整理しておくべきことの、いくつか

益岡 賢
2004年2月7日

2004年1月30日(31日未明)、イラクへの自衛隊派遣承認案が採択された。既にしばらく前から派遣が既定のことのようにニュースなどでは報じられていたが、これで憲法違反の派遣が正式に「承認」されたことになる(それが何を意味するにせよ)。状況がめまぐるしく推移する中で、起きていること一つ一つを(どんなかたちであれ)理解し(どんなかたちであれ)対処しようとしていると、少しずつ混乱してくる。そして、困ったことに、こうした混乱は、しばしば、混乱してきているな、という意識を伴わずに起こる。

そうしたわけで、最近目に付いたことのいくつかを取り上げ、少しだけ整理しておくことも有用だろう。多くは、言葉にしてしまうとあまりに当たり前のことで、こんなことを書いておく意味があるのかという疑念もあるけれど・・・・・・

大量破壊兵器

米国による大量破壊兵器捜索チームの指揮にあたったデビッド・ケイ団長が辞任し、「大量破壊兵器はない」と発言したことは、「爆弾証言」として大きく報じられた。実際のところ、大量破壊兵器がないことは、米国がイラクに侵略する前からわかっていた(米国がイラク侵略に踏み切ったこと自体、イラクに大量破壊兵器が無いことを示していた)。

このこと自体については、ケイ発言よりはるか以前に、様々な情報源から明らかになっていたことである。例えば、昨年、元国務相情報担当官グレゴリー・ティエルマンは、次のように言っていた:「ブッシュ政権は、イラクの軍事的脅威について、米国の人々に正確なことを伝えなかったと思う。政府は、信仰的な態度を持っていた---答えは知っている、その答えを支持する情報をよこせ、というのである」。

そして、サダムがニジェールからウラニウムを買おうとしたとか、核開発に適したアルミニウム管を保有しているとか、国際原子力機構(IAEA)報告ではイラクが核兵器開発まであと6カ月のところにいるとかいった、米国政府が持ち出した主張は、すべて、完全に根拠のないものであることが、既にずいぶん前からはっきりと示されていた(ニジェールの件については米国の元駐イラク大使代理ジョセフ・ウィルソンにより、アルミニウム管についてはIAEAの代表モハメド・エルバラダイにより、IAEA報告についてはIAEA自身により)。

最初っから、米国政府は大量破壊兵器が無かったことを知っていたし[日本政府だって知っていただろう]、さらに、米国のイラク侵略が大量破壊兵器についてのものでなかったと、ポール・ウォルフォウィッツがバニティ・フェア誌に述べている:「イラクでの戦争を行う主な正当化のために大量破壊兵器に焦点を当てるという決定は、官僚的理由でなされた・・・・・・他に多くの重要な要因があった」。

ここでは、米国が、大量破壊兵器が無いと知りつつ、それをイラク侵略の正当化に用いたということを問題視したいのではない[日本を始め多くのメディアではケイ発言との関係で、それが主題化されているが]。問題視しておかなくてはならないのは、そもそも、「大量破壊兵器に焦点を当てる」ことで「イラクでの戦争を行う主な正当化」が可能であるという主張とそれが受容される前提そのものである。

で、整理しておきたい単純な点:「ある国が大量破壊兵器を所有していることは、その国に対する武力攻撃を正当化するものでは全くない」ということ。

国際法的にいうと、国連憲章は、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を」認めているだけであり、どこかの国が大量破壊兵器を有しているからといって武力行使することを認めていない。いなかる国際法も、そんなことを認めてはいない。

大量破壊兵器を保有していることが攻撃の「正当」な理由になるならば、真っ先に米国が「正当」に攻撃されてしかるべきということになろう(ついでロシアや英国・フランス・中国・インド・パキスタン・イスラエル・・・・・・日本などが)。特に、米国などは、単に最大の保有者であるだけでなく、使う意志のあることを繰り返し示唆しているのだから。

ところが、現実には、主流派メディアのほとんどで、イラクやリビアの大量破壊兵器については色々論ぜられ[従ってこれらの国々による大量破壊兵器の保有はこれらの国々を攻撃する正当な理由になることが暗に前提とされ]る一方、「大国」の大量破壊兵器についてはほとんど議論の対象とならない。

結局、大量破壊兵器の保有が武力攻撃の正当な理由になるなどという主張は、従って暗にそれを前提に進められる大量破壊兵器の有無をめぐるセンセーションは(大量破壊兵器がなかったから侵略は正当化されないのではといった議論をも---それが単体でなされるならば---含めて)、国際法の破棄と「大国」による侵略の促進に貢献していることになる9(しかも、無くたって「無いとは限らない」とさえ言えばいいという小泉首相や福田官房長官のような者たちもいる:そうなると、ちょいと気に入らないから、あいつのあれが欲しいから難癖をつけて侵略しちゃれ、という、まさに今アメリカ合州国がやっていることになる)。

こんな観点からケイ発言をめぐる小泉首相およびその周囲の、「[大量破壊兵器が]無いとは断言できない」とか「ないという保証はない。あるという可能性が高い」といった発言とそれをめぐるメディアの上のやりとりを見ると、その全体が、大量破壊兵器の保有は何ら侵略を正当化しないという原則を隠蔽し破壊するために計算されて用いられているようにさえ見える。この議論のかたちでは、常に「我々」は嘘をついたり間違えたりするかも知れないが、それでも「奴ら」についての判断を行う権利を維持しているという構図は変わらない。朝三暮四という言葉を思い出す。2月6日付朝日新聞に「CIA批判にテネット長官異例の釈明「脅威あると言ってない」」という記事があるが、侵略の不法性を大量破壊兵器の有無の議論に差し替えることに貢献しているだけのゴミゴシップという感じである。

だから、書いたり口に出したりしてみるとあんまり当たり前で間抜けたように聞こえるけれど、何度でも繰り返しておこう。「ある国が大量破壊兵器を所有していることは、その国に対する武力攻撃を正当化するものでは全くない」と。米国のイラク侵略攻撃と占領は、大量破壊兵器が見つかっていようが見つかっていまいが、不法であり不当であったと。

そして、大量破壊兵器がなかったことは、戦争の大義が無かったことに関わるのではなく、単に米英や日本の犯罪性にさらなる嘘があからさまに加わっていることだけを示している。当たり前のことだし、多くの人が知ってはいることだろうが、やはり繰り返して置こう。評価され語られるべきは、まず、国際法に違反してイラクを侵略し多数の人々を殺害した/している米英、そしてそれに追従する日本である。

黄色いハンカチ

幸せの黄色いハンカチが旭川の商工会議所周辺を中心にはやっているらしい。2004年1月27日旭川の「常磐ロータリータワー」に登場したのを皮切りに、隊員の無事を祈る運動で、「有志」たちはこれが全国に広まって欲しいと考えているという(黄色いハンカチ運動の紹介ページもある:旭川商工会議所が連絡先である)。さらに、「イラク復興支援活動で輸送艦を出す海上自衛隊呉基地のある広島県呉市で、約270の飲食店でつくる呉飲食組合(北川克之組合長)が隊員の無事を祈り「黄色いハンカチ」を店頭に飾る運動を始めた」そうである(クリエイティブ・スペースさんからの孫引き)。

広めている中には派兵に賛成している右派団体だとかいった情報もあるし、石破防衛庁長官がそれに言及したりするなど、派兵を正当化する動きに利用されていることは否めない(当然そうなるだろう)。とはいえ、黄色いハンカチ運動に実際に参加している人々は、政治的な意思はなく、隊員の無事の帰還と家族の支えになることの2点のためにやっているらしい。浅井久仁臣氏もホームページで「黄色いハンカチを掲げようとした旭川の市民たちは、純粋に自衛隊員のことを心配して思い立ったことだと信じます」と書いている。

実は、まるで理解できないのは、「純粋に自衛隊員のことを心配する」ことが「隊員の無事を祈る黄色いハンカチ」に結びつく、あるいは逆に「派兵された隊員の無事を祈る黄色いハンカチ」を掲げることが「純粋に自衛隊員のことを心配する」ことであるというロジックである。

ちょっと考えてみよう。パートナーが自分の目の前で交通事故にあって血だらけになったとしよう。救急車を呼ぶ前に無事を祈って黄色いハンカチを胸ポケット(そんなもんが着いている服を着てたとして)に入れるだろうか?あるいは、例えば学校の校長先生に法律で禁止されている高速道路の横断をさせられようとしている子供を前にして、校長先生に抗議もせず、それを止めようともせず、「無事に渡りきることを願って」黄色いハンカチを腕に巻くだろうか、フツー?親が、親でなくてもそれを目にした人が、止めもせずに黄色いハンカチを胸ポケット(着いていたとして)に入れたら、それが「純粋に子供のことを心配」することになるだろうか?

フツー、そんなことしてたら、「何しとんねん、やるべきこともやらずに」と批判されるだろう。事故にあったパートナーを救うため、あるいは子供を事故の危険から回避させるために具体的にできることをせずに、「無事を祈る」ことが「純粋にパートナーや子供のことを心配する」ことに全く1パーセントたりともならないことは、結構はっきりしている。本人がいかに「わたくしは純粋にパートナー/子供のことを心配して黄色いハンカチを掲げたのです」という自己意識を持っていて、そう信じていようと(ついでに美しい涙を流して黄色いハンカチを掲げた人同士で自分たちがどんなに美しい心でがんばったか確認しつつ慰めあおうと)、そんなものは、実際に心配しているのではなくて、その状況を利用して自分の物語に吸収し自己陶酔しているだけだと見なされるだろう。意識と認識は異なる、というのは少なくともヒューム以来の常識(「常識」なんて言うのはフェアじゃないけど)だったはずである。

では、自衛隊を巡って、具体的にできることはないのだろうか?まず、イラクに派遣されたから「無事を祈る」話が出てきたのだから、これ以上の派遣を阻止し、派遣された人々は一刻も早く帰ってきてもらえるよう働きかければいい。例えば、自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟は弁護士有志の手弁当でやっていて募金を募集しているから、それを支援したっていいし、イラクへの派兵に反対する署名だって2004年2月15日までやっている。また、憲法改悪反対署名運動というのもある。さらに、例えば毎日新聞2004年2月4日東京朝刊の記者の目には、斎藤義彦記者が現地を取材して、義のない派兵を止めて勇気ある撤退をすべきという正論を書いていたりするから、そうした記者に激励の手紙やメールを送ることもできる。

こうやって考えてみると黄色いハンカチやらリボンを掲げたり結んだりしするまえに、「本当に自衛隊員のことを心配する」ならば、色々やることはあるように思えるんだけれど・・・・・・。だから、そうしたことをせずに黄色いハンカチやらリボンを掲げたり結んだりしていることは、本人の意識はどうであれ、単に「自分たちは本当に自衛隊員のことを心配している」という自己陶酔に浸りたいために自衛隊の派遣が必要でそれを自分の陶酔のために利用/消費しているように見えるし、現実にそのように認識されざるを、得ない。

「復興支援」

上で自衛隊員の身の安全を心配することについて書いた。必然的に議論から、イラクの人々の置かれた状況やそれに対する自衛隊の位置づけが抜け落ちているので、それについて少し。「自衛隊は復興支援に行くんですよ」とかわけのわからないことを小泉首相は言っていて、おおかたのメディアも、それを前提とした報道を行っている。でも何で復興が必要なのか?サダム・フセインが自分が支配する国を破壊したから?

そうじゃなくて、米英軍の侵略と攻撃により破壊されたからである。その前12年間は、米英主導の「経済制裁」によって経済的・物質的に荒廃させられていたことに加えて。で、破壊者である米英のポチ(というとポチに失礼だけど)として、イラクに派兵するわけで、これは単に、不法侵略と占領への荷担である。しかも、憲法にも違反して(これについての比較的丁寧な議論は、日弁連の声明をご覧下さい)。

犯罪アクションものの紋切り型ドラマや映画で、よくありそうな構図である。悪党の一味がいて、ボスがいて、気の弱いパシリがいて、それでボスたちが痛めつけて誘拐してきた相手の監視をそのパシリがするようなヤツ。で、ボスたちも相手を殺しちゃマズイから、パシリに誘拐してきた相手の傷の手当をさせたりするやつ。で、警察がこの悪党の一味をとうとう捕まえたとして、このパシリのことを、誘拐された人物の味方として褒め称え、罪を問わないことにする・・・・・・というわけではない。情けない下っ端として、やっぱり罪は問われることになる。誘拐された人物の傷にマキロンをシュワっとしたからといってこのパシリが誘拐された人物の味方でないのと同様、日本の自衛隊派遣がイラクで水道をなおしたからといって、それは「イラク復興支援」としてたたえられるようなものではない。

占領と軍事支配(軍政)をやめ、イラク人にイラクの人々の声ができるだけ反映されるようなかたちで主権を返した上で、イラク人による政府の求めに従って復興の支援をするならば、そのとき初めて、復興支援と呼べることになるだろう。そのときには、「自衛隊はいらない」むしろ「文民支援を」ということになるだろう。実際、同じことをやるなら、文民支援のほうがはるかに費用対効果は高く、技術移転もでき、現地での雇用創生にも貢献できるのだから。

おわりに

「テロテロ」については書かなかったけれど、今「テロ」という言葉で指されているものが、どういう図式なのかを典型的に示唆するのがイスラエル政府による「テロ」という言葉の使い方である。

驚くべきことに、米国で政府の政策を支持している人々の中には、かなり本当に自分たちはイラクで善意の行動をしていると善意で信じている人たちがいるという。判断の基準が大もとから狂い始めたときに、善意を尊重しあう共同体の自己陶酔は、とても恐ろしいものだろう。そうじゃなくたって、十分恐ろしいのだから。

 益岡賢 2004年2月7日

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