グアテマラ 一九六二年から一九八〇年代
あまり知られていない「最終解決」

ウィリアム・ブルム著
キリング・ホープ 第37章より
オンライン原文



以下、とても長いですが、ぜひお読み頂ければと思います。

訳文では、「インディアン」という言葉を原文のまま使いました。グアテマラについては、日本語で読める文献が色々あります。岩倉他『先住民族女性 リゴベルタ・メンチュウ』(岩波ブックレット342)、『グアテマラ 虐殺の記録』(岩波書店)、『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』(新潮社だったと思います:なぜか手元にありませんでしたので未確認)、そして、末尾のハーベリのキャンペーンに直接関わる『エヴェラルドを捜して』(新潮文庫)など。シスター・ディアナ・オーティスについては拙訳『アメリカの国家犯罪全書』(作品社)に少し詳しい記述があります。

ラテンアメリカに対する米国の介入について多少整理し分析したものとしては、ラテンアメリカにおける帝国の歴史をご覧下さい。

ここに記述された出来事のうち1980年代のものは、2003年現在米国政権の座についている面々のかなりが密接に関与しています。


インディアンたちは、村の襲撃についての痛ましい話について語った。襲撃で、家々や焼かれ、男たちはおぞましい拷問を受けて殺され、女たちは強姦され、貧しい作物は破壊された。これは、グアテマラの反政府活動に対する「最終解決」だった。インディアンたちの大衆蜂起への参加を阻止するためには、インディアンたちを大量殺戮する以外になかった[1]。

この新聞記事は、一九八三年に現れたものだが、これととてもよく似た記事が、一九六六年以来、繰り返し新聞に現れていた。グアテマラの「最終解決」は、より広く知られているナチスの最終解決よりも、いささか長く続けられていたのである。

アメリカ人ツーリストに大人気の美しい土地グアテマラ。このグアテマラで三分の二を占める、大部分インディアンからなる小農民と都市部の貧困層の悲惨な状態を十分に描き出すのは難しい。当時の文献が示す、こうした人々の存在に関する詳細は、人間生活のカリカチュアを描き出している。全てのものが育っていく気候の中で、餓えや栄養失調の進行からくる苦痛を逃れることができる人々はほとんどいない・・・子供たちの半分近くは、五歳になる前に死亡する・・・グアテマラにおける死因として最も多いのは、胃腸炎である。飛行機により無差別に、ときに直接農民たちの頭上に散布される、極めて毒性の高い農薬は、累々たる中毒と死とを引き起こす・・・地方部の公共保健サービスは、ほとんど存在せず、教育も同様である・・・ほとんど〇%の識字率。グアテマラでは、たった数百の家族が、ほとんど全ての農耕に適した土地を所有している一方、何千もの家族が、土地も仕事もなく、厚紙とブリキで作った、水道も電気もない家が建ち並ぶコミュニティに密集して暮らす。雨期には泥にまみれ、風呂とトイレは動物たちの水場と共有する。コーヒー・プランテーションで働く男たちは一日に二〇から五〇セントしか稼がず、強制集中キャンプと非常によく似た環境で生活する・・・他のグアテマラ人たちは、これらの人々を、人間よりは荷物引きの動物と見なして軽蔑する。売り出し中の大規模プランテーションの宣伝には、「二〇〇ヘクタールと三〇〇人のインディアン」とある。これが、米国人考古学者シルバヌス・モアリーが地上で最もすばらしい先住民と呼んだ古代マヤ文明の名残として、現代に残されたものである[2]。

最悪のときは、まだ訪れてはいなかった。

一九五四年に、合法的に選出されたハコボ・アルベンス政権という、グアテマラ最後の改革派政府が、米国により転覆された経緯については、既に見てきた[キリング・ホープの第二三章]。そしてまた、一九六〇年に、グアテマラ軍の民族主義的分子が、変革への扉をわずかに開けようと試みたとき、CIAがそれを即座に粉砕したことも。まもなくして、苦痛を軽減しようという絶望的な試みの中で、たまりにたまった不満が噴出した。この度は、ゲリラ活動のかたちをとって。それも、スペインのコンキスタドラによる野蛮行為を思い起こさせるような、グアテマラと米国との作戦により、押し戻された。

一九六〇年代前半、ゲリラ運動---この主な指導者の中には、成功しなかった一九六〇年の蜂起に参加した軍士官数人が加わっていた---が、少しずつ前進していた。グアテマラ軍との直接の軍事衝突を避けようとしながら、地方部で農民の支持を組織し、武器を手にするために軍の前哨を襲撃し、資金収集のために誘拐や銀行強盗を行っていた。

農民からのリクルートは極めて遅々としていて困難だった。生き延びるための日々の闘いで消耗しきった人々には、勇気を絞り出す力があまり残されておらず、あまりに虐げられた人々は、成功するという考えを信じることはおろか、自分たちに抵抗の権利があると信じることも困難だった。人々は、熱烈なカトリックの信者だったため、自分たちの悲惨は、神による自分たちの罪深さに対する罰なのだと信じる傾向があった。

ゲリラ指導者の中には共産党やトロツキーの考えに近づくものもおり、派閥の分断と論争に侵された。けれども、次第に、運動を支配するのは、イデオロギーや感情ではなく、一九五四年のクーデターで中断された、絶望的なまでに必要とされていた土地改革と、より公平な社会への単純な渇望、そして、米国に対する民族主義的プライドとなっていった。ニューヨーク・タイムズ紙の特派員アラン・ハワードは、ゲリラ指導者ルイス・テュルシオスとインタビューした後に、次のように書いている。

テュルシオスは突然、自らが政治的指導者の地位にいることに気付いたが、本質的には、新たな社会儀礼を求めて闘う兵士であった。彼に分身があるとすると、それは、彼が著作を読んで敬意を抱いていた、レーニンでも毛沢東でも、あるいはカストロでさえなく、アウグスト・サンディーノであった。サンディーノは、米国クーリッジ政権とフーバー政権時代にニカラグアに送られた米軍海兵隊と戦ったニカラグアの将軍だった[3]。

一九六二年三月、ミゲル・イディゴラス・フエンテス将軍の経済政策と芯まで腐った汚職、そして選挙の不正に対する抗議として、何千人もの人々が路上に出てデモを行なった。最初学生が開始したこのデモは、まもなく、労働者や農民のグループからの支持を得た。一連の暴力的な対立とゼネストが起きた後、警察と軍が、デモの中核を粉砕した。

グアテマラに常駐していた米軍使節団は、この抗議デモおよび育ちつつあったゲリラ運動の中に、遍在する「共産主義の脅威」だけを見ていた。米軍の機材がグアテマラにどんどん注入される中で、米国人顧問官たちは、あまり危機感を持たずまた攻撃的でもなかったグアテマラ軍に、適切な対処策を採るよう仕向けた。一九六二年五月、米国は、グアテマラに、対ゲリラ訓練専用の基地を設けた(ペンタゴンは、「反革命」という言葉よりも「対ゲリラ」という言葉を好む。これは、前者は不都合な含意があるからである)。グアテマラ北東部のイサバルに設置されたこの基地は、隣接するサカパ地方とともに、ゲリラ支持が最も強い地域であった。基地の設置は、米軍特殊部隊(グリーン・ベレー)の班により行われた。この班は、北米の存在を目立たなくさせるために、プレルトルコ系およびメキシコ系の兵士から編成されていた。この基地のスタッフは、パナマ運河地帯のフォート・グリックにあったスクール・オブ・ジ・アメリカズ[米州軍事学校]で対ゲリラ訓練を受けた一五名のグアテマラ軍士官により、補強された[4]。

米国の対ゲリラ戦略は、典型的なアメとムチの考えに基づいている。それに従って、グアテマラ軍は、急襲やブービー・トラップ、ジャングルで生き延びる方法、索敵撃滅戦術などを教え込まれ、航空機とパイロットの訓練が提供される一方、グアテマラ北東部で、「民政」プログラムが開始された。その中でいくつかの井戸が作られ、薬が配布され、学校給食が提供されるなどといった諸種の手当が約束された。これらはいずれもゲリラの勢いを鎮め、農民たちのゲリラに対するさらなる支援を阻止することが目的で、また、米国人が兵士でないふりをして、ゲリラの領土を偵察できるという、さらなるおまけもあった。グアテマラの地方部で圧倒的な重要性を持つ課題である土地改革については、民政プログラムのアジェンダにはなかった。

事態が進行するにつれて、農民の「心をつかむ」作戦は、東南アジアでと同様、グアテマラでも無理であることが明らかになってきた。「社会システム工学」に関する専門ペーパーの処方がすべて試され、ランド社を始めとする様々なシンクタンクの対ゲリラ作戦が議論され適用された後、残る頼みの綱は、テロだけとなった。純粋な、便りになるテロである。改革要求を---一時的にでも---阻止するために、ゲリラや農民、学生、労働運動指導者や専門家たちが、何百人という単位で投獄され殺害された[5]。

最悪のときは、まだ訪れてはいなかった。



一九五八年に六年の人気で選出されたイディゴラス将軍の政府が、一九六三年、エンリケ・ペラルタ・アスルディア大佐によるクーデターで転覆された。ラテンアメリカ地域をカバーする熟練特派員ジョージー・アン・ゲイヤーは、「ケネディ政権の上級情報筋は、米国が、一九六三年のクーデターを扇動し支援したことを明らかにしている」と報じた。いくつかの出来事により既にワシントンの意に沿わなくなっていたイディゴラス将軍は、どうやら、フアン・ホセ・アレバロの政権復帰を許容したために、自らの運命を閉ざしたのである。アレバロは、アルベンス政権の前に改革政権を率いた人物で、当時もまだ大きな人気を誇っていた。イディゴラスは一九六四年に退任して、選挙への扉を開く計画を持っていた。グアテマラ軍と同様にワシントンも---ケネディ大統領本人を含め---、自由選挙が行われるとアレバロが政権の座に就き、アルベンスと同様の改革と独立した外交政策に乗り出すだろうと考えた。アルベンスが米国により転覆されたのは、こうした政策の故だったのである[6]。アレバロは、『サメとイワシ』という、米国がラテンアメリカを支配しようとしていることを描いた本の著者であった。けれども、一方で、彼は、カストロを「大陸に対する危険、脅威」と公に非難してもいたのである[7]。

ペラルタ政権の性格は、その最初の行動に現れている。八名の政治指導者と労働組合指導者を、石を満載したトラックで轢き殺したのである[8]。ペラルタが弾圧的で残忍だったにもかかわらず、彼が政権の座にあった三年の間、米軍顧問官たちは、それでも、政府とグアテマラ軍によるゲリラの脅威に対する認識は、まだ十分ではなく、政府とグアテマラ軍は非通常戦闘及びゲリラを永遠に一掃する体系的作戦に慣れていないと感じていた。アメリカが促していたにもかかわらず、グアテマラ軍は、滅多に山岳地帯への襲撃を行わなかった。

さらに悪いことに、ペラルタはある程度民族主義的であることが明らかになった。グアテマラに対する米国の過度な影響に---特に自分の領域である軍における過度の影響に---憤りを覚えていたのである。彼は、自国の部隊を使うことを優先して、ゲリラ戦の訓練を受けた米軍グリーン・ベレーをゲリラとの闘いに投下すべしという米軍の執拗な申し出を拒否し、また、海外での米軍による訓練に参加できるグアテマラ軍士官の数を制限した。

そこえ、米国は、一九六六年三月に行われた選挙で、文民のフリオ・セサル・メンデス・モンテネグロに明白で強力な支持を与えた。グアテマラ流のこの選挙で勝利したメンデスは、アメリカが手にしたくてじりじりしていた自由な介入権を与えたのである。彼は、別の意味でも米国にとって有用だった。文民で生粋のリベラルナ経歴を持っていたため、メンデスは、米国内で、グアテマラの人権問題を違反する人々に対して、ジョンソン政権が応えたものとして指摘することができたのである。

しかしながら、心の奥深くでいかなる社会意識を持っていようとも、フリオ・セサル・メンデスは、グアテマラ軍の支配下に置かれており、彼の政権は、残忍さにおいて、ペラルタ政権を遙かに凌駕するものであった。けれども、軍はこの元法律学教授を信頼せず---グアテマラ特有の雰囲気の中で、軍の中には、メンデスを共産主義者と見なす者たちもいた---、少なくとも二度、米国は、メンデスに対するグアテマラ軍のクーデターを抑えつけるために、介入しなくてはならなかった。

一九六六ね七月にメンデスが政権の座に就いてから数日後に、米軍のジョン・D・ウェバー・Jrが、グアテマラの米軍使節団の司令官としてグアテマラに着任した。『タイム』誌は、後に、ウェバー・Jrの役割について、次のように述べている。

ウェバーはただちにグアテマラの五〇〇〇名からなる兵士に対する対ゲリラ訓練を拡大し、米国製ジープやトラック、通信機器、ヘリコプターをグアテマラに搬入して、グアテマラ軍により強力な武力と移動手段を提供し、軍の民政プログラムを刷新した。一九六六年末頃には、軍は、ゲリラの拠点に対する大きな侵攻を行うことが出来るようになった。〔・・・・・・〕軍事作戦の補助として、軍はまた、現地で「民間人協力者」のグループを雇い入れて武装し、ゲリラあるいは「潜在的な」ゲリラと見なされる農民たちを殺害する許可を与えた。暴力が蔓延するグアテマラでこうした手段を奨励することに対しては疑問を持つ人々もいたが、ウェバーはその一人ではなかった。「それが、この国のあり方なのだ」と彼は述べた。「共産主義者たちは、テロを含めたあらゆる手段を使ってくる。それに対応しなくてはならない」[9]。

最後の句は自分に向けたものだった。テロの量と残虐さ、そして標的の選び方について、ゲリラ側の規模は軍側には遙かに及ばなかった。稀な例外はあったが、左派は、正当な政治及び軍の敵、そして明らかに罪のある敵の象徴だけを標的とし、また、拷問は行わず、敵の家族に対しての報復も行っていない。

左派の犠牲になった者のうちには、ジョン・ウェバー自身と米国海軍随行員の二名が含まれている。一九六八年一月に暗殺されたのである。ゲリラ・グループが後に発行した会報は、この暗殺を、「グアテマラ軍に、人々に対する戦争の戦略を教えていたヤンキー士官たちに対する裁きをもたらしたもの」と述べている。

一九六六年一〇月から一九六八年三月の期間に、アムネスティ・インターナショナルは、警察と軍、「死の部隊」、様々な文民反共自警団により、三〇〇〇人から八〇〇〇人のグアテマラ人が殺害されたと推定している(「死の部隊」は、しばしば、民間人の服装をした警官や軍兵士であり、政府が行なったとするにはあまりに血なまぐさい残虐行為を行う役割を担っている)。一九七二年までに、これらによる犠牲者数は一万三〇〇〇人に到達し、その四年後には、殺害されたかあるいは痕跡を残さずに失踪させられた人々の数は二万人を超えた。

組合を組織するなどの方法で農民の多くの状況を改善しようとしたり、あるいは、ただたんにゲリラを支援していると疑われただけで、人々は標的となった。・・・武装した正体不明の男たちが家に押し入り、どこか分からない場所へと人々を連れ去った・・・こうした人々の、拷問を受けたり手足を切断されたり焼き払われた遺体が、大量墓地から発見されたり、ビニール袋に入れられて湖や川に浮かんでいるところを発見されたり、後ろ手に縛られて道ばたに転がっているのが発見された・・・遺体が飛行機から太平洋に捨てられることもあった。グアラン地区では、誰も、魚採りをしなくなったと言われた。あまりに多くの死体が網にかかったためである。こうした遺体は、バラバラに切断されていたり、性器を切り取られていたり、目に針が刺さっていた。・・・ゲリラに人員や食料や情報を提供していると疑われた村の人々は一斉に狩り出され、大人たちは全員、家族の前で連れ去られ、二度と目撃されることはなかった。あるいは、全員が虐殺された後に、痕跡を隠すために村全体がブルドーザで更地にされることもあった。犠牲者たちが、実際にゲリラの一員であることは、ほとんどなかった。

拷問法の一つとして、殺虫剤を注入したフードを犠牲者の頭に被せる方法があった。電気ショックも使われた。性器に対してが最も効果的だった。当時、電気ショックのためには、軍用屋外電話を小さな発電器に接続したものが使われた。米国は、このための機材と方法の説明書を、数カ国に提供していた。その一つは南ベトナムで、そこでの大規模な対ゲリラ作戦を通して、非協力的な捕虜から情報を引き出すための新たな方法や器具が開発されていた。そうした技術の一部が、ラテンアメリカでも用いられるようになったのである[10]。

グリーン・ベレーは、グアテマラの訓練生たちに、様々な「尋問」法を教えていたが、グリーン・ベレーの役割は教室内にとどまらなかった。地方部で、グアテマラ軍に随伴して戦闘地域に行くグリーン・ベレーがいることが、頻繁に伝えられた。顧問官の役割と戦闘員の役割との区別は、しばしば、単に宣伝上だけのものであった。

一九五〇年代半ばから一九六七年末までグアテマラで活動していたアメリカ人のカトリック宣教師、トマス・メルヴィルとマージョリー・メルヴィルは、ウェバー大佐が、「サカパとイサバル地方でグアテマラ軍が対テロ戦術を実行しているのは、ウェバー自身の考えであり彼がそれを奨励したからであることを隠そうともしていない」と書いている。メルヴィルたちは、アイオワ市のバーナード・ウェストフォール大佐についても、次のように書いている。

[ウェストフォール]は、一九六七年九月、グアテマラ空軍のジェット機が墜落した事故で命を落とした。彼は、この空軍機を一人で操縦していた。公式発表によれば、この米軍航空兵は、航空機の「テスト」飛行をしていたとのことである。この発表は本当かもしれないが、けれども、ウェストフォール大佐が、しばしば、北東部のゲリラ・キャンプに対する地上掃射・爆撃飛行で、グアテマラ機を「テスト」していたということが、グアテマラのラ・アウロラ空軍基地で、日常的にまた公に話されていた話題であるというのも、本当なのである[13]。



F−五一(D)戦闘機は、米軍がグアテマラの対ゲリラ作戦用に改変していた。改変後の同機は、一定地域を五時間以上巡回することができ、また、六丁の〇・五〇口径機関銃を備え、翼に爆弾とナパーム弾、そして五インチ空対地ロケットの砲架が備え付けられた[14]。ナパームは、村々、貴重な作物、人々の上に投下された。米国人パイロットが、パナマから離陸し、搭載したナパームをゲリラの隠れ家と疑われる地域に投下し、パナマに帰還していた[15]。ナパームは花火のように爆発し、明るい赤の泡が大量に大地の上を広がり、接触したもの全てに火を付けた。松の木は根元まで焼けただれ、動物たちは焼かれ、大地は焦土となった。ゲリラはそうした土地をもはや避難所として用いることはできず、ゲリラだけでなく誰も、食物を求めることができなくなった。世界の反対側では、ベトナムで、同じことが再現されていた。

ベトナムでは、それは、「自由放火地帯」と呼ばれていた。グアテマラでは「ソーナス・リブレス」と呼ばれていた。「ベトナムの広範な地域が立ち入り禁止を宣言され、それから大量爆撃を受けた。先端写真技術を備えた偵察機がゲリラの地域の上空を飛行し、それぞれ特定の地域に割り当てられたジェット機は、地上で動くものを全て殺すために数分で呼び出されるようになっていた」[16]。



「この作戦を行っていた軍人たちは、連続殺人犯と同様であった。ジェフリー・ダーマーがグアテマラにいたならば、既に将軍になっていただろう」。・・・グアテマラ・シティでは、右派テロリストが白昼堂々と人々や家々を機銃掃射していた。・・・ジャーナリストや弁護士、学生、教師、労働組合員、反対政党の党員、ゲリラの大義を支持したり共感を表明した人々、曖昧ながらも左派的な政治傾向を示したり政府の政策に対して穏健な批判をした人々が標的となった。また、犠牲者の親族は、親族であるという罪により殺され、通常の犯罪者は、社会を純化するために、刑務所から連れ出されて射殺された。「反共新組織(New Anticommunist Organization)」は、「共産主義者を見つけ、殺せ」というスローガンを掲げた。顔を隠した密告者が都市の路上や地方を警察と共に移動し、「こいつはクソ野郎だ」、「あいつだ・・・」などと、人々を指さし、誰が死に、誰が生き残るべきかを指示した。目をえぐり出されたり、自分の性器を口に突っ込まれたり、手や舌を切り取られたりした男たちや、胸を切り取られた女たちの死体が見つかった。人々は、家から白昼連れ出され、路上で処刑されたにもかかわらず、殺人の証人が見つかることは滅多になかった。親族は、当局に訴え出るかわりに亡命を選んだ。政府は犠牲者を追悼する家族の席に参列した[17]。

「死の部隊」の一つであるマノ・ブランカ(白い手)は、学生の指導者に対して殺害警告を送った。元メリノール会の司祭だった米国人ブレーズ・ボンパン(Blase Bonpane)は次のように述べている。

私は一人でマノ・ブランカの隊長に会いに行き、なぜ、この男を殺すのか訊ねた。最初、彼は手紙を送ったことを否定したが、彼と彼の第一秘書と少し話をした後、秘書が次のように言った。「彼が共産主義者だということが分かっている。それゆえ、彼を殺すのだ」。「どうやってそれを知ったのか」と私は訊いたところ、彼は、「この男が、人生を貧しい人々のために捧げると語っているのを訊いたことから、彼が共産主義者だと知ったのだ」と答えた[18]。

マノ・ブランカは、住宅地に、左派の住民の玄関に黒い十字を書くよう示唆するリーフレットを配布した[19]。



一九六七年一一月、駐グアテマラ米国大使ジョン・ゴードン・メインは、グアテマラ軍に、新たな装甲車と爆弾投射機、訓練とラジオ機材、そしてHU−1Bジェット・ヘリコプター数機をプレゼントした際、次のように公言した。

これらの物品、特にヘリコプターは、現在我々の部隊が、世界の別の場所[東南アジア]で自由の大義を防衛するために使っているため、容易には入手できないものである。けれども、自由が脅威に晒されているときには、それがどこで起きていようと、防衛しなくてはならず、そして、グアテマラでは、現在、自由が脅威に晒されているのだ[20]。

一九六八年八月グアテマラ・シティで、ミシェル・カークという若いフランス人女性が、警察が部屋に「質問」をしに訪れた際に、自らを銃で撃って自殺した。ノートブックにミシェルは、次のように記していた。

グアテマラに蔓延する腐敗と住民が過ごさなくてはならない間断のない恐怖の状況を表す言葉を見つけるのは難しい。毎日、モタグア川から、銃弾にまみれ一部を魚に食べられた遺体が引き揚げられる。毎日、路上で堂々と、車に乗り全身武装した身元のわからない者たちにより、人々が誘拐されるが、巡回している警察は、全く介入しない[21]。

米国国際開発局(USAID)と、その下部組織である米国公安局(OPS)、そして「進歩のための同盟」が、手を貸すために、グアテマラに勢揃いしていた。これらの人々を安心させるような名前を持った組織は、すべて、グアテマラの国家警察隊を大規模に拡大し、都市の無秩序に対抗する技術を備えた専門的な組織にするためのプログラムを促進していた。上級警察士官や技師が、訓練のために、パナマの汎米警察学校(Inter-American Police Academy)−これは一九六四年にワシントンの国際警察アカデミーに引き継がれた−やテキサス州ロス・フレスノスの連邦学校(そこで受講生たちは様々な爆発物の作成と利用の方法を教えられた:ウルグアイの章を参照)などをはじめとする教育機関に送られた。しばしば、訓練官たちは、OPSの隠れ蓑を借りたCIAオフィサであった。グアテマラに駐在して現地の警察司令官に助言を与え、ヒラの警官をグアテマラ国内で訓練していたOPSの職員も、CIAオフィサだったことがしばしばある。ときに、こうした米国人オフィサは、政治囚の尋問に直接参加したり、嘘発見器の利用に参加したり、対麻薬パトロールの際に警官に同行したりした。

さらに、グアテマラ・シティの警察に対して無線パトカーと無線通信ネットワークの完全装備が提供され、グアテマラ警察学校の設置と、その給与やせ衣服、武器、暴動統制機器のために資金が提供された。

これらのパッケージをまとめ上げる役割を果たしたたのは、軍で行われていると同様、標準的なOPSの教室における感化で、そこでは、主にキューバ型の「共産主義者」が、グアテマラの社会不安すべての背後にいるという考えを伝えていた。受講生たちは、さらに、「政治に首を突っ込まないよう」助言された。すなわち、権力を握っている親米政権を、それがどのようなものであれ、支持するよう教え込まれたのである。

さらに、「最小限の武力」を用い、コミュニティとの良好な関係を育むべきという助言も標準的に教えられたことであった。けれども、実際の警察と軍の訓練生たちの振舞いは、これとはかけ離れていた。そのため、これらの警察や軍に対して何十年も継続的に米国が関与していたという事実から、この助言が、自分に都合の良い記録に残すためのもの以上でなかったことが伺われる。お馴染みの官僚的格言「自分の尻を隠せ」というわけである[22]。

USAIDによると、一九七〇年までに、グアテマラでだけで、三万人以上のグアテマラ人警察官がOPSの訓練を受けている。これは、ラテンアメリカにおけるOPS最大のプログラムの一つであった[23]。

カーター政権時代のUSAID長官ジョン・ジシガンは、「いっときには、USAIDの職員は、トップから末端に至るまでCIAに浸食されていた」ことを明らかにした。「我々が海外で行っている活動については、政府のものもボランティアによるものも宗教的なものも、全てのものについて、CIAの工作員を送り込むというのが方針だった」[24]。



一九六八年末までに、対ゲリラ作戦は、ゲリラが馴染んできた地方部でのオープンで不定期の作戦の力をはぎ取り、ゲリラの活動をほとんど一掃した。また、村々に対する巨大なテロにより、地方部でゲリラをその支持基盤から孤立させた。

不平等な戦いだった。ペンタゴンの基準では、大規模な公然の米軍戦闘部隊が投入されていなかったため、それは、「限定」戦争だった。同時に、このことは、米国のメディアと市民に対して、米国は関与していないという幻想を与えもした。けれども、あるオブザーバが述べているように、「反革命の辞書によれば、こうした戦争は、介入勢力への影響の点においてのみ「限定」的である。攻撃を受ける人々や国にとって、それは「全面」戦争である」[25]。

グアテマラ貧民軍[貧民ゲリラ軍とも](EGP)と名乗る別の大きなゲリラ運動が興るのは、一九七六年になってからだった。それまでの間、不満のはけ口を、政府による暴力に対する都市戦に見いだした人々もいた。都市戦は、一九七〇年と一九七一年に、大統領カルロス・アラナ・オソリオ大佐が敷いた「戒厳令」のもとで最大規模に達した。アラナは、ワシントンでグアテマラ軍随行員として勤務して以来、米軍と親密な関係にあった人物で、その後サカパの対ゲリラ作戦司令官となり(このときの仕事に対する献身から彼は「サカパの殺戮者」との称号を得た)、いかなる階級からの反対も規制する実質上無制限の権力を自らに与えた[26]。

後にアムネスティ・インターナショナルは、「失踪者の親族委員会」をはじめとするグアテマラの情報源によると、一九七〇年と七一年の二年間に、七〇〇〇人以上の人々が、失踪したり死亡して発見された、と述べている。一九七一年にル・モンド紙は、「グアテマラ・シティーの外国外交官たちは、左派の革命集団が行う政治的暗殺一件につき、右派の過激はが一五人の殺人を侵していると考えている」ことを報じた[27]。

米国製の警察車両と護送車が昼夜路上をパトロールし、米国製ヘリが上空を巡回する中で、救急車も医者も消防車も外出を禁じられると伝えられた程過酷な外出禁止令の時期に、米国は、アラナの警察をさらに一層効率的にするための改組に必要なさらなる技術支援と機材の提供を行うことが適切であると見なしていた[28]。



「[一九七一年の議会調査官による]何が仕事であると考えているか、という質問に対して、米軍グループ(MILGP)のグアテマラ駐在隊員は、グアテマラ軍の効率を可能な限り上げることが仕事だと答えている。次に、なぜそれが合州国の利益になるのかと質問されて、彼は答えを探して長い間沈黙していたが、結局答えは頭に浮かばなかったようである」[29]。



グアテマラの地に呪われたる人々に関して言えば、一九七六年に大地震がグアテマラの地を襲って二万人以上の命を奪った。犠牲となった人々は、ほとんどが、最初に家が崩れ落ちた貧しい人々であった。このとき、ある米国人の教会関係援助職員が、震災の犠牲者を助けるためにグアテマラに到着し、犠牲者の外見と生活状態にショックを受けた後、彼が目にしたのは震災の被害を受けた地域ではなく、通常の状態で暮らす人々だった、という話が伝えられた[30]。

「農薬散布レベルは世界最高であるが、綿花畑の近くに住む人々に対する心配はほとんど見られない」と、一九七七年、ニューヨーク・タイムズ紙は報じている。農薬散布シーズンには、農薬中毒の患者が一日に三〇人から四〇人治療を受ける。数時間のうちに死亡する人々がおり、また、その後長い間肝不全を患う人々も出る。グアテマラにおける母乳のDDT含有量は、西半球世界で最も高い。「単純なことだ」とある綿花農園主は語った。「殺虫剤をより多く使えばより多くの綿花が収穫できる。虫が少なければ収入が高い」。あるゲリラの襲撃により、二二機の農薬散布機が破壊された。米国企業の尽力により、速やかに新しい散布機が導入された。同時に、セント・ルイスおよびグアテマラ・シティのモンサント・ケミカル社から、あらゆる種類の農薬も。

カーター大統領時代に、グアテマラをはじめとする幾つかの国における人権侵害のために、そうした国への軍事・経済援助を削減することを目的として幾つかの法が議会で承認された。それ以前にも、グアテマラへの援助に関する同様の禁止法案が、法律として発効していた。こうした法律の有効性は、その数により測ることができる。いずれにせよ、通商禁止は部分的以上のものではなかったし、グアテマラは、イスラエルからも武器と軍事機材を受け取っていた。このうち少なくとも一部については、米国政府の保証のもとで[32]。

さらなる隠蔽手段として、グアテマラ治安部隊に対する訓練の一部は、チリとアルゼンチンの秘密訓練サイトに移転して維持されていると伝えられた[33]。

あるインディアン女性は、次のように証言している。

私の名はリゴベルタ・メンチュウ・トゥムです。私は「ビンセンテ・メンチュウ」〔リゴベルタの父〕革命的キリスト教の代表です。〔・・・・・・〕一九七九年一二月九日、一六歳だった私の兄パトロシノが捕まって数日間にわたり拷問を受け、それから他の二〇人の青年たちとともにチャジュルの広場に連れて行かれました。〔・・・・・・〕ルカス・ガルシア[大統領]の殺人者たちからなる軍隊の士官が、囚人たちに一列に並んで進むよう命じました。それから、村の住民たちを侮辱し脅し始めました。村人たちは、この出来事を見るよう無理矢理家から集められていたのです。私は母と一緒でした。そして、パトリシノを見つけました。彼は、下を切り取られ、足の指を切り取られていました。ジャッカルのような士官が演説をしました。彼が話すのを中断するたびに、兵士たちがインディアンの囚人を殴りました。

彼がわめくのを終えたとき、兄と他の囚人たちの体は膨れ上がり血にまみれ、識別できないほどになっていました。怪物のようでしたが、でもまだ生きていました。

彼らは地面に投げ出され、ガソリンを蒔かれました。兵士たちが、悲惨な状態になった体の上に松明で火を付け、指揮官はハイエナのように笑い声をあげて、チャジュルの住民に、その光景を無理矢理見させました。これが彼の目的だったのです。住民を恐怖に陥れ、「ゲリラ」に対する懲罰を目撃させることが[34]。

一九九二年、リゴベルタ・メンチュウは、ノーベル平和賞を受賞した。



フレッド・シャーウッド(一九五四年にアルベンス政権を転覆した際のCIAパイロットで、グアテマラに居を定め、アメリカ商工会議所の会長になった)は、一九八〇年九月、グアテマラで講演した際、次のように証言している。

なぜ、「死の部隊」を憂慮しなくてはならないのだろう。「死の部隊」は、アカの奴らを、我々の敵を片付けている。俺なら、「死の部隊」にもっと大きな力をやるだろう。できれば、弾薬筒を手に入れてやりたい。みんなもだ。〔・・・・・・〕なぜ死の部隊を批判しなきゃならないんだ?死の部隊---俺は味方だ。〔・・・・・・〕クソ。疑問の余地はない。レーガンが政権を握るまで待ってはいられない。カーターの奴は、今すぐ海に沈んじまえばいい。〔・・・・・・〕俺たちはみんな、彼〔レーガン〕が俺たちの救世主だと思っている[35]。

民族解放運動(MLN)は著名な政党で、アラナ政権の第一党だった。一九八〇年、ラジオ放送で党首のマリオ・サンドバル・アラルコンが行なった声明の一部を抜粋しよう。

私はMLNが組織的暴力の政党であることを認める。組織化された暴力には活力がある。組織化された色が鮮やかで、音が調和しているのと同じである。組織的暴力に悪いところは何もない。それは活力がある。MLNは精力的な運動なのだ[36]。

マリオ・サンドバル・アラルコンと元大統領アラナ(「サカパの殺戮者」)は、「レーガン政権が発足した週を、レーガン政権内輪のスターたちと交流して過ごした」とコラムニストのジャック・アンダーソンは述べている。サンドバルは、アルベンス政権転覆においてCIAと密接な連絡を取って活動した人物であり、レーガンが選ばれる前から、彼の国防・外交政策顧問官と会っていたと語っている。グアテマラの右派指導者たちは、レーガンの勝利に意気高揚した。彼らは、カーターが政権に就く前に存在していた、米国とグアテマラの間の治安チームとビジネス関係者の親密な関係の再開を待ち望んでいたのである[37]。

けれども、その前に、レーガン政権は、まず、この人権と呼ばれるものを巡って、議会の態度を軟化させなくてはならなかった。一九八一年三月、レーガン政権発足後二カ月のうちに、国務長官アレクサンダー・ヘイグは、議会委員会に対し、ソ連の「転覆予定リストが存在し〔・・・・・・〕それは最終的には中米を奪い取ることを目的としている」と述べた。それは「四段階作戦」で、第一段階が「ニカラグアの掌握」であり、「次は」、「エルサルバドル、それから、ホンジュラス、グアテマラと続く」とヘイグは警告した[38]。

こうした情報は、耳にした人が、それは、入手された秘密情報か、KGBからの脱走者から出たものだと考えるようなものである。けれども、いずれも提示も言及もされず、また、集まった議員の誰も、その問題を提起しようとしなかった。

二カ月後、元CIA副長官のバーノン・ウォルターズ将軍が、ヘイグの特使としてグアテマラを訪問した際、合州国は、グアテマラ政府が「平和と自由」を防衛することの手助けをしたいと宣言した[39]。

この時期に、グアテマラの公式非公式の治安部隊は、少なくとも二〇〇〇人の農民を虐殺し(これにはいつも通り、拷問と手足の切断や首の切断などが伴っていた)、いくつかの村を破壊し、反対政党であるキリスト教民主党の党員七六人と何十人もの労働組合員、そして少なくとも六人のカトリック聖職者を暗殺していた[40]。

一九八一年八月一九日。サン・ミゲル・アカタンの町を正体不明のガンマンたちが占拠し、市長に、無理矢理、学校建設の基金に募金した人々全員のリストを提出させ、そのリストから一五人を選び出し(その中には市長の三人の子供も含まれていた)、その一五人に自分たちの墓穴を掘らせた後で、射殺した[41]。

その年の一二月、ロナルド・レーガンは、遂に、人々への弾圧を行う政府に対して声をあげた。彼は、ポーランドのことを、「自由の活発な芽生えを暴力的に」粉砕したと批判し、「我が政府と我々の同盟諸国は、ポーランドの弾圧者たちが用いる警察国家戦略に対して道徳的な嫌悪を感じている」と述べた[42]。

米国議会の法律の抜け穴を使って---実際の抜け穴や甘い解釈が使われた---、レーガン政権は、最初の二年間に、通商禁止の精神を削り取り、三一〇万ドル相当のジープとトラック、四百万ドル相当のヘリコプター部品、六三〇万ドル相当のその他の軍事装備を提供した[43]。これらは、公に宣言された援助輸出である。秘密裡に提供されたものについては、リークされた一部の情報に照らして推測する以外ない。ジャック・アンダーソンは、一九八一年八月、米国がキューバの亡命者を利用してグアテマラの治安部隊を訓練していることを暴いた。アンダーソンによると、この作戦で、CIAは「暗殺のより詳細な点に関する秘密訓練」のお膳立てをしたという[44]。その翌年には、グリーン・ベレーが、二年間にわたって、グアテマラ軍士官たちに、戦闘の詳細を訓練していたことが報道された[45]。そして一九八三年には、その前の二年間で、なぜかしらグアテマラ空軍のヘリコプター部隊が八機から二七機に増大したことを知らされた。ヘリコプターは全て米国製であり、グアテマラ士官たちは、再び、パナマの米国スクール・オブ・ジ・アメリカズ(米州学校)で訓練を受けていた。

一九八二年三月、クーデターにより、「生まれ変わったキリスト教徒」たるエフライン・リオス・モント将軍が政権を握った。その一カ月後、レーガン政権は、グアテマラの人権状況に改善の兆しを認めたと発表し、その機会を利用して、グアテマラへの軍事援助輸出を正当化した[47]。七月一日、リオス・モントは「戒厳令」を宣言した。戒厳令はその後八ヶ月以上続くこととなった。彼が政権の座に就いてから最初の六カ月の間に、二六〇〇人のインディアンと農民が虐殺され、彼の政権のもとの一七カ月で、四〇〇以上の村が、残虐に地図の上から消し去られた[48]。一九八二年一二月、同じくキリスト教徒であるロナルド・レーガンは、自ら査察に赴いた。リオス・モントと会見した後、ロナルド・レーガンは、広範な人権侵害が行われているという主張に対し、グアテマラの指導者リオス・モントは「不利な勝負」を引き受けていると宣言した[49]。



一九八一年のグアテマラ貧民軍の声明は次のように述べている(一九八一年までに、一九五四年以来政府によって殺された人々の数は少なくとも六万人に達し、以前「死の部隊」隊員だった者の息子たちが、その親たちに自分の親を殺されたインディアンたちを殺害していた)。

グアテマラ革命は、二〇年以上を経過した。一九五四年にハコボ・アルベンス政権が転覆されて以来、グアテマラの大多数の人々は、当時存在しており、それ以来悪化の一途を辿ってきた問題を解決する方向に国を動かそうと試みてきた。

米国政府と、ありとあらゆる特権を確保しようと決意しているグアテマラ国内の一部集団は、大衆的・民主的勢力を追い散らし解散させてきた。けれども、それにより、最初に経済的・社会的・政治的変化の要求が生まれる要因となった問題は何一つ解決されていない。過去四半世紀に、そうした要求は、繰り返し繰り返し出され、その時々に適切と思われるあらゆる手段が用いられたが、いつの場合にも、一九五四年と同じ抑圧的な対応を受けてきた[50]。

トマス・メルヴィル神父による一九六八年の声明は、次のように述べる。

グアテマラの大多数の人々が苦しむ栄養失調、無知、病と餓えからなる現実の暴力状態は、身を守る術を持たないインディアンたちを強力で全面武装した土地所有者と競争させる資本主義体制の直接の結果であるとの結論に達し、私の弟[アーサー・メルヴィル神父]と私は、この体制が造り出す大量殺人の静かなる共謀者にはなるまいと決めた。

私たちは、インディアンたちに対し、自分たちで自分たちを守らない限り、誰もインディアンたちの権利を守りはしないと教え始めた。政府と寡頭体制が、人々を悲惨な状態に押しとどめておくために武器を用いるならば、人々は、武器を取り、人間であるという神から与えられた権利を防衛する責務がある。

私たちの言葉を聞いた人々と私たちは、共産主義者であると非難され、教会の上層部と米国大使〔ジョン・ゴードン・メイン〕から、グアテマラを去るよう求められた。私たちはグアテマラを去った。

けれども、私はここで言っておきたい。私が共産主義者であるというなら、それはキリスト本人が共産主義者である場合だけだということを。私が自分がしたことをしたのは、そしてし続けるのは、それがキリストの教えであるからであり、マルクスやレーニンの教えであるからではない。そして、ここでもう一つ言っておきたいのは、私たちは、体制のヒエラルキーと米国政府が考えるよりも、私たちは多数だということだ。

闘いがさらに表面化したときに、世界に、私たちが行なっていることは、ロシアのためでも中国のためでも他のどの国のためでもなく、グアテマラのためだということを知らしめたい。現在の状況に対する私たちの対応は、私たちがマルクスやレーニンを読んだが故のものではなく、新約聖書を読んだが故のものなのである[51]。



補記:いくつかの例

一九八八年:西半球年次人権報告の中で、グアテマラはラテンアメリカ最悪の人権侵害記録に悩まされ続けていると、西半球問題委員会(Council of Hemispheric Affairs)は述べている[52]。

一九九〇年:サンチアゴ・アティトラン軍基地で、グアテマラ軍兵士たちが、武器を持たない白旗を掲げた町の住民に対して発砲、一四人を殺害し、二四人を負傷させた。住民は、兵士からの度重なる嫌がらせについて、軍司令官と話をするために、市長とともに、基地を訪れていた。

一九九〇年:「ビニシオ・セレソ・アレバロ大統領政府に蔓延する汚職に失望したと言われる米国は、経済的・政治的安定を促進するために、グアテマラの軍に接近したと報告されている。〔・・・・・・〕軍が人権侵害を批判され、また、麻薬取引に関与していると考えられていたにもかかわらずである」[54]。

この報告がなされたのは五月である。六月に、グアテマラで暮らしている著名な米国人ビジネスマンであるミカエル・デヴァインが誘拐され、ほとんど首を切り落とされるようにして殺された。どうやら、軍の麻薬取引および/あるいは他の密輸活動にたまたま遭遇してしまったためらしい。ブッシュ政権は、この殺人い対する怒りを表明するショーとして、グアテマラへの軍事援助を停止したが、その後、その分を補填するために、CIAに対し何百万ドルもの資金をグアテマラの軍事政権に提供する許可を与えていたことがわかった。グアテマラに対する毎年五〇〇万ドルないし七〇〇万ドルの支払いは、クリントン政権下でも続いているようである。

一九九二年:三月、グアテマラのゲリラ指導者エフライン・バマカ・ベラスケスが捕らえられ失踪した。その後の三年にわたって、彼の米国人の妻で弁護士のジェニファー・ハーベリは精力的な国際キャンペーン---ほとんど死のすれすれまでになったグアテマラ・シティでの公開断食とワシントンでの断食もなされた---を展開し、夫の運命についての情報を求め、グアテマラ政府と米国政府に圧力をかけた。両政府ともに、それについては、何も知らないと言い張った。ついに、一九九五年三月、議会諜報委員会のロバート・トリチェリ下院議員が、バマカは捕まったその年に拷問を受け処刑されたこと、バマカとデヴァインはともに、長年にわたりCIAに雇われていたフリオ・ロベルト・アルピレス大佐の命令で殺害されたことを発表した(アルピレスはかくして、米国フォート・ベニングにあるスクール・オブ・ジ・アメリカズ[米州学校]の優秀な卒業生のまた一人としての栄誉を受けたのである)。これらの事件を巡る事実関係は、早い時期、少なくとも公開の数カ月前から、CIAと国務省及び国家安全保障委員会のオフィシャルには知られていた。トリチェリの発表により、他のアメリカ人も何人かが、自分たち自身あるいは関係者がグアテマラ軍によって受けた殺害や強姦、拷問の話を発表した。修道女であるシスター・ディアナ・オーティスは、一九八九年に自分が誘拐され、タバコの火で焼かれ、繰り返し強姦され、死体と鼠で溢れた穴に落とされた事件を物語った。アメリカ人のアクセントで話をする色の白い男性が、責任者のようだった、と彼女は語っている[55]。




一九六八年における本章で言及した出来事と問題についての詳細は、主として、以下の情報源を参考にしたものである。
a) Thomas and Marjorie Melville, Guatemala -- Another Vietnam? (Great Britain, 1971) 第九章〜一六章。特に、グアテマラにおける貧しい人々の状況と米国の振舞いについて。米国では、わずかに異なるかたちで、同じ一九七一年、Guatemala: The Politics of Land Ownership として刊行された。
b) Eduardo Galeano, Guatemala, Occupied Country (Mexico, 1967;
英訳は: New York, 1969) passim. ゲリラの政策と右翼のテロの性格について。Galeanoはウルグアイのジャーナリストで、ゲリラとしばらく過ごしたことがある。
c) Susanne Jonas and David Tobis 編, Guatemala (Berkeley, California, 1974) passim. 特に、"The Vietnamization of Guatemala: U.S. Counter-insurgency Programs" pp. 193-203, by Howard Sharckman. North American Congress on Latin America (NACLA, New York and Berkeley) が刊行したもの。
d) Amnesty International, Guatemala (London, 1976) passim. テロ犠牲者の統計について。アムネスティが一九七〇年代に発行したグアテマラに関する他のレポートにも同様の情報が含まれている。
e) Richard Gott, Rural Guerrillas in Latin America (Great Britain, 1973, revised edition). 第二章〜八章。ゲリラの政策について。


1. The Guardian (London), 22 December 1983, p. 5.

2. 貧しい人々の苦しみについては、ここにあげた様々な情報源をもとに整理したもの。

3. New York Times Magazine, 26 June 1966, p. 8.

4. 米軍の対ゲリラ基地については、El Imparcial, 17 May 1962 and 4 January 1963. Melville, pp. 163-4 からの引用。El Imparcialは、グアテマラ・シティ発行の保守的な新聞。

5. Stephen Schlesinger and Stephen Kinzer, Bitter Fruit: The Untold Story of the American Coup in Guatemala (New York, 1982), p. 242.

6. ジョージー・アン・ゲイヤーについては、Miami Herald, 24 December 1966; Bert Quitによる New York Herald Tribune, 7 April 1963, section 2, p. 1 の記事; Schlesinger and Kinzer, pp. 236-44.

7. Galeano, p. 55.

8. Ibid., pp. 55-6.

9. Time, 26 January 1968, p. 23.

10. Ibid.

11. 残虐行為と拷問については、ここに引用した情報源から整理したもの。他に、ブラジルにおける屋外用電話の拷問用利用に対する米国の関与については、A.J. Langguth, Hidden Terrors (New York, 1978) pp. 139を参照。

12. Melville, p. 292.

13. Ibid., p. 291.

14. Washington Post, 27 January 1968, p. A4 に記載された、ブレーズ・ボンパンの証言。彼は、当時グアテマラにいた米国人のメリノール会司祭。

15. パナマについては、一九六七年九月にグアテマラの副大統領クレメンテ・マロクイン・ロハスが、国際通信社のインタープレス・サービス(IPS)とのインタビューで明らかにしたもので、ロンドンで発行されている週刊誌 Latin America, 15 September 1967, p. 159 で報道された。また、Eduardo Galeano, p. 70 では、マロクイン・ロハスとの個人的な会話が報告されているが、その中で、ロハス副大統領は同じ話を語っている。マロクイン・ロハスは強硬な反共主義者であるが、どうやら、米国の航空機がグアテマラの主権を勝手気ままに侵害していることに対して、憤りを覚えていたようである。

16. Norman Diamond, "Why They Shoot Americans", The Nation (New York), 5 February 1968. この記事のタイトルは、ジョン・ウェバー狙撃事件を参照しているもの。

17. 段落冒頭の引用は、検死人類学者Clyde Snowのもの。Covert Action Quarterly, spring 1994, No. 48, p. 32 からの引用。右派のテロリズムについては、本章で引用した様々な情報源から採ったもの。

18. Washington Post, 4 February 1968, p. B1. 一九七〇年代に始まったキリスト教とマルクス主義の歴史的対話は、ボンパネやメルビル一家といった修道士や修道女と、これらの人々がグアテマラで一九五〇年代と一九六〇年代に経験したことに、その起源をさかのぼることができる。

19. Galeano, p. 63.

20. El Imparcial (Guatemala City), 10 November 1967. Melville, p. 289 からの再引用。 21. Richard Gott, Melvilles の著作の序言, p. 8. 22. AID、OPS、進歩のための同盟については、 a) "Guatemala and the Dominican Republic", a Staff Memorandum prepared for the US Senate Subcommittee on Western Hemisphere Affairs, Committee on Foreign Relations, 30 December 1971, p. 6; b) Jonas and Tobis, pp. 199-200; c) Galeano, pp. 72-3; d) Michael Klare, War Without End (Random House, New York, 1972) pp. 241-69. 本書はOPSのカリキュラムと方針について論じている; e) Langguth, pp. 242-3 他。拷問への関与を含むOPSの実際の行為についての議論がある。著者は議論をブラジルとウルグアイに限定しているが、グアテマラにも同じ議論があてはまる; f) CounterSpy magazine (Washington), November 1980-January 1981, pp. 54-5 は、一九六三年から一九七四年までの間に米国で訓練を受けた三〇〇名近いグアテマラの警察官の名前をリストしている; g) Michael Klare and Nancy Stein, "Police Terrorism in Latin America", NACLA's Latin America and Empire Report (North American Congress on Latin America, New York), January 1974, pp. 19-23. この記事は、ジェームズ・アブーレスク上院議員が入手した国務省の文書に基づいている; h) Jack Anderson, Washington Post, 8 October 1973, p. C33.

23. AIDの数値は、Jenny Pearce, Under the Eagle: U.S. Intervention in Central America and the Caribbean (Latin American Bureau, London, updated edition 1982) p. 67. からの再引用。

24. George Cotter, "Spies, strings and missionaries", The Christian Century (Chicago), 25 March 1981, p. 321. 25. Eqbal Ahmad, "The Theory and Fallacies of Counter-insurgency", The Nation (New York), 2 August 1972, p. 73.

26. アラナの米軍との関係については、Joseph Goulden, "A Real Good Relationship", The Nation (New York), 1 June 1970, p. 646 及び Norman Gall, "Guatemalan Slaughter", N.Y. Review of Books, 20 May 1971, pp. 13-17.

27. Le Monde Weekly (English edition), 17 February 1971, p. 3.

28. New York Times, 27 December 1970, p. 2; New York Times Magazine, 13 June 1971, p. 72.

29. US Senate Staff Memorandum, op. cit.

30. New York Times, 18 February 1976.

31. Ibid., 9 November 1977, p. 2.

32. Jonathan Marshall, Peter Dale Scott, Jane Hunter, The Iran-Contra Connection: Secret Teams and Covert Operations in the Reagan Era (South End Press, Boston, 1987), chapter V, passim; The Guardian (London), 9 December 1983; CounterSpy, op. cit., p. 53. は、グアテマラ内務省報道担当秘書 Elias Barahona y Barahona の言葉を引用している。Elias Barahona y Barahona は、EGPのために政府に潜入した。

33. CounterSpy, op. cit. (Barahona) p. 53.

34. Pearce, p. 278; メンチュウ自身による回想録が、その後出版された。その中で、メンチュウは、グアテマラ軍によるさらに沢山の残虐行為について語っている。 Elisabeth Burgos-Debray, ed., I ... Rigoberta Menchu: An Indian Woman in Guatemala (London, 1984, English translation).

35. Pearce, p. 176; 一九五四年のシャーウッドの役割については、 Schlesinger and Kinzer, pp. 116, 122, 128. シャーウッドの演説の一部は、Penny Lernoux, In Banks We Trust (Doubleday, New York, 1984), p. 238 に引用されている。これは、CBS News Special, 20 March 1982: "Update: Central America in Revolt" を引用したもの。

36. Washington Post, 22 February 1981, p. C7, Jack Anderson のコラム。Anderson は、MLNの「公式報道官」としか述べていない。この報道官がサンドバルであったということは、別の情報源から得られたもの。例えば、The Guardian (London), 2 March 1984.を参照。

37. Washington Post, 同。米国保守派とグアテマラの権力構造との間に存在する多くの関係については、Report of the Council on Hemispheric Affairs (Washington), by Allan Nairn in 1981.を参照。

38. New York Times, 19 March 1981, p. 10.

39. Washington Post, 14 May 1981, p. A16.

40. Ibid.; New York Times, 18 May 1981, p. 18; Washington Office on Latin America (国務省人権部と協力しながら活動している尊敬を受けた人権ロビー団体)の一九八一年九月四日付レポート。

41. Washington Office on Latin America report, op. cit. この事件の背後にあったのは、恐らく、貧しい人々が教育を受けることに対して右翼が伝統的に持っている恐れではないかと思われる。

42. New York Times, 28 December 1981.

43. Ibid., 21 June 1981; 25 April 1982; The Guardian (London), 10 January 1983.

44. San Francisco Chronicle, 27 August 1981, p. 57.

45. Washington Post, 21 October 1982, p. A1.

46. The Guardian (London), 10 January 1983; 17 May 1983.

47. New York Times, 25 April 1982. p. 1.

48. Ibid., 12 October 1982, p. 3 (死については、アムネスティ・インターナショナルを引用している); Los Angeles Times, 20 July 1994, p. 11 (村については、「人権諸団体」を引用している)。一九八〇年代初頭のグアテマラにおける「死の部隊」や失踪、拷問に関する恐ろしい詳細については、 Guatemala: A Government Program of Political Murder (Amnesty International, London, 1981) 及び Massive Extrajudicial Executions in Rural Areas Under the Government of General Efrain Rios Montt (AI, July 1982) を参照。

49. New York Times, 6 December 1982, p. 14.

50. Contemporary Marxism (San Francisco), No. 3, Summer 1981.

51. The National Catholic Reporter (Kansas City, Missouri weekly), 31 January 1968.

52. Los Angeles Times, 25 December 1988.

53. 一九九〇年一二月二日の出来事で、Witness for Peace, Washington, Summer 1991 の報告によるもの。Witness for Peaceは、中米とつながりの強い、宗教団体主導の人権組織。

54. Los Angeles Times, 7 May 1990.

55. デヴァインとバマカの事件については、New York Times, 23 March 1995, p. 1; 24 March, p. 3; 30 March, p. 1; Los Angeles Times, 23 March 1995, p. 7; 24 March, p. 4; 31 March, p. 4; 2 April, p. M2; Time magazine, 10 April 1995, p. 43.

益岡賢 2003年5月12日

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