憲法改悪をめぐって、少しだけ
益岡 賢
2006年10月29日
164通常国会に自民・公明の両党が「憲法改正等手続き法案」を提出した。それに関わって、当たり前のことを少しまとめておく。
現在の憲法が謳う主権在民、基本的人権の尊重、平和主義といった原則を骨抜きにし、日本を戦争ができる国に仕立て上げるために憲法を改悪する準備と言える(詳しいことは「許すな! 憲法改悪・市民連絡会」の情報等を参照して下さい)。
実際の意図は別にして、憲法「改正」をめぐるプロパガンダや「国民の心情」(と、改悪を狙う人たちが勝手に名付けたもの)レベルでは、相変わらず、現行の憲法は押しつけられたものだからという理屈付けが持ち出される。
それとセットになって、第二次世界大戦後の東京裁判やニュルンベルク裁判について、「戦勝国が敗戦国を裁くこと」が欺瞞にすぎないという主張も、よく耳にする。これも、力あるものの押しつけだ、と。
では、それに反対する立場は何なのだろうか。ごく大雑把に言うと、押しつけはOKただし自分が押しつけられるのでなければ、というのでなければ、憲法や戦争裁判は、なにがしかの意味で「普遍的」な基準に従うべきだ、ということになろう。
ところで、ニュルンベルク裁判の際、主席判事を務めたアメリカ合衆国のロバート・ジャクソンは、次のように明言している。条約に違反した何らかの行為が犯罪である場合、アメリカ合衆国がやろうとドイツがやろうと、それはやはり犯罪である。我々は、自らに対してもそれが発動されることを望まないような犯罪に関するルールを、他者に対して定めるつもりはない。ジャクソンがどのような人物であろうと、ニュルンベルク後の戦争犯罪がどう扱われてこようと、ここでは、少なくとも普遍的な基準が明言されている。
日本政府が、これに対して採ってきた立場を簡単にまとめると、次のようになる。
- 一方で、アメリカ合衆国をはじめとする大国の戦争犯罪については、よくて目をつぶる、悪い場合には積極的に加担する。したがって、自ら、「自らに対してもそれが発動されることを望まないような犯罪に関するルールを、他者に対して定めるつもりはない」という普遍的適応の規則をないがしろにして二重基準をうち立てる行為に加担する。
- 他方で、自らアメリカ合衆国に付き従い、二重基準の強化に貢献していることを棚に上げて、都合の良いときに「日本国憲法は押しつけだった」とか「東京裁判やニュルンベルク裁判は二重基準だ」と主張する。
毎年「日本への要望」を出してくるアメリカ合衆国に一生懸命対応してきた小泉政権(とか安倍政権)は、アメリカ合衆国に「押しつけられた」政策をやっているのではないのだろうか。
たとえば、誰かが米軍艦船に攻撃をしたならば、海上自衛隊の艦船がその誰かに反撃することを容認した久間章生防衛庁長官の発言は、アメリカ合衆国の意向そのままではないだろうか。
当然、自ら進んでやっているのだから、「押しつけられた」訳ではなくて、たまたま、アメリカ合衆国のアドバイスと合致している主体的な判断だ、という説明はあり得る。
けれども、そうだとすると、戦後すぐ、日本国憲法が制定されたときも、まったく事情は同じであった(し、人々の主体的同意は現在よりも高かった)。
逆に言うと、現在の政府が「いやー現在アメリカ合衆国に従っているのは、自らの主体的決断なんですよ、だから日本国憲法を押しつけられたときとは違います」とどんなに言おうと、将来、状況が変われば(たとえば米国のイラク侵略占領が国際法に従って妥当に裁かれ、ブッシュが戦争犯罪人として有罪になったとすると)、「当時、我々は、戦争協力を押しつけられたんですよ」と言い出す可能性は大いにある。
こういう振る舞いは、別に暴力的に強制されたわけでもないのに、他人の言うことを受け入れて自分で何かをやり、その行為を非難されたり都合が悪くなると、「無理矢理やらされたんだよ」と言い訳をする人たちに典型的なものである。
60年にわたって受け入れてきた最高法規を今更「押しつけられた」と駄々をこねる人々が、それにもかかわらず「でも今、憲法を変えたいっていう決断は主体的なんだ」と突然言い出しても、説得力はまるでない。
「本当? また、都合が悪くなると、『本当は嫌だったのに、押しつけられたから仕方なくやったんだぃ!』と駄々をこねはじめるんじゃないの?」という問いが投げかけられるだろう。
しがたって、逆説的だが、憲法が「押しつけだ」と主張し続ける限り、憲法を変えようという判断自体もまた主体的なものとは言い難くなる。
では、どうして憲法を変えるの?
ここで、ようやく、「許すな! 憲法改悪・市民連絡会」が提供しているような議論のレベルに話が降りてくる。
- 大手を振って戦争することができるようにするため。
- 主権者を市民から政府に切り替えて、市民を好きなように使うことができるようにするため。
などなど。
最後に一つ。「憲法は現在の状況に合わなくなった」という議論もあります。
同じ論理に従うと、事実として殺人が起きているから、「殺人を禁止する条項は現在の状況に合わなくなった」として、殺人を容認するよう法律を変えるのが妥当、ということになります。
■教育基本法について(緊急)
教育基本法改悪が緊迫しています。教育基本法に関する特別委員会委員に、10月30日(月)の午前10時の特別委員会スタートまでに「教育基本法に関する特別委員会委員」に対して、「改悪法案を廃案に!」や「徹底審議を!」といった要請をファックス、メール、電話でぜひとも送りましょう。
●教育基本法・共謀罪が危ない! 安倍内閣の暴走を許さない!
「ヒューマン・チェーン」(人間の鎖)を次のようにやるそうです。
実施日程: 11月8日(水)午後4時
場所: 衆議院議員面会所 集合(地下鉄丸の内線国会前下車)
●国会前集会
日 時:10月31日(火) 18時〜19時
場 所:衆議院第2議員会館前
(地下鉄千代田線・丸の内線「国会議事堂前」下車)
発 言:国会議員
全国連絡会呼びかけ人
(大内裕和、小森陽一、高橋哲哉、三宅晶子)
さまざまな立場、各地から
参 加:その場に行けば参加できます。手続きなどはいりません。
主 催:教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会
連絡先:info@kyokiren.net
関係する問題として、愛媛の教科書が大ピンチさんのページに、香川県弁護士会が「えひめ教科書裁判」の弁護士に対し、3カ月の業務停止懲戒処分を決定した、これがデッチ上げなので、抗議と処分撤回を求めるという情報があります。
■共謀罪について
グリーンピース・ジャパン共謀罪反対オンライン誓願などから、反対の声を関連各所に送ることができます。
衆議院の法務委員会名簿は「共謀罪」ってなんだ?さんのページにあります。とりわけFAXにて反対の声を!
また、共謀罪はどのようなものかについては、共謀罪事例集もご覧下さい。
共謀罪については一部で「今会期の採択はない」という情報もありますが、実際には、非常に危険な状況です。
■石原晋太郎都知事について
石原都知事の「ババァ発言」に怒り、謝罪を求める会(略称 石原発言に怒る会)ホームーページというのがあります。
■防衛庁・防衛省
「民主党は防衛省昇格反対の方向で調整しているが、党内には防衛省昇格賛成の声もあり」とのことです。民主党に、防衛省昇格反対を求める要請を。
また、10月31日(火)には、テロ特措法延長抗議、イラク派兵延長反対、「防衛省」設置法案反対、海外派兵のための恒久法はいらない!衆院議面集会・首相官邸前抗議行動 WORLD PEACE NOWがあります。17:30より。
■講演会:「慰安婦」問題と共に15年−被害国として、加害国として−
講 師:尹 貞玉(ユン・ジョンオク)先生
と き:2006年11月3日(金・休日)
午後1時30分〜4時
ところ:日本キリスト教会 柏木教会(03−3368−2156)
*JR中央・総武線 大久保駅徒歩3分
*JR山手線 新大久保駅徒歩8分
主催 日本キリスト教会 日本軍「慰安婦」問題と取り組む会
後援 日本キリスト教会 大会人権委員会
日本キリスト教会東京中会 靖国神社問題特別委員会
補足:戦後の振る舞いについて、ドイツと日本を比較し、ドイツの方がよくやっているという議論がときに見られる(実感としては、日本でも案外多いし、ヨーロッパ人と話していると、かなり多い)。ある条件のもとでは、そう言えるのかも知れない。
ところが、残念ながら、私自身は、そうした議論(の単純化されたバージョン)に、技術的な意味で説得されることがほとんどない。
論をここから先に進めると、ときに分析力や形式化の力を放棄した心情左翼の人々に「右翼」と非難されることがあり、実際、途中で右翼の議論に重なる。また、議論はとても平凡なものなので言う意味がないようにも思えるけれど、これを機に書いておこう。
技術的に説得されないのは、日本とドイツを比較する議論の少なからぬものが、単純に植民地主義の問題を見ていないからである。
ドイツが賠償の対象とした国は、少なからず自らも植民地支配国だった。一方、日本が侵略占領した国々は、植民地支配を受けた国だった(金九は、日本の無条件降伏を知ったとき、光復軍の朝鮮本土進軍がまだだったため、「戦後処理」において朝鮮人の発言権が無視されることを心配し、「天が崩れるような感じ」に襲われたという。実際、その後の「戦後処理」において植民地支配国列強は、朝鮮を植民地として扱った)。
戦後のほとんどの「大国」による政治力学が、その前提のもとで成り立っていることから見ても、この認識は、実は背後で共有されている。
たとえば、朝鮮は南北に分断された。欧州では、分断されたのは、フランスではない。あるいは、ドイツは東西に分断された。東アジアでは、分断されたのは日本ではない。
これは、国際政治で力を持つ国々が、朝鮮は植民地の支配を受ける国、フランスは植民地支配国と見なしていたことに対応している(ただし、上の二組の例を相互にそしてこの言明と結びつけるためにはここで書いた以上の論理的ステップが必要となるが)。
その意味で、日本の朝鮮占領は、ドイツのフランス占領とではなく、フランスのアルジェリア支配、イギリスのガーナ支配などなどと、形式的に対応づけられる。
ちなみに、被植民地が、一応、国家としての独立を果たしたのは、主に1960年代であり、第二次世界大戦終了時ではない。
これを背景に右翼の人たちは、「欧米は好き勝手に植民地支配をしてきて、その反省もないくせに、日本のことを云々言うな」というレトリックを使う。
実際、「ポストコロニアリズム」という耳に心地よい言葉が響く中で(それが一定の前提のもとで説明力を持つ道具だてを提供していようと)、植民地支配の歴史は終わっていない(英国が自らの「植民地」ディエゴ・ガルシアを米軍に「売却」し、住民を「奴隷船」に載せて強制退去させ、米軍が抵抗する住民を脅すために住民の犬を大量虐殺したのは、1960年代から1970年代に入ってのことであるし、オーストラリアでアボリジニの子どもたちを強制的に施設に連れ去って「教育」することは1970年代まで行われていた。また、まさに今、植民地主義を称揚する発言は随所でせり出している)。
でもまあ、こうした右翼の人たちの発言は、鼻くそをほじって舐めている(汚いね!)ところを少し年長の子どもに見つかって非難された子どもが、(少し年長の)「XXちゃんもやってたよ」というのと同じように、幼く、惨めっぽい。
鼻くそはどうでもいいけれど、子どもの内輪向けの言い訳みたいに駄々をこねるのでなければ、「欧米は好き勝手に植民地支配をしてきて、その反省もないくせに、日本のことを云々言うな」という主張は、植民地主義を肯定する意識的決断とともになされなくてはならないことになる(ちょっとここも論理ステップを端折ってます)。
一方、植民地主義を否定するならば、東京裁判は運用上は戦勝国が敗戦国を裁くものだったとしても、法的には植民地主義全般を裁く枠組みの中で日本の植民地主義が裁かれたものとして(そう見るとかなり不十分ではあるけれど)普遍的前例を示したものとして、発展的に考えることができよう。
そのとき、ロバート・ジャクソンの言葉はまっとうに使うことができるし、日本国憲法前文にある日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。という下りも、小泉首相のようにアメリカ合衆国の「痔を舐む」がごとく引用するのではなく、自立した大人として口に出すことができる条件が、一応、整う。
単純化されたドイツと日本の戦後処理の比較は、右派の一部の人々の幼稚なルサンチマンとともに、歴史が示す事実関係の形式的対応を覆い隠す点で、共犯関係にある。
こう書いてみると、やはりあまりに当たり前のことを凡庸に書いているだけなので、「そんなもん、今更何を言ってるの? 常識じゃん」と言う声が聞こえてきそうであるが、まあ、話の流れなので、書いておきます。