世界の底流 |
ムンバイ世界社会フォーラム報告 |
2004年2月4日 |
1.ムンバイに集った人びと 2004年1月16日、ムンバイ湾に真っ赤な太陽が沈む頃、開会式が始まった。世界各地から、またインド全土から10万人もの大群衆が集まった。 これが6日間にわたって、インド最大の都市ムンバイのNESCOグラウンドで開かれた第4回世界社会フォーラム(WSF)の幕開けであった。広場には、すべての人が座れるようにミシンで縫い合わせたジュート布が敷いてあり、開会式がはじまるまで、人びとは、壇上で繰り広げられるインドのポップ歌手の歌や、アフリカの踊りを楽しんだり、ひらばでは参加者自身が踊ったり、パーフォーマンスを披露したりした。 壇上には、インドの多様な闘いの代表たちが並んだ。最初のスピーカーは91歳のラクシュミ・セガル大尉。彼女はチャンドラ・ボースが率いた反英独立戦争を戦ったインド国民軍のヒロインであった。(彼女の娘が組織委員会のスポークス・パーソンであった)それに女性作家A・ロイ、女優で活動家のシャバナ・アズミと続いた。さらに、外国から昨年のノーベル平和賞を受賞したイランの女性弁護士シリン・エバダイ、これまで3回のポルトアレグレでのWSFを開催したブラジル組織委員会の代表チコ・ウイタケル、ジャカルタ在住のイラク民主化委員会のアミール・レカビィも並んでいたが、圧倒的に女性が多かった。 WSFの会場となったNESCOグラウンドは、巨大な機械製造工場の跡地である。普段は展示会の会場として使われていたのを、インド組織委員会が借り受け、業者に委託して、WSFの会場にした。非常に広い敷地で、中に大きな建物が3棟ほど残っていた。その中を仕切って、8,000人を収容できるホールを1つと4,000人のホールを4つ、さらに3つの展示場を設けた。これに加えて、4箇所に50〜200人を収容できるテントを約200も設けた。ここでは参加者自身が主催する1,200のワークショップが開かれた。 大きなホールは、主として、組織委員会が主催するセッションが開かれた。したがって、ここでは、反グローバリゼーションのオピニオン・リーダー、知識人たちが、シンポジウム形式で大演説をする。 それぞれのホールにはプラスチックの椅子が配置され、その中の1部にはイヤホンに接続する設備が付いていた。イヤホンは250ルピイ(1ルピイは約2.5円)で買い切りしなければならなかった。ヒンズー語の通訳を聞くためには、ワイヤレスの機械を買わねばならない。 これまでのWSFでは、英、仏、スペイン、ポルトガルの5カ国の通訳が配置されたが、今回はアジアで開かれたこともあって、10ヶ国語の通訳が準備された。それはフランスのATTACが世話役となって、日、韓、ヒンズー、タイ、ウルドー語を加えた10カ国の通訳団が結成された。これは、交通費とホテル代は保障されるが、あとは完全なボランティアである。これは「バベル」と呼ばれ、以後、半グローバリゼーション勢力の連帯とコミュニケーションの推進のためにチームとして行動する。しかし、通訳のブースの電源が切れたり、いろんなアクシデントが起こり、10カ国語の同時通訳という野心的な試みは成功とは言えなかった。 ムンバイのWSFは、これまで3年連続してブラジルのポルトアレグレで開かれてきたWSFを、ラテンアメリカ以外の場所に持ってきた初の試みであった。これについてはブラジル組織委員会側にいくらかの抵抗と危惧もあったようだ。 しかし、蓋を開けてみると、ムンバイは大成功であった。反グローバリゼーション派の知識人、オピニオン・リーダー、NGOや労組、農民運動、女性団体、社会運動などの活動家たちが世界各地から集まってきたのはこれまでと同様だが、10万人を収容する会場を埋め尽くしたのは、ポルトアレグレのように赤い旗をなびかせた労組や緑の旗のビア・カンペシーナ(WTOに反対する農民連合)ではなかった。それは、インド全土から集まってきた約2,000を越える地域の山岳・先住民族やダリットと呼ばれる不可触賎民、零細小作農民などのMela(ヒンズー語で「群集」の意味)であった。彼らは耕す土地もなく、生きる手段も奪われた、フランツ・ファノンの言う「地に呪われる存在」である。そして、彼らはインドで最も戦闘的なMelaである。彼らの参加はWSFに新しい活力を吹き込んだ。 Melaたちは、室内でスピーチを聞き、討論に参加するという習慣はないようだ。また、もう1つの可能な世界の内容である「連帯社会経済」についても耳慣れないようだ。したがって、ヨーロッパと南米の連帯経済のネットワークが主催した「連帯経済」のセッションには全く参加しなかった。4,000人のホールはガラガラであった。 インドでは、連帯経済に相当する言葉は、「ピープルズ・エコノミイ」と呼ばれ、これはNGOの用語になっている。インドには、登録NGOだけでも100万団体あり、AWAREのように10,000人のスタッフを抱え、12,000の村で開発プロジェクトに取り組んでいる巨大なNGOもある。しかし、ムンバイのWSFではこのNGOの存在は希薄であった。NGOは社会の周辺に押し込められたMelaを対象に入れていないのか? ムンバイでは、Melaはそれぞれのキャンプで集会をもつか、あるいはWSFの会場でももっぱら街頭でデモやパーフォーマンスをしていた。カラフルな衣装と躍動的な踊りは、マスメディアのカメラの格好の対象になった。 2.戦争と暴力 ここで、昨年1月の第3回WSF以来この1年の間に、反グローバリゼーションの運動にとって何が起こったかを考えてみよう。第1に、昨年2月15日、米国のイラク戦争に反対して、のべ2,000万人が地球を一周する反戦デモに立ち上がった。第2に、9月、メキシコのカンクンで、ネオリバラルなグローバリゼーションの象徴であるWTO(世界貿易機関)の閣僚会議が流会になった。これは、2大歴史的事件だと言えよう。 第1の戦争については、米国のイラク戦争が最大のテーマであった。この問題は常にパレスチナ問題とセットになって取り上げられた。しかし、残念ながらイラク、パレスチナの人びとの声がWSFの議論に反映されたというにはほど遠かった。一般論として、イラクの人びとはすべて米軍の侵略と占領に反対している、というだけで、心を揺さぶるイラクのレジスタンスのメッセージは聞かれなかった。またパレスチナ問題は主として、エルサレムにあるNGOの「オルターナティブ・ニュース」の代表マイケル・ウォーショーフスキーによって語られた。イスラエル軍の砲火の下で日夜戦っているパレスチナ抵抗運動の生の声ではなかった。 戦争問題は、むしろ別の形で語られた。それは人種差別、カースト主義、家父長主義、女性差別などによる暴力の問題が、戦争の根源にあるとして、参加者の大きな関心を集めた。とくに、女性と戦争、暴力のテーマは最も多くの会合で議論された。 これはWSFがアジアで、しかもインドで開かれたためであろう。重層的な支配構造の下で、社会の底辺に押し込まれた膨大な数のMelaが存在する。このMelaのなかでも、さらに底辺におしこまれているのが貧しい女性である。ダワリーと呼ばれる持参金が少ないといって妻が夫とその母に台所で焼き殺されるという事件はよく知られている。この持参金の支払いのために女性の実家は借金に苦しめられる話、あるいは、インドでは女の子が生まれると両親が殺してしまうという恐ろしい話など枚挙にいとまがない。 ムンバイでは、これら家父長主義、カースト主義、人種差別、女性差別に苦しむ何億もの女性たちの声が結集し、その解放を求めるのろしが上がったのであった。 3.土地、水、食べ物への闘いをグローバル化しよう これまでのWSFでは、企業主導のグローバリゼーションの分析からはじまり、協同組合、NPO、地域通貨、マイクロ・クレジット、女性の無償労働、フェア・トレードなど人びとの連帯を動機とした「連帯社会経済」がもう1つの可能な世界であるとして、ややアカデミックな議論が積み重ねられてきた。これは、参加者の大多数がブラジルをはじめラテンアメリカとヨーロッパ人であったことから来ている。その成果として、ブラジルでは労働党のルラ大統領の就任とともに「連帯社会経済局」が新設されている。またポルトアレグレそのものが連帯社会経済のモデル都市である。 しかしムンバイでは、このような議論は起こらなかった。というのは、WSFの会場を埋めつくしたインドの山岳・先住民族、ダリット、零細小作農などの最大の課題は、「土地、水、食べ物」であった。 彼らは人間が生きて行くのに基本的なニーズを奪われている。それは生存そのものをかけた闘いである。たとえば山岳・先住民族の多くは、巨大ダム建設により先祖伝来の土地を追われた。しかもインドにIMF、世銀の構造調整プログラムが導入された90年代以降は、さまざまな開発プロジェクトによってこれら少数民族の共同体所有の土地は奪われた。インド農民の圧倒的多数を占める零細小作農も同じ運命に晒された。ダリットには、そもそも耕す土地がない。また女性には、財産と土地所有の権利がない。したがって、夫を亡くしたり、置き去りにされた妻と子どもたちは、ただちに土地と住む家を取り上げられ、流浪の民となる。したがって、女性にとっては、土地の権利は死活問題である。 インドは世界最大の民主主義国家である。ダリットや零細小作農には「土地改革法」が制定されている。山岳・先住民族の共同体所有の土地の権利は法的には認められている。しかし、問題はこれら法律が実施されないばかりか、土地が奪われ続けているところにある。したがって、彼らの闘いは、政府に対して、法律の実施を要求することになる。大部分の闘争はガンジーの伝統を受け継いだ非暴力の請願運動である。 彼らは、会場から5〜6キロのところにある公園や空き地に巨大なテント小屋を建ててキャンプしていた。その中の1つ、「Land First Mela」のキャンプ場を訪問した。 そこにはインド全土からムンバイまで徒歩と汽車を乗り継いできた約5,000人が集まっていた。私は、最初、彼らはLand First Melaに組織されたメンバーだと思った。 しかし、そうではなく、全員活動家たち、すなわちオルグ(組織者)集団だという。 彼らは集落から集落へと歩き、目的の集落に着くと、住民を集め、歌や踊り、劇でもって運動の目的を説く。そのほかには、人間ピラミッドをつくって見せ、団結の力を示す。これは最もポピュラーな方法で、WSF会場内の広場で他の多くのMelaが実演していた。 インドには10億人が住んでいるというが、1つのMelaに5,000人もの活動家がいるとは驚きであった。彼らはガンジーの非暴力の伝統を受け継ぎ、何万人もの大群衆をもって州政府庁舎を取り巻き、土地改革法の実施を要求して、何日も交渉を続けるという戦術をとる。その間、この大群衆は、テントを張って寝て、身体を洗い、煮炊きをする。日常的に、彼らはこのような生活の知恵を身につけている。インド各地から6日間ムンバイに10万人が集まることなどたやすいことなのである。 WSFの初日の午前中のセッションの議題は、「土地、水、食糧主権」であった。ここには、8,000人が出席した。その大半は、Land First Melaと同様、土地を奪われた人びとであった。壇上のパネリストの中心に、30年余りにわたってナルマダ・ダム建設によって土地を追われた300万人の山岳・先住民族の先頭に立って闘い続けてきたメダ・パトカー女史がいた。 ここではナルマダのような世界銀行が融資する巨大ダム建設に対する闘いをはじめ、インド各地で人びとの土地、水、食べ物に対する権利、すなわち生きる権利の闘いが報告された。カナダ人評議会代表のモード・バーロウ女史は世界中で人びとがIMF、世銀による水の民営化反対の闘いを報告した。フランスの農民代表ホセ・ボベは、世界各地で多国籍企業モンサント社による遺伝子組み換え作物の栽培に抵抗していることを報告した。ここでは、インドの生存をかける闘いと、世界の農民の闘いが1つになった。 これら山岳・先住民族、ダリット、零細小作農の生存をかけた闘いそのものがもう1つの可能な世界ではないか。これこそネオ・リベラルなグローバリゼーションに対する最も根源的な闘いではないか。 4.ムンバイ・レジスタンス − もう1つの対抗集会 WSFの会場前の大通りを越えたところに、「ムンバイ・レジスタンス」というもう1つのフォーラムが開かれていた。敷地の広さはNESCOグラウンドの3分の1ぐらい、2つの大きなテントが設けられていた。 私が入ったときは、1つのテントで、インドで最も戦闘的で、かつポピュラーな歌手であるガダール(Gaddar)がパーフォーマンスをやっていた。彼は、インド共産党(ML)派の活動家でもあり、20年間にわたって武装闘争を続けている。彼の身体には「少なくとも9発の弾丸がまだ残っている」といわれる伝説的な人物である。 基本的には、政治的なアジ演説なのだが、間に歌や踊りを入れる。内容は、貧しい農民がどのように地主や警察に痛めつけられているか、そして、農民はやがて立ち上がり、闘いの隊列に入るというものであった。彼は国際会議であることを意識して、自ら英語の翻訳を加えてくれた。 ムンバイ・レジスタンスは、インド共産党(ML)派が呼びかけ、これにネパール、バングラデシュ、スリランカ、そして、フィリピン、コロンビア、バスクなど武装闘争派が集まっていた。さらに、これに、アジアの漁民と農民のネットワークが参加していた。 一方、WSFのインド組織委員会にはインド共産党(旧ソ連派)、これに旧中国派のインド共産党(M)が参加していた。組織委員会の有力メンバーである800万人のメンバーを抱えるインド民主女性同盟(Brinda委員長)労組、青年組織など巨大な団体は、インド共産党(ソ連派)の傘下の団体であろう。 つまり、ムンバイ・レジスタンスは、WSFの対抗会議であった。しかし、最後まで、その対立点ははっきりしなかった。『Times of India』によると、WSFがフォード財団、OXFAM、NOVIBなどからファンドをとり、それがWSFの開催費用8,000万ルピイの60%にのぼっていることを批判したからだと報じていた。しかし、インド組織委員会がフォード財団からファンドをもらわないということが、ブラジル組織委員会の危惧であったところを考えると、はたして、フォード財団が巨額の資金を出したとは思えない。 ムンバイ・レジスタンスで受け取ったビラによると、WSFの非暴力主義を非難していた。「多国籍企業が物分り良くなったり、崩壊したりするはずがない」という。「革命は武装闘争を通じてしか成功しない」というのだが、ではそうして出来たソ連や中国の社会主義はどうなったのか、聞きたい。WSFが武装闘争を論議する前に、何千万もの人びとがグローバリゼーションに「ノー」と言い、「もう1つの可能な世界」を議論していることこそ、今最も大事なことである。 しかし、WSFとムンバイ・レジスタンスの間には、実際には何の紛争もなかったようだ。むしろWSFの組織委員会の報告では、ムンバイが成功に貢献した要因のなかに、ムンバイ・レジスタンスの組織者たちの名を上げていた。 このような多様性もまたインド的である。 5.ある出会い ムンバイの出会い ― WTOを崩壊させた男 − ムンバイ世界社会フォーラムの会場内には展示場が3箇所設けられていた。その1つにインドの左翼系本屋が店をだしていた。ちなみにインドではロンドンやニューヨークで出版される本のインド版が安く印刷されている。1冊300〜400ルピイで買える。 この本屋は海外からの参加者の溜まり場であった。ある日の昼休み、私は午前のセッションで債務についてすばらしいスピーチをしたケニアの女性に会った。話は昨年9月のカンクンにまで及び、私が「ケニアの開発相がWTO閣僚会議を決裂に追い込んだ」ことに触れた。すると彼女は横に立っていた背の高いアフリカ人を指差して「貴女はその男の前にいますよ」という。「本当に?」と思わず叫んでしまった。 彼はニコニコ笑いながら、「外国のマスメディアが私を大臣と間違えた」と言った。彼の名はオブール・オングェン、『エコニュース・アフリカ』誌の記者である。カンクンではケニア政府代表団の1員として、大臣に代わって、歴史的なスピーチをしたのだった。帰国後、議会はこの発言を全員一致で承認した。 私はまた、2000年7月の沖縄でのジュビリー2000の国際会議に招待しようとして、どうしても連絡がつかなかったケニアのグリーン・ベルト運動のリーダーのワンガリ・マタイ女史の消息を尋ねた。「ワンガリは今、環境福大臣」ということであった。ケニアは、モイ独裁政権を選挙で退陣させ、昨年1月、民主的な新政権を誕生させた。そして、弾圧を逃れて、いつも所在不明であったケニアの優秀な活動家は今政権に入っているか、またはオブールのように、ケニア政府だけでなく、アフリカを代表して、WTO閣僚会議を崩壊に追い込んでいる。 予想以上に早いスピードでアフリカは動いている。市民社会の力が発揮されるときが来たようだ。 |
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