この記事は、アチェを巡るメディア統制に関するものです。一方、現地の状況は、非常に悪化しており、1975年のインドネシア軍による東チモール全面侵略、1999年の東チモールにおけるインドネシア軍と手先の民兵による破壊と虐殺を思い起こさせるニュースが入ってきています。
アチェを巡る最新の情報は、インドネシア民主化支援ネットワークにあります。特に、
http://www.nindja.com/aceh17.html
http://www.nindja.com/aceh15.html
をご覧下さい。
また、改めて、アムネスティ・インターナショナルと日本インドネシアNGOネットワーク共同のキャンペーンにも(まだの方は)ご協力頂けますと幸いです。既にFAX等なさった方は、知人・友人に広めて下さいますよう御願いいたします。
http://www.jca.apc.org/~janni/action-aceh2.htm
有事法制・イラクへの自衛隊派遣等、異様な事態を日本政府は進めていますが、アチェの人権侵害についても、インドネシア民主化支援ネットワークが日本政府にあてた、「どうか、インドネシアにとっての最大援助国である日本、先の和平交渉の共同議長国である日本として、なによりも人権、自由に配慮するよう、インドネシア政府・軍に圧力をかけてください。インドネシア共和国統一国家(NKRI)支持も、日本政府にとって大事なのかもしれませんが、NKRIより、人の命は重いはずです。日本の沈黙(裏で圧力をかけているとしても、公にはまったく見えません)、 NKRI支持は、アチェにおける人権侵害を放置するという意味で、それに荷担しているとしか思えません」という言葉が示しているように、このまま何もしないならば、日本政府の負の役割は大きいものです。
インドネシア政府は、今一度、民族主義的プロパガンダとメディア検閲を使って、アチェへの軍事侵攻に対する人々の支持を得ようとしているが、ジャーナリストや活動家は、政府は東チモールでの過ちから学んでいないと批判する。実際、批判者達は、5月19日のアチェ侵攻開始は、軍事作戦の開始を告げただけでなく、アチェにおけるプロパガンダ戦争の開始も告げていると述べる。
自由アチェ運動(GAM)の分離主義抵抗は、27年間にわたって続いている。ジャカルタは5月に、最近の和平交渉が崩壊した後[5月17日に東京で行われた和平会談およびその前からインドネシア側は和平を崩壊させるかのような一方的条件を求めた]、軍事戒厳令を宣言した。
今週、GAMとの衝突で少なくとも7人のインドネシア軍兵士が殺されたと軍オフィシャルは10日に述べた。一方、軍は、5月19日以来、GAMのメンバー150名以上を殺したとも発表しているが、これに対してGAMは反論している。
ジャーナリストたちは、この間、民族主義と検閲が規範であると告げられた。インドネシアの通信情報相シャムスル・ムアリフは「インドネシアのジャーナリストは、インドネシアの利益を優先しなくてはならない」と語った。けれども、この言葉は、ジャカルタの官僚たちが、東チモールの経験から学んでいないことを示している、とジャーナリストのモッチ・ファリエド・カヨノは言う。
1999年、東チモールは、1975年にインドネシアが占領のために軍を送ってから24年を経て、インドネシアの不法占領から離れる投票を行った。カヨノは、1999年、インドネシアによる東チモールでの弾圧がピークに達していた時、テンポ誌で働いており、元大統領スハルトが、以前東チモールの報道について言った言葉を想起した。「1991年、スハルトは、インドネシアのメディアは東チモールについて、政府筋から得た情報以外報じるべきではない」と述べたという[1991年11月12日、インドネシア軍が平和的デモに発砲、300人近くの東チモール人を殺害した]。1994年、テンポ誌は、他の2つの雑誌とともに、スハルト政権から出版差し止めを命ぜられた。この理由の一つは、東チモールについて独自報道を行なったことにある。
カヨノは、今日、インドネシア軍は新たなメディア戦略を使っていると述べる。それは、米国主導のイラク侵略から採用されたもので、ジャーナリストたちを軍に埋め込む(軍属とする)手法である。けれども、その手段は新しいが、目的は、愛国主義は、アチェに対する政府の立場と攻撃とを支持することであると、ジャーナリストたちに刷り込むという同じものである。
5月19日の直前、約50名のインドネシア人ジャーナリストが、アチェにおける戦争を報道する予定で、インドネシア軍から、戦時サバイバル戦略の訓練を受けていた。これらのジャーナリストは、それ以来、軍部隊の作戦に同行し、軍服を来て軍の装備を使うことを許されている。
インドネシア及び国際的なメディア・グループは、これを、軍によるメディア報道の操作の試みであると批判している。「これは情報を操作しようとする試みだ。米国政府がイラクでしたことからインドネシア軍が学んだことだ」とジャカルタを拠点とする独立ジャーナリスト連盟の書記長ソラフディンは言う。
5月に、アチェの軍事戒厳令司令官エンダン・スワルヤ少将は、率直に、ジャーナリストたちに対して、軍関係者の行動を報ずるのは自由だが、「GAMからの報告もGAMを称えるような報道もあってはならない」と述べている。「GAM報道官からのニュースを呈しするのは、GAM側が事実を逆さまにしているからだ」と彼は述べた。
インドネシアの報道によると、軍は、軍事戒厳令下で、メディアの制限をさらに強めることを検討しているという。それには、軍に登録されていないジャーナリストを追放することも含まれる可能性がある。
一方、インドネシア及び国際メディアでは、アチェでインドネシア軍が一般市民に残虐奥井を働き、また、戦争で多くの人々が家を追放されたという報道がますます増えている。5月末、人権団体は、アチェで1万5000人以上の人々が、軍の作戦により家を追放されたと推定しているが、インドネシア政府は、その報告は偏向していると述べた。ムアリフは、メディアが、政府が破壊された学校再建の努力をすることよりも、「兵士達が遺体を引きずっている」ことを報道する傾向があると不平を述べる。「我々は、国際的なPFが弱く、そのために、海外のメディアによる報道は、しばしば打撃となる」と。
けれども、アチェに対する今回の侵攻から1月近くたって、メディアも非政府組織の報告も、人権侵害の事件を報じ続けている。それには、子供や民間人の殺害も含まれている。何百という学校が、身元不明の放火者たちによって放火され、それについてインドネシア軍とGAMはお互いを非難している。
ジャーナリストも脅迫から逃れてはいない。「アチェ人ジャーナリストは、長い間、軍とGAMの双方から脅迫を受けていた」とソラフディンは述べる。「こうした脅迫は、殺害や家族への脅しなどがあった。現在、アチェ以外のジャーナリストに対しても、脅迫が行われている」。
ニューヨークを本部とするジャーナリスト保護委員会もまた、何回か、身元不明のガンマンによりジャーナリストが撃たれたという声明を発表している。インタープレス・サービスのバンダ・アチェにおける情報源によると、国際的な雑誌で働く2名のアチェ人ジャーナリストが、今月、繰り返し脅迫を受け取ったあとで、アチェから追放されたという。
テンポ・デイリーで働くあるアチェ人ジャーナリストは、軍が13歳の子供を含む村人を殺したと報じた記事の情報源について、軍から尋問を受けている。テンポ・デイリーは、それは海外の通信社の報告を引いたものであり、その記事では、インドネシア軍は、村人達はGAMに味方していると主張していたと述べている。
カヨノは、東チモールとアチェで軍が用いたメディア戦略はそう違わないが、大きな違いとなっているのは、今日のインドネシアにおける政治的状況であると述べる。スハルト時代そして東チモール占領時代のほとんどの期間には、ジャーナリストは口を封じられていたが(スハルトは1998年に失脚し、その後で東チモールは将来を決める投票を行うことができた)、現在では、インドネシアのジャーナリストたちは、政府を自由に批判することができると。「軍がメディアを統制する時代ではもはやない」とカヨノは言う。
5月30日付のジャカルタ・ポスト紙の社説「メッセンジャーを撃つな」は、インドネシア軍に対して、東チモールでの出来事を思い起こすよう求めている。「軍がジャーナリストを撃ちはじめたときは、プロパガンダ戦争に敗北するときなのである。そして、我々は、数年前の東チモールでの経験から、それがどれだけ高く付くか知っている」と、同紙は書いている。