益岡 賢
2003年4月6日
私は、普段自分では文章を書かないのですが、米英によるイラク侵略が開始される頃、整理のために、「何が破壊されるのか」と「来るべき嘘とプロパガンダに備えるために」を書いて公開しました。ここに書かれているものは、断片的にとっていたメモをつなげたものであり、あまり整理されていませんが、一部、その後のフォローアップに相当するものです。破壊されると言えば、何よりも、イラクで人々や兵士が、学校や病院が、生活が、未来が破壊されているわけですが、ここでは、イラクで殺されていく兵士や民間人についてではなく、私がいる日本を取り囲んでいる場について「壊れる」ことを取り上げます。この文章を書いた2003年4月6日は、東チモールの町リキサで、インドネシア治安当局とその手先の民兵が、教会に避難していた人々50人以上を殺害した日からちょうど4年目にあたります。インドネシアによる東チモール不法占領は、スハルト独裁政権に対する米国の軍事援助と日本の経済援助により、24年にわたって維持されてきたものでした。むしろ私自身に向けて書いたものですので、そうした個人的なトーンのものを読む気はない、という方は、無視して下さい。
ティム・ワイズ氏は、「戦争の姿はこのようなものだ」という記事の中で、次のように書いている。
ロンドンのタイムズ紙[4月2日]によると、米軍が、戦場から逃れようとして橋を渡っていた市民の一団に発砲した。・・・米軍は家族に向けて発砲し、12名を殺害した。タイムズ紙の記事は、「5歳に満たない、オレンジ色と金色のかわいいドレスを来た女の子が、命を失い、どぶに横たわっていた。その横には、彼女の父親かも知れない男性の遺体が横たわっていた。彼の顔は半分しかなかった」と書いている。さらに記事は続く。「その近くでは、つぶれた、銃弾で孔だらけになった古いボルガ[ロシア製の車]の中で、イラクの女性が一人 −女の子の母親だと思われる− が死んでいた。後部座席に沈み込むようにして」。別のところでは、「父親と女の赤ちゃん、そして男の子が、浅い墓に横たわっていた。橋の上にも、イラクの民間人が一人、ロバの死体の横に、死んで横たわっていた」。
さらに彼は、タイムズ紙の記事から、米軍中尉マット・マーチンのことを紹介している。
・・・マット・マーチンという名の中尉の妻は、湾岸に向かっている際、3人目の子供を出産していた。「これを見たか?」とマーチンは目に涙を一杯に浮かべて訊いた。「あの、小さな女の子の赤ちゃんを?私はこの子を抱き上げて、埋めてたんだ。できるだけちゃんとしようと思ったけど、時間がなかった。こんな風に子供が殺されるのを見るのは、本当に堪える。だけど、仕方なかったんだ」。
マーチンは、「任務」を終えて、米国に戻た後も、夜汗をかき、眠れず、叫び、精神的に不安定になるかも知れない。「当たり前」の言い方をするならば、これにより、彼の中で、何かが、「壊れて」しまったのかも知れない。帰国後の生活自体も「壊れて」しまうかも知れない。米国によるベトナム侵略で、多くの米軍兵士が「壊れて」しまったと同じように。
戦争はこのようなかたちでも人を破壊する、というのは、確かに、一つの妥当な結論である。けれども、この話には、それ以上の側面が見え隠れしているように思われる。
マーチン中尉のこれからを私が共有できるわけでもないし、その心をどこまで理解できているかもわからない。けれども、彼の反応は、私には、「まとも」(ちょっと危ういのですが、あえてこの言葉を使います)なものに思える。米国のブッシュ大統領やパウエル国務長官、ラムズフェルド国防長官や、英国のブレア首相やストロー外相、日本の小泉首相や川口外相よりも、ずっと。だから、このナイーブな感覚を出発点に、次のような疑問を提出し、多少の整理を試みることは、それなりに大切だろう。すなわち、「まとも」な人が「壊れて」しまう世界とはどのようなものか?そのような世界こそ、既に、惨めにそして決定的に、壊れてしまっているのではないか?
この問題は米英によるイラク侵略に限定されない大きなことなので、体系的な見通しを与えることはできない。ここでは、私が今生活している場で、しばしば「当然」のように語られている言葉や自分たちが「まとも」であるかのように語っている人々について、少しだけコメントするにとどめる。断片的に気付いたものを取り上げるだけなので、あまり一貫しないものになる。また、多くは、当たり前のものでもある。
我々の軍隊を支援しよう(Support Our Troops)
米国では、「我々の軍隊を支援しよう」(Support Our Troops)というキャンペーンがメディアをそれなりに賑わせており、日本政府も米国を支持し、米軍を支援している。違法な侵略戦争を実際に行っている軍隊を支援するのはとんでもないという立場は当然であるが(私自身も支持しない)、しかし、考えてみると、「何を」支援しようとしているのだろう。そして「支援する」とはどういうことだろう。
文字通りとるならば、「軍隊」は一応、兵士を中心として構成されている。「我々の軍隊を支援しよう」キャンペーンで行われていることは、兵士たちにピンナップやビデオでの激励を送ったりすることだから(どこかの男性向け雑誌がピンナップ・ガールのメッセージを送ることにしたらしい)、「兵士が」「激励等々を受け取る」ことが、一番わかりやすい「軍隊を支援」する行為のようである。
けれども、これまでの戦闘で、米兵が約80人死亡したという発表もあり、いずれにせよ、今後の侵略行為継続で、米軍兵士たちの死者も増えるだろう。そして、「軍隊を支援する」ために、兵士たちにものやメッセージを送るのは、指揮を高めてさらに侵略戦争を進めるためであるから、イラク兵や民間人を殺害することに手を染めさせたり、自ら死んだりすることを、米兵に奨励することが、支援であることになる。実際、侵略戦争に反対する人々は、「軍隊を支持しない」「非愛国者」との非難を向けられている。
戦争で死亡する米兵たちは、こうした支援を受けて嬉しいのだろうか。マーチン中尉は幸せなのだろうか。そうした心情的なことはさておいて、遺族や帰国する兵士たちは、「我々の軍隊を支援しよう」という愛国的な社会で、その後も、手厚い支援を受けるのだろうか。
興味深いデータがある。米国におけるホームレスの3分の1は元兵士たちである、というものである。さらに、つい最近、「我々の軍隊を支持しよう」という呼びかけの旗を振っている共和党議員たちとホワイトハウスは、退役軍人の年金予算と身体障害補助を削減する提案を行った。上述のマーティン中尉が仮に「壊れて」しまっても、あまりケアは受けられそうにない。
こうした諸事情から判断するに、「我々の軍隊を支援しよう」というのは、「米国政府の侵略攻撃政策を応援しよう」ということらしい。個々の兵士ではなく「軍隊」を機能的に見れば、攻撃を実行するためのものだから、「軍隊を支援しよう」というのが、「侵略攻撃政策を応援しよう」ということであるのは、さほど不思議ではない、とも言える。もう少し不思議なのは、「我々」と「米国政府」とが一致しているように見えることである。兵士の家族には「我々の軍隊を支援しよう」というキャンペーンに賛同する人が多いと言う。その多くが、政府のために人を殺し命を失う羽目になるかも知れず、退役後の予算もいっそう削減されることの被害を被る人々であろう。
「我々」の利益を損ねる政策を「政府」が行っている状況でさえ、「我々」と「政府」とが重なり合い、「我々」が「政府」を支持するのは、全体主義の特徴であると、確か米国の体制派知識人が言っていたはずである。全体主義と民主主義は必ずしも相容れないものではない(とカール・シュミットか誰かが言っていた)。だから米国民主主義が崩壊しているわけではないだろうが、何かが決定的に崩れているように思える。
「人道支援」・「復興支援」
ここでも、「支援」である。国連でもメディアでも、イラクに対する「人道支援」が論ぜられている。日本政府は、復興支援大使とかなんとかいうものを最近、指名した。「支援」を語る一方、川口外務大臣は、停戦を働きかける気はないことを明言している。不法な侵略戦争に荷担して、それを進めながら、経済制裁と封鎖を維持しイラク自身のプランで石油を売り必要物資を購入することを防止しながら、そして、独立系人道援助団体の出入りを厳しく制限する米国を批判もせずに、「支援」を語る、この倒錯した構図。
安易なアナロジーは慎まなくてはならないと思いつつも、誰かに暴力をふるって怪我を負わせて監禁しておきながら、食料と水を与え、怪我の薬を買ってくる人物のイメージが頭に浮かぶ。これは、支援なのだろうか。「ふつう」、そうは言わないはずである(少なくとも、言わなかったはずである)。侵略戦争下で人道的ニーズを満たすよう配慮することは占領国の義務であり、また、その結果の破壊に対する資金提供は、「賠償」であり、支援ではないはずだ(とはいえここで、日本の戦後補償問題を頭に置いておく必要はあるだろう)。「支援」についてポジティブに語る日本政府は、誰かを拉致監禁した犯人が、その被害者に食料を「支援」するならば、それをポジティブに語るのだろうか。自身の行為に対するイメージは、ずいぶんと倒錯している。
支援=「ささえ助けること」(広辞苑)。ヨルダン赤新月社によると、4月5日、イラクは援助物資受領を拒否し「それより侵略戦争に反対を」と表明したという。
経済建て直しが最優先、そのためには米国との関係を優先しなくては
小泉首相は、「アメリカの信頼を失うと 今後日本がどうなるか国民は理解していない」と述べ、それが、日本のイラク攻撃支持の理由だと公然と言った。米国による侵略戦争(を支持した日本)を支持し、反戦運動はナイーブであるといった論調の意見を表明する人の中に、これにこだまするかのように、「経済建て直しが最優先、そのためには米国との関係を優先しなくては」といった論拠を持ち出す人は、少なくない。
とりあえずのところ、こうした言葉は、「日本経済」のためには、イラクの人々を不法に虐殺してもかまわない、それは仕方がない、と、言っているように思える。「大量破壊兵器」だとか「テロ」だとか「フセイン独裁からの解放」といっためまぐるしく変わってきたイラク侵略「正当化」が行き着いた先である。ここでは、「まとも」な人間性が壊れていると言っても不自然ではないだろう。けれども、この議論には、少し続きがありそうである。
中国や朝鮮民主主義人民共和国、韓国などとの過去をしかるべきかたちで精算せず、そのために東アジア経済圏を独自に形成する道を閉ざしてしまったことがその問題の根にあるからそこから考え直せばよいといった議論は別にしても、基本的な疑問が残る。現在的に見て、米国との関係を維持し、優先することが、日本の経済再建につながるのだろうか。そして、そのときに言われている「日本」とは何のことだろうか。
米国の「信頼」を保つと称する行動を日本政府が採っている現在も、多くの人の目には、いずれにせよ「今後日本がどうなるか」については悲観的なようである。そして、「経済建て直し」を優先するために・・・という議論の前提にある「経済建て直し」を、そもそも日本政府は意図しているのだろうか。バブルの後処理についての政府の行動を見ていて、疑問なしとしない人は多いだろう。
米国との関係を優先している/してきた各国の状況はどうなっているのだろう。有数の天然資源を有しながら、膨大な債務を背負い、軍による人権侵害に多くの人々があえいでいるインドネシア、1990年代以来大規模な米国の援助を受け、最近では超親米大統領を擁しながら[それゆえに]、200万人の国内難民を生みだし、毎年数千人から数万人に上る政治的・経済的死者を生みだし加速しているているコロンビア。米国との信頼を維持する多くの政府が行き着く一つの帰結はここにある。
医療費の自己負担増や有事法制整備・住民基本台帳法など、「国民」に対して害になるようなことを押し進め、国民に「今後どうなるか」疑問を抱かせる振舞いをしている政府が「今後どうなるか国民は理解していない」と言っても、あまり説得力はない。それにもかかわらず、「日本の」「経済建て直し」が、米国追従で実現されると言うならば、きっと、そこでは「日本」という言葉が指すもの、「経済」という言葉が指すものが、私たちが理解するものと違っているのであろう。そういえば、大多数の市民が貧困状態に置かれたインドネシアやほかの「親米政権」諸国では、「経済の奇跡」が喧伝されたものだった。そして、スハルトや寡占エリートたちは、確かに、「大成功」を収めてきた。
小泉首相は、もしかすると、万が一(そこまで考えているようにはとても見えないが)、そうした状況を目標として想定した、行動を取っているのかも知れない。そうだとすると、国内外を問わず、「経済」なるもののためには、人的犠牲を払ってよいということであるから、その犯罪性において一貫していると言えなくもない。一方、その中で「勝ち組」に乗れるという冷静な計算と準備なしに、「アメリカの信頼を失うと大変だ」とあわてている人がいるとすると、そうした人の分析判断力は、壊れてしまっているように思える。ちょうど、「我々の軍隊を支援しよう」と、それによって被害を受ける人々が言っているのと同じように。
冷戦後の抑止力の基本
米国戦略核兵器を統括する米国戦略司令部が1995にまとめた内部研究『冷戦後の抑止力の基本』が、1998年に明るみに出た。そこでは、次のような記述がある。
「われわれが抑止しようとしている行動が実行されたときに、米国が敵に対して何をするかよくわからないという曖昧さがもたらす利益を考えるならば、自分たちが完全に理性的で冷めた頭でやっていると見せるのはよくない。何か「統制がきかなく」なりうるように見えれば、それは敵の政策立案者の心に恐怖と猜疑を植え付けることになるので、有利である。この恐怖が、抑止力の基本である。米国は自らの重要な利益と見なすものが攻撃されたら、非合理的になって報復に出かねないという印象を与えるべきである」
この文言は、チョムスキーの『アメリカの人道的軍事主義』での引用と、ブルムの『アメリカの国家犯罪全書』の引用で目にしたのだが、そのたびに、20年以上も前に読んだはずの、推理作家ロス・マクドナルドのある小説(タイトル忘れました)を思い出した。「自分は壊れておらず、ただ壊れているふりをしているだけなのだと自分では考えながら、それを含めて、壊れてしまっている人物」が、登場していた。
タカ派とハト派
米国のメディアなどでは、そして主流の政治的言説の中では、ラムズフェルドなどがタカ派で、パウエルはハト派である。そして、「良心的」な、イラク戦争に反対している人の中にも、イラク戦争が始まってしまったのだから仕方ないと受け入れている人々の中にも、パウエルの影響力の増大とか政府内部での戦略的交渉力に何らかの期待をかけている人が少なくないと言われている。
コリン・パウエル!パナマとイラクに対する爆撃を指揮した人物。第一次湾岸戦争時のイラク攻撃の際、運転中の原子炉を破壊し、「イラクで運転されていた二つの原子炉はなくなった。停止し、破壊された」と満足げに発表した人物(米軍が従っているとされていた規約を採択した国連は、その直前に、中東における「核施設への軍事攻撃禁止」を再確認していた)。イラクで殺された人々の数について、「私は数には関心がない」と述べた人物。ソンミ村での虐殺(1968年3月16日、ベトナム中部のソンミ村で、米軍により504名の住人が数時間のうちに虐殺された。生存者は10名ほどという。米軍は徹底的な証拠隠滅をはかり村を焼き払ったのち、これを民族解放軍勢力との闘いと発表したが、その後、内部告発により事件が明るみに出た)を犯したと同じ旅団の部隊によるベトナム戦争での戦争犯罪を隠蔽した人物。
そして、2003年2月5日、捏造された証拠や拷問や強制的環境で得られた証言、出所の曖昧なテープや写真など、法的に証拠には全くならない「証拠」を、えんえんと国連安保理で説明し、イラク攻撃の「正当性」を主張した人物。
ラムズフェルドがタカ派でパウエルがハト派で、その間の政況が云々・・・。こうした議論は、朝にバナナを3つ、夜に4つにすべきか、朝に4つ、夜に3つにすべきかという状況を思い起こさせる。むろん、「米国の政府内での選択肢を冷静に判断すれば、それが現実的な姿なのだ」という反論はあろう。けれども、いずれにせよ、ラムズフェルドとパウエルを対置して今後を構成する議論は、侵略戦争や戦争犯罪、違法行為を認めることを前提にしている。そして、「現実の姿」に受動的に依拠した議論は、何ら変容の機会を提供しないばかりでなく、まさに、「ラムズフェルド/パウエル」といった違法集団の位置づけを強化することにつながるだろう。
それだけにテロの責任は重い
2003年3月23日付け、毎日新聞一面の「余録」、最終段落には、次のようにある。
就任当時のブッシュさんは「慎みある外交」を唱えていたのだが、同時多発テロですべてが変わった。元の世界にはもう戻れない。それだけにテロの責任は重い。
自然に読めば、最後の一文、「それだけにテロの責任は重い」の「テロ」は、同時多発テロを指すように読める。この文章を書いた人物は、現在のイラク攻撃の責任は、同時多発テロにある(すくなくともある程度の重さで)と言っているように、読める。
この論理は、理解しがたい。まず第一に、ブッシュは「慎みのある外交」(それが何であれ)を「唱えていた」(ブッシュが)だけであり、実際に慎みのある外交(合州国憲法にあるように「世界の人々の意見を尊重し」た外交と考えておこう)を行っていたわけではない。ところで、その前までの部分を読むならば、この文章の著者は、変わったのが「何を唱えるか」だけであると見なしてはいない。つまり、ブッシュが「唱えている」ことを、現実に反して実際にもそうであると受け入れた上で、変わってしまったと嘆いているわけである。実際には、ブッシュが「唱えている」ことを受け入れる論拠など、何一つ存在していない。
第二に、同時多発テロ(を含め、米国に対するいかなるテロも)は、アフガニスタン爆撃も、イラク攻撃も、正当化しない。特に、イラク攻撃については、同時多発テロと、ほんのわずかの(実行犯の所在を巡る地理的な)関係すら、存在していない。たんに、米国ブッシュ政権が、何の根拠もなく、強弁して、イラクを攻撃したいから攻撃しただけであり、その流れの中に、同時多発テロが論理的に組み込まれる部分など、あからさまにでたらめなプロパガンダのレベルを除いて、何もない。ここで再び、この文章の著者は、「同時多発テロ」がきっかけなのだ、という非現実的なブッシュ政権のプロパガンダ・ファンタジーを前提に話をしている。
ここまで、ブッシュ政権が述べることをそのまま受け入れて(非)論理を展開するので有れば、同じように、ブッシュが「イラク解放だ」と述べたら、それを現実として受け入れればよい。「イラク戦争」などと言わずに、「イラク解放」とブッシュ政権のお言葉をありがたく信じ込めばよい。そうすれば、何ら、嘆く必要もなくなる。独裁者を支援するかわりに独裁政権から人々を解放する善良な外交政策、ということになるのだから。
これとは全く別に、一方で、ここで採用した(非)論理と形式的には、全く同じに、「私たちは平和を愛するが、米国により度重なる侵略や侵害に耐えかねて、米国を攻撃した」という米国の大使館等への攻撃を行った人たちが述べたことを前提に、次のように言うこともできる。
こうしたテロリスト(上手くない言葉ですが、議論のため使います)たちは、もともと「慎みある態度」を唱えていたのだが、米国の・・・・(ここには多くの侵害や侵略を入れることができる)ですべてが変わった。元の世界にはもう戻れない。それだけに米国の責任は重い。
なぜ、この文章の著者は、そうは言わなかったのであろう。単純に、米国の目線に服従しているからであろうか。それは、ありそうである(毎日新聞が、相対的に悪くない報道をしているとはいえ、この基本線は全体に変わらない)。しかし、そうであるならば、なぜ、最後まで米国の目線に併せて、「イラクを解放している」と喜ばないのだろう。それには真実を知りすぎていて、イラクの死者に、胸が痛むのかも知れない。あるいは、自分の定常状態が脅かされることに、怯えているだけかも知れない。
この非論理に基づく非議論は、暴力的なクラスメートに怯える「弱虫」を思い起こさせる。暴力的なクラスメートが、自分の椅子の上に画鋲が置かれていたことに怒り、誰彼かまわず殴りだしたとしよう。このときに、殴る行為の不当性を言わずに、殴る行為の責任まで画鋲を置いた人物のせいにしたがる「弱虫」と、そっくりである。結構、自分ではそれなりのコメンテーターを気取りがちなところまで(また、少し単純すぎるアナロジーですみません)。
民間人犠牲者はフセインの責任
小泉首相や福田官房長官は、「今後の戦闘でイラクの民間人に多くの犠牲者が出たらそれはフセインに責任がある」としている。徹底抗戦を命ずるのがいけないということらしい。フセインが独裁者であって、イラクを「解放」しているというのなら(とはいえ日本政府はまだ「大量破壊兵器」シナリオという妄想にしがみついている部分もあるが)、誰の目にも米英の侵略軍が優勢である状況で、サダム・フセインが徹底抗戦を命じたことにより、それに応じる人などいるはずがないのではないか、という疑問がある。
それにもかかわらず、人々が徹底抗戦するとするならば、それは、米英の侵略から自分たちの土地、住む場所、生活、自律、人間性を守るためではないか、という疑問が頭をもたげる。しかも、本来、徹底抗戦が、イラク軍に限るものであるならば、法的に言って、民間人に犠牲者を出すべきではないのであるから、そのためのあらゆる措置を取るよう米英に求めるのが第一歩のはずである。そうせずに「民間人犠牲者」の増大を語るということは、徹底抗戦が民間人によっても遂行されると想定しているのだろうか。そうだとすると、ますます、サダム・フセインの命令があろうがなかろうが、こうした人々は、抗戦・抵抗を続けるのではないか、と思える。そして、そうであるならば、ますます、米英の行為が侵略であり、法的に違法であるだけでなく、イラクの人々にとってあからさまな侵略であることがはっきりすることになる。
とすると、小泉首相や福田官房長官が言っているのは、米英の違法な侵略の侵略性とイラクの人々のそれに対する嫌悪が明らかになればなるほど、米英の侵略により犠牲となった人々に対する責任は、サダム・フセインにあるということらしい。
安易なアナロジーは慎むべきであると思うが(特に以下のアナロジーでは、サダム・フセインとイラクの人々を同一のものとしているという問題がある)、それでも、この言葉を聞いて、どうしても思い起こさざるを得ない言葉がある。「ストーカー」。自分のために他人を侵害する行為をしながら、それが侵害相手のためなのだとまで信じ込み、それに相手が応えなかったことに怒って相手を殺してしまったストーカー。そして、自分が相手を殺してしまったのは、私の、相手に対する善良な行為に応えなかった相手に責任があると主張し続け、それゆえ私に責任はなく、私は「まとも」であると主張し続けるストーカー。
こんな発言をする小泉首相や福田官房長官というのは、惨めなまでに、人間性が崩壊しているのではないだろうか。そして、それを首相や官房長官に抱く国や政党も。
イラク侵略に参加している米軍のライアン・デュプレ伍長は、「イラク人の奴らは病気なので、俺達が化学療法をしに来てやった。最近では、この国を憎み始めている。クソイラク人たちを捕まえなきゃいけないのか。いや、捕まえるんじゃなくて、ただ殺してやりたい」と述べている。人々を殺害する行為までの距離に差はあれ、また、サダム・フセインではなくイラクの人々に直接責任を押しつけているという差はあれ、小泉首相と福田官房長官の言葉に、似通った構図の発言である。
整理?
以上は、そのときどきに、気にかかったことに関するメモを多少編集して並べただけなので、どうしても、断片的であり、混乱している。最低限の整理だけ、試みよう。
まず、川口外相・外務省(人道援助・復興援助)や小泉首相・福田官房長官、『冷戦後の抑止力の基本』など、政策立案・実行者の立場における、「まとも」さの崩壊。ここに見られるのは、事実関係を巡る嘘ですらない。一見、単に無茶苦茶なだけのように見える。ここでは、「本当」と「嘘」、「真理」と「虚偽」の分断など問題ともなっていないように、思える。むしろ、既存の言語と現実の距離、論理性といった基準点を破壊して、再構成しようという試みなのかも知れない。そして、これが外交交渉などを無視して、日本や英国では国内の大多数の反対を無視してごり押しされているところを見ると、政治的なもの、国際政治の枠組みを、力と言葉の新たな関係を利用して再構成しようというものにも見える。極めておおざっぱに簡単に言うと、こうした言葉遣いと立場の取り方は、前の日に人を大量に殺害しておいて、その殺人者が、翌日、「昨日までは、大量殺人が行われていたが、いずれにせよ社会が大量殺人を行うようなものだったのだから、しょうがない」と言い切るような、そんなものに近く見える(ちょっと無茶かしら)。
もう一つ、政策立案者や実行者ではない、そしてその政策で取り立てて得るものがないどころか失うことが多そうな、それゆえ、反対したって不思議はない人々の立場における壊滅的な従順性がある。「タカ派」に対する「ハト派」の巻き返しに期待をかけるような政策議論にふける人々(より一般に、そうしたコメンテーターを気取る人々)、「経済建て直しが」と言うような人々、「我々の軍隊を支援しよう」と言う宣伝にのる人々、「それだけにテロの責任は重い」と語る人々。うがった言い方をあえてするならば、これらの人々は、政治的なもの、国/政府と人々との関係、暴力と外交の関係、といったものの、一方的な組み直しを試みる勢力に対して、できるだけ従順に従えば既存の状態を確保できると願い、そのために、イラクの人々のようなところを先に「切り捨てる」のは仕方がないと考えているのかも知れない(これも少し粗すぎますが)。
こうした状況に対する抵抗は、何を見て、何を考えていけばよいのだろう。明らかに、問題は、民主主義の促進といったことでもない。曲がりなりにも米国は民主主義であり、そこでは半分以上の人がイラク攻撃を支持している。それは真の「民主主義」ではないという反論もあろうが、いずれにせよ人々の声が政府に反映されるといったかたちの政治体制で、人々が他国の破壊を望んだらどうするかについては、「真の民主主義」は何も語らないように思う。また、最も非民主的な組織の一つである軍の中で、マーチン中尉が示した反応は、少なくとも個々人の態度のレベルでは、まっとうであるように思える。また、これは、独裁を支持することがいけないと言った問題でもない。「民主主義」国家に侵略された独裁政権の人々は、それに対する対応として、結果的に独裁を支持するような行動を取ることはあろうし、そうした行動の中に、何か、まっとうなことを見てとるのは難しくはない。民主主義とか独裁といった問題提起は、既存の政治と政治以外の領域の関係を前提とした上でのことであり、今、考えなくてはならないのは、その組み替えを含むものであろう(このことは、「我々の軍隊を支援しよう」とか「経済再建が優先」と言う人々が、政治機構としての政府と人々とを重ねていることからも伺える)。
とはいえ、とりあえず乱暴な二分法を使うならば、トラウマを抱え問題を抱えるかも知れないマーチン中尉の「まっとう」さと、ネクタイをして「普通」の人物に見える小泉首相の「ストーカー」体質との間に、大きな断絶がありそうである。
私は、以前、ゾンビを見て、何が怖いのか全くわからなかった。自分がまずゾンビになっちゃえば、何のことはないではないか、と思っていた。けれども、小泉首相の側をゾンビと見なすならば、今は、自分がゾンビになることは、とても嫌だし、知らぬ間にそうなっていることは、とても怖い。そういえば、イラク攻撃に賛同する意見を持った人が、ときおり、執拗なメールを送ってくるのは、私をゾンビにするためなのかとも思ったりする。あるいは、先方は、こちらをゾンビのように思っているのかも知れない。
こんな単純な二分法は、これ以上ものを考えようとすると、ほとんど有効ではないように思う。また、結局は、イラクで民間人を殺害した侵略部隊の一員であるマーチン中尉を、ここで書いたようにどちらかというと好意的に位置づけるのは、どんなものか、という異見もあるだろう。そして、長々と色々書いたにも関わらず、あまり何も、代わり映えがしていない。そして、このメモはいささか錯綜している。4年前の今日は、東チモールのリキサでインドネシア軍・警察とその手先の民兵による虐殺があった日である。この文章は、イラク侵略とリキサの虐殺とを思って書こうと思い立ったものである。