世界の底流  
ウクライナのユーシェンコ大統領は“Made in IMF”
2005年1月26日


はじめに

 2005年1月23日に正式に就任したウクライナのユーシェンコ新大統領は、「反ロシア、親欧米派」を掲げる民主主義の闘士として、マスコミには紹介されている。とくに、最初の大統領選中に、内務警察幹部から毒を盛られててハンサムな顔が無残に変わってしまったことが、「悲劇の人」として同情を集めている。
 この「ユーシェンコ」新大統領と、彼が率いる政党「われらのウクライナ」について、カナダのトロント大のMichel Chossudovsky教授が「ウクライナの“IMF版民主主義”」と題した記事をwww.globalresearch.ca に書いている。

1. ビクトール・ユーシェンコとは誰か

 1993年、ユーシェンコは新設されたウクライナ国立銀行の総裁に任命された。MFによって「勇気ある改革派」としてもてはやされた彼は、ただちに、IMFの処方箋を実施した。その結果、ウクライナの人びとは貧困化し、経済は破滅した。
 彼が国立銀行の総裁に就任した直後の1994年、ウクライナはIMFと歴史的な協定を締結した。また彼は、新しいウクライナ通貨を発行した。その結果、労働者の実質賃金は急落した。
 ユーシェンコが締結したIMF協定の交渉は、実は、1994年9月、マドリッドで開かれたIMF・世銀の50周年を記念した年次総会の場で秘密裏に行われた。その中には、政府のウクライナ通貨管理の撤廃が含まれていた、その結果、ウクライナ通貨は急激に下落した。
 1994年10月、国立銀行総裁としてのユーシェンコが行った“ショック療法”とは、

1) パンが1夜のうちに300%値上りした。
2) 電気代は50%値上りした。
3) 公共交通は900%値上りした。
4) 生活水準は急激に悪化した。

 IMFが引用しているウクライナのコッか統計によると、1998年には実質賃金は1991年に比較して75%も下落した。
 IMFの処方箋はインフレを抑制するものであった。それは1ヵ月の収入が10ドル以下という貧困化した人びとにドルに連動した価格を押し付けたのであった。
ガソリンと燃料代が急騰するとともに、政府補助金の撤廃と金融引締めが国営・私営を問わず、産業を破産させ、穀倉地帯を荒廃させた。
 一方、世銀は、1994年11月、ウクライナに交渉団を送り、ウクライナの農業の改革のための調査を行った。IMFの処方箋にすでに入っていた貿易の自由化と同時に、世銀は米国の余剰穀物と“食糧援助”がウクライナ国内市場にあふれかえらせた。その結果、世界で最大、かつもっとも生産性が高かったウクライナの小麦農業は壊滅した。
 1998年には、穀物市場の規制緩和によって、ウクライナの小麦生産は1986〜90年レベルから見ると、45%も減少した。
 このように、経済を破産させ、人びとを貧困化させたユーシェンコだが、なぜ彼は人気があるのだろうか。
 新自由主義は、まず“自由市場経済改革”という名の国民的合意を取り付ける。世銀は「短期的には痛みを伴うが、長期的には成果は大きい」という。「苦い薬こそ良く効く」とも言う。そして、貧困こそが豊かな社会を建設する前提条件であると論理を摺り返る。これを国家的合意として、土地なき農民、閉鎖された工場、失業労働者などに経済的、社会的進歩をかち取る手段であるという。これを大量の宣伝文句とともに、あたかも“自由市場経済”こそが、唯一の政治的オルタナティブであるという。
 さらに、ウクライナでは、対立候補であるヤヌコビッチ首相が真の政治的オルタナティブでなかったことである。彼は、IMF・世銀に挑戦する気もなく、多国籍企業と闘うきもなかった。
2001年、ユーシェンコは、IMFの利益を代表していると議会で政敵から非難され、不信任投票でもって、首相を解任された。
 これに対して、IMF・世銀はただちに報復措置に出た。ウクライナは債権者リストでたちまちブラックリスト入りとなった。IMF/世銀・ヨーロッパ開銀の融資はストップした。パリ・クラブでは、ウクライナの12億ドルの債務のリスケ案が撤回された。そしてIMFのケラー専務理事は公然と「ユーシェンコ氏はウクライナ国外で大きく信任されている。そして国内でも信任されているはずだ」、勿論「ウクライナはその指導者をみずから選ぶ権利があるが、改革路線に変更があってはならない」と述べた。

2.ユーシェンコに支払っているのは誰か

 2001年、首相を解任されたユーシェンコは、数ヵ月後ワシントンを訪問している。さらに選挙前の2003年はじめには再び、国際共和研究所(IRI)の招きで訪米し、チェイニー副大統領とアーミテージ国務次官に面会した。
  こうして、ネオコンたちによる2004年10〜11月の大統領選挙への準備がなされたのだ。
大統領選挙でユーシェンコが勝利したのは、大量の宣伝、PR作戦のせいである。その資金は米国の諸団体が出したものであった。
 ユーシェンコ候補はまさに“ワシントン・コンセンサス”の申し子である。それはユーシェンコ氏が首相であった時代にIMFの傀儡であったというだけでなく、選挙中、彼は、ワシントンに本部を置くいかがわしい団体「National Endowment for Democracy(NED)の資金、戦術、技術の供与を受けたことでも証明できる。
 NEDは、他の似たような米国の団体「自由の家」、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ研究所」などとともに、すでにグルジアのシュワルズナーゼ大統領の打倒に多大の貢献をしてきた。
 NEDには、「国際共和研究所(IRI)」、ナショナル民主主義国際問題研究所(NID)」、「国際私企業センター(CIPE)」、「アメリカ国際労働連帯センター(ACILS)」という4つの団体が加盟している。これらの団体の目的は、「世界中で民主主義を志向するものに技術的な援助をすること」にある。
 ウクライナでは、第1にユーシェンコ氏の政党「われらがウクライナ」に資金供与した。また、「キエフ・プレス・クラブ」に資金援助をした。一方、「自由の家」とIRIは、大統領選挙の公正さを監査するために、人員を派遣した。IRIだけでも、9選挙区に米国からのスタッフを、そして25の全選挙区にはウクライナ人の監視スタッフを配置した。2004年11月26日付けの英国『ガーディアン』紙のIan Traynor記者は、「米国によって訓練され、資金供与された何千もの選挙監視人が投票所に張り付いた。彼らはまた、出口調査をも行い、投票日の夜にはユーシェンコ候補が11.0%リードしていると発表した」と報道した。
 NEDなどの活動は、報道に自由の名の下に、選挙の出口調査や西側メディアに間違った報道を提供するだけにとどまらない。彼らは親西欧、親改革派の学生組織を創設した。これは、大きな反政府デモとなっていった。またソロスの「オープン・ソサイエティ研究所」はウクライナに「Pora 青年運動」を創設した。これは1万人の活動家を抱え、「Freedom of Choice Coalition of Ukrainian NGO」の支持を受けている。PoraはセルビアのOtporやジョージアのKmaraを真似したものである。
そして、Freedom of Choice Coalition は、そのアンブレラ団体である。これはキエフの米国や英国の大使館から直接資金を受け取っている。ドイツは社会民主党関係のFriedrich Ebert Stiffungを通じて資金供与している。このほか、Coalitionに資金援助をしているのは米国債開発局、カナダのCIDA、Freedom House、世銀、それにGMのモット財団などがある。Coalition はこれらの資金を直接Poraに渡している。

3.NEDとは何か

 レーガン大統領時代の1983年に、Allen Weinsteinによって、ワシントンに創設された。公式的には、CIAとは無関係ということになっているが、旧ソ連、東欧、そして世界で政党助成に関わっている。これまでNEDは、政治家への贈賄、偽の市民社会団体の創設などを行ってきており、その多くはすでに暴露されている。Weinstein は、1991年9月21日付けの『ワシントン・ポスト』紙に「これらの多くのことは、以前はCIA自らがやっていたことだ」と語っている。
 ウクライナを含む旧ソ連内ではNEDは「CIAの民間版」だと言われている。CIA-NEDの介入は、南米のベネズエラで、シャベス大統領を打倒しようとしたクーデタや、ハイチのアリスティード大統領の追放に見られるように、反対派やNGOに資金供与をするというパターンをとっている。旧ユーゴではCIAが1995年以来コソボの「コソボ解放軍」を支援してきたが、一方NEDはCIPEを通じてセルビアとモンテネグロのDOSという政治連合を支援してきた。さらにNEDは2000年の選挙の際、DOS連合の政治綱領であった「自由市場改革プラットフォーム」を作成したG−17といわれるエコノミストのグループを視点した。この選挙でミノシェビッチ大統領は打倒された。