1. ドイツの軍事化
1990年、ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が統合した時、ヨーロッパ人はもとより、世界中の人びとが平和と軍縮の時代がやってきたと喜んだ。
ゴルバチョフ時代、米国はソ連に対して、「北大西洋条約機構(NATO)は、1インチたりとも東に広げることをしない」と誓った。にもかかわらず、東西ドイツの統合によって、旧東ドイツが連邦共和国に編入されたばかりか、NATOにまで加盟した。その結果。軍事同盟は数百キロにわたってロシアの国境線に近よった。
その後、12の東欧諸国がNATOに加盟した。新加盟12カ国の中の5カ国は、今は消滅してしまった旧ユーゴスラビアとソ連邦の中の共和国であった。
人びとが夢見た「軍縮」「脱軍事ブロック」あるいは「戦争のない世界」からほど程遠い。
2つのドイツの統合は、東欧ブロックの解体、さらにソ連邦の解体により、ヨーロッパ全体が米国のグローバル軍事同盟に組み込まれてしまった。
旧ユーゴスラビアもソ連邦も、最後には、各共和国のレベルにまで分裂してしまった。
当時のコール首相は、いち早く、ユーゴスラビアの一員であったクロアチアとスロベニアを承認した。クロアチアは、第二次世界大戦中、ナチに支配された独立国であり、またスロベニアはドイツ、イタリア、ハンガリアというファシスト同盟に包囲されていた。
統一ドイツの外交戦略は、ビクトール・ユーゴの言葉を借りて言うと、「鉄は熱い内に打て、そして、打つことがまた熱くなる」であった。
1991年末には、ドイツはこの2つの共和国を承認するようEUのメンバーを強要した。当時のセルビアのDobrosav Vezovic外相は、1991年12月18日付けの『ニューヨークタイムズ』紙によれば、「クロアチアとスロベニアの承認は、ユーゴスラビアにたいする直接の攻撃だ。ユーゴスラビアを地図から抹殺することになる」と言った。
今日、ドイツはヨーロッパの地図の塗り替えを終えて、ヒトラーの第三帝国が崩壊して以来はじめて、ヨーロッパの域外に軍隊を派遣したのであった。
1995年、ドイツ政府はボスニアに、4,000人の軍隊を派遣した。これは第二次大戦後、海外での最大の派兵となった。同時にNATOそのものにとって、55年という年月を経て、はじめて直接軍事侵略を行ったのであった。
「同盟軍作戦」と名づけられたこの戦争について、NATOは、セルビアのコソボ地域での虐殺を防止するためだという理由をつけた。そして、78日に及ぶセルビア空爆が続いた。この戦争は、デンマークの哲学者Soren
Kierkegaardがいみじくも言ったように、「倫理の目的論的な停止」であった。
セルビアからコソボを分離したことは、さらなる旧ユーゴスラビアの解体と一連の共和国の誕生をもたらした。しかし、これは鉄のカーテンが開いたときに、すでに予測されていたことだ。
1991年1月6日、Joseph DioGuardi元米下院議員は、アルバニア系アメリカ人人権連盟の議長として、ドイツのコール首相に手紙を書いた。
「ドイツ連邦共和国のイニシアティブによって、EUがコソボ共和国を主権国家として承認することを望む。これはセルビアの共産主義者の圧迫からコソボのアルバニア人を守ることが出来る、唯一、論理的、有効な解決法である」と書いてあった。
その5カ月前の90年8月にはDioGuardi議員は、Robert Dole議員を含む6人の米上院議員をコソボ・ツアーに連れて行った。
NATOのベオグラード空爆戦争に先立つ1年前、1998年7月30日付けのドイツの『Suddeutsche Zeitung』紙は、「Kinkel
外相がコソボへのNATOの軍事介入を進めている」と書いた。Kinkel 外相は、98年すでに、「コソボのアルバニア人が自衛のために武器を購入するのを止めることはできない」と書いている。
カナダの政治アナリストであるMichel Chossudovsky教授は、NATOの空爆以前と以後もドイツの連邦情報局(BND)がいわゆる「コソボ解放軍」の武器購入と訓練に携わっていた、と述べている。
1990年代はじめ、ドイツは、ボスニアに派兵し、クロアチアに野戦病院を建設した。
これは、1954年以来、戦闘部隊が国境を越えて戦闘に配置されたのははじめてのことであった。
これがきっかけとなり、ドイツ軍は、NATO軍に続いて空爆に参加し、さらに99年6月にはコソボにも派兵した。そして、ドイツの将軍が50,000人のNATOコソボ軍の指揮官となった。
最初にドイツ軍がコソボに進駐したとき、アルバニア系のコソボ老人が、「ドイツ軍はこれまでどこにいたのか。最後にドイツ軍が来たとき、国境を策定してくれたではないか」と語った。
ドイツ軍はついにルビコン川を渡った。海外に派兵し、戦争を行うことで、西側諸国は、ドイツの「ナチの過去」を許してくれたのだ。
今年2月9日付けの『デル・シュピーゲル』誌は、「ドイツの軍事介入は10年前、コソボに派兵したことで始まった。これには終わりがない。しかし、大多数のドイツ人は出来るだけ早く終えたいと願っている。しかし、ドイツの海外派兵は始まったばかりだ」と書いている。
2007年3月20日付け『UPI通信』によれば、「パンドラの箱が開けられてしまったため、2007年には、ドイツは、アフガニスタン、レバノン、ボスニア、ジブチ、エチオピア、グルジア、コソボ、スーダンなどに計8,200人の軍隊を派兵している。国際的派兵軍の中でもドイツは上位に挙げられる」と報じた。
1998年、ドイツ連邦議会では、緑の党のJoschka Fisher党首(同じ年、Fisherは外相に就任した)は、「アウシュビッツと闘う」ために平和主義を否定した。彼はセルビアとナチを同格に置いたのであった。これで、ドイツの政治家たちは統一前に感じていた過去の罪を、逆手にとって「同盟国の軍事的重荷をシェアする」と言いはじめた。
人権擁護の立場から、ドイツはNATOの防衛地域外での軍事行動の禁止を、廃止した。ドイツが、再び、ノーマルな軍事力をもつことが出来たのはセルビアの脅威のお陰だ。
ドイツ国内では、ナチの罪を、セルビアに刷り換えるという不思議な現象が起こった。ドイツ人にとって、新しい犯罪者であるセルビア人の存在によって、心理的な安堵感を持った。こうして、ドイツではセルビア人に対する憎悪キャンペーンが始まり、今も続いている。
1998年秋号の季刊誌『CovertAction』によれば、「もし、1989年、ベルリンの壁が崩壊した時、統一ドイツは、1941年のようにユーゴスラビアを軍事占領することが出来ると言ったならば、ほとんどのドイツ人が拒否したであろう。しかし、今、まさに同じことが起こっているのだが、かつて反対すると思われていた人が、今は最も強く歴史の修正を始めている」
このキャンペーンによって、ドイツの対外政策にも変化が訪れている。それはクロアチア、エストニア、ラトビア、ウクライナなどの、かつてのナチの協力者に対して退役軍人の恩給が支払われている。
クロアチア、ボスニア、セルビアなどでの軍事介入に続いて、2001年、ドイツはマケドニアに軍隊を派兵した。これは、創設者Ali Ahmetiに率いられるコソボ解放軍の分派である民族解放軍(NLA)が、2001年夏にマケドニアに侵入したことを受けたのであった。NLAは、50,000人のNATO軍から戦闘員、武器、迫撃砲など受け取った。そしてコソボ・マケドニア国境の米軍のチェックポイントを通って、マケドニアに対して攻撃を繰り返した。
あるときは、600人のドイツ軍が、NLAゲリラと政府治安部隊の戦闘にはさみうちになったこともある。
2005年8月30日付けの『UPI』通信によると、ベルリンのドイツ国際安全保障研究所の軍事アナリストのBenjamin Schreerは、「1999年、社会民主党と緑の党が、コソボにドイツ軍を派兵することを決定して以来、連邦軍の性格を変えてしまった。現在、連邦軍はグローバルな規模で展開している、と語った」と報じている。
アフガニスタンには100人のドイツ特殊部隊が駐留し、地上戦を展開している。この特殊部隊はKSKの名で知られているが、よく訓練され、装備も良い。しかし、この部隊の情報は、秘密事項になっている。
2001年9月11日以来、KSKはアフガニスタン、東アフリカなどで、海軍、空軍、地上軍ともに戦闘に参加している。さらに米軍の「イーグル・サポート作戦」に対して、ドイツはAWACSを投入した。また、米軍の「アクティブ・エンディバー作戦」に対しては、ドイツ軍は地中海を監視する部隊を派遣した。
ドイツ軍は、憲法では国家の防衛に限定されていたが、今では、外国に派兵している。
2005年に発表されたドイツ国防省の『戦争に向けたドイツ軍の準備』と名づけた報告書の中で、Peter Struck国防相は「国防省は、平和維持と安定化以上の任務をドイツ軍に期待している。将来、ドイツ軍はアフリカでより大きい役割が期待される」と書いてある。
アフガニスタン訪問の途上、Struck国防相はウズベキスタンのドイツ軍を訪問した。そして、「我々のような戦後生まれは、現実的であるべきだ。ドイツ軍は海外に派兵され、戦争を軍事行動で止めさせるべきだ。ドイツ軍は世界中で平和維持のための戦闘の準備をしなければならない」と語った。
2006年11月13日付けの『ニューズウィーク』誌によれば、Struckの後任として国防相に就任したFranz Josef Jungは133ページにのぼる「白書」を発表した。その中で、「ドイツ軍は介入軍事力として、徹底的に再編されるべきだ」と述べている。
また同誌によると、「ドイツはその軍隊を、速戦力のある、人道主義の介入軍に変えようとしている。そのペースは非常に速い。憲法裁判所は1994年にドイツ軍を海外に派遣することを認める、という判決を下した」と言う。
今日、10,000人近いドイツ連邦軍が、「遠くボスニア、ジブチ、南部スーダンなどに駐留している」と報じている。
ドイツは現在の軍事状況に満足している。たとえば2009年7月6日号の『Deutsche Welle』誌によると、メルケル首相は、ドイツ兵士に「勇敢を称える新十時勲章第1号」を授与した。これは、第二次世界大戦以来、はじめてのことである。ドイツは戦後、ナチ時代の「鉄の十字勲章」を廃止してきた。
この点に限っても、ドイツが東西統一して以後、第二次世界大戦後の外交、軍事の枷を破って、台頭してきたことを示す。
2009年7月7日付けの英紙『タイムズ』によると、「メルケル首相がメダルを授与したのはアフガニスタン戦争の退役軍人であった。ドイツが再び、戦争の英雄のパレードを誇らしく思い始めたことは、過去の外交的、軍事的な隔離ベールを外したことになる」と書いている。
2008年11月28日付けの『AP通信』は、Jung国防相が、「戦後、国に奉仕して命を捧げた軍人第1号のメモリアルのための基礎石を捧げた」と報じた。戦死を祈念することは、ドイツでは長い間、暗い遠い過去のことだとされてきたが、現在、ドイツは戦後の外交、軍事の殻を破り、アフガニスタン戦争で戦死した兵士を祈念している」と書いた。
さらに「東西ドイツの統一は、NATOにはじめて新しい領土を組み込まれると言う結果となった。一方、これは主要な軍事大国の再誕生でもあった」と報じている。
2005年6月17日付けの『Der Spiegel』誌は、「ドイツは再統一することによって、単に、国家がフルに主権を回復しただけでなく、連邦軍がグローバルな舞台に登場することになった。今日、連邦軍は、外交政策立案者にとって、最もパワフルな道具となっている。ドイツ政府はこれまでとは全く異なった兵士を養成中である。特殊部隊のコマンドは高い技術を持ったプロである。彼らは、英国のSASや米国のデルタ部隊に匹敵する。ドイツはやっとノーマルな国家に到達した。いかなる脅威に対しても、民主主義を守りことが出来る。たとえそれがアフリカからであろうと」と書いている。
ドイツとその同盟国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を解体のために、20年を費やしてきた。ユーゴスラビア連邦共和国は、セルビアとなり、ドイツ政府は、コソボ独立1年目の2008年2月、コソボの治安部隊に200台の車を贈与すると発表した。コソボは今、NATO加盟を表明した。
2009円2月13日付けの『AP通信』は、この軍用車両の贈与について、「ロシア、中国、インドを含めて世界の3分の2の国が承認していないコソボの軍隊を強化することになる」と報じている。
今年2月『コソボ・ラジオ』のインタービューに対して、ドイツ国防省の高官であるDieter Jensch大佐は、「ドイツ連邦軍はコソボの治安部隊を軍事物資の寄贈や、KSFの訓練に15人のプロの軍人を派遣するなど、援助している」と答えている。
このような援助は260万ユーロに達する。
2009年2月9日付けの『コソボ情報センター』誌によれば、「コソボの治安部隊の訓練には、4,300万ユーロが必要である。ドイツはこれに援助を申し出た最初の国である。すでに15人の訓練部隊がドイツから到着している」と書いている。
昨日は、バルカンだったが、明日は世界の問題だ。
|