昨年12月30日、イラクのサダム・フセインは処刑された。そのときに携帯電話で撮られたビデオは、http://www.liveleak.com/view?i=863ce7d4a3&p=1で見ることができる。これは無法なリンチである。そして、イスラム教徒がメッカに巡礼し、祈りと許しの日である犠牲祭に処刑が行なわれたことは、イスラム教徒に対する冒涜だ。
フセインの処刑については、死刑廃止をキャンペーンしているヨーロッパ政府や人権団体は、処刑そのものに反対していることは言うまでもないが、米プリンストン大学のリチャード・フォーク博士のような著名な国際法学者などは、中立の国際法廷ではないイラク人によるフセイン裁判が違法であり、また裁判途中での処刑は、リンチに等しいと非難している。
また国際的な人権NGOであるHuman Right WatchのKenneth Roth代表はすでに2004年に米紙『ニューヨークタイムズ』に対して、「米国がサダムの犯罪に手を貸してきた、だからサダムが米国の傀儡政権のイラク法廷で裁かれるのは、米国の侵した汚い罪を隠すためだ」と語っている。
イラクのフセイン裁判は、1982年にフセインが犯したDujailでのシーア派住民148人殺害の罪に死刑を宣告した。しかし、フセインがより大きな罪を犯した事件については、全く裁かれなかった。
それは、たとえば、イラン・イラク戦争中に毒ガスを使用したことや、1988年に10万人のクルド人を殺害したことなどを指す。すでに1993年、Human
Right Watchはサダム・フセインのクルドに対する大量虐殺の事実を詳しく調査した報告書を出している。そして、このクルド人の虐殺は、フセインがイラン・イラク戦争にすべての軍事力を注いでしまったので、自治を要求していたクルド人に対する支配力を失っていたことから、1988年、イ・イ戦争の末期に、「アンファル作戦」と呼ばれるクルド人地域を攻撃したときに起こった事件である。イラク軍は数千のクルド人の村を爆撃と空爆し、5万〜10万人を虐殺したのであった。
フセインの犯した罪のなかで最もひどいのは、1988年、クルド領Halabjaでの毒ガス攻撃である。これには少なくとも、3,000人のクルド人が虐殺された。ブッシュ大統領は、2003年にイラクを攻撃したとき、その理由としてこの虐殺行為を挙げた。しかし、1988年、当時米国は国連がイラクのHalabjaでの化学兵器使用を非難しようとしたとき、これを妨害したのだ。そして、その罪をイランになすりつけようとした。
イラン・イラク戦争では米国は、サダム・フセインを支持した。その理由は、イスラム革命を標榜するホメイニ師のイランのほうが米国にとって大きな脅威と考えていたからであった。
イ・イ戦争末期には、フセインのクルド人虐殺は周知の事実であった。米議会は、フセインを化学兵器の使用を禁止の1925年ジュネーブ条約違反とする制裁決議を、全会一致で可決した。しかし、当時のレーガン政権は、これに対して拒否権を発動した。これは明らかに、イラクの石油権益と、米国の農産物の最大の顧客だった。
イ・イ戦争で、1988年、フセインが化学兵器を使用したのは、Fao半島を奪回しようとする最後のあがきのときであった。
フセイン処刑後、残る被告に対してクルド人大量虐殺の審議が行なわれるだろうが、フセイン亡き後、彼らが重罪に処せられることはないだろう。そして、死人に口なしということで、事件、そしてその背後にいる米国の共犯の事実が暴かれることは、永久にないだろう。
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