAから支払いを受け取っていた[21]。
CIAの気前の良さのおこぼれにあずかっていたものとしては、ほかに、エクトル・グラマヨ・モラレス将軍がいる(第九章「テロリストたちの避難場所」を参照)。 モラレスは一九八九年、グアテマラ軍がアメリカ人の修道女、シスター・ディアナ・オーティスを拉致したときの防衛大臣だった。 オーティスはタバコの火を押しつけられ、繰り返し強姦され、死体であふれた穴に落とされた。 犠牲者に対する力を見せつけるときに恍惚とするのは拷問者の典型的な行動である。 拷問者の一人は、オーティスの手に大きな山刀を持たせ、その手をつかんで、別の女性囚人を刺させた。 オーティスは、その女性を殺したかも知れないと思っている。 「アレハンドロ」、「ボス」と呼ばれていた色白の男が責任者のようであったとオーティスは言う。 この男はアメリカなまりのスペイン語を話し、英語で悪態をついた。 のちに、この男が彼女は米国人であることを知ったとき、拷問を止めるよう命じたとオーティスは述べる。 この男が政治的問題を避けるためでなく人道的見地からそうしたのであれば、国籍にかかわらず拷問をやめさせていたはずである[22]。
一九九六年、米国で、オーティスは、情報公開法にもとづき、国務省からたくさんの書類を受け取った。 アレハンドロについて重要な言及があるのは、一九九〇年の日付をもつ文書たった一つであった。 そこには次のようにある。
最重要:オーティスがこの事件に関与していたとして名を挙げた「北米人」の 問題に蓋をしなくてはならない。大使館はこの問題にとてもナーバスになっているが、 これは公に対応しなくてはならない問題である・・・[23]続く二ページは完全な修正を受けていた。
サンディエゴとメインの米国海軍学校で、一九六〇年代と一九七〇年代に、生徒たちは、戦争捕虜になったときのために、「サバイバル、言い逃れ、抵抗、脱走」の方法といわれるものを学んでいた。 その授業では、砂漠でのサバイバル実習があり、生徒たちはトカゲを食べることを強制された。 また、海軍士官や幹部は殴打や柔道の当て身、「虎の檻」、「水板」といった訓練を受けた。 「虎の檻」は、便のためのコーヒーカン一つが入った一六立方フィートの箱に、頭を覆われて二二時間 押し込まれるもので、「水板」は傾いた板に頭を低い方に向けて仰向けに縛り付けられ、顔の上にタオルをのせられて上から冷水をかけられるものである。 おぼれる感覚を経験し、吐いたりせき込んだりする。
海軍パイロットのウェンデル・リチャード・ヤング中尉は、海軍学校の元生徒だったが、このコースにより背中を負傷したと述べ、また、生徒たちは、アメリカの国旗に唾を吐いたり小便をかけたり排便したり、また守衛の前で自慰をしたり、ときによっては教官とのセックスを強要されたという[28]。
一九九二年、文民監督委員会が、一九七三年から一九八六年の一三年間に、シカゴ警察官が容疑者に対し体系的な「拷問」と虐待を加えていたことを明らかにした。 ペニスや睾丸その他の部位への電気ショック、殴打、窒息(頭にビニール袋をかぶせて酸素を止めたりすることにより、犠牲者の中には気絶するものもいたが、快復したときには再び袋をかぶせられた)、あるいは、口に拳銃を突っ込んで引き金を引いたり、手首に手錠をしたまま壁からつり下げて、足の裏や睾丸を撃ったりといた拷問が用いられた。 また、心理的拷問も加えられた。 拷問されたのちに釈放され、起訴されなかった人々もいる。 四〇以上の事例が収集された。 弁護士の一人によると、「我々が知る限り、犠牲者はすべて黒人かラテン系で、拷問を行っていたのは白人警官だった。」[29]
ニューヨーク、カリフォルニア、フロリダ、テネシーの各州で合計二〇以上の刑務所を調べ、また刑務所を巡る訴訟を一〇年にわたり検討した、ヒューマンライツ・ウォッチの調査によると、「拷問に相当する・・・囚人の取り扱いにカンする国連の最低基準に対する大幅な侵害」が見られる。 手錠をした囚人を無理矢理六〇度以上の熱湯に入れたり、スタンガンやスタンベルトにより繰り返し電気ショック(五万ボルトのショックを八秒間)を受けた囚人が死亡したり・・・雨でも晴れでも囚人を屋外の檻に入れて放置したり、感覚刺激を剥奪して長期にわたり他の人から囚人を完全に隔離したり・・・[30]
アムネスティ・インターナショナルは、「カリフォルニア州ロサンゼルス警察による拷問や虐待、過剰な武力行使」(一九九二年)や「ニューヨーク市警局における警察による残虐行為や過剰な武力」(一九九六年)といった報告書をはじめ、最近ではシカゴやほかの街の状況についても報告書を出している。 アムネスティは、米国の警察は、「拷問をはじめとする残虐、非人道的かつ侮蔑的な扱いに相当する過剰な武力が無制限に使われる状況があり、国際人権基準に違反している」と述べている[31]。
米国政府が拷問行為に心を悩ましていないという印象を与えないよう、次のことを言っておこう。 一九九六年に、議会は、はじめて、アメリカ市民が外国で拷問を受けた場合、その国の政府を米国の法廷に告訴することを認める法律を採択した。 けれども、小さな制限が設けられていた。 この法律のもとで告訴できる政府は、米国政府が公式に指定した敵対政府(ODE)、「テロリスト国家」に分類される政府でなくてはならないことである[32]。
ほかの国家に関しては、一九九〇年代初頭のスコット・ネルソンの事例と同様になるだろう。 ネルソンは、拷問を受けたとして、サウジアラビア政府を米国の法廷に告訴した。 巡回控訴審は、告訴する権利があることを認めたが、国務省がサウジを支援して、最高裁で逆転判決が下された[33]。
1. Baltimore Sun, June 11, 1995. p. 10A.
2. Washington Post, August 3, 1999, p. 10.
3. James Becket, Barbarism in Greece (New York, 1970) p. xi.
4. 一九八四年に提案され一九八七年に発効。米国は一九九四年に批准。
5. Baltimore Sun, op. cit.
6. Amnesty International, Report on Torture (London, 1973), p. 77.
7. Becket, p. 15.
8. Becket, p. 16, see also p. 127.
9. Kermit Roosevelt, Countercoup: The Struggle for the Control of Iran (McGraw-Hill paperback, 1981), p. 9. ルーズベルトは一九五〇年代にイランで活動していたCIA職員。
10. リーフは一九七三年に辞任するまで五年間、イランに関する主席CIAアナリストだった。 セイモア・ハーシュとのインタビュー。New York Times, January 7, 1979.
11. Robert Fisk, The Independent (London) August 9, 1998, p. 19.
12. Thomas Powers, The Man Who Kept the Secrets: Richard Helms and the CIA (Pocket Books, New York, 1979) p. 155, 157.
13. Donald Duncan, The New Legions (london, 1967) p. 156-9. ダンカンは 自分が受講したグリーン・ベレーの「尋問」授業について述べている。
14. David Wise, "Colby of CIA --- CIA of Colby", New York Times Magazine, July 1, 1973, p. 33-4.
15. Telford Taylor, Nurenberg and Vietnam: An American Tragedy (New York TImes, 1970), p. 148-53.
16. Richard Harris, Death of a Revolutionary: Che Guevara's Last Mission (New York, 1970), p. 185-6.
17. A. J. Langguth, Hidden Terrors (New York, 1978), p. 285-7. (ラングッスは 一九六五年ニューヨーク・タイムズ紙サイゴン支局長。)また、New York Times, August 15, 1970も参照。
18. Langguth, p. 289.
19. Manuerl Hevia Cosculluela, Pasaporte 11333: Ocho Anos con la CIA (Havana, 1978), p. 284-7. エビアはウルグアイでミトリオネのもとで秘密裡に活動していた キューバ人エージェント。
20. Langguth, passim。索引の「拷問」の項を参照。
21. Allan Nairn, "C.I.A. Death Squad", The Nation, April 17, 1995, p. 511-13.
22. Washington Post, May 12, 1996, p. C1; Los Angeles Times, March 31, 1995, p. 4.
23. ディアンヌ・オーティス・シスターがホワイトハウス向かいのラファイエット公園で 黙祷ビジルを行っていたときに、彼女の支援者たちがそこで配布した資料「シスター・ディアンヌ・ オーティスの証言、一九九六年五月六日」より。
24. New York Times, January 11, 1982, p. 2.
25. 「マヌエル」とだけで知られるこの国家警備隊員は、英テームズ・テレビジョン社の レックス・ブルームシュタインが、アムネスティ・インターナショナルの協力を得て 一九八六年に作成したテレビ・ドキュメンタリー「拷問」の中でインタビューを受けている。 著者所有のビデオから。
26. Baltimore Sun. 第三一六部隊に対する米国の援助を巡る一連の記事、June 11-20, 1995. January 27, 1997, "Torture was Taught by CIA". New York Times, October 24, 1998およびThe Nation, November 10, 1997, p. 20-22 (David Corn) も参照のこと。
27. Philip Wheaton, Panama Invaded (New Jersey, 1992), p. 14-15. この部分は、 コスタリカのサンホセにある中米人権センターのスタッフが一九九〇年一月二九日、 赤十字を介してパナマで記録した証言。
28. Newsweek, March 22, 1976, p. 28, 31.
29. "Chicago Police Used Torture, Report Alleges", Los Angeles Times, February 8, 1992, p. 1, 14.
30. Holly Burkhalter, "Torture in U.S. Prisons", The Nation, July 3, 1995, p. 17-18. バークハルターは当時ヒューマンライツ・ウォッチのワシントン支部長。
31. 米国の「拷問に反対する世界機構」(http://www.woatusa.org)が主催する 「拷問と人種差別に反対する連合」の報告"Torture in the United States"も参照。 本書の「自由な国の一日」でも、米国が行っている拷問の例を挙げている。
32. Washington Post, October 28, 1996. 一九九六年の対テロリズム・実効的死刑法の一部。
33. Los Angeles Times, May 13, 1992; Washington Post, July3, 1995.