津波と軍事支配
アチェにおける二重の破滅
ジョン・ルーサ
CounterPunch原文
2005年1月12日
アチェへの災害援助募金をお考えの方は、インドネシア民主化支援ネットワークのウェブサイトを是非ご覧下さい。
2004年12月25日、アチェが地震により引き起こされた津波で破壊される一日前、インドネシア軍(TNI)はアチェ州で18人のゲリラを殺したと発表した [1]。こうしたニュースが日常的なものとなってから久しい。その一週間前、TNIは6人を殺していた [2]。TNI司令官エンドリアルトノ・スタルト将軍は、12月上旬、自分の部下たちは、2003年5月にアチェ州に軍事戒厳令を布いて以来、3216人のアチェ人を殺してきたと述べている [3]。報じられた軍事衝突のすべてにおいて、インドネシア軍兵士の死者数は非常に少ない。戦争は一方的であり、アチェ人、とりわけ民間人(殺された後でTNIにより「ゲリラ」だったとレッテルを貼られる)が犠牲者のほとんどを占める。アチェは、インド洋の津波が土地を破壊する前に、既に殺戮の場だったのである。
軍事戒厳令下では、軍が政府となった。アチェ州に軍は4万人近い治安要員を配置し(民間人100人に対してほぼ一人の兵士あるいは警察という比率である)、多くの文民官僚(郡長など)を軍事要員で置き換え、外国人のアチェ入りを禁止し、新たなIDカードを発酵し、アチェ人を公のセレモニーに無理矢理参加させてインドネシア国家への中世を誓わせ、路上に無数の検問所を設けた。2004年5月に軍事戒厳令から「市民非常事態」へと移行させたことは見かけ上の変化に過ぎなかった。4万人の兵士はアチェ駐留を続け、殺人は続いた。海水は、軍が制圧しようとしなかったわずかなものの一つであった。
アチェをおそった津波の恐ろしさ(少なくとも10万人以上が死亡したと推定されている)により、この軍事支配の歴史が過去のものになったと考えてはならない。インドネシア政府は、現在、インドネシア軍を救援援助の中核調整者として使っている。さらに悪いことに、インドネシア軍はいまだに独立はの自由アチェ運動(GAM)に対して戦争を続けている。母なる自然は巨大なダメージをアチェに与えたが、それ以前からあった社会機構を根本的に変えたわけではない。TNIは基本的に無傷で(とはいえ500人の要員を失ったと述べている)、ほとんどが山中にいるGAMゲリラも損害を受けていない。両者の戦闘は驚くほど長引いており、1970年代から、スハルト大統領独裁の崩壊、スハルト後の大統領三代の時代、外国の仲介、和平交渉、停戦などを突き抜けて、断続的に続いている。
インドネシア軍はGAMに対して対ゲリラ戦争を続けてきた。そうした戦争では常に起きるように----その中には19世紀最後の30年間オランダがアチェに対して仕掛けた戦争も含まれる----、軍事的目標は、ゲリラを支持しないよう民間人を恐怖に陥れることにある。1970年代後半に限定された紛争を行なった後、スハルト政権は1990年代にアチェを発砲自由の地域に指定した。それ以来、テロはとても継続的に加えられてきた。唯一それが緩和されたのは(それすら部分的なものだったが)、1998年から99年、スハルト退陣以後にインドネシアの政治体制が危機に陥ったときだけだった。この短い改革期に、政府は人権侵害調査を行い、そこで、1990年から1998年までの間にインドネシア軍は2000人から4000人を殺したという控えめな推定を行なった [4]。
対ゲリラ戦争の一環として、インドネシア軍は無差別に民間人を尋問のために連れだし、拷問した。1990年代には、軍が「ショック療法」と呼ぶ作戦の一形態として、手足を切断された死体を道ばたに残した。この「ショック療法」を加えられた民間人はよい患者としての対応をするかわりに、集団「緊張病」状況に引きこもった。1990年の大規模軍事作戦開始の際、GAMは数百人の武装ゲリラからなっており、大衆の支持を得ていなかった。ほとんどのアチェ人はインドネシアの他のエスニック・グループと同様、インドネシアに統合されていた。反抗に火をつけたのは、インドネシア軍がゲリラを弾圧するやり方が故であった。人権活動家のムハマド・イサは昨年、「アチェが軍事作戦地域に指定されたとき、ピディエ、北アチェ、東アチェには数百人のGAM勢力しかいなかった。今ではアチェ全土にはるかに多くのGAM勢力がいる」と指摘している [5]。インドネシア専門家エドワード・アスピナルは次のように書いている:「1999年アチェ地方部で新たにGAMに参加した新兵たちにインタビューした多くの記者やその他の人々は、1990年代に家族がインドネシア軍に殺されたり拷問を受けたり性的虐待を受けたことへの復讐を動機としている」[6]。
1999年には、独立を問う住民投票を求めたラリーに100万人近い人々(人口の4分の1)が参加し、自分たちの見解を示した。対ゲリラ戦争を10年近く続けてきたことで、軍はインドネシアからの分離をアチェの人々の主流意見にしたのである。それにもかかわらず、今も、インドネシア軍は、アチェ人を殺すことで敵を作り出すというシュージュフォス的努力を積み重ねている。
インドネシア軍の残虐行為を嫌うアチェ人がすべてその代替としてGAMに走るわけではない。GAMは一貫した政治プログラムを練っておらず(GAM創始者は王制政府の再建を望んでいる)、いつもジュネーブ条約を遵守してきたわけでもない(例えばGAMは頻繁にインドネシア人文民を捕虜に取ってきた)。インドネシア軍がアチェであらゆる政治的反対活動をほとんど不可能にしたため、残された方法として武装抵抗しかなくなったのである。市民的方法で抵抗したアチェ人は仮面をかぶったGAMであると非難され、投獄されたり殺されたり亡命を余儀なくされた。何万人というアチェ人がインドネシアの他の地域や国外に逃亡した。
アチェ人がよく言うのは、軍は決してGAMと非戦闘員とを区別しようとしなかったという点である。TNI兵士たちは全アチェ人を疑いの目で見ている。インドネシアの主要英語新聞であるジャカルタ・ポスト紙は、誠実な報道を行なった数少ない機会の中で、先月、検問所で軍兵士が頻繁に言う言葉は、「おまえはアチェ人か? だったらGAMに違いない」というものであることを報じている。人権活動家ムニールは、昨年「拘留されている人々の99%は非戦闘員であり、GAMではなくNGOの人々や地元政治家、学生たちである」と語ったとき、誇張していたのではなかった [7]。
アチェ人にとって、アチェ州に駐留する数万人のインドネシア軍兵士は治安を維持する要員ではなく、イナゴの災害のようなものである。政府が費用の一部しか支給しないので、兵士たちには自らの金を自分で稼ぐことが期待されている。それゆえ検問所は資金調達のチェーン店と化し、兵士たちは通過するトラックや自動車やバイクを停止させる。このたかりは極めてあからさまに行われているので、多くの記者たちがこれについて書いている。他にもう少しあからさまでない資金調達方法がある。インドネシア軍がアチェで操業するエクソンモービル社(津波の影響は受けなかった)からどれだけの資金を得ているかは知られていない。エクソンモービル社はインドネシアの他のビジネスがすべてやっていると同様、自社領土を守るためにインドネシア軍に金を払い、定期的にTNIが求める要求に対して資金を提供しなくてはならない。エクソンモービル社の工場はアチェ人にとって苦々しい点である。インドネシア政府は年間約12億ドルをここから稼ぐが、アチェ人がその金を目にすることはほとんどない。利潤の大部分は、ジャカルタの政府関係者のポケットに入る。
ジャカルタはこの津波を、歴史の記録を浄化するために使いたがっている。インドネシアのメディアで、政府関係者は頻繁に、この悲劇によりそれと比べると小さな政治的問題をアチェ人が脇にどけてインドネシア政府と協力して自然との闘いに参加することを期待すると述べている。インドネシア軍が突然、アチェ人全員を転覆的分子とみなす根深く体系化された精神を捨て、汚職をやめ、無私にアチェの復興を支援し始めるならば、もしかするとジャカルタの期待は実現するかも知れない。けれども、虎はその縞模様を容易に変えはしない。
アチェにいるインドネシア人ボランティアや記者の報告は、今回の恐るべき破壊の中でさえ、インドネシア軍が変わっていないことを示している。母親とともに医薬品を運んでアチェに入った裕福なインドネシア人女性の次のような言葉を見てみよう。彼女の説明(彼女はそれを英語で書いて電子メールで配布した)の中で、12月31日に州都バンダ・アチェを車で離れた際に軍検問所に遭遇したときのことが言及されている。バンダ・アチェは廃墟となっていたが、兵士たちはいつも通り検問所で自動車を止めていたのである。
「町のはずれに来たとき、ライフルを手に持った軍人に止められた。最初軍人たちは道をふさぎ、海岸線にそって車で進むのを認めようとしなかった。彼らは私たちの箱をすべてチェックし、物品を自分たちに渡すよう求めた。私たちは、もし彼らに渡してしまえば決して配布されることがないことを知っていたので、友人が交渉し、私たちが買い入れた女性の下着いくつかと交換に私たちは通れることになった。それについては今も嫌な気持ちでいるが、払わなくてはいけない小さな犠牲だった」。
町に戻ったとき、飢えた村人数人を一緒に連れてきた。彼らは、援助配布センターとなっている軍本部の大佐に近づいた。
「村人の一人が大佐に、自分の村は緊急に食料援助を必要としていると説明したとき、大佐は彼を尋問し始め手荒く扱った。私の母と私は、大佐が300人の生存者がいるなら証拠を示せ、そんなにたくさんの生存者がいるなどと信じることはできないと言った言葉を信じられない気持ちで聞いていた。ふたたび友人の説得で、村人たちは大佐に納得させることができ、スーパーミー(即席ヌードル)50箱と数百キロの米を取っていくことが許された。この大佐が村人たちをこんなに困らせたことは信じられなかった。というのも、私たちの周り中に、何百箱という援助食料やチェーンソー、発電器、パイプ、バケツなどが、うずたかく壁に積み上げられていたからである。母と私は、大きなテーブル二つに広げられた食べ物のビュッフェをご自由にお食べ下さいと勧められさえした。わかったことは、インドネシア軍が国内外から送られてきた援助をすべて統制しており、それを配布するためにはほとんど何もしていないということである。どうやら彼らは村人たちがバンダ・アチェのポスコ[司令ポスト]や難民キャンプにやってくるべきだと思っているようである。しかしながら、どうしようもない状態にある生存者たちの多くにとって、そうした場所にやってくるのは遠すぎるし、移動の手段を持っていない重傷を負った人々にとってはなおさらである。私たちはまた、軍は援助がGAMゲリラの手に渡ることを恐れているようであった。私たちには、それは、かくも大きな破局を前にしては小さな問題であるように思えるのだが。
ジャカルタ政府は外国人ジャーナリストや救援ワーカ、外国の軍事要員のアチェ入りを許可するという積極的な手だてを取った。伝えられるところでは、軍はもはや援助配布を独占しようとはしていない。とはいえ食料を含め無料で配布すべき援助品の一部を売っているのだが。けれどもアチェに外国人がいることで、19カ月の間享受していた不処罰が終わりを告げるのではないかと軍は心配している。
記者たちは、軍が今もアチェ人のIDカードをチェックしていると報じている。また兵士たちは、援助を手渡す前に人々の政治的忠誠を確かめようとしているとも。兵士たちはまた、難民キャンプから人々を連れだし、GAM支援者と疑われた人々を拘留している。軍は、GAMの手に米の一握りさえも渡したくないために、援助を出し惜しんでいる。自分ですぐに消費できる量以上の物資を運ぶ人は誰であれGAMに物資を運んでいるのではないかと疑われる。1月7日の報道で、あるジャーナリストは、バンダ・アチェの郊外40キロにある検問所の兵士たちについて次のように述べている:「朝中、戦闘服を着た兵士たちが南へ向かう人々を止め、山中のゲリラに新たな供給経路を造ろうとしているだろうと非難していた」[8]。
津波救援で世界中から集められた40億ドルのほとんどはアチェに提供される可能性が高い。他に大規模な援助を必要とする国はスリランカである。タイとインドは外国の援助は必要ないと発表した。このことは、アチェのインドネシア軍が今や国際的な注目を浴びていることを示している。しかしながら、そのことは、インドネシア軍の振舞いが良くなることを保証するものではない。
1999年の東ティモールでは、世界が注目する中、軍は東ティモールを廃墟にし、今回の津波に相当する規模の破壊を完遂した。1999年9月の焦土作戦の際、TNIは国際的な世論をほとんど気にしなかった。TNIは東ティモールの建物の70%を焼き倒し、富の多くを略奪し、何千人あるいは何百人もを殺害し、25万人もの人々を強制移送した。これらは世界中が注目する中で行われたのである。この残虐行為に責任を負う将軍たちは不処罰を享受しており、国際法廷も行われていない。インドネシアによるアチェ救援作戦の責任者に最初に任命された将軍はアダム・ダミリであり、彼は1999年東ティモール破壊の中心司令官の一人であった。軍の上層部は、他国政府との軋轢を避けるために、最後の最後に別の者に代えたのではあるが。
現在アチェに外国人がいるが、立ち退きさせられないと信じるべきではない。インドネシア政府は2002年12月、GAMとの和平合意に署名した後、国際的なオブザーバのアチェ入りを許可した。けれどもたった5カ月後、オブザーバたちをまとめて追放したのである。さらに、軍の上級司令部は、とりわけ軍統合参謀長のリャクドゥ将軍の元で、外国人がインドネシアを分解させる陰謀によって内部の不穏を促していると主張しているのである [9]。
独立をめぐるアチェ人の態度は、インドネシアの民間人からの驚くべき同情の発露----インドネシア人は援助ワーカ・ボランティアとして名乗り出て、大金を寄付している----によってさえ、恐らく変わらないだろう。アチェ人がインドネシアの民間人との間に大きな問題を抱えていたことはない。インドネシア軍との間に問題があっただけである。ジャワをはじめとするインドネシア群島のインドネシア人民間人が津波前にアチェ人が被っていた苦しみを認め、軍の作戦を阻止しようとしたときはじめて、アチェ人との真の和解の可能性が生まれるだろう。けれども実質的な軍の改革は遠い目標のようである。とりわけ、インドネシア軍元将軍が大統領に選ばれたばかりという状況では。
緊急救援活動も長期的な再建も、アチェが戦争地帯である限り進まないことは明らかである。外国政府と国際組織はインドネシア政府に圧力をかけて、GAMとの交渉を再開させ、停戦を達成するよう求めるべきである。双方ともに停戦を望んでいると言い、自分たちは防衛行為を行なっているだけだと述べている。双方ともに相手が自分と同じようにしないと相手を批判している。詳細をさておいて緊張状態を緩和する交渉を行わない限り、武力衝突は続くだろう。
インドネシア政府はあらゆる攻撃(たとえば1月8日国連敷地そばでの発砲:インドネシア政府関係者の一部は今になってそれはストレス下の兵士がやったと述べている)や事故(米国海軍ヘリが墜落した事故で、アルウィ・シハブ閣僚はGAMの仕業だとほのめかした)をすぐさまGAMのせいにする。あるジャーナリストが指摘するところによると、インドネシア政府は外国人援助ワーカに「援助車列を攻撃し生存者キャンプを隠れ家として使う発砲に飢えた殺人者」としてGAMへの恐れを植え付けようと望んでいる[10]。一方GAMは声明を発表し、援助ワーカに対して、決して援助ワーカへの攻撃をしたり援助配布の邪魔をしたりはしないと約束している。
アチェの政治的将来を決めるために住民投票を提唱している主導的大衆組織SIRAは戦争への国際的仲介を呼びかけている。「インドネシアとGAMの間の政治的解決は国際的な交渉の場で直ちに求められるべきであり、人道援助と平和的発展、アチェ人の長期的な自由のために戦争は即時停止されるべきである。和平交渉を即時に行わないならば、アチェ人の苦痛とアチェ人への弾圧は津波災害後の状況をさらに悪化させるだろう」[11]。
ジョン・ルーサはカナダ・バンクーバー州ブリティッシュ・コロンビア大学の歴史学助教授で、The Year that Never Ended: Understanding the Experiences of the Victims of 1965: Oral History Essays (Jakarta: Elsam, 2004)の共編者。インドネシア語を完璧に使いこなす。
注:
1. Agence France Press (AFP), December 25, 2004.
2. AFP, December 17, 2004.
3. Jakarta Post, December 3, 2004.
4. Laporan Akhir Komisi Independen Pengusutan Tindak Kekerasan di Aceh [Final Report of the Independent Investigation Commission on Violent Actions in Aceh] (Jakarta: Komisi Independen Pengusutan, July 2000). この報告の推定では、1000人から3000人が殺され、またそれ以外に失踪者の900人から1400人が死亡したとしている。人権諸団体は、1999年から2003年5月の軍事戒厳令宣言までの間に、さらに2000人から3000人のアチェ人が殺されたと推定している。2002年だけで約1300人が殺された。 Human Rights Watch, "Indonesia: Human Rights Key to Lasting Peace in Aceh," press release, December 11, 2002.
5. Jakarta Post, December 13, 2004. Gen. Sutarto stated that GAM had 10,000 guerrillas by May 2003. Jakarta Post, January 11, 2005.
6. Inside Indonesia, Oct-Dec 2003.
7. AFP, May 18, 2004. ムニールは2004年9月上旬、アムステルダム行きガルーダ便の中で致死量の砒素を盛られ、殺された。軍の手によると疑う者は多いが、今のところ証拠はあがっていない。この事件は現在も調査中である。
8. The Australian, January 7, 2004.
9. Detik.com December 25, 2003 ("60,000 foreign agents enter Indonesia to weaken TNI ? Ryacudu"); Kompas, December 26, 2003 ("Pernyataan KSAD Soal Pemilu dan Agen Asing Perlu Diperhatikan" [The Chief of Staff's statement on the election and foreign agents needs attention]; and Detik.com, May 12, 2004 ("Aggressor States Conspiring to Destroy and Control Indonesia: Army Chief").
10. Michael Casey, Associated Press (AP), January 10, 2005. Also see the interview with Gen. Sutarto, Jakarta Post, Jakarta Post, January 11, 2005.
11. Open Letter by Sentral Informasi Referendum Acheh, Banda Acheh, January 6, 2005.
「占領と津波の犠牲」および「アラン・ネアンとのインタビュー」もご覧下さい。
日本政府はこれを機に自衛隊を派遣して「援助活動」にあたらせていますが、スハルト政権の軍事独裁を支え続け、そのもとでおきた東ティモールやアチェでの人権侵害を批判するどころか陰に陽に支持してきたことを考えると、シニカルな政治的宣伝のための道具と思わざるを得ません。
1999年の東ティモールでも、インドネシア治安当局が破壊と虐殺を進めていると言う否定しようのない証拠が出てきている中で(親分のクリントンさえそれを認めていた中で)、「引き続きインドネシアに治安を」と繰り返してきた日本政府は、こんどは自ら止めようとさえしなかった破壊と虐殺を自衛隊の海外派遣の口実に用いました。
名古屋で野宿者の多い白川公園をめぐって、名古屋市は12日に、17軒のテント・小屋を18日までに撤去せよ、という戒告処分を出したそうです。早ければ19日にも代執行(強制排除)が行われる可能性があるとのことです。それについて「日雇・野宿労働者に就労・生活の保障を!」関係から以下のような説明と依頼が来ていますのでご案内します。
- 以下のところに、名古屋市は、白川公園野宿者に対する強制撤去の手続を中止するよう、強制排除をやめるよう、話し合いによる解決を行うよう等を求める趣旨の抗議と要望を出してください。
(抗議要請先)
〒460-0001 名古屋市中区三の丸3-1-1 松原武久名古屋市長
電話:052-972-3139;FAX:052-972-3164
Eメールアドレス:shimin-no-koe@shiminkeizai.city.nagoya.lg.jp
市民経済局 人権施策推進室
電話:052-972-2583;FAX:052-972-6453
E-mail a2580@shiminkeizai.city.nagoya.lg.jp
- 新聞社などマスコミに投書などをしてください。
これまでの経過と今後は以下の通りだそうです。
- 話し合いの開始と12月9日に除却命令
2004年11月30日に除却催告書に対する弁明書をだし、当日市当局との話し合いも開始。12月15日に第2回目の話し合いが予定されていたにもかかわらず、12月9日に除却命令書が出される。12月15日の話し合いでは、緑政土木局の「シェルターへの入所誘導」などのやり方が問題であり、改善することなどが確認される。
年末に、新年に話し合いをする用に要求し、1月11日に話し合いが行われ、いくつかの点を市側は検討することになった。
- 異議申し立てと戒告処分
翌2005年1月12日に、除却命令書に対する異議申し立てを行おうとしたところ、午後から戒告処分を出すということがわかり、急遽午前中に異議申立書提出と記者会見を行なった。
7名の異議申立書を出しました(13日にさらに1人の申立書を郵送)。
○戒告処分について
名古屋市の資料によると、12月の除却命令後9件の物件が「自主撤去」されたとのこと(シェルター入所5件、「自主退去」3件、物件のみ撤去1件)。今日の戒告処分の対象物件は17件。「自主撤去」「自主退去」は言葉通りに受け取ってはいけません。
戒告処分の内容(趣旨)は、「行政代執行放題3条の規定により戒告します。1月18日までに除却してください。期限までに除却されない場合には、本市が行政代執行法第2条の規定により、物件等の除却を行い、それに要した費用の納付を命じます。」というもの。
- 今後について
19日以降いつ代執行があるかわからないという前提で、笹島連絡会や野宿者有志は次のように考えています。
○戒告処分に対する異議申し立てと執行停止申し立てを行う(来週早々です)。
○名古屋市の話し合いを求める。
○19日(水)午前白川公園にあつまり、その後も白川公園を中心に態勢を固める。
○市民情宣なども行う。
などだそうです。