壁/密室の暴力 --- アチェ ---

益岡賢
2003年12月21日

[2003年]5月、軍事戒厳令が宣言されて間もなくの頃の早朝だった。[インドネシア軍]の兵士たちが私たちの[名前削除]村にやってきた。一人の男を引きずりながら。兵士は3人だった。兵士たちは、村人皆に、「この男を知っているか?」と聞いた。彼を知らないと答えると、殴られた。兵士たちは私に「この男を知っているか?」と聞いた。私は「知っている」と答えた。兵士たちは、村人にその男が誰か確認していた。彼が何をしたというのだろう?兵士たちは、彼の名前を確認していた。彼の名は、ジャマルと言った。若くて、まだ20代だった。最初私が見たのは3人の兵士だけだったが、後から別の兵士たちもやってきた。

兵士の一人が彼の足首に足枷をはめた。そして、もう一人が彼の足をつかみ、体を振り回して木にぶつけた。その兵士は繰り返し繰り返し彼を木にぶつけた。頭が木にぶつかるように。脳味噌が、彼の頭から流れ出て、彼は死んだ。それから死体は路上に投げ捨てられ、別の兵士が何度も死体に銃弾を撃ち込んだ。彼の腕は生肉のようになった。彼の体は完全に壊れてしまった。彼を撃った兵士は、そこにいた村人たちに、死体を村に運び去るよう命じた。私は20メートルほど離れたところにいた。兵士たちは、彼は自由アチェ運動(GAM)の容疑者だと言った。

[人権団体ヒューマンライツ・ウォッチがマレーシアでアチェ難民に対して行なった証言インタビューの一つ。このインタビューは[名前削除]に2003年10月23日に行なったもの。証言をした難民及びその関係者の安全のため、氏名と村名は削除してある。Human Rights Watch, Aceh under Martial Law: Inside the Secret War. December 2003.より]。



インドネシアはスマトラ島の最北端に位置し、海をはさんで対岸にタイ南部とマレーシアを望むアチェ。オランダ植民地主義と戦い、インドネシア独立に大きな貢献をしたアチェ。スハルト独裁下で、エクソンモービル社などに、その豊富な石油・天然ガス資源を掠奪されてきたアチェ。

2003年5月、インドネシアのメガワティ・スカルノプトリ大統領は、アチェ州に軍事戒厳令を発布し、インドネシア軍が全面武力作戦を開始した。作戦監督司令には、東ティモールで1999年の虐殺と破壊を指揮し、国連=東ティモールの重大犯罪部に起訴されているアダム・ダミリ将軍も加わっている。上に引用した証言は、インドネシア軍の暴力と侵害を逃れてマレーシアに非難したアチェ人のもの。

アチェ州では、軍事戒厳令下で、国際人道団体やメディアのアクセスを拒絶した「密室」の中で、こうした虐殺・超法規的処刑に加え、大量移送や破壊、拷問・強姦、不法拘留、移動妨害、商業や生活の妨害といった大規模な戦争犯罪が犯され続けている。

軍事戒厳令が始まって以来、危険な状態だった。どこにも行けなかった。夕方6時から朝6時までは外出できなかった。私の兄は2カ月前のある朝6時頃、牛のために干し草を取りに行ったところを撃たれた。兄は、牛小屋のそばで干し草を集めていた。私は家にいた。彼の息子が家に来て、「父が誰かに撃たれた」と言った。彼は頭の横から一発、左側から一発撃たれていた。兄の息子は、6時半頃、インドネシア軍兵士が3人死体を見に来たと言った。それから9時頃、12人の兵士が近くの森から出てきた。兵士たちは、森から出てくると、皆を集め、「こいつは誰だ?こいつを知っているか?GAMのメンバーか?」と聞いた。「違う、彼は私の兄だ」と言うと、「埋めろ」と言い捨てて、兵士たちは町へ去っていった。

[ヒューマンライツ・ウォッチがマレーシアで、2003年10月28日、35歳のアチェ人男性[名前削除]に行なったインタビュー。Human Rights Watch, Aceh under Martial Law: Inside the Secret War. December 2003.より]。

夜毎に、インドネシア軍が無理矢理連れ去り、失踪していく人々。昼の日中に理由なく連れ去られる人々。

疑いをかけられた村人は夜、連れ去られていった〔・・・・・・〕下着のまま家を連れ出され、トラックに乗せられた男性を見たことがある。2カ月前、8月のことだった。私は隣の家にいた。外に出て家の横で兵士たちが3台のトラックに乗ってやってくるのを目にした。その夜、兵士たちは8人の村人を連れ去った。一人ずつ。皆、男だった。全体で、多分30分くらいしかかからなかったと思う。兵士たちは迷彩服を着て、中には赤いストライプ一つの者もいた。それ以来、8人の姿は見ていない。彼らに何が起きたのかは、わからない。

[ヒューマンライツ・ウォッチがマレーシアで、2003年10月31日、アチェ人男性[名前削除]に行なったインタビュー。赤いストライプ一本の軍服は、恐らく一等兵相当の地位にいる軍人。Human Rights Watch, Aceh under Martial Law: Inside the Secret War. December 2003.より]。

9月、インドネシア警察機動隊(Brimob)が村にやってきて一人の男を連れ去った。普通の人だった。金持ちでも貧乏でもない、ただ普通の人。朝8時に彼を連れ去った。近くに住んでいたので、その口径を目撃した。理由は分からない---誰かが何か情報を流したのかも知れない。彼が釈放された兆しはない。彼は目隠しをされ、手を縛られていた。35歳で、2人の小さな子供がいた。Brimobは35人、トラックでやってきて、ジャンブ・タペの警察署に彼を連行した。逮捕状なんか、無かった。

[ヒューマンライツ・ウォッチがマレーシアで、2003年10月26日、18歳のアチェ人男性[名前削除]に行なったインタビュー。Human Rights Watch, Aceh under Martial Law: Inside the Secret War. December 2003.より]。

そして、インドネシア軍による掃討作戦の「露払い」として「人間の盾」に使われる人々。

ある日の朝4時頃、20人の村人が[TNIにより]集められ、4つのグループに分けられた。GAMを探して山に連れ出された。インドネシア軍は、我々一般市民に前を歩かせた。二晩たって、兵士たちは戻ってきた。GAMを見つけられなかったようだ。村に戻ってきたTNIは沢山の村人を殴った。私も殴られた。

[ヒューマンライツ・ウォッチがマレーシアで、2003年10月29日、22歳のアチェ人男性[名前削除]に行なったインタビュー。Human Rights Watch, Aceh under Martial Law: Inside the Secret War. December 2003.より]。

国際人道団体も人権団体もメディアも「排除」された中でインドネシア軍が進めている人権侵害の、これは氷山の一角でしかない。



1975年12月7日、米国大統領ジェラルド・フォードと国務長官ヘンリー・キッシンジャーのお墨付きを得て東ティモールを侵略したスハルト大統領のインドネシア軍は、「密室」と化した東ティモールで、同様の殺戮を人権侵害を進めた。この侵略とその後の不法占領は、1980年頃までに、殺戮や飢餓で10万人もの犠牲者を生みだし、1999年までに、当時の東ティモールの人口60万人の3分の1にあたる20万人もの犠牲者を生みだした。

繰り返される、「密室」の殺戮・・・・・・。

しかし、実際には、殺戮の証言をした人々がマレーシアに逃れたことからも分かるように、アチェは「密室」ではない。東ティモールも、また、山からSOSを求める無線通信はオーストラリアに届いていたし、東ティモールを脱出したり密かな経路を通してインドネシア軍による残虐行為の情報は届いていた。

それにもかかわらず、そうした膨大な殺戮や人権侵害が、我々の大多数のもとに広く届けられはしないならば、そしてあたかも「密室」で行われているように見えるならば、それは、そうした不都合を我々に届けないことにより、あたかもそれが「密室」で行われているために我々には知り得なかったのだとの言い訳を作り出すメカニズムが、我々の側で働いているからである

東ティモールの場合。1975年、英国の反応:

この見地から言うと、インドネシアがその領土[ポルトガル領ティモール=東ティモール]をできるだけ早くスムースに吸収することが、英国にとって最も都合が良い。問題が出てきて国連で論争になる場合には、下を向いて、インドネシア政府と対立する立場を採らないようにすべきである。

[ジャカルタ駐在の英国大使の発言。Munster, G. and Walsh, J. Documents on Australian Defence and Foreign Policy, 1968-1975. Hong Kong, 1980.より]

1978年7月18日、スハルト大統領による東ティモール訪問ショーに随行した朝日新聞山口記者による報道:

「大統領訪問を歓迎」、「豊富な商品、物価も平静」

強制収容キャンプで大規模な餓死者が出て、インドネシア軍による虐殺が最高潮に達していた時期、そのことが、無線通信やカトリック系の情報筋などで伝えられていたときのこと、また、国際赤十字が東ティモールの人道的破局を世界に向けてアピールした、その少し前のことである。

1999年のインドネシア軍と民兵による破壊と虐殺をめぐって、私たちのグループが、外務省に何度も、現地でインドネシア軍と警察が殺害や破壊に関与しており、また民兵に司令を下しているという情報を伝えた際:

ああそうですか。それは・・・・・・はいはい。日本政府はインドネシアに繰り返し治安を責任を持って担当して貰うよう求めています。



現在アチェで進められている殺戮と人権侵害をめぐっても、似通ったメカニズムが働いている。

2003年夏、東京・池袋で行われた内閣の「タウンミーティング」で、小泉首相は会場から出された「メガワティ政権によるアチェでの戦争犯罪を追認し、人権侵害を助長する日本のODA(政府開発援助)を見直すべき」との質問に、何食わぬ顔で「アチェで問題があるからと言うだけで、政府へのODAは止めるべきではない」と答えていた。

ODAを停止すると、日本企業がインドネシアに永年にわたり投資し、スハルトが掠奪した資金の日本企業への環流が滞る。ODAがどのように用いられていようと、止めるわけにはいかない。そもそも、ODAはそのように用いるためのものなのだから。

それゆえ、アチェや西パプアでの人権侵害と虐殺は、ちょっと隠しておく必要がある。最も都合が良いのは、ただ隠すだけではなく、素敵な大義のもとで、正義が行われているとしてしまえばよい。そうすれば、ちょっとした暴力沙汰が漏れだしても、「悪との戦い」と称してごまかすことができる。

かくして、2003年12月11日・12日に東京で行われたASEAN特別首脳会議では、インドネシアのメガワティ大統領とインドネシアへの最大の援助国日本の小泉首相が共同議長をつとめた。メガワティ大統領は、「インドネシアは地域の対テロ戦の先駆者」と誇らかに語り、日本とASEANの協力関係を経済のみならず安全保障面にも拡大することが確認され、「対テロ」連携が強調された[驚いたことに参加国は「基本的人権の尊重」を盛り込んだ「東京宣言」を採択している]。

どうやら、アチェで進められている、民間人の殺害や超法規的処刑、不当逮捕、誘拐・拉致・拷問・強姦、自由の剥奪と外出禁止令、これらが「対テロ戦争」であり、「基本的人権の尊重」とはそうした行為を推進することを指すもののようである。

ほとんどのメディアは、1978年、スハルトの演出を山口記者がそのまま伝えたように、メガワティと小泉の言葉を、大本営発表さながらに伝えている。賞賛される「対テロ戦争」がどれだけの人をアチェで犠牲にしてきたかを、ほとんど伝えないままに。

日本が侵略した満州で、住民たちの抵抗運動に対して日本企業の団体が「在留邦人の生命財産に対する不法な侵害[ママ]」を防止するために、日本軍の行動を求めていることを思い起こす。



我々は何が起きているか知らなかったのだ。

ナチスのもとで起きた出来事について知らなかったと主張するドイツ人を、連合国側が馬鹿にする際の決まり文句であった。日本で「我々も犠牲者だった」と言う言葉が色々なところで言われたのと同様に。

しかしながら、ドイツ人たちがよく口にしたこの答えは、我々が思いたがるほどありそうもないことなのだろうか? 即時に世界的な通信が可能な現代において、米国が、インドネシアが、強国が、多くの場合、大小さまざまな軍事作戦を行なったリ、同様に露骨な介入を行いながら、世界中の市民が、何年も後になるまでそれに気付かずにいた---そもそも気付いたとしてもであるが---ということを考えると、そして、今も気付かずにいるということを考えると、愕然とせざるを得ない。

第二次世界大戦終了時に、勝ち誇った連合軍がドイツの強制収容キャンプを発見したとき、場合によっては、近くの町から、ドイツ市民が連れてこられ、キャンプと遺体の山、まだ生きている骸骨のような人々を、面と向かって見させられた。尊敬すべき市民の一部は、遺体を埋めさせられさえした。

膨大なインドネシア軍の人権侵害をODAによる巨大な援助で支えてきた善良で丁寧で身だしなみのよい友好的な日本男児と大和撫子が、アチェの地に降り立って、人間の脳味噌が流れ出す光景を目にしたとしたら、毎晩隣人が痕跡も残さず消えていくのを目にしたとしたら、どうだろう? いかに善良で丁寧で身だしなみのよい日本男児と大和撫子でも、多少は、顔を歪め、何かがおかしいと思うであろう。それよりも何よりも、そもそも善良で丁寧で身だしなみのよい人々は[ちゃんとヘアー・コンディショナーも使っているだろうから]、そんなものは見たくないと考えるだろう。

密室が求められるのは、このためである。密室は、実際に閉ざされている状態ではなく、あたかも出来事が物理的に隔離されたところで起きているかのように見せかけ、そこで起きている出来事が漏れだしたときのために、それが「対テロ戦争」あるいは「邦人に対する不当な侵害」からの防衛であるかのように見せかけ、そして我々が、自らの安心のためにそれを受け入れることにより作られる、我々の側の作り出した空間である。


ナオミ・クラインは『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』(はまの出版)で、壁と密室が、今、至る所に姿を現しているといったことを述べていました。イスラエルがパレスチナ領内で作っているアパルトヘイト・ウォール。米軍がそれを真似てイラクで作っている村々を取り囲む鉄網。ミンダナオ島で人々の暮らしを分断するかのように作られている日本のODAによる高速道路・・・・・・

そうした壁と密室を壊す様々な活動がインターネットの上でも地上でも、色々進められています。世界社会フォーラムや、WTOやG7総会に対する大規模な抗議行動、世界的な反戦運動、草の根のメディア等。

イスラエルの兵役拒否者を支援する要請、続いています。最近、イラクの状況を紹介する新たなページも立ち上がりました(このページの一番下には、日本首相への投書箱リンクがあります)。また、新聞への意見広告計画もあと一息のようです。

  益岡賢 2003年12月21日

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