世界の底流  
第2次コンゴ戦争は終結?
2008年2月10日


1.反政府民兵組織との和平協定成立

 さる1月23日、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の東部のゴマで、米国などの呼びかけで、コンゴ政府とローラン・ヌクンダ将軍率いるルアンダ派兵組織との間で行なわれた2週間に及ぶ困難な交渉の末、ついに和平協定が締結された。この記事は新聞の国際欄の片隅に小さく載っていたので、見過ごした人も多い。
 この和平協定は、このコンゴ東部で活動している20を超える反政府民兵組織に適用される。そして、07年末、コンゴとルアンダの両政府間で結んだナイロビ協定の実施、つまり、ルアンダのフツの残党を武装解除し、帰国させることと相まって、コンゴ東部の紛争に終止符が打たれることになる。
 以後、国連コンゴ平和維持軍(MONUC)が、反政府民兵組織の段階的な撤退をはかり、非武装地帯を拡大し、そして、コンゴ政府と米、EU、アフリカ連合からなる専門家委員会が反政府民兵の武装解除と政府軍への編入と地域の恒久平和の維持をはかって行くことになっている。
 この際、反政府民兵は「反乱の罪(死刑)」には問われないが、「戦争犯罪」と「人道に対する罪」については恩赦されない。しかし、和平協定には、肝心のヌクンダ将軍の身柄の取り扱いについては明記されていない。同将軍は和平協定の席には現われず、代理人が署名したといういきさつがある。とくに彼は、すでに07年8月の停戦協定を破った前歴があり、今回も同じことを繰り返さないと言う保証はない。

2.ルアンダ虐殺の後遺症

 ヌクンダ将軍の反政府民兵組織とコンゴ政府軍との武装紛争は、1994年に起こった隣国ルアンダの大虐殺の後遺症である。このとき、ルアンダでは、フツ過激派によって、ツチとフツ穏健派80万人以上が虐殺された。多くのツチの難民がコンゴ領に逃げ込んだ。
 やがて、1996年にツチのルアンダ愛国軍が政権を奪回すると、今度は逆にフツの虐殺者の多くがコンゴのオリエンタール州のイツリ郡(コンゴ政府はイツリ州の分離を認めていない)に逃げ込んだ。
 さらに、隣国のウガンダ、ルワンダ、スーダンがこのイツリ地区の豊富な鉱産物と木材資源の収奪をめざして、軍事侵入した。たとえば、ウガンダのムセベニ大統領の義弟のジェムズ・カジニ将軍が「ウガンダ人民防衛軍(UPDF)」称する民兵部隊を率いてイツリを侵入し、ウガンダ領イツリ州とし、州都をブニアと宣言した。ルアンダは正規の「ルアンダ愛国軍(が攻め入った。少数だがスーダン南部の反政府軍の「スーダン人民解放軍(SPLA)」もイツリ地区に兵を送った。さらに、コンゴ政府軍の脱走部隊もイツリ地区を占拠した。
 その結果、1998年、イツリは1大紛争地と化した。そして、コンゴ、ウガンダ、ルアンダ政府との間に、1999年6月にザンビアのルサカで協定が結ばれた結果、ウガンダ、ルアンダ双方とも、表向きにはイツリから撤退することに同意した。しかし、両国ともに、それぞれ民兵を訓練し、代理の戦争を続け、依然として資源の争奪を続けたのであった。その間、これら民兵の行動は残額を極めた。村を焼き払い、住民を殺すばかりでなく、子どもを誘拐する、女性をレイプする、さらには、カニバリズム(人肉を食べる)まで国連に報告されている。

3.資源争奪をめぐる代理戦争

 この地域の壮絶な争奪戦の対象は、はじめはダイアモンドであった。ついで、2000年半ばから、軍需産業と携帯電話とソニーのプレイステイション・ブームの到来により、稀少金属のコルタン(コロンビウムータンタライト)の需要が爆発的に増えた。たとえば、コルタンは99年には1ポンド当たり20ドルであったのが、2000年12月には380ドルに高騰した。イツリ地区はコルタンの埋蔵量は世界の80%を占めており、すべてがコルタンの採掘と密輸に狂奔した。
 しかし、市場はすぐに飽和状態になり、2001年末には価格は暴落した。イツリで常に略奪と密輸が行なわれた品目は金と木材であった。
 問題は、資源の採掘と密輸によって、地域紛争が賄われているというところにある。「血のダイアモンド」と呼ばれるように、密輸と引き換えに、民兵は武器を購入することによって、紛争は絶えまなく続いた。反政府民兵組織の数も20を超えた。
 2003年、南アフリカのサンシティで、コンゴ、ウガンダ、ルアンダの間で「最終協定」が締結された。これでもって、「第2次コンゴ戦争(1998〜2003)」と呼ばれるコンゴ東部の紛争は終わりをつげた筈であった。
 イツリ地区に住んでいるのは、ルアンダと同じくツチである。そして、元ルアンダ愛国軍の兵士で、現在は将軍を名乗るローレン・ヌクンダの民兵が、「イツリに逃げ込んだルアンダのフツの虐殺者からツチ住民を守るため」と称して、サンシティ最終協定の武装解除を拒否して、イツリに居座った。
 これには、裏の事情があった。当時、EUと日本の環境保護法が厳しくなった。その結果、カシッテライトとニオビウム(コロンビウムの一種)などの稀少金属の需要が増大した。とくにこの地域にあるルエシェ鉱山は、ニオビウムの埋蔵では世界で唯一である。ルワンダの支援を受けたヌクンダ将軍がこれら稀少金属の争奪を続けたのであった。

4.コンゴの民主化を阻むもの

 1908年、コンゴはベルギーの植民地となった。1960年、パトリス・ルムンバが独立を宣言して以来、「コンゴ動乱」と呼ばれる内戦が続いた。1965年、モブツが軍事クーデターによって、大統領に就任し、以後、独裁政権が続いた。
 1996年、ローラン・カビラが率いる「コンゴ解放民主勢力同盟(ADFL)」がコンゴ東部で反乱を起こした。そして、97年、首都キンシャサに向けて進軍し、32年にわたったモブツ独裁政権を打倒した。この間1996〜1998年を「第1次コンゴ戦争」と呼ぶ。
 2001年、カビラ大統領が暗殺されると、息子のジョセフ・カビラが大統領の座についた。そして、2006年10月、40年振りに行なわれた民主的な選挙によって、ジョセフ・カビラ政権が誕生した。
 今回のゴマ和平協定は、この生まれたばかりのコンゴの民主主義を守るために、是非実行されねばならない。
 独立以来、コンゴの紛争は、すでに400万人の犠牲者を生み出した。その多くは、飢餓と疫病による死者である。この数は、第2次大戦以来、世界で起こった紛争の中で最大である。2003〜2008年間、ルアンダの支援を受けたヌクンダ将軍とフツ虐殺者の残党との間の紛争だけでも、すでに40万人が家を失った。
 同時に、たとえ反政府民兵による資源の争奪と密輸が終わったとしても、モブツ時代に採掘していた多国籍企業の利権の問題が残っている。2007年5月、カビラ政権のビクトール・カソンゴ鉱山副大臣がこれまでの採掘契約の調査を行なったところ、その中の50%の契約書が無効であることを発見した。現在、コンゴ政府と鉱山会社の間で採掘権に関する再交渉が始まっており、それが終了するまで、一切の採掘契約は停止状態にある。