人権週間は米国では、いくつかの例外を除き、ほとんど注目されない。 けれども他の場所ではかなりの注目を浴びる。 私個人にとって、2002年人権週間は記憶に残るものであった。 人権週間は12月10日、ロンドンのセント・ポール大聖堂に何千人もの人々が、クルド人人権プロジェクト(KHRP)の10周年記念を祝福する −祝福というのは適切な言葉ではないが− ために集まったことから始まった。 この10年間、KHRPはもっとも重大な人権侵害のいくつかについて優れた活動をしてきた組織である。 その一つは −それがすべてではないが− 米国が支援したトルコ政府のテロ行為で、これは1990年代最悪の犯罪の一つである。 何万人もが殺害され、何百万人もが想像を絶する拷問を受けながら、破壊された地方を追放された。 人権週間終了時に、わたしは、トルコのディヤルバクルにいた。 ディヤルバクルは、(トルコ領にある)クルディスタンの半公式の首都である。 ディヤルバクリには、出身の村(の残骸)に帰ることを禁じられた難民たちがひどい状況に暮らしている。 新たな法律が帰還を認めているにもかかわらずである。
私は、トルコ人権協会の招待でディヤルバクルを訪問していた。 トルコ人権協会は、深刻な脅迫を受け続けながらも勇気あるすごい活動をしてきた団体である。 それまでの数日、わたしは、トルコ出版社協会と公共部門の労働組合KESK(ただし厳しい法律と国家の方針のもとで労働組合としての活動は許されていない)の招待でイスタンブールにいた。 出版社協会は、平和と自由を主題にした国際ブックフェアを開催しており、KESKはやはり同じテーマでシンポジウムを行っていた。 イスタンブールで、私は、その数はわからないクルド人難民たちが崩壊しつつある建物で恐ろしく寒い冬の日々を暮らしているスラムを訪問した。 大家族が一部屋にすし詰めにされ、小さな子供は危険な外に出られずに実質上閉じこめられ、少し年のいった子供は家族を支えるために非合法の工場で働く。 これらの人々も、実質的に、追放された自分たちの村への帰還を禁じられている。 新たな法律が、トルコ南東部の非常事態宣言に終止符を打った −少なくとも公式には− にもかかわらずである。
KHRPの創設者で会長は、トルコへの帰国を禁じられている。 さらに付け加えると、こうした犯罪を記録し抗議している人権活動家に対し、米国も入国を拒否している。 数週間前、トルコ人権運動の著名な活動家であるHaluk Gerger博士が、妻とともにニューヨークの空港に到着した。 INS(米国移民局)は彼の10年有効ビザをキャンセルし、彼と彼の妻の写真をとって指紋を押捺させたあと、すぐさま追い返した。 Gerger博士は、人権への貢献により、ヒューマンライツ・ウォッチと全米化学推進協会から賞を受け取ったのである。 米国国務省も、トルコ当局が彼を処罰したことにつき、トルコが基本的人権を擁護していないものと指摘していた。 イスタンブールの「言論の自由イニシアチブ」の報道担当者は、米国大使に対するオープン・レターで、この扱いに抗議し、Gerger博士は「トルコ人権協会の創設メンバーであり」、「クルド人の権利を強く擁護してきた人であり」、「その問題について様々な執筆活動を行い政府の政策を批判し」、「トルコ政府のクルド人に対する扱いがセルビアによるボスニアでのムスリムに対する民族浄化と比する」と述べ、そのために投獄され罰金刑を科され、さらには人権問題について執筆したために大学での地位も失ったと述べた。
コリン・パウエルの国務省は、このたび、彼は米国にとって好ましからざる人物と宣言した。 トルコ軍と極右政党の過激はと同じ立場をとったのである。
トルコは、最近いくつか希望のある変化はあったものの、軍の手を隠そうとせず、厳しく弾圧的である。 一方で、表面的に接しただけでも、トルコの文化と社会が自由でダイナミックであり、西洋のモデルとなることが見て取れる。 特に印象深いのは、抵抗の精神であり、これは、ディヤルバクルの都市城門の外のほらあなで帰還を望むと語る人々の話からもすぐにわかる。
トルコの人々が自由と人権を求めて闘う様は非常に印象的である。 単にコミットメントの深さだけでなく、それが何ら前提なしの自然なものであり、ひどい脅迫が迫っているにもかかわらず当たり前の生活の一部であるという点で。 たとえば、国際的にも著名な勇気ある作家Yashar Kemalや、トルコの国家テロについて書いたために人生のほとんどを牢獄で暮らすこととなったイスマエル・ベシクチをはじめとする、真実を伝えることにコミットしたことによりひどい処罰を受けた研究者や、「クルド人とトルコ人が一緒に平和的な枠組みで生きることがdけいる」という希望をクルド語で表明したために15年の禁固刑を言い渡され今も刑務所にいる国会議員レーラ・ザーナのような人々が、それをしめしている。 そして、こうした人々が、あらゆるところに、多数いるのである。 これらの人々は、米国では知られていない。 米国の手先により殺害されたラテン・アメリカの知識人が米国で知られていないのと同じである。 さらに、我々の手で苦痛を加えられたために、「価値なき犠牲者」(エドワード・ハーマンの言葉)とみなされる何十万人もの人々については、なおさら知られることがない。
ベシクチ博士は、「米国表現の自由基金」の賞1万ドルを拒否した。 特にクリントン時代に、米国がトルコのテロに決定的な貢献をしていたことに抗議してである。 クリントン時代、米国はトルコの武器の80パーセントを提供しており、残虐行為がエスカレートする中で、トルコは(イスラエルとエジプトを除いて)最大の米国軍事援助の受けてとなったのである。 1997年の一年だけで、冷戦が終了するまでそしてトルコで国家テロが始まるまでに米国が与えた援助総額を越える額の援助をトルコは米国から受け取った。 そして、国務省のテロに関する報告やメディアは、これを「成功したテロ対策」と呼び、トルコを褒め称え褒美を与えていたのである。 これは、米国に限らず、標準的な教条主義に合致する。 すなわち、「テロ」は、「奴ら」が「我々」に対してするものであり、「対テロ」は「我々」が「奴ら」にすることである。 そして通常、後者のほうがはるかに悪辣で、しかも、それが何かに対する報復であることも稀である。
西洋にすむ特権的な人々は、過酷な法と残忍な弾圧とテロ −しかもその少なからぬ部分が西洋の支援によるものなのである− のもとで暮らす人々の勇気と誠意に対して恥を感じるべきであろう。 これらの人々は人権侵害を批判し犠牲者を擁護するだけでなく、抗議のために、大きな危険を負って、市民的不服従を行っているのである。 また、こうした人々は、トルコの人権侵害の大本を考えるならばニューヨークに本部を置いているべきKHRPがロンドンで活動していることにも恥じ入らなくてはならないだろう。 英国のレコードもほめられるものではないが、それでも、第一の責任は、圧倒的にここ米国にあるのだから。 実際、ニューヨークには大きなクルド・センターがあり、多くの活動と非常に重要でためになる情報出版活動を行っている(ブルックリンのクルド図書館研究センター:Vera Saaedpourが所長)。 けれども、その記念日に、何千人もの人々が集まるということはないだろう。 ここは人権に憂慮する人々だけに知られている。特に深刻に憂慮する人々、たとえば、自分たち自身の犯罪を抱えている人々である。 我々が何もできない犯罪に対して何か書いたり、あるいは、他者の犯罪について適切な対応でないようなことを論じるほうがはるかによい。 それに対して、自分たちが行っている決定的な参加を止めさえすれば簡単に阻止できるような犯罪については、忘却の穴奥深くに埋められるのである。
ロンドンからディヤルバクルにいたるすべての人々の心を占めていたのは、ブッシュ政権が安価で政治的に有用と考える対イラク戦争の口実を見つけようとするブッシュの決意である。 ブレアは忠実にこの後ろを追いかけている[小泉はさらにその後ろをさらに忠実に追っている]。 トルコでは、起こりつつある戦争に対する人々の反対は膨大である。 中東地域でも同様であり、ヨーロッパのほとんどでも同様である。そして世界の他の地域でも。 米国の世論調査結果は違って見えるが、それは、誤解を招きやすい。 確かにどこでもサダム・フセインは嫌われているが、彼を今日阻止しなければ、我々は明日にでも殺されるだろうと恐れているのは、米国でだけである。
こうした恐怖をかき立てるのは、ワシントンにいるリサイクルされたレーガン派閥の第二の天性といったものである。 1980年代を通して、これらの政治家は、つねに恐怖状況をかき立てることにより、反動的政策を実施して米国市民に街をなしてきた。 20年前、リビアのヒットマンが我々の指導者を暗殺するためにワシントンを徘徊していると言われた。 それから、ロシア人がグレナダの航空基地から我々を爆撃すると脅された(グレナダを地図上で発見できればの話であるが)。 さらに、恐ろしいサンディニスタ軍がテキサス州ハーリンゲンから歩いて2日のところに控えており、「テキサスの心臓に短刀を突きつけている」とされた。 こうしたことが1980年代を通して行われてきた。 米国での戦争支持率を考えるためには、米国だけに見られるこの「恐怖」要因を取り除く必要がある。 そうすれば、結果は恐らく世界の他の場所とあまり違わないであろう。
戦争に対してこれだけ大きな人々の反対と抗議行動があったことは歴史上なかった。 まだ始まってもいないのである(正確を期するとすると、全面的には)。
クルド人の地域では、クルド人への影響を心配することもあって、戦争への反対はさらに強い。 戦争時には、周辺諸国は国内での弾圧を強めるであろう。 同様の心配は別の場所のクルド人にも見られる。 その一つは、Masoud BarzaniとJalal Talabaniの緊張に満ちた同盟のもとで、イラク北部で進捗をみせたクルド人たちである。 戦争が起きたときにイラクによる残虐な攻撃を受ける可能性がある以外に、そして有効な自治が進むという可能性が見られたときのトルコの反応を別にして、その半数以上は国連の「食料のための石油プログラム」に生活を依存している。 このプログラムが、戦争によりひどく影響を受けるだろう。 「自由クルディスタンは、大規模な難民キャンプのようだ」とあるクルド人指導者は述べた。 国連のプログラムに食料を依存し、バクダッドに燃料と電力を依存しているためである。 国連難民高等弁務官事務所は、何十万人もを隣国に避難させる可能性について計画しているが、隣国で暖かい歓迎をうけることはないだろう。 これら隣国では、今後起きるであろうことがなくても、すでに、そこにすむクルド人たちにとって見通しはひどく暗いのである。 あるいは、トルコ筋によるとトルコ軍が建設している北部イラクのキャンプに移される可能性もある。 これ自体、危険なことである。
米国における人権週間への無関心には例外があると述べた。 それは、公式の敵に対して人権侵害を武器として仕える場合である。 過去数ヶ月に、アムネスティ・インターナショナルがひどく悔いたことである。 1980年代を通して、人権デーはソ連を批判するいい機会であった。 2002年の人権デーには、英国外相ジャック・ストローがサダム・フセインの犯罪に関する報告を発表した。 この発表は、イラクによる大量破壊兵器報告提出の締め切りである12月8日の前にイラクから敵対的な行為を引き出そうとして、数日早く発表されたのである。 この報告の内容は信頼できる。1980年代にサダムが行った恐ろしい残虐行為について、人権団体の報告書から多くの情報をとったものである。 いつも通り言及されていないのは、こうした衝撃的な犯罪を米国も英国もまったく意に介していなかったことである。 米英は、友人であるサダムに援助を提供し続けていた。 今日よりもはるかにサダムが危険であった1980年代に、大量破壊兵器開発のために必要なものも含む支援を与えていたのである。
米国では、1980年代にこうしたことに責任のあったものたちが改めて政権を握っている。 そして、ほんのわずかも後悔していないこうした政治家たちの犯罪を無視するよう我々は要求されている。 英国の現政権は当時は雇うであったが、ジャーナリストのマーク・トーマスが明らかにしたように、1988年から1990年代にサダムの犯罪に反対した議員の中には、いくつかの名前が欠けている。 ブレア、ストロー、クック、フーンなどである。つまり、現政権の中心人物の名前が欠けているのである。 トーマスはまた、ストローがサダム・フセインが邪悪であると発見したのは極めて最近のことであることを示す手紙を後悔した。 2001年1月、内務相だったとき、ストローは政治亡命申請を裁定する立場にいた。 彼は、イラクで拘束され拷問を受けたあるイラク人の亡命申請を却下した。 というのも、ストローが手にしていた「イラクに関する広範な情報」によると、イラク独裁者の法廷が不当に「ある人物に有罪判決を下す」ことはなく、そして、「あなたに対して告訴がなされており、帰国後それが進められるならば、独立の妥当な司法により公平な裁判を受けることになるだろう」とストローは述べているからである。
けれども、2001年1月から現在までに、何かが変化したようだ。 それまではまったく意に介すまでもなかった犯罪が、なぜかしら、我々の神経を逆なでし、戦争しなくてはならないようになったらしい。 そして、このパフォーマンスにもっともらしく同意するよう求められているのである。
私は、1997年の一年だけで、冷戦が終了するまでそしてトルコで国家テロが始まるまでに米国が与えた援助総額を越える額の援助をトルコは米国から受け取ったと述べた。 このとき、トルコによる国家テロは、NATO爆撃が始まるまえにミロシェビッチがコソボで行っていた残虐行為よりもはるかに較べものにならないほどの規模だったのである。 それにもかかわらず、NATOによるユーゴ爆撃は、我々の高貴な心が、NATOの境界にかくも近いところで行われる残虐行為に耐えられないために行われていたと聞かされてきた。 一方で、NATO内部のトルコについては、単に残虐行為を耐えるだけでなくそれを扇動する必要もあるというわけである。 1997年は別の意味でも人権活動にとって重要な年であった。 世界の大新聞が、読者に対して、米国の外交政策は「神聖な」「高貴な段階」に入ったと知らせていたときなのである。 1997年はまた、コロンビアに対する米国の軍事援助が急増したときでもあった。5000万ドルから1999年には2億9000万ドルになり、さらに2001年にはそのバイになったのである。 1999年、米国軍事援助の受け手として、コロンビアがトルコを抜いた。 理由は簡単である。トルコの国家テロはそのときまでに成功したが、コロンビアのテロは成功していなかったためである。 1990年代を通して、コロンビアの人権状況は西半球で圧倒的に最悪であり、そして同時に、米国の軍事援助と軍事訓練の群を抜いた最大の受け手でもあった。 人権侵害と米国軍事援助の相関は、すでに十分確立したものであり、もしそれが学者と小さな反対派以外に知られたら大問題となるであろう。
トルコとコロンビアには他の共通点もある。ともに、数百万の人々が暴力的に故郷を追放されている。 コロンビアでは現在までに270万人が国内避難民となり、著名な人権団体の最新の報告によると、1日1000人のペースでその人数は増加している。 これは国内避難民の数であり、国外に難民となった人々の数は含まれていない。 そして、コロンビアでは、トルコと同様に、勇気ある人々の抵抗が続けられているのである。 これは、特権を享受している西洋の人々にとっては恥じ入るべきことであろう。 特に、我々にも責任のある残虐行為とテロが続いていることを隠そうとし、過去のひどい記録を抹殺しようとし、一般の人々がもし知ったら我慢できないような犯罪が暴き出されることを断固として妨害しようとしている人々にとっては。
クルド人とクルディスタンをめぐっては、中川喜与志 『クルド人とクルディスタン』 (南方新社、2001年)がおすすめ(レイラ・ザーナについてもかなりの言及があります)。 また、本文で言及されているイスマイル・ベシクチの著書は日本語でも読めます。イスマイル・ベシクチ著・中川他訳 『クルディスタン:多国間植民地』 (柘植書房新社)。 いずれも、クルド人とクルディスタンについて日本語で読める決定的に重要な入門書(『アメリカの「人道的」軍事主義』を訳していたときに参考にさせてもらいました)。